軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

軽井沢のスミレ(4)タチツボスミレ

2021-03-26 00:00:00 | スミレ
 軽井沢に限らず、恐らく日本全国で一番多く、普通に見られるスミレはこのタチツボスミレであろう。子供の頃住んでいた大阪市内にもあったはずだが、あまりはっきりとした記憶は無く、このスミレを意識して見始めたのは、就職して最初に赴任した横浜市でのことであった。

 昼休みに職場の友人と、郊外の高台にあった勤務先の周辺を散歩していたが、その時によく見かけ、次第に正式な名前を憶えていった。この散歩コースには、まだ雑木林も残っていて、スミレ類のほかにシュンランやエビネなども多く見られたし、珍しいところではキンランやギンランも見られた。

 1965年頃に建てられたこの施設も、事業環境の変化があり、京浜工業地帯に移転することになって、先日オープンキャンパスということで内部の見学会と、移転後の案内があった。周辺環境も変化し、宅地化も進んだことから、今ではもう当時見られた山野草などを見ることはできないと思う。

 その後、転勤で住んだ西は広島県から北は新潟県まで、タチツボスミレはどこでも普通に見られた。北海道や沖縄ではどうかと聞かれると、旅先での記録もないので判らないが、参考書を見ると次のようである。

 「原色日本のスミレ」(浜 栄助著 1975年誠文堂新光社発行)に記されている日本産スミレ属の12の分布系列でみると、タチツボスミレが属している「普遍型」は、「北は北海道から本州全域を含め、四国、九州、さらに南西諸島まで、日本各地に広く分布する適応性の大きい、最も普通に見られる仲間で、タチツボスミレ、ニオイタチツボスミレ、アオイスミレ、ニョイスミレ、スミレ、アリアケスミレを挙げることができる。」としている。分布を示す地図を見ても、この「普遍型」だけは2,000m以上の高山地を除いて、全国がまっ黒に塗りつぶされている。

 この分布系列の普遍型にはタチツボスミレと共にスミレの名が挙げられている。この「スミレ」もまた日本全国で我々になじみの深い種で、名前の通り日本のスミレの代表である。

 単にスミレと言った時にこの種のことを指すのか、スミレ全体のことを指すのかが分かりにくいことがあるので、学名である「マンジュリカ」と呼び区別することも多いのがこの「スミレ」である。

 タチツボスミレは「原色日本のスミレ」に次のように紹介されている。
 「【花期】 3月上旬~5月下旬
   【分布】 北海道礼文島以南、沖縄まで、至る所にみられ、分布上からも個体数からも、日本の代表種とも言うべきスミレで、日本以外では日本海および朝鮮海峡のウルルン島やチェチェ島などに知られている。海岸線から標高2,000m(中部)位の高所まで、陽地、陰地、乾燥地、湿地を問わず広く適応し、非常に個体数が多いので、形態や葉および花などの色彩に変異が多い。
 北海道ではオオタチツボスミレと形態が混然としているため、両者の分布が明確にされていない。また、中部以北や北海道には有毛のものが多く、西日本の海岸には光沢のある海岸型がある。沖縄では分布が非常に少なくなり、生育が市街地周辺であるところから多分に本土からの帰化的な感じを受ける。」

 さて、雲場池に朝の散歩に出かけるようになり、途中民家の庭先や浅間石の擁壁の間にこのタチツボスミレを見かけるようになったのは昨年の4月下旬頃からだったと思う。

 雲場池の縁に埋め込まれた木の柵の隙間から顔を出して花をつけている株を見つけたのをきっかけに、周囲をめぐる散策路の足元にも咲きだしてきた花付きの多い大き目の株を選んで撮影した。

 以前に南軽井沢の別荘地で撮影してあったものもまじえて以下紹介する。


雲場池の杭の間から顔を出して咲くタチツボスミレ (2020.4.26 撮影)

雲場池周辺に咲くタチツボスミレ (2020.5.2 撮影)


雲場池周辺に咲くタチツボスミレ (2020.5.3 撮影)


雲場池周辺に咲くタチツボスミレ (2020.5.12 撮影)

雲場池周辺に咲くタチツボスミレ (2020.5.12 撮影)

 このタチツボスミレの軽井沢周辺での花期は4月中旬から5月下旬頃で、南軽井沢の別荘地でもよく見かけたので、これまでにも随時撮影していた。次のようである。

南軽井沢の別荘地に咲くタチツボスミレ(2017.4.20 撮影)


南軽井沢の別荘地に咲くタチツボスミレ(2017.5.4 撮影)


南軽井沢の別荘地に咲くタチツボスミレ(2017.5.22 撮影)

 時々出かけている群馬側に下りていくと、3月下旬にはもうタンポポと一緒に咲いているのを見かける。

 次は、上信越道の甘楽SAの周囲の草地で見かけたものや、吉井町の友人の畑周辺でこれまでに撮影したものである。
 
上信越道、甘楽SAの芝生に咲くタチツボスミレ(2019.3.22 撮影)

上信越道、甘楽SAの芝生に咲くタチツボスミレの小群落(2017.4.15 撮影)

上信越道、甘楽SAの芝生に咲くタチツボスミレ(2017.4.15 撮影)


群馬県吉井町で見かけたタチツボスミレの立派な株(2017.4.15 撮影)

 「山路来て なにやらゆかし すみれ草」 は有名な松尾芭蕉の句であるが、ここで「すみれ」はどの種を指すかという話題がある。

 今となってはもう判りようもないと思うのであるが、先に挙げた分布域の広さから考えると今回取り上げているタチツボスミレかスミレ(マンジュリカ)のいずれかとされることが多いようである。

 実地検分まで行って、その結果タチツボスミレであろうとする説がある。この句が詠まれた場所は、京都から大津に至る山路とされている。研究者はこの付近を調査して、周辺のスミレの生育状況から結論を出したようだ。

 一方、面白いことにこの俳句の句碑は福島県の旧十三仏峠にあるという。平成元年(1989年)11月3日、白沢村観光協会がこれを建立した。この白沢村は平成19年(2007年)1月1日、本宮町と合併したので今は本宮市となっている。碑誌には次のように記されている。

【碑誌】
 「松尾芭蕉は元禄2年(1689年)3月27日江戸を出立「奥の細道」行脚の旅に出て、4月20日みちのくに入り、5月1日この地を通過した。

 碑刻の句は芭蕉の初めての文学の旅『野ざらし紀行』にあるもので、今年「奥の細道」紀行300年を記念し、あわせて旅を人生と芸術の道とした旅の詩人芭蕉を永く顕彰してここに句碑を建立する。」


松尾芭蕉が辿ったとされる「おくのほそ道」と「野ざらし紀行」のルートと、スミレの句が詠まれた場所、句碑の設置されている場所を示す。

 芭蕉が実際にスミレを見て詠んだ場所が判っているのに、遠く離れた地にこの句碑が建てられら理由は定かではないが、それだけこの句が有名だったということであろうか。それとも、この十三仏峠にはたくさんのスミレが咲いているからだろうか。

 タチツボスミレと葉の形はよく似ているのだが、花の形が驚くほど違っているナガハシスミレという種を上越市に赴任している時に見ている。タチツボスミレに混じって同じ場所に生育していた。後日再訪して撮影しているので紹介する。5つの花弁のうち下の花弁(唇弁)の後ろに突き出している部分「距」が非常に長い特長がある。花の大きさはタチツボスミレよりやや小さく、赤味が強いものが多い。
 
 北海道南部から鳥取県まで、主に日本海側に生育するとされる。また北米大陸の北東部と日本に離れて分布しているという変わり種でもある。

タチツボスミレ(手前)とナガハシスミレ(2017.4.20 撮影)

ナガハシスミレ(2017.4.20 撮影)

ナガハシスミレ(2017.4.20 撮影)

 
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青天を衝け(1/2)

2021-03-19 00:00:00 | 日記
 今年のNHK大河ドラマの主人公「渋沢栄一」が生まれたのは現在の埼玉県深谷市とされる。最近放映されたドラマでは、その故郷の血洗島村から信州に、その年は害虫被害で思うように収穫出来なかった「藍」の買い付けに行く様子が描かれていた。

 この回の放送を見た時には、いったい信州のどのあたりに、そしてどのようなルートで出かけたのだろうかと漠然と考えていたが、3月に佐久市のフクジュソウを見に出かけた折に立ち寄った「道の駅ヘルシーテラス」に置かれていた観光パンフレットで偶然その答えが得られた。

 
佐久市・佐久市観光協会発行の観光パンフレット

 栄一は現在の国道254号を通り、下仁田を経て佐久市にさらには上田市の方まで出かけていたようである。このルート上にある佐久市内山地区に、上のパンフレットにあるように「渋沢栄一の詩碑」が1940(昭和15)年に建立され今も残されている。

 この詩碑についてはパンフレットに次のように記されている。

 「群馬側から国道254号沿いに車を走らせ、ちょうど奇岩群を見終えたころ、右手に神社の鳥居が見えてきます。その阿夫利(あふり)神社の横の岩肌に、『青天を衝け』の由来となった漢詩が刻まれた詩碑がひっそりとたたずんでいます。この漢詩は渋沢が19歳のころに詠んだものとされ、全文およそ260字。比較的短く、また意味もとりやすいので、全文解読に挑戦してみましょう。なお、この詩碑は1940(昭和15)年に地元有志により建てられました。」
 
 「渋沢と佐久のつながりは、少年期までさかのぼります。13歳のころから生業を担っていた渋沢は、年に4回ほどは信州(長野県)、上州(群馬県)、武州(埼玉県)秩父の得意先を回り、藍玉代の集金や注文取りをしていました。上州から信州への玄関口であった内山峡(内山峠)とそれを越した先の佐久平(佐久盆地)が、渋沢にとって『第二の故郷』であったこともうなづけます。」
 
 ということで、次の地図が示されている。


渋沢栄一の詩碑がある佐久市内山地区の案内図(パンフレットから)



上の地図の部分


 この詩碑に刻まれている漢詩全文は次のようである。

   渋沢青淵先生内山峡之詩
   襄山蜿蜒如波浪西接信山相送
   迎奇険就中内山峡天然崔嵬如
   刓成刀陰耕夫青淵子販鬻向信
   取路程小春初八好風景蒼松紅
   楓草鞋軽三尺腰刀渉桟道一巻
   肩書攀崢嶸渉攀益深険弥酷奇
   巌怪石磊磊横勢衝青天攘臂躋
   気穿白雲唾手征日亭未牌達絶
   頂四望風色十分晴遠近細弁濃
   与淡幾青幾紅更渺茫始知壮観
   存奇険探尽真趣游子行恍惚此
   時覚有得慨然拍掌歎一声君不
   見遁世清心士吐気呑露求蓬瀛
   又不見汲汲名利客朝奔暮走趁
   浮栄不識中間存大道徒将一隅
   誤終生大道由来随処在天下万
   事成於誠父子惟親君臣義友敬
   相待弟与兄彼輩著眼不到此可
   憐自甘払人情篇成長吟澗谷応
   風捲落葉満山鳴
   昭和十五年十一月廿四日建之
      後学 木内敬篤 謹書

 佐久市発行のパンフレットには「比較的短く、また意味もとりやすいので、全文解読に挑戦してみましょう。」とあるが、浅学の私には容易ではない。そこで、渋沢栄一伝記関連資料から次の読み下し文を、また現地には現代語訳を記した説明板が設けられていたので、それぞれここに引用させていただく。

澁澤青淵先生内山峡之詩

襄山(じょうざん)蜿蜒(えんえん)として波浪の如く 西は信山に接して相送迎す
・高い山は蛇のように曲がりくねり波の様である 西は信州の山に接して互いに送迎してくれる
奇険は就中(なかんずく)内山峡 天然の崔嵬(さいかい)けずり成すが如し
・とりわけ珍しく険しいのは内山の峡 天然の高く険しい山は、えぐられてできたようだ
刀陰の耕夫青渕子 販鬻(はんいく)信に向ひて路程を取る
・刀の陰で田畑を耕す私、青淵子 商いのため、信州に向かって行程をとる
小春初八好風景 蒼松紅楓草鞋(そうあい)は軽し
・小春の八日、よい風景である 蒼い松、紅の楓、草鞋の足取りは軽く
三尺の腰刀桟道を渉り 一巻の肩書崢(そう)こうを攀(よ)づ
・三尺の刀を腰に差し、桟道を渉っていく 一巻の書を背負い、険しい山道をよじ登る
渉攀(しょうはん)益々深くして険弥々(いよいよ)酷(きび)しく
・歩き回ること、ますます深くして、険しさはいよいよ過酷となる
奇巌怪石磊々(らいらい)として横(よこた)はる
・奇妙な形をした珍しい岩々が数多く横たわっている
勢は青天を衝き臂(ひじ)を攘(かかげ)て躋(のぼ)り
・勢いは青天を突き刺すようで、うでまくりして登り
気は白雲を穿ち手に唾して征(ゆ)く
・気持ちは白雲を貫き通すようで、手に唾をして行く
日亭未牌(びはい)絶頂に達し 四望の風色十分に晴る
・日は末牌にいたり、頂上に達すれば 四方に望む風景は十分に晴れている
遠近細辧(べん)す濃と淡と 幾青幾紅更に渺茫(びょうぼう)たり
・遠近が細やかに区別できる、濃淡によってである 幾つもの青、幾つもの紅、さらに果てしなく
 広い
始めて知りぬ壮観は奇険に存するを 真趣を探り尽くして遊子行く慨然として掌(しょう)を拍(う)って歎ずること一聲(いっせい)
・初めて知った、壮観が珍しく険しいところにあることを 真の趣を探りつくす、旅人は行く心を
 奮い立たせ手のひらをたたいて感嘆の一声を上げる
君見ずや遁世清心の士 気を吐き露を呑みて蓬瀛(ほうえい)を求むるを
・君は見ないのだろうか煩わしい世間を離れて暮らす清心の士が 気を吐き、露を呑み、神仙が住
 むという蓬瀛の山を求めるのを
又見ずや名利に汲々たるの客 朝に弄り暮に走りて浮栄を趁(お)ふを
・また見ないだろうか、あくせくして名誉や利益を求める客が 朝に向かって夕暮れに走って、は
 かない栄華を追うのを
識らず中間に大道の存するを 徒らに一隅を将って終生を誤つ
・極端ではない所に人の行う正しい道があることを知らずに むなしく社会の片隅で人生をやりそ
 こなう
大道は由来随所に在り 天下万事誠に成る
・人の行う正しい道は、もともと至る所にある 天下のすべてのことは、誠からなる
父子は惟(これ)親(しん)君臣は義 友敬相待つ弟と兄と
・父子の関係は親であり、君臣の関係は義である 愛情と敬意を、互いに持つ弟と兄とは
彼の輩(はい)着眼は此に到らず 憐れむべし自ら甘んじて人情を払うを
・かの輩の着眼はここまで達していない 憐れむべきことだ、自ら人情に払いのけるのを甘んじて
 受け入れることは
篇成りて長吟すれば澗谷(かんこく)応へ 風は落葉を捲いて満山鳴る
・詩が完成し、長き吟じれば谷がそれに応じる 風は落ち葉を巻き上げて、山全体が鳴り響く

  昭和十五年十一月廿四日建立
       後学木内敬篤謹書

 詩碑では7行目に、大河ドラマのタイトルになった「青天を衝け」の出典である「衝青天」の文字が見られる。その部分の読み下し文と現代語訳を並べると次のようである。

【元漢文】勢衝青天攘臂躋
【読み下し文】勢は青天を衝き臂(ひじ)を攘(かかげ)て躋(のぼ)り
【現代語訳】勢いは青天を突き刺すようで、うでまくりして登り

 この詩碑建立の経緯については「渋沢栄一伝記資料」に以下の記述がある。

「内山峡の巌碑除幕式
【内山峡詩碑】
『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年~昭和六年 / 3部 身辺 / 14章 記念事業 / 5 内山峡詩碑 【第57巻 p.866-868】
1940(昭和15)年11月24日(没後9年)
 是日、長野県南・北佐久郡有志により、南佐久郡内山村の岩壁に鑿立せられたる、『渋沢青淵先生内山峡之詩』碑の除幕式挙行せらる。
[ 解説 ] 青年時代、家業の藍販売のため信州、上州、秩父や東京近郊等を訪れていた渋沢栄一は、19歳の折に従兄尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう、1830-1901)と『巡信紀詩(じゅんしんきし)』を合作しました。
 栄一他界から9年後の1940(昭和15)年、『巡信紀詩』中の栄一による長詩『内山峡』に感激した信州佐久の小林義助は、地元有志らとともに現地内山峡に栄一の詩碑建立を発願、南佐久郡内山村肬水(いぼみず)の巖壁に詩碑を制作、11月24日に除幕式が挙行されました。
 栄一の嫡孫渋沢敬三は式の前日より佐久に入り、栄一と親交のあった小山邦太郎(こやま・くにたろう、1889-1981)邸に宿泊、翌日は内山峡での式に赴く途上で栄一と懇意であった木内芳軒(きうち・ほうけん、1827-1872)の生家にも立ち寄っています。
 芳軒の外孫木内敬篤は詩碑の手引石に書を寄せて、その由来について『92歳の終生を一貫せる道徳経済合一の大義が既に胚胎せるを知るべく再吟して…その功業徳望の由来するところを感得せずんばあらず因て郷人有志相謀り茲に巖碑を鑿立して仰景の意を致すと云』と記しています。
  なお、1988年刊行の『渋沢栄一碑文集』(博字堂、山口律雄・清水惣之助共編,p57-59)には『内山峡の碑』として碑の拓影、全景写真、長詩全文が紹介されています。」

 さて、詩中にある「奇険就中内山峡」はパンフレットの地図にもあるように、この地方に見られる奇岩群のことである。これらは、荒船山の火山活動によって生まれた溶岩が風化したものとされ、「高谷岩」「お姫岩」「ナポレオン岩」「屏風岩」「ローソク岩」「蓬莱岩」などと名前が見られる。

 以下、詩碑とその周辺の状況を撮影したので紹介して本稿を終わる。


国道254号沿いに建てられた案内板(2021.3.10 撮影)

詩碑が埋め込まれた巨石壁(2021.3.10 撮影)

道路側から見た詩碑(2021.3.10 撮影)

道路側から見た詩碑と詩碑建立の説明のある石碑(右)(2021.3.10 撮影)

詩碑(2021.3.10 撮影)

詩碑(2021.3.10 撮影)

詩碑の説明板(2021.3.10 撮影)

佐久市が設置した詩碑の現代語訳(2021.3.10 撮影)

途中、254号線の内山峠下から見た荒船山(2021.3.10 撮影)

内山峠から見た荒船山(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つの高谷岩(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つ、名称は不明(2021.3.10 撮影)


奇岩群の一つの屏風岩(2021.3.10 撮影後一部修正)


詩碑の横から見た屏風岩(2021.3.10 撮影)

 尚、今回佐久市の広報活動により、この詩碑のことを知ったのであったが、さらに3月9日の読売新聞の地域面記事で青木村の五島慶太未来創造館において、企画展「渋沢と五島慶太」が始まったことを知った。ここにも出かけてきたので別途紹介する。

 





 

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10万分の1の偶然

2021-03-12 00:00:00 | 
 「10万分の1の偶然」は松本清張の長編小説である。
 夜間、東名高速道路のカーブで、自動車が次々に大破・炎上する玉突き衝突事故が発生。この大事故を偶然撮影したというカメラマンの写真は、新聞社主催の「ニュース写真年間最高賞」を受賞する。
 受賞式では、この決定的瞬間の場面に撮影者が立ち会っていたことは奇蹟的、十万に一つの偶然と評された。
 しかし、この事故発生原因とその現場にカメラマンが偶然居合わせたということに疑問を持つものが現れる・・・という話である。

 この小説は、1980年3月20日号 - 1981年2月26日号の『週刊文春』に連載され、当時私もこの小説をを読んでいたが、住まいが高速道路に近い本厚木であった事と、写真撮影が趣味であった事も手伝って、記憶に鮮明である。

 最終的には、この事故は撮影者が意図的に引き起こしたものであることが判明するのであるが、今回の話題はこの小説のことではない。「高速道路」ではなく「光速度」についての話。

 少し前になるが、「光の博物館」建設の構想を持っている知人のHさんから連絡があり、その展示内容案の中に「光速度の測定方法」が含まれていた。
 そして、Hさんから、光速度はどのようにして測定するかご存知ですか?と尋ねられて、はとて考えてしまった。

 光の速さについて初めて学んだのは小学校の中~高学年頃ではなかったかと思う。光は1秒間に地球を7周り半するとか、また光は月に行って反射して戻って来るのに、2秒ほどかかるのだと教わったのもこの頃のことであった。
 
 ただ、光速度の測定方法についてその後、高校あるいは大学で学んだかどうか記憶が怪しいし、自分できちんと勉強したという覚えもない。そこで、改めて光速度測定の歴史について調べてみた。

 光学の専門家である霜田光一氏の著書「歴史をかえた物理実験」を読むと、1849年のアルマン・フィゾー(1819-1896 フランス人)による回転歯車を用いた実験に始まり、多くの科学者が光速度の測定に取り組んだ歴史を知ることができる。

 このフィゾーが行った実験というのは、彼の父親の家の展望台からモンマルトルの丘に設置した鏡までの8,633mの距離で光を往復させ、回転する歯車の谷を通して送出した光が同じ歯車の山で遮られるのを観察したものである。

 この時用いられた計算式は c=4nfL であり、ここで、cは求める光速度、nは歯車の山の数、fは歯車の1秒間の回転数、Lは光源から鏡までの距離である。フィゾーが用いた歯車の山の数は720、回転速度は12.6回転/秒であったとされている。

 フィゾーに続いて、フーコーの振り子で有名なレオン・フーコー(1819-1868 フランス人)が回転鏡を用いてフィゾーの実験の精度を向上させた話も登場する。

 フーコーは、空気中と水中での光の速さの比較実験によって物理科学の博士号を得ている。振り子の実験によってではなかった。

 この同時代を生きた同年齢のフィゾーとフーコーの二人は1851年に、著名な物理学者兼化学者のL.J.ゲイ=リュサックの死去によって空席となった、フランス・科学アカデミーの一般物理学部門のポストを埋めるため行われた選挙の7人の候補に同時に含まれていた。
 
 第1回選挙の結果は、フーコーが同順位の2位に、4位にフィゾーがいた。その後第4回まで選挙が行われ、最終選挙に残ったフーコーであったが2位で敗れた。ちなみにフーコーは1865年にアカデミーのメンバーに選出されている。

 さて、測定法の改善は次表のようにその後も継続して行われ、フィゾーの測定から100年後には測定精度の向上により有効数字は3桁であったものが順次大きくなり5桁から8桁に、そして1987年には現在も採用されている最も新しい数値として10桁の数字が報告されるに至っている。


光速度測定の主な歴史(霜田光一氏の著書「歴史をかえた物理実験」から抜粋し筆者作成、*通説に従い筆者修正)

 「光」の分野の話題はとても広い範囲に及んでいて、「光速度」の話題は科学技術分野に関するほんの一部でしかない。その他、産業・医療・環境・生命・宇宙・芸術・文化といった広範囲の領域が含まれる。

 「光の博物館」建設の話はこうした広い分野のホットな話題を集め、多くの人が光について楽しく体験できるのもとして期待されるもので、とても興味深いものだが、その後まだ具体的な動きにはなっていないようである。

 ところで、最近TVで「完全解剖!ピラミッドの七つの謎」というNHKの番組を見る機会があった。内容は考古学調査に関するもので、「世界の考古学者を驚かせた『最古のパピルス』の発見を手掛かりに7つのミステリーを完全解剖」するというものであった。

 今回の話題の中では、巨石をどのようにして積み上げることができたのかというテクノロジーに関する新発見が興味深いものであった。番組中、長い直線スロープ上を、柱とロープを組み合わせて、巨石を引き上げる様子が再現されていたが、こうした方法を用いて、クフ王の大ピラミッドの建設には26年の歳月をかけたことが説明されていた。

 これまでにも、巨石を147メートルの高さまで運び上げる方法について、渦巻き型、ジグザグ型、直線型といくつかの方法が案として挙げられていたが、今回直線法ということで決着がついたのであった。

 これについては、TV放送後、吉村作治氏の著書「痛快!ピラミッド学」(2001年 集英社発行)を読んでみたが、ここで氏は検証実験を行って、「直線斜路しかあり得ない」と明快に持論を展開していたのには感心した。

 この番組に触発される形で、ピラミッドのあれこれを調べていたところ、ピラミッドと「光速度」についての比較的新しい話題があることを知った。

 世界の七不思議のひとつにかぞえられ、その中で唯一現存するものとして知られているピラミッドには多くの謎があるとされているが、その中には「数字」に関するものもいくつか含まれている。

 古くはピタゴラスが、「大ピラミッドは古代エジプトの標準尺度によって地球の寸法を記録するために建てられた。」という仮説を残したというものがあり、また、レオナルド・ダ・ヴィンチは、「古代エジプトから天文学を学ぶべきだ」と語ったと言われる。

 こうした過去の偉大な学者の発言の影響も手伝ってか、19世紀になると、1859年に「大ピラミッドはなぜ、誰が建造したか」という著書を刊行したイギリス人ジョン・テイラーはその本の中で、「大ピラミッドの周辺の長さの和を高さの2倍で割ると、3.14・・という円周率πにきわめて近い数字になる。」とした。
 また、イギリスの天文学者チャールズ・ピアジ・スミスは「大ピラミッドの高さを10億倍すると、地球から太陽までの距離になる」と主張した。これらをはじめとしたいくつかの数字にまつわる内容をまとめると次表のようである。

 計算に便利なように、「クフ王」のピラミッドの大きさに関する寸法を示すと、次のようである。


ギザ・クフ王のピラミッド(大ピラミッド)の寸法


大ピラミッドの数値と数学や自然との関連

 最初の数値は、ジョン・テイラーのもので、大ピラミッドの四つの底辺の長さを足したものを、高さの2倍で割ると、表に示すように3.1406となって、円周率(π)に近い数字が現れるというものである。確かに最初の3桁で数字が一致している。

 2番目は、チャールズ・ピアジ・スミスのもので、大ピラミッドの高さに10^9をかけると、地球と太陽との距離とほぼ一致するというもので、これも四捨五入してみると最初の3桁が一致している。

 次は、高さと底辺の長さの比がいわゆる黄金分割比である1.618 に近いというものだが、これは四捨五入後に2桁の一致であり、話は少し怪しくなる。

 最後のピラミッドの重量だが、これは使用されている石材の総重量が595.5万トンと見積もられていることから、これを10^18倍すると地球の質量に近い数字となるというものである。こちらも2桁で一致しているが、どのようにしてピラミッドの総重量を計算したのかが分からず、どう判定してよいのか解りかねる。

 これらの全体をみると、当時の数学的知識が想像以上に高かった可能性は否定できないが、ピラミッドの建設には、地上の長さを測るために「計測輪」と呼ばれる円筒状の道具が使われていて、何回転したかで長さを測っていたことが知られていることから、吉村氏は「『大ピラミッドの周辺の長さの和を高さの2倍で割ると円周率に近い数値になる』のも、そのためです。」(前出の吉村作治氏の著書から)としている。また、天文学の知識が必要な事柄ついては当時すでに知られていたとは考えにくく、こちらは偶然の一致かとも思えるのである。

 こうした一種、謎めいた話題に最近新たに追加されたものが、上述の「光速度」に関するものである。

 Google Earth は様々なシーンで我々になじみのものとなっているが、拡大して見たい場所の緯度と経度の数字を入力して検索することができるようになっている。

 試みに、次の数字を入力すると、ギザのピラミッド群のなかの「クフ王」のピラミッドを探し当てることができる。
 その数字は「29.9792458, 31.134658」である。前半の数字が緯度、後半の数字が経度をそれぞれ10進法で示したもので、60進法では「北緯29°58′45.28″」と「東経31°08′04.77″」に相当する。

 ここで緯度の29.9792458を前述の最新の光速度データ29.97924586万km/sと見比べると、完全な一致が見られるというのである。

 この緯度と経度の数値は、「クフ王」のピラミッドの大回廊の中心のものであると、複数の文献で示されているが(TOCANA,2018.4.5付け記事など)、その出所については私はまだ確認できていないし、どの場所を選ぶかは任意性が入ってくることにもつながる。そこで、ここではクフ王のピラミッドの中心である頂点に着目して数値を比較してみたい。


クフ王のピラミッドの内部構造(東側から見た図)

 パソコンの画面上でGoogle Earthに先の数値を入力して、クフ王のピラミッドを表示させて、ここで得たピラミッドの底面の4つの角の座標と、これから計算で求めた頂点の座標を図示すると次のようである。大回廊の中央部のものとされる座標(赤字で示す)は頂点から北東にずれた位置で示される。実際には上の図で示した内部の空間は、入り口も含めて北面の中心線上ではなく、そこから7.3m東に寄っているとされる(前出の吉村作治氏の著書から)。


ギザ・クフ王のピラミッドの位置の緯度・経度(Google Earthから作成)

 私が4つのコーナーの座標から求めた頂点の緯度座標は、29.979017° である。この数字で見ると、光速度29.97924586万km/sとの一致は有効数字で少なくとも5桁はあるということになるが、5桁の数字が一致する確率は「9万分の1」である。

 「クフ王」のピラミッドの頂点の地球上の座標の数値と「光速度」の測定値とが数字で5桁まで一致しているというのは、数字で見る限り、先に紹介したピラミッドの寸法が示す2桁~3桁の有効数字の一致とは一線を画するといえる。

 ここで改めて現在知られている光速度の有効数字10桁との一致という意味を考えてみると、数字を10進法の緯度のものとしてみた場合に、10桁目の一致というのは緯度上での距離1.11mmの位置精度に相当することが判る。

 地球の極半径は約6,356kmであるから、緯度1°は110.9kmに相当する。従って光速度の有効数字で10桁目の、0.00000001°は1.11mmに相当するのである。

 このことから、有効数字の6桁までが一致している場合には11.1mの精度、5桁であれば111mの精度と導かれる。次の図のようである。


10進法で示す緯度の数値と光速度の有効数値の一致の程度と位置精度の関係

 フィゾーやフーコーの時代の「光速度」では、こうした議論は無意味なものだが、1948年のエッセンらの測定で5桁目までの数値が得られるようになると光速度の方からピラミッドの特定の位置に収束するように精度が向上してきたように見え、話が変わってくることになる。 

 冒頭、松本清張の長編小説で「10万分の1の偶然」を紹介した。小説では、こうした偶然はあり得ず、何らかの犯罪行為があったはずであるとの信念に基づいた捜査の結果、カメラマンの犯行が暴かれるのであるが、歴史と自然が織りなすこの「9万分の1」の一致について皆さんはどう思われるだろうか。



 

 
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フクジュソウ

2021-03-05 00:00:00 | 山野草
 フクジュソウが庭で咲き始めた。朝日を受けると開花し、日中は開き続け、夕方にはしぼむが、また翌朝には開花するといった具合にこのところ繰り返し咲き続けている。

 この株は、数年前に群馬県在住の妻の友人Mさんの畑にあったものを分けていただき、玄関先に植えているもので、他の植物が冬枯れ状態の中、毎年真っ先に咲いて、春が近いことを教えてくれる。近くにはスノードロップも植えているが、先を競うように咲き始めた。


庭に咲き始めたフクジュソウの花(2021.2.22  撮影)

 朝、開花する様子をタイムラプスで撮影してみた。この日は朝方曇っていたが、次第に日が差してくるのに合わせ、10時頃から開花し始め、約25分ほどでほぼ完全に開いた。撮影は11時ころまで行い、編集している。

 
フクジュソウの開花(2021.2.23, 10:05-11:02 30倍タイムラプスで撮影後編集)

 我が家ではこうして地植えにしているが、フクジュソウといえば正月の飾り物として鉢植えにしたものが売られている。年末には店頭に並ぶので、早く咲くように特別に栽培されているのであろう。

 手元の「野草のたのしみ」(八代田貫一郎著 1974年 朝日新聞社発行)を見ると次のような記述に出会う。

 「フクジュソウは旧正月には自然に花を開くが、新正月には人工で促成しなければ開花しない。自然では一月末から二月にかけて、地上すれすれに花を開く。そして日中開き、夕方しぼみながらだんだん茎を伸ばし、葉を出し、つぎつぎと花を開いて背が高くなってニンジンのような葉を茂らせる。
 五、六月になると葉は黄変して枯れてしまい、株は休眠に入る。夏中は眠っていて、九月に入ると地中の芽は太りはじめ、十一月には地上に太い花芽を出してくる。庭で早く咲かそうと、土を除いて早く芽を露出さす人があるが、それほど効果がない。自然に蕾がふくらんでくるのを待つ方が望ましい。」

 このフクジュソウは元禄時代にすでにいろいろな品種ができていて、江戸末期にはさらにたくさんの品種が栽培されていたようで、文久二年(1862年)に出版された「本草要正」には126品種記載しているという。

 我が家のフクジュソウは、野生のものと近いようで、八重の大輪でおそらく「福寿海」という種であろうと思う。何も特別な世話をしていないが、丈夫で毎年咲いてくれる。

 もうひとつ、フクジュソウのことを書いた本が手元にある。「花の百名山」(田中澄江著、1981年文藝春秋発行)であるが、この本の一番最初に紹介されているのが、高尾山=フクジュソウである。

 田中澄江氏が第一番に高尾山を選んだのは、東京から最も身近に行くことができる山であるからかと思うが、もうひとつ、彼女の思い出の中にあるフクジュソウについて書きたかったからなのかもしれない。

 彼女の父は彼女が小学校一年の夏に四十歳で亡くなっているが、その父の思い出もこのフクジュソウに重なっているようである。著書から一部引用すると次のようである。

 「子供の頃、私の家の庭に、父が高尾山で採って来たというフクジュソウの数株があった。
 町中にしては広い屋敷で、庭には築山があり、泉水が作られ、築山の石組みの下には、フクジュソウが、いち早く毎年の春を知らせた。・・・
 あれは、いつの春であったろうか。私が女ばかりの山の会をつくってからの高尾山ゆきだから、ほんの十年前である。山歩きに馴れないひとびとのために、高尾山を登って、南浅川に下る道をえらんだ。・・・
 小仏峠で、早く帰りたいひとは相模湖に、ゆっくりできるひとは南浅川への谷を下ることに決めると、主婦の多い集まりなので、ほとんどが西側の短い距離を下ってゆき、私をふくめてほんの四、五人が北側の道をとった。・・・
 ところどころにキブシの花も、固い蕾なりに春らしい粧いをこらしている。私はいつかひとびとよりおくれて山道を歩いていった。高尾山などと一口に軽く見て、あまりにも低く、あまりにも開けているのを非難するひとが多いけれど、この春のさかりを前にした谷の美しさはどうか。
 木々は皆、飛翔する前の若い鳥のように、息をひそめて張りつめた力を凝縮させている。この山気にふれ得ただけでも、今日の山歩きはよかった。
 全身から湧きたつよろこびに、小走りに走り下りようとして、はっと息をつめた。一瞬にして金いろのものが足許を走り去るように思った。
 フクジュソウが咲いていた。杉の根元の、小笹の中に一本だけ、たしかに野生の形の、売られているのよりは背も高く、黄も鮮やかな花を一つつけていた。その後石灰岩地帯を好むフクジュソウは、かつて多摩川の所々にもよく咲いていたことを知った。私の見つけたのは、残存の一株であったのだろう。
 何故、高尾山に、こうもしばしばくりかえしやって来たのだろうか。
 フクジュソウはたしかに高尾山に咲いていると父が教えてくれるために、おのずから私の足が向くように誘ってくれたのではないだろうか。
 父は四十歳で死んだが、生きていたら、もっとたくさんの山に登ったことであろう。
 父の願いが、私をこのように山に駆りたてるのかもしれない。父がもっと生きてもっと見たかった山の花々を、私は父の眼で見るために、こんなにも山にあこがれつづけているのかもしれないと、そのとき思った。父は栽培種の花よりも野の花、山の花が好きであったという。・・・」

 この本に書かれているように、フクジュソウは石灰岩地帯を好むとされる。軽井沢と隣接する群馬県の下仁田町にはこのフクジュソウが見られる「虻田福寿草の里」があることをかねて知っていたので、これを機に出かけてきた。

 軽井沢からは県道43号線で南下、国道254を下仁田方面に走ると案内板が出ているので迷うことはない。案内板には関東一という言葉が見られる。

虻田福寿草の里の案内板(2021.3.3 撮影)

 コロナ禍の中、例年行われている福寿草まつりは中止されていたが、無人営業されていて見学はできた。入り口近くに座っている案内係の老人に聞くと、今年は雨不足のために、全体に花は少ないとのことであったが、広い斜面の梅林の下にフクジュソウがたくさん咲いていた。ただ、時期が少し遅かったためか、花茎が伸びて長くなっているものが多く見られた。

虻田福寿草園の受付所(2021.3.3 撮影)

虻田福寿草園内の斜面に咲くフクジュソウ(2021.3.3 撮影)

虻田福寿草園内の梅林の下に咲くフクジュソウ(2021.3.3 撮影)

虻田福寿草園内のフクジュソウ(2021.3.3 撮影)

虻田福寿草園内の紅梅(2021.3.3 撮影)

虻田福寿草園内の白梅(2021.3.3 撮影)

虻田福寿草園内の蝋梅の蕾(2021.3.3 撮影)

 軽井沢に自生地があるという話は聞かない。火山性土壌の当地はアルカリ性の石灰岩地とは逆の酸性土壌だからだろうか。2年ほど前、軽井沢から佐久方面に出かけた時に、偶然道路わきにフクジュソウを見たことがあった。

 そのことを思い出して、今回出かけてみた。以前と同じ場所にフクジュソウは咲いていて、気のせいか株数が増えているように感じた。近隣の人たちに大切にされているからだろうか。

 自宅庭のものに比べると花びらの数が少なく、より野性味を感じるが、場所が道路脇でもあり、本当の野生種かどうかは定かではない。この時撮影した写真は次のようである。


雑木林の下に咲くフクジュソウ 1/7(2021.3.1 撮影)


雑木林の下に咲くフクジュソウ 2/7(2021.3.1 撮影)


雑木林の下に咲くフクジュソウ 3/7(2021.3.1 撮影)


雑木林の下に咲くフクジュソウ 4/7(2021.3.1 撮影)


雑木林の下に咲くフクジュソウ 5/7(2021.3.1 撮影)


雑木林の下に咲くフクジュソウ 6/7(2021.3.1 撮影)


雑木林の下に咲くフクジュソウ 7/7(2021.3.1 撮影)
 
【追記 2021.3.9 】
 軽井沢周辺のフクジュソウ自生地を探したところ、佐久市の虚空蔵山に見られるとの情報を得て出かけてきた。

 場所は国道254号と建設中の中部横断道とが交差するあたりで、最近オープンした「道の駅ヘルシーテラス」からほど近いところである。

 先ず、この道の駅ヘルシーテラスに昼食のために立ち寄ったところ、建物脇に目指す虚空蔵山への案内板があった。ここを起点として、虚空蔵山へは3つのルートがあると示されていた。

「道の駅ヘルシーテラス」の建物脇に設置されている虚空蔵山の案内板(2021.3.8 撮影)

 この道の駅の駐車場に車を残して歩いて行けないことはないようだが、虚空蔵山直下の多福寺には駐車場があるとの事前情報を得ていたので、山歩きが目的ではない我々は、昼食を済ませて多福寺に車で移動した。

虚空山・多福寺(2021.3.8 撮影)

 多福寺に着いてみると、寺に上がる石段の脇にフクジュソウがたくさん咲いているのが目に入った。


多福寺の石段脇に咲くフクジュソウ(2021.3.8 撮影)

多福寺の石段脇に咲くフクジュソウ(2021.3.8 撮影)

 中には花弁数のとても多い個体が混じって見られる。

多福寺の石段脇に咲くフクジュソウ(2021.3.8 撮影)

 これで半分以上目的は達せられたようだが、せっかくここまで来たということもあり、しばらく撮影した後、山頂を目指すことにして歩き始めた。
 途中所々に置かれた石仏を見ながら坂道を登って行ったが、山道の脇には目指すフクジュソウの姿はなく、ようやく山頂に設置された展望台が見えたところで、斜面に数本のフクジュソウが咲いていた。


山頂脇の斜面に咲くフクジュソウ(2021.3.8 撮撮影)
 
 山頂は平たんに整備されていて立派な展望台が設置されている。この上に上ると、北に浅間山、西には近くの山並みの背後に天気が良ければ北アルプスが望める。


虚空蔵山頂上の展望台(2021.3.8 撮影)

今まで登って来た道とは反対側に複数本のフクジュソウが見られた。


虚空蔵山頂のフクジュソウ(2021.3.8 撮影)

 今回は、多福寺から山頂までのルートでは群落と呼べるものに出会うことができなかった。
 次のサイト
には2019年撮影のフクジュソウの群落の写真が紹介されているので、今回私が上った多福寺からのルート以外の場所にあるのだろうと思う。

 佐久市の公式ホームページとその中の佐久市観光協会のサイトにも「花の見どころカレンダー」というコーナーはあるが、フクジュソウに関する情報は見られないのは何か意図あってのことかもしれないが、残念なことである。

 尚、佐久市内山地区の園城寺境内にもフクジュソウが咲くと言われている。今回は行けなかったが、この地区は今年の大河ドラマの主人公「渋沢栄一」の「第二の故郷」として売り出し中の場所でもあり、近く訪ねて見たいと思っている。





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