軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

フーコーの振り子

2020-03-06 00:00:00 | 
 「ナガサキアゲハとトランプ大統領」というタイトルで5回にわたり記事を書いたが、その最終回でフーコーの振り子について触れた。地球が自転していることを、判りやすく実証した実験のことで、自転運動する物体上で、長い弦をもつ周期の長い振り子を長時間振動させると、次第に振動面が変化することが観察できるというもので、1851年、フランスのレオン・フーコー(1819-1868)が考案し、パリの天文台で初の、これに続いてパンテオンでも2度目の公開実験が行われたのであった。


レオン・フーコー(作画:妻)

 このフーコーについては、「フーコーの振り子」(アミール・D・アクゼル著、水谷 淳/訳 2005年 早川書房発行)という本があることを知った。後日読んでみたがとても面白い。私が「ナガサキアゲハとトランプ大統領」でフーコーの振り子について触れたのは、これが長い間の論争であった、「天動説」と「地動説」に見事に終止符をうったからであり、現代の地球温暖化論議と重なってみえたからである。

 この本では、フーコーのこの発明と共に、彼の才能を見抜いて重用したナポレオン3世や、彼を助けた科学者アラゴー、フーコーを取り巻く科学者・数学者とのかかわりなど当時のフランス社会が描かれている。

 ご存知の方が多いと思うが、フーコーの振り子について再度写真を示しておくと、次のようである。驚くほど単純なものであるが、これが地球が自転していること、すなわち地動説を人々に知らしめ、何世紀にもわたる執拗な懐疑論や科学と宗教との論争に終止符を打ったということに改めて感銘を覚えるのである。次の写真のフーコーの振り子のワイヤー長は7mあり、その上部を撮影することはできなかったが、おもりとその下に描かれた方位を示す図形が確認できる。


大阪大学理学部に設置されているフーコーの振り子(ワイヤー長7m、おもり重量32kg、2019.11.13 撮影)

 フーコーはパリで行った2つの公開実験により一躍一般大衆にも業績が認められた。そして1851年3月31日には《ジュールナル・デ・デバ》紙の第三面(彼が担当していた紙面)に長大な論文が掲載された。その一部は次のようである。

 「地球の運動はゆっくりであるため、それを取り扱うには工夫を凝らした方法を用いなければならない。そこで地球自体に注目する前にまず、自由に動かすことのできるテーブルのそばに座り、その上に鉛の球をワイヤーで吊るして作った小さな振り子を置いたとしてみよう。実験を行う部屋が宇宙で、テーブルが地球を表わす。振り子は支柱から吊るされ、円盤の上を動く。円盤上にその中心を通る線を何本か引き、それらの交点を静止時の振り子の位置と合わせる。振り子と支柱と円盤を一つの装置と見なし、それをテーブルの中央に置く。そして、円盤に引かれたどれか一本の線の方向に沿って球を離す。すると何が起こるだろうか? もっとも単純かつ当たり前のことが起こる。振り子が手から離れると、円盤の中心に向かって出発し勢いでそれを通り過ぎ、そして戻ってくる。行ったり来たりを繰り返し、最後は円盤の中心で静止する。その振動面は、最初に振り子を合わせた線の方向のままで一定だ。この運動をテーブルの外側、たとえば部屋の壁を基準とした座標系で観察しても、同じ結果が得られる。しかしもし、振り子が運動しているあいだに、テーブルを振動しないよう静かに回転させると、テーブルと振り子の振動面との関係はどうなるだろうか? この実験を行ったことのない人は、この質問にどう答えるだろうか? 一見したところ、振動面はテーブルと一緒に回転し、振り子は円盤上の同じ線の上を揺れ動きつづけると思われたのではないだろうか? それは全くの間違いである! 実際にはそれとまったく逆のことが起こるのだ。振り子の振動面は実在の物体ではない。それは支柱にもテーブルにも、そして円盤にも属していない。空間、いわゆる絶対空間に属しているのだ。(本「フーコーの振り子」から引用)」

 これを、実際に行うと次のようになる。テーブルは小さなターンテーブルになっているが、起きていることは全く同じである。

 
フーコーが論文で示した振り子の実験を再現した様子(2020.1.30 撮影)

 フーコーが論文で示した振り子と円盤を用いた思考実験は実際に北極点で起きるものであるが、フーコーが実験を行ったパリでは事情が異なる。本「フーコーの振り子」には次のような図が示されていて、北極点でフーコーの振り子を運動させると、振り子の振動面は24時間で1周し、赤道上の振り子の振動面は、地球の自転に伴って振動することはないことが示されている。


右図:北極点に置かれた振り子の振動面は、24時間で1周する。
左図:赤道上の振り子の振動面は、地球の自転に伴って変化することはない。
 
 では、パリに設置された振り子の振動面はどのような動きをするか。フーコーは振り子の実験をするに際して、これについても答えを用意して臨んでいた。パリの緯度θ(度)に対して、振り子の振動面の回転角が1日あたり360 x sinθ(度)になるというものであった。いいかえれば、北極点や南極点では、振り子の振動面が1周するのに24時間かかり、赤道上では、振り子の振動面は全く移動しないが、中間の地点では、1周にかかる時間は24時間を緯度のサインで割った値に等しくなるというものである。これは今日フーコーの正弦則として知られているもので、次の式で表される。もし仮に、フーコーがこの式を示すことができず、振り子の回転角が24時間で360度に達していなかった時のことを想像すると、この式を提示したことがいかに重要であったかが理解される。

       T=24/sin( θ )

 ここでTは1周するのにかかる時間、sinは三角関数の一つであるサイン関数、そしてθは緯度である。したがって、北緯48度51分に位置するパリでは、振り子の振動面が出発点に戻るまでに32時間弱かかる。
 
 フーコーは、この振り子を製作するにあたって、注意深く実験の準備を進めた。最初は自宅地下室で実験を行ったが、その時からワイヤーや金属裁断機、計測道具、秤を駆使した。そしてついに、長さ2mの鋼鉄製ワイヤーの一端を地下室の天井に固定し、しかもねじれることなくそれが自由に回転できるように工夫した。ワイヤーのもう一方の端には、重さ5kgの真鍮製のおもりが取り付けられた。こうしてフーコーは、天井から吊り下げられ自由に揺れ動く振り子を完成させた。この振り子は彼の目の前でゆっくりと揺れ動き、おもりの揺れ動く面(振動面)は徐々にだがはっきりと目に見える変化を起こした。

 パリ天文台長で科学アカデミーの終身書記、そして国民議会の重要人物である老人アラゴー(1786-1853)はフーコーの才能をよく理解していた。彼はフーコーの振り子を天文台で公開することを喜んで許可し、天文台で最も広く最も天井が高く、そして最も有名な部屋、メリディアン・ホールがフーコーに提供された。


フランソワ・アラゴー(作画:妻)

 フーコーは自宅地下室から、ワイヤーにねじれを与えることなく、振り子をどんな方向にでも揺り動かせるように自前で考案した精密装置を、パリ天文台に運んだ。メディリアン・ホールの天井は彼の地下室よりはるかに高かったため、今度は11mの長さの振り子を使うことを検討した。

 フーコーは、今度は探しうる限りの最高の職人、ポール・ギュスターヴ・フロマンを自腹で雇った。完璧な振り子を用意し、それをぴったり垂直に吊り下げ、そしてその自然な運動が人の手によって攪乱されることのないよう、極めて注意深く揺り動かし始めることが肝心だった。フロマンはこれを完璧にこなし、今日でも人々を驚かせるほどの、完璧なおもりを作成した。実際の実験ではフロマンは、振り子を壁に固定している毛糸を焼き切ることで、人の手による攪乱なしに振動を開始させた。

 実験は成功し、振り子はゆっくりとその振動方向を変化させた。招待されていた科学者は、自分たちが何を目撃しているのかをただちに理解したとされる。さらに居合わせた観客が中でも数学者が驚いたことに、この時フーコーは前出のとおり「正弦則」の公式を発表している。この公式はそう簡単にわかるものではなく、その証明も簡単なことではないからであった。当日発表されたフーコーの論文には次のように記述されている。

 「振り子に関して従来取り上げられてきた膨大な数の重要な観察結果は、その大半が振動の持続時間に関するものだった。ここで私がアカデミーの注目を喚起するために発表するのは、おもに振動面の方向に関するものである。振動面は東から西へとゆっくり移動し、これは地球が日周運動していることを示す知覚可能な証拠となる。この解釈が正しいことを証明する前に、まず地球の運動について概説し、そして最も単純な場合として観測者を極点に立たせたと仮定しよう・・・」

 当時のアカデミーメンバーたちはみなフーコーの偉業に面目をつぶされたと感じたのであった。地球の自転を振り子によって驚くほど単純に証明しただけでなく、その振り子の振動面の移動速度を記述する法則を導いたことでショックを受けたのであった。

 当時のアカデミーには今日知られている多くの数学者がいた。しかし、ラプラス、ガウス、ポワソン、オイラー、ラグランジュなどの結果を引用してもフーコーの導いた法則を証明するには至らなかったという。

 パリ天文台での公開実験の翌月、今度は1848年にフランス共和国大統領に選出されたルイ=ナポレオンの命により、フーコーはパンテオンで2回目の公開実験を行うことになり、新たな振り子を再びフロマンを雇って作製した。振り子のおもりは真鍮で作られ、重さは28㎏、ワイヤーの長さは67mにもなった。

 1851年3月27日に行われた公開実験もまた成功裏に終了し、後日ルイ=ナポレオン・ボナパルトは、フランスの英雄に与えられる最高の栄誉、レジオン・ドヌール勲位をフーコーに授けている。

 この2回の実験のことが伝わると、ただちに世界各地で同様の実験が行われている。1か月余り後の5月8日には、パリ北東のランスの大聖堂でA.M.モームネが長さ40mの鋼鉄製のピアノ線を使って重さ19㎏のおもりを吊り下げて実験を行ったのをはじめ、年内にリオデジャネイロ、オックスフォード大学、ジュネーヴ、ダブリン、ロンドン、ニューヨーク、コロンボ、ヴァチカンで実験が行われた。これらをまとめると次のようである。最後に示した1902年のフラマリオンによるパンテオンでの実験は、フーコーの実験を記念して半世紀前と同様の公開形式で行われた。使用した振り子は1851年にモームネがランスで使用したものであった。


フーコーによる3回の振り子実験条件とこれに続いて行われた実験

 現在、世界各地の博物館や大学など、実に多くの場所にこのフーコーの振り子が設置されている。その状況はウィキペディア「フーコーの振り子のある施設の一覧」で見ることができる。

 ところで、地動説をみごとに証明して見せたフーコーの振り子であるが、フーコーのいた時代までの地球科学の状況はどうであったのか、紀元前のピロラオスに遡って見ておこうと思う。次の表は「天動説」、「地動説」に関連して本「フーコーの振り子」に登場する哲学者・科学者・数学者を生年順に記したものである。


本「フーコーの振り子」に登場する哲学者・科学者・数学者

 1600年2月19日、イタリア人修道士で教師でもあったジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は、宗教裁判の結果、ローマ中心部のフィオーリ広場で生きながら火刑に処された。罪状の一つは、地球が自転していることを信じたことだった。


ジョルダーノ・ブルーノ(作画:妻)

 その少し後の1616年と1636年には、イタリアの天文学者ガリレオ=ガリレイ(1564-1642)がローマで同じ宗教裁判にかけられた。木星の衛星を発見し、土星の輪を見つけ、物理世界に関する多くの事柄を解き明かした偉大な科学者は、拷問され屈辱を受けて訴追人たちの前に跪かされ、地球が自転しているという信念を撤回させられた。このように改心する以外に、ジョルダーノ・ブルーノと同様の痛ましい死から逃れ、死刑を無期限の自宅軟禁へと減刑してもらう術はなかったのである。しかし彼は、この試練によって精神と健康を病み、その数年後に亡くなった。


ガリレオ=ガリレイ(作画:妻)

 この宗教裁判の時代よりはるか以前に遡ると、ギリシャ人哲学者、クロトナのピロラオス(前470-前385)が紀元前四世紀中ごろに著した『天空の書』には、次のように記されているという。
 「・・・相対する意見の代表が、ピタゴラス学派と呼ばれるイタリア人の学派の考えである。彼ら曰く、中心を占めるのは太陽であり、地球は移動する星の一つにすぎない。そして、地球が自らの中心を軸に回転することによって、昼と夜が作り出される。彼らはまた、われわれの地球の反対側にもう一つの地球があると考えており、彼らはそれを反地球と呼んでいる。・・・」

 ピロラオスより少し後に生まれたプラトン(前427-前347)とアリストテレス(前384-前322)は、地球は不動であり、星や惑星がちりばめられた天空が太陽や月とともに地球の周囲を回転している、という信念を持ち続けた。


アリストテレス(作画:妻)

 このアリストテレスの理論は、その500年後にエジプトのアレクサンドリアで予期せぬほどの支持者を獲得し、古代世界で最も偉大な天文学者クラウジウス・プトレマイオス(83-168)の心を掴んだ。プトレマイオスは、当時得られていたあらゆる天文学的知識を収集し、それを『アルマゲスト』という一冊の本として出版した。この本に記された宇宙のモデルは、すべての恒星を含む天球を表す円、惑星や月の周転円、そして太陽の軌道を表す円から構成されている。そしてモデル全体の中心には、静止した地球が位置している。こうしてプトレマイオスはその数学的才能を駆使し、地球が宇宙の中心だということを人々に信じ込ませつつ、天体の見かけの動きをすべて説明するという偉業を成し遂げた。


クラウジウス・プトレマイオス(作画:妻)

 教会は、自然界の完全性を説いたアリストテレスの考えを教え、教会による聖書の記述の解釈と一致するプトレマイオスの宇宙モデルを引き合いに出して、それを正当化した。そして教会は、16世紀から17世紀にかけて登場したニコラウス・コペルニクス(1473-1543)の宇宙観を糾弾する際にも、プトレマイオスの理論を利用したのだった。

 プトレマイオスの『アルマゲスト』を入念に勉強していたコペルニクスは、そこにいくつかの間違いがあることを発見した。彼は『天体の回転について』という天文学の本を書いて、その中で地球ではなく太陽が太陽系の中心にあるという説を展開した。太陽を中心に、太陽から見て水星、金星、地球、火星、木星、土星という順序も正しく記述していた。コペルニクスは宗教裁判を免れた。『天体の回転について』は、彼が亡くなった1543年に出版されたからである。


ニコラウス・コペルニクス(作画:妻)

 コペルニクスの死後、科学者は『天体の回転について』を読み、コペルニクスの理論を研究し、教会の不服をよそに、この新理論に合致する見解と研究結果を発表しようとした。そうした中、デンマーク人天文学者ティコ・ブラーエ(1546-1601)はデンマーク王から賜った島に作った天文台で膨大な量の天文観測データを収集した。その中にはごく稀な天文現象である超新星の観察も含まれる。しかし、ブラーエには宗教裁判に立ち向かう覚悟はなく、彼は一連の見事な観測データをもとに、地球が宇宙の中心に静止しているというモデルを導いた。ブラーエによる太陽系モデルは、太陽と月が地球の周りを回り、当時知られていた五つの惑星は太陽の周りを回るというものだった。


ティコ・ブラーエ(作画:妻)

 ブラーエの下で助手として働いていたドイツ人ヨハネス・ケプラー(1571-1630)はブラーエの死後その天文学者としての地位を引き継ぎ、その後何年にもわたりブラーエのデータを解析した。こうしてケプラーは今日でも利用されているケプラーの法則を見いだす。また、ケプラーはコペルニクスの宇宙観の正しさを信じていた。


ヨハネス・ケプラー(作画:妻)

 フランス人数学者で物理学者でも哲学者でもあったルネ・デカルト(1596-1650)は、教会がコペルニクスの説を猛烈に拒絶したことに当惑していた。デカルトの考え出した物理理論は、太陽系内の全天体が太陽の周りを回っているという信念と密接に関連していた。彼は、教会の教義に真っ向から相反する自説を持ったかどで迫害されることを恐れた。デカルトが、彼の味方と考えたカトリックの司祭であったマラン・メルセンヌに、1634年2月末に次の手紙を送っている。


ルネ・デカルト(作画:妻)

 「・・・もちろんあなたは、ガリレオが宗教裁判で有罪となったのがそんなに昔のことではなく、地球は動いているという彼の説が異端として非難されたことはご存知でしょう。ここで言いたいことは、ガリレオと同様の地動説に関して私が本に記したすべての事柄は、どれもお互いに密接に結びついており、しかもいくつかの明白な事実に基づいているということです。それでも私には、教会の権威に立ち向かうつもりは微塵もありません。・・・私は平和に生活したいし、歩みはじめた道をこれからも進んでいきたいのです。・・・」

 イングランド生まれのアイザック・ニュートン(1642-1727)が「私がより遠くを見通せるのは、巨人たちの肩に乗っているからだ」という有名な言葉を発した際に、彼が巨人として思い浮かべていたのは、デカルト、ケプラー、ガリレオだったとされる。彼は微積分法を開発し、それを用いて万有引力の法則と運動の法則を導いた。彼は自らの導いた法則をもとに、地球が自転しながら太陽の周りを公転していることを確信した。自然界を驚くほどよく理解していたニュートンは、落下する物体はこのために予想地点よりも東にそれるはずだという結論に達した。彼はこの現象を次のように説明した。


アイザック・ニュートン(作画:妻)

 「塔のてっぺんに立つ人物が球を持っている。地球の自転のために、塔のてっぺんは地球の中心の周りを回転運動している。そしてその速さは塔のふもとの地点より大きい。なぜなら、塔のふもとは地球の中心により近く、そして地球の中心は地球が自転してもまったく動かないからだ。塔のてっぺんにいる人が球を手から話すと、球は地球に向かって落下しはじめる。塔のてっぺんで獲得していた水平方向の速さは、球の落下中も一定に保たれたままだ。したがって、球は塔のふもとよりも大きく東に移動する。このために、球は塔のふもとよりも東の地点に落下するというわけである。」

 何人もの科学者がニュートンの死後もこの実験に取り組んだ。しかし、実験の結果球は真下より東ではなく南東に外れて落下した。このため、これらの実験結果が決定的な地球自転の証拠だと見なされることはなかった。この理論からのずれについて相談を受けたのが、当時弱冠25歳だった有名な数学者カール・フリードリッヒ・ガウス(1777-1855)やフランス人数学者のピエール=シモン・ド・ラプラス(1749-1827)である。二人はそれぞれ独立に、地球が地軸を中心に自転していることを証明する目的で、物体落下の理論を構築し、これらの実験結果について研究した。ガウスもラプラスも、予測される実験結果をいくら計算しても南側へのずれを導くことはできなかった。


カール・フリードリッヒ・ガウス(作画:妻)

 長年にわたり行われた実験でも、結果は決して明確なものではなく、理論通り東側にずれたと確実に結論することは誰にもできず、科学は地球の自転を証明することができなかった。ヨーロッパ内外の多くの知識人は、地球は地軸を中心に自転しながら太陽の周りを公転していると信じていたが、それでも世間は、地上でははっきりとわかる証拠を求めていた。

 ポワソン(1781-1840)は落下実験だけではなく振り子にも言及している。その中で彼は「振り子の振動面に作用するこの力は非常に小さいため、知覚できるほどに振り子を移動させ、その運動に検出可能な影響を与えることはできない」と述べている。

 コペルニクスの宇宙観、ケプラーの惑星運動の法則、ガリレオによる木星の衛星の発見、ニュートンによる数学と科学に関する重要な研究、地動説に一致する数々の天文観測結果、そしてあらゆる科学の進歩にもかかわらず、1851年の時点では、地球の自転を地上ではっきりと証明することは不可能だった。そこにフーコーの振り子が登場したのであった。

 ニュートンはじめガウス、ラプラスやポワソンが予測した落下する物体に働く力、これは今日「コリオリ力」として知られるものであるが、ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ(1792-1843)が、回転運動をする系に影響を及ぼす奇妙な物理現象を発表したのは1835年のことであった。フーコーが実験を行った時には、コリオリはすでに亡くなっていた。


ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ(作画:妻)

 フーコー自身、あるいは当時フーコーの実験を数学的に解釈しようとした科学者たちはコリオリの研究を用いて振り子実験を説明しようとしなかったのかという疑問が残る。実際にはフーコーは、振り子実験の中でコリオリについては一切言及していないとされる。コリオリの研究については何も知らなかったようである。

 コリオリ力は、北半球における台風やハリケーンや竜巻の回転方向が一つに決まっている原因であり、南半球ではそれは逆になる。コリオリ効果はわずかなものであるが、現実に存在する。砲術技師たちは、北向きに発射した砲弾は東にそれ、南向きに発射した砲弾は目標より西にずれることを知っていた。

 しかしフーコーは、自らの振り子の運動を説明する上で、コリオリ力も運動方程式も、そして数学者たちの厳密な幾何学理論も必要としなかった。フーコーはまったく独自の巧妙な方法を使っていたそうである。

 フーコーは振り子の実験の後、早くも地球の自転の次なる証明に取り組んだ。パンテオンでの振り子実験と同じ年の1851年、彼はジャイロスコープの発明という偉業を成し遂げた(筆者注:これには異説がある)。彼は、多くの人びとが振り子実験の複雑さを理解できないと気付いていた。正弦則を理解することが困難であることも一因であった。そこで考案したのが、小さな真鍮製のトーラス(ドーナツ型の物体)の中心に金属製の円盤を取り付け、そこに棒を通したものだった。このジャイロスコープは、地球の自転を証明するもう一つの証拠となり得たが、装置が小さいものであり、長時間の駆動が困難であったため、微小な時間的変化を記録するには顕微鏡が必要であった。そのため演示実験としては振り子よりも効果に劣り、印象も薄いものであった。

 この後、フランスではフランス人の生活を一変させ、世界中に影響を及ぼす出来事、ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808-1873)によるクーデターが起きた。1851年12月2日のことである。


ルイ=ナポレオン・ボナパルト(作画:妻)

 皇帝となり、ナポレオン三世を名乗るようになったルイ=ナポレオンは、アム監獄時代に科学を独学で学んでいた。やはり独学のレオン・フーコーに自分の姿を重ね合わせた彼はフーコーに、他の科学者には望むべくもない便宜を図り、パリ帝国天文台付き物理学者に任命した。

 この職位でフーコーはもう一度地球の自転を証明する実験の機会を与えられた。1855年、パリで開催された第1回万国博覧会である。この時フーコーは鉄製のおもりを用いた。そして、展示会に訪れた人々のために新たな振り子に、途切れることなしに一定に揺れ動かす画期的な発明品、電磁石駆動を取り付けた。振り子のおもりが降下している時だけ電磁石から力を与えるもので、この電磁石は振り子の振動面の回転方向に追随できるように工夫されていた。

 フーコーの物語の最後の所で登場する人物は、エルンスト・マッハ(1838-1916)、アルバート・アインシュタイン(1879-1955)である。本「フーコーの振り子」にはその登場の理由を説明しているが、これについては、この物語に興味を持たれた方自ら読んでいただくのがよいと思う。


エルンスト・マッハ(作画:妻)


アルバート・アインシュタイン(作画:妻)

 パリのヴォージラール通りとダサス通りの角に立つフーコーの生家の3階と4階部分の外壁には2枚のレリーフがあり、左には振り子が、右にはフーコーの略歴が描かれているという。また、彼の名は偉大なフランス市民たちの名前とともにエッフェル塔の鉄骨に刻まれ、彼の像は、現在はパリ市庁舎の入り口に飾られている。そして、望遠鏡で月を眺めると、雨の海の北西、北緯50度西経40度の地点に直径22kmのクレーターが見つかる。このクレーターの名は、レオン・フーコーである。

 レオン・フーコーにこの機会を与えたフランソワ・アラゴー、彼の名前を見たければ、パリ中に埋められている、135個の「Arago」と刻まれた直径約15cmの真鍮製のメダルを探せばよい。これはパリ天文台の南北に延びる子午線上に埋められているという。ヒントは「リュクサンブール庭園、ルーヴル美術館、パレ・ロワイアル、歩道のカフェ、セーヌ川沿いの波止場」と本の著者が明かしている。

 最後に、ここで紹介した本の表紙を次に示す。


「フーコーの振り子」(2005年 早川書房発行)の表紙
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新型コロナウィルス情報 2020... | トップ | 我が家にネコがきた »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事