軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ガラスの話(17)クランベリーガラス

2019-09-27 00:00:00 | ガラス
赤色ガラスの一つに英語でクランベリーガラス(Cranberry glass)あるいはゴールド・ルビーガラス(Gold Ruby glass)と呼ばれるものがある。クランベリーの実のような美しい赤色を持つことからこう呼ばれているが、日本語では「金赤(きんあか)」と称されているものであり、文字通り、ガラスの着色剤として「金」を用いている。

クランベリーの赤い実(ウィキペディア「クランベリー」から引用)

 黄金色の金を用いることで赤色が出せるという意外性にも興味を惹かれるが、不活性な金属の代表である金がガラスに溶けるということもまたちょっとした驚きである。実際には、ガラスを熔解する原料段階で、金を唯一溶かすことができる王水(硝酸と塩酸の1:3の混液)を用いて得られる塩化金酸をガラス原料に均一に混ぜて実現している。

 クランベリーガラスの製法は古くローマ時代には発明されていたようで、およそ4世紀の古代遺跡から発掘されたガラスの中から見いだされた品は大英博物館に収蔵されていて、リクルゴス酒杯(Lycurgus Cup)と呼ばれている(Lycurgus Cupでネット検索すれば写真を見ることができるので、ご覧いただきたい)。

 このLycurgus Cupは背後からの照明により、あるいは内部に光源を入れて透過光で見ると赤く見えるが、太陽光下や前方からだけの照明により反射光で見ると濁った緑色に見える二色性を示すとされている。後に示すような、金のみによるクランベリーガラスではなく、化学分析によるとごく微量の金のほかに銀も多く含まれているとされている(銀300ppm、金40ppmという報告がある)。

 このほか、古代ローマでは金の添加量を変えることにより、ガラスに黄色、赤、藤などの色を付けていたとされる。

 こうしたクランベリーガラスの製法は、その後一旦失われてしまうが、17世紀のボヘミアの時代になって、ドイツ・ポツダムの化学者ヨハン・クンケル(Johann Kunckel, 1630年 - 1703年) あるいはイタリアのガラス職人アントニオ・ネリ(Antonio Neri, 1576年 - 1614年)により再発見されている。

 しかし、両者ともに、赤色発色のメカニズムについては理解しておらず、その後も発色原理については長く解明されることはなかったが、1857年にイギリスの化学者・物理学者マイケル・ファラデー(Michael Faraday, 1791年9月22日 - 1867年8月25日)が、塩化金酸を二硫化炭素で還元することで赤い溶液を得ることに成功し、発色が金の微粒子によるものであることを世界で初めて説明したとされる。また化学者で1925年のノーベル化学賞の受賞者であるオーストリア・ハンガリー二重帝国の化学者リヒャルト・アドルフ・ジグモンディ(Richard Adolf Zsigmondy, ハンガリー名:Zsigmondy Richárd, 1865年4月1日 - 1929年9月23日)も1898年に、金の希薄コロイドを作ることに初めて成功している。

 こうして、水溶液中の金コロイドが示す発色の類推から、ガラス中でも同様に金コロイドが赤色を作り出していると考えられた。

 ガラスの着色剤には主に各種金属元素が用いられているが、発色のメカニズムは、金属または非金属元素イオンによるものと、金属または半導体コロイド粒子によるものの2種類に分かれる。

 クランベリーガラスの赤色は、後者によるものであることが科学的に解明されたわけであるが、実際の製造工程では、前述の方法でガラス生地の中に均一に熔解させた金イオンを、冷却後再加熱することで凝集させ、所定の大きさのコロイド粒子に成長させることで得られている。金が均一に熔解した状態で冷却されたガラスは無色透明であるが、加熱し金属金コロイドが成長するに伴い赤く着色するとされる。

 液体中の金コロイドの研究によると、色は液の状態によっても変わるが、10nm(ナノメートル)程度の微粒子の場合は概ね赤であり、粒径が小さくなると薄黄色、大きくなると紫~薄青、100ナノメートルを超えると濁った黄色となるとされる。

 この発色現象について物理的な側面からの解説を見ていくと、金コロイドが色を呈するのは、コロイド粒子と光の相互作用(共鳴振動)によるもので、物理学で(局在)表面プラズモン共鳴(SPR:surface plasmon resonance)として知られている現象によるとされている。金コロイドの粒子径が大きくなるに従い、共鳴波長が長波長側に移動していくため、上記のように粒子径が小さい時には短波長の青色を吸収し液は黄色を呈し、大きくなるに従い緑色の光、赤色の光を吸収し、液の色は赤~赤紫から青色へと変化する。粒子径が更に大きくなり、吸収波長が近赤外域にまで移動すると、可視光を吸収しなくなるため液は再び無色になるが、粒子径が大きくなるにつれて(レイリー/ミー)散乱が起きるため、液は黄~白濁することになる。

 金赤ガラスに関する学術的な報告は、「GLASS ガラス工芸学会誌」14号(1983年発行)の「赤色ガラスの分光透過率:刈谷道郎」に見ることができる。一部を引用すると次のようである。

 「ガラスを透過してくる光の吸収程度が波長によって異なるとき、ガラスは着色して見える。同じ赤色ガラスでも種類が金赤、銅赤、セレン赤のちがいによって分光透過率は異なる。・・・金赤ガラスはガラス中に分散した3~60nmの金コロイドによる着色であり、金含有量はソーダ石灰ガラスで約0.001%(10ppm)、鉛ガラスで0.1~0.01%(1000~100ppm)である。金赤ガラスの分光透過率は520~580nmに吸収曲線の谷があり、600~700nmの赤色域に透過率のピークがあり、400~500nmの青色域に第二のピークがある。このため弱い吸収では桃色、強い吸収では赤紫色となる。・・・
 金赤の鉛クリスタルガラスの分光透過率が再熱処理条件によってどう変化するかを見ると、処理温度が高いと吸収が長波長側に移動し、処理時間が長くなると吸収が強くなる。・・・」

 さてここまでは、金コロイドによる金赤ガラスを中心に話をしてきたが、類似の赤色ガラスには銅赤や銀赤、セレン赤も知られている。いずれも発色の原理は、ガラス中でコロイドを形成することによるが、銅赤は金属銅コロイドあるいはCu2Oコロイド、セレン赤は硫化カドミウム(CdS)とセレン化カドミウム(CdSe)との固溶体のコロイドによる着色とされる。CdS単独では黄色の発色であるが、CdSeを加えることで赤色の発色をすることから、セレン赤と呼ばれているようである。
 金属銀コロイドも赤色を呈するが、条件により色の変化が大きく、恐らくこうした理由で安定した生産に適さないために実用的には使われていないのではと思われる。

 さらに同論文には「金赤ガラス、銅赤ガラス、セレン赤ガラスは典型的な発色をした場合には、分光透過率が異なり色調も異なるため、容易に判別される。しかしながら発色条件が適切でないと、どの着色剤によるのか判別しがたいこともあり、その判別にはガラスを蛍光X線分析にかけるなどの直接的な分析手段が必要になる。」との記述もあり、赤ガラスの生産工程はなかなか複雑な面も持っていることが推測される。

 次に同論文に掲載されている金赤、銅赤、セレン赤の分光過率データを示す。

金赤鉛クリスタルガラスの分光透過率、厚さ2mm(刈谷道郎、GLASS ガラス工芸学会誌、14号、pp2-5、図1)

銅赤ガラスの分光透過率(同、図3)

セレン赤ガラスの分光透過率(同、図4)

 最後に、私のショップに置いているクランベリーガラス、銅赤ガラス作品を紹介させていただきながら本稿を終る。

 最初は、透明ガラスを外に、クランベリーガラスを内側に被せた香水瓶。こうすることで、外形を大胆にカットしても、赤色ガラス部の厚みは変化しないため、均一な色が得られる。足と蓋は透明ガラスでできている。表面に金彩で紋様が描かれていたが、長年の使用でほとんど剥がれ落ちている。

クランベリーガラスを内部に被せたボヘミア製香水瓶(H14.5cm)

 次は、イギリス製で、本体部全体がクランベリーガラス製のジャムディッシュ。ホルダーに掛けるための鍔(つば)部分は透明ガラスでできている。

クランベリーガラスでできているイギリス製のジャムディッシュ(H7.5cm)

 同じくイギリス製のジャムディッシュだが、本体部分は上部のクランベリーガラスから底部の透明ガラスにかけてグラデーションになっている。更に縁と鍔をウランガラスで飾っている。通常照明の下で黄色に見えるウランガラス部(左の写真)は紫外線ランプ(ブラックライト)照射により緑色に発光する(右側の写真)。

クランベリーガラスと透明ガラス、ウランガラスを組み合わせたイギリス製ジャムディッシュ(H8.5cm)

 イギリス製のワイングラスには、ステム(手で持つ部分)の内部に白いガラスでツイスト構造を取り込んだもの(オペークツイスト)がよく見られるが、次はそのツイスト構造にもクランベリーガラスと白色ガラスを用いており、ボウル部分もクランベリーガラスでできている。

ボウルとステムにクランベリーガラスが使われているイギリス製の古いワイングラス(H19.7cm)

 フランス、ベルギー、ハンガリー製のワイングラスにも、透明ガラスの外にクランベリーガラスを被せ、これにカットを施して下地の透明ガラスとの間のコントラストを見せるものがあり、美しい外観を与えている。

透明ガラスボウルにクランベリーガラスを被せたフランス(Baccarat)製ワイングラス(H19.5cm)

透明ガラスボウルにクランベリーガラス、緑ガラス、青ガラスを被せたフランス(Saint-Louis)製ワイングラス(H8.5cm)

透明ガラスにクランベリーガラス、黄ガラスと緑ガラスを被せカットしたベルギー(Val-San-Lanbert)製ワイングラス(H21.8cm)

透明ガラスボウルにクランベリーガラスを被せたハンガリー(Aika)製ワイングラスのペア(H19.3cm)

 白色ガラスとクランベリーガラスを組み合わせたものはボヘミア独特の印象を与える。

クランベリーガラスを内側に、外側に白色ガラスを合わせ、カットで内部のクランベリーガラスを見せたボヘミア製ゴブレット(H10.8cm)

 大きめのものでは、容器全体がクランベリーガラス製のものがある。

クランベリーガラス製のピッチャー(H18.5cm)

 アール・ヌーヴォー時代のものと思われる物だが、ボウル全体をクランベリーガラスで作り、その口縁部を金彩で飾ったワイングラスもある。

ボウルにクランベリーガラスを用い、金彩で縁どられたフランス(Legras)製ワイングラスペア(H12.8cm)

 次はアメリカ製で、クランベリーガラスとオパールセントガラスを組み合わせたオイル/ヴィネガー用の瓶。クランベリーガラス生地の上にオパールセントガラスで紋様が描かれているが、どのようにして作られたものだろうか。

クランベリーガラスに白色のオパールセントガラスを組み合わせたアメリカ製オイル/ヴィネガー瓶(H18cm)

 以上は発色剤に金を用いたものだが、次に発色剤に銅を用いた銅赤を見ておこう。同じ金属コロイドによる発色とされているが、先に見たように銅の場合は短波長の青~緑の吸収が強いために、目で見る色は暗赤色と濃く見える。

 最初は、透明ガラスに銅赤ガラスを被せ、カットを施したグラス。実はこのグラスは、ガラス工芸研究家の由水常雄氏が、18~19世紀にイギリスで流行したものを模して作成したもの。由水氏の説明によると、「当時の名作をもとに、発色の最も難しい銅赤のガラスを外側に被せて、イギリス独特の片やすりカットでデザインを決めた技法を再現。」と記されている。

由水常雄氏監修による銅赤被せガラスのぐい吞み(H6cm)

 次は銅赤ガラスでできた皿の表面に、以前紹介したことのあるシルバーオーバーレイで文様を施したもの。

銅赤ガラスにシルバーオーバーレイを組み合わせた皿(D24.6cm)

 次は、透明ガラスの外に銅赤ガラスを被せ、表面をカットして紋様をつけた、蝋燭照明用のホヤと思われるもの。

透明ガラスに銅赤ガラスを被せた蝋燭照明用のホヤ(H13cm)

 次のデキャンターセットは1930年-50年代にボヘミアで作られたもので、透明ガラスに銅赤ガラスを薄く被せてそこに芸術的紋様を刻んでいる。

透明ガラスに銅赤ガラスを被せ彫刻したデキャンター・グラスセット(デキャンター H22.3cm、グラス H8.7cm)

 最後に見ていただくのは、類似の赤いガラスだが、ボヘミアのガラス職人エーゲルマン(B.Friedrich.Egermann、1777-1864)が長年の研究の末に生み出したとされる、エーゲルマン赤あるいはルビーステインと呼ばれているもので1832年の発見である。透明ガラスの表面に塩化第二銅に他の材料を混ぜて得た液体を塗布し、過熱することで、表面に薄く赤色のイオン交換による層を形成させるもので、彼はこの技術の特許を取得している。今回議論したような意味での発色原理は不明であるが、色から判断すると、イオン交換でガラス表面に取り込まれた銅イオンがコロイドを形成しているものと推察される。浅く削るだけで紋様を描くことができる。次の作品では、削る深さに段階を持たせて、複雑な動物紋様を見事に描き出している。

表面を銅イオンで置換させたた赤色層に動物紋様を刻んだボヘミア(Egermann工房)製ゴブレット(H15cm)





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軽井沢文学散歩(8)萩原朔太郎

2019-09-20 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢町が発行している、「軽井沢文化財・歴史的建造物マップ」には、これまでに紹介した事のある旧三笠ホテル、ショーハウス記念館、室生犀星記念館、旧有島武郎別荘「浄月庵」や八田別荘などと共に、旧三井別荘を見ることができる。この旧三井別荘が、最近新聞紙上を賑わした。


旧三井別荘の解体の危機を報じる新聞記事

 2019年8月27日付の読売新聞には「三井別荘 解体の危機」と題して、次のように書かれている。
 
 「1900年(明治33年)に建築され、軽井沢町に現存する最古の洋和館別荘とされる『三井三郎助別荘』が取り壊される可能性があることが、関係者への取材で明らかになった。建物を購入した英領バージン諸島の法人が解体の意向を表明しているという。避暑地として約130年の歴史がある軽井沢の別荘文化を今に伝える建造物の保存に取り組んできた町や住民らは解決の糸口を探るが、私有財産の保護には限界もあり、有効な手だては見つかっていない。」

 記事では、この別荘について更に次のように解説しているが、この別荘には記事に名前が見られる人たちのほかに、萩原朔太郎も、室生犀星の紹介で滞在していたことがあるという。

 「三井三郎助別荘:三井財閥の三井三郎助(1850~1912年)が現在の軽井沢町の愛宕山山麓に建てた。木造2階建ての洋館と和館が連結した造りが特徴。三郎助のおばで、NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデルとなった広岡朝子も利用し、ノーベル文学賞を受賞したインドの詩人タゴール、元総理大臣の西園寺公望も滞在したことで知られる。」


旧軽井沢愛宕山にある旧三井別荘(2019.9.6 撮影)

 さて、今回は軽井沢文学散歩に萩原朔太郎をとりあげる。軽井沢には、萩原朔太郎に関連する文学碑などはなく、又彼が別荘を持って住んでいたということもないので、軽井沢町が発行している「軽井沢文学散歩」(1995年発行、11版)には、この萩原朔太郎は登場してこない。

 ただしかし、本ブログの軽井沢文学散歩で最初に取り上げた室生犀星とのつながりがとても深く、互いに生涯の友と認め合う仲であり、上記の通り、室生犀星の紹介で「三井別荘」に滞在したとの記録があることや、室生犀星を訪ねて、芥川龍之介などとともに旧軽井沢の宿「つるや旅館」にも滞在していることから採り上げておこうとおもう。

 萩原朔太郎については、私たちの世代は中学か高校の国語の授業で学んでいて、今も覚えているのは彼の詩「竹」である。あらためて読んでみると次のようであった。
 
萩原朔太郎 「竹」(詩集『月に吠える』より)



ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。



光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。
かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

 萩原朔太郎と室生犀星、北原白秋は次の年表に見るように、同時代を生きた。また萩原朔太郎と北原白秋は同年に没している。


明治大正期生まれの文士とその中の萩原朔太郎(赤で示す、黄はこれまでに紹介した文士)

 室生犀星は、「我が愛する詩人の傳記」(1974年 中央公論社発行)の中で次のように記している。

 「先に死んで行った人はみな人柄が善すぎる、北原白秋、山村暮鳥、釈迢空、高村光太郎、堀辰雄、立原道造、福士幸次郎、津村信夫、大手拓次、佐藤惣之助、百田宗治、千家元麿、横瀬夜雨、そしてわが萩原朔太郎とかぞえ来てみても、どの人も人がらが好く、正直なれいろうとした生涯をおくっていた。・・・」

 室生犀星と萩原朔太郎の出会いは、北原白秋の主宰誌である「朱欒(ザンボア、ザボンのこと)」においてであった。犀星はその折のことを「大正二年の春もおしまひのころ、私は未知の友から一通の手紙をもらった。私が當時「ザンボア」に出した小景異情といふ小曲風な詩について、今の詩壇では見ることのできない純な真実なものである。これからも君はこの道を行かれるやうに祈ると書いてあった」と述べている(月に吠えるの跋文から)。

 その後の二人の交流についてはふたたび、「我が愛する詩人の傳記」に記されている。

 「前橋市にはじめて萩原朔太郎を訪ねたのは、私の二十五歳の時であり今から四十何年か前の、早春の日であった。前橋の停車場に迎えに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口に咥えていた。第一印象は何て気障な虫酸の走る男だろうと私は身ブルイを感じたが、反対にこの寒いのにマントも着ずに、原稿紙とタオルと石鹸をつつんだ風呂敷包一つを抱え、犬殺しのようなステッキを携えた異様な私を、これはまた何という貧乏くさい瘠犬だろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。と、後に彼は私の印象記に書き加えていた。それによると、萩原は詩から想像した私をあおじろい美少年のように、その初対面の日まで恋のごとく抱いていた空想だったそうである。・・・」

 「萩原と私の関係は、私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻していて、萩原もずるずるに引きずられているところがあった。例の前橋訪問以来四十年というものは、二人は寄ると夕方からがぶっと酒をあおり、またがぶっと酒を飲み、あとはちびりちびりと飲んで永い四十年間倦きることがなかった。・・・」

 二人が酒を飲んでいたのは、東京でのことであるが、1938年(昭和13年)53歳の時に朔太郎は軽井沢に別荘を借りて住んでいる。先に紹介した三井別荘と思われる。その時のことが同じく「我が愛する詩人の傳記」に記されている。

 「1932年に北沢に彼は遺産で家を建てた。まわりは悉く渋いココア色で塗り潰した家である。彼はこの家で若い第二夫人を迎えた。その年の夏、はじめて軽井沢に別荘を借りて住み、私と萩原は夕方五時半の時間を決めて町の菊屋で落ちあい、ビールを飲んだ。若い時分のくせをこの避暑地でうまく都合つけたのも、よい思いつきであった。彼は五時半には菊屋に現れ、私もその時間におくれずに現れた。そしてビールを二本あけると二人は別れた。彼は若い妻のいる別荘へ、私は自分の家へ、そして私達はそれぞれにあらためて家で晩酌の膳についたのである。併し彼の別荘借りは一年しか続かなかった。」

 萩原朔太郎が借りていたという別荘は、冒頭紹介した「旧三井別荘」のことと思われるが、その位置は次の地図のようであって、ビールを飲んだという菊屋があったであろう軽井沢銀座通りをはさんで、室生犀星の別荘とは反対側に位置しているので、犀星のこの話のようになるのは理解できる。


旧三井別荘と室生犀星の別荘の位置

 萩原朔太郎の年譜「萩原朔太郎全集 第十五巻」(1978年 筑摩書房発行)には、この家の建築と、新妻との別荘生活については次のように記されている。尚、犀星の記述と年譜とでは、新居の住所や軽井沢での別荘生活の期間に相違があるが、これは犀星がその前の住まいの住所と思い違いをしていたり、記憶違いによっているからかもしれない。

 「1931年(昭和6年)46歳、9月、世田谷町下北沢新屋敷1008番地(現在の世田谷区北沢二丁目37番地)へ移り、母ケイ、二児、妹アイと一緒に住む。」

 「1932年(昭和7年)47歳、11月、世田谷区代田1丁目635番地の2(現在の世田谷区代田1丁目6の5の3)所在の土地147坪6を借地し、自己設計の家の建築にかかる。」
 
 「1933年(昭和8年)48歳、1月、代田の家の新築落成。母ケイ、二児、妹アイと共に入居。・・・新居は木造二階建て瓦葺、一階43坪75、一階以外16坪12、計59坪86。」

 「1934年(昭和9年)49歳、9月2日に、軽井沢避暑中の室生犀星に招かれ、犀星と沓掛などに遊ぶ。」

 「1938年(昭和13年)53歳、4月、北原白秋夫妻の媒酌で、大谷美津子(当時27歳)と結婚するも入籍せず。 7月から9月まで、室生犀星の斡旋で三井の別荘を借り、美津子夫人と軽井沢に滞在。」

 室生犀星の目で見た軽井沢での萩原朔太郎についてはこれくらいであるが、朔太郎自身は室生犀星について、合わせて11編の作品を残していることが、全集には記されている。しかし、朔太郎が軽井沢で借りて過ごしたとされる三井別荘での生活のようすなどはうかがい知ることができない。その三井別荘は現在解体の危機に直面している。解体と共に朔太郎の僅かな軽井沢との繋がりも消えてしまうのだろうか。

 次に、軽井沢と直接の関係ではないが、本ブログの隠されたテーマである3Dすなわちステレオ写真と萩原朔太郎について興味深い話題があるので紹介する。

 私がこの事を知ったきっかけは、ずいぶん前に読んだ雑誌「サライ」の「文士に学ぶカメラ道」という特集記事であった。これは文士とその愛用のカメラについてのもので、この中に大佛次郎、向田邦子、永井荷風、松本清張、池波正太郎らと共に、萩原朔太郎が紹介されていた。

 萩原朔太郎が愛用したカメラはステレオカメラで、彼が撮影したステレオ写真も数点紹介されていた。ステレオカメラ・写真を愛好した文士というのは、後にも先にもこの萩原朔太郎くらいで、強く記憶に残っていた。


雑誌「サライ」2009年2月5日号の表紙
 
 「サライ」の記事を改めて読んでみると、群馬県の前橋文学館には朔太郎の遺蔵書として「写真術全書」、「実地応用最新素人写真述」が含まれているとあり、朔太郎が使っていた立体写真のネガ乾板と日光写真の器具などもここに収蔵されている。また、関東大震災直後の被災地の様子を撮影したステレオ写真もその中に含まれる。

 残念なことに、ステレオ写真を撮影した、肝心のカメラは残されておらず、詳しいことは不明だが、彼が書き残した「僕の写真機」(アサヒカメラ昭和14年10月号掲載のエッセイ)の文章があることから、関係者は「朔太郎の撮影した写真には『TOKIOSCOPE』と刻印されたものがいくつかある。これからフランス製立体写真機の『ベラスコープ』を模して製造された国産カメラ『トキオスコープ』を使用したことがわかる。」としている。

 この他に、朔太郎がステレオ写真を愛好したことを示す記述を探してみると、萩原朔太郎全集(筑摩書房発行)の年譜の方には記載がないものの、同全集第十一巻には、先の「僕の写真機」が収められており、同じく全集第十五巻の巻頭に次の文章と数枚の写真が紹介されている。

 「若い時から朔太郎にはカメラ趣味があり、前橋の風物、東京の大森・馬込、旅行地などの写真が相当数遺っている。妹たちと利根河畔に遊んだ日の利根川の鉄橋風景や、時報の櫓は、その遺品中のもので、今では二枚とも古い前橋の姿を伝える珍しい写真である。」

 また、ウィキペディア「萩原朔太郎」の「人物・その他」の項には、1902年(明治35年)16歳の頃のこととして、次の記述があって、ステレオカメラの機種に関しては「サライ」の記事とはやや異なる見解があることを紹介している(注:ここには16歳とあるが後述の年譜では当時の年齢の数え方に合わせて17歳としている)。

 「16歳の時最初のカメラを買って写真を始めた。この時従兄である萩原栄次の日記に『朔ちゃんが六五銭の写真機を買って来て、屋根の上から釣鐘堂を撮す』とある。
 この頃はパノラマでない通常の、おそらく軽便写真器を使っていたが、明治期に撮影されたと思われるステレオ写真乾板も存在することから写真を始めて10年程ですでにステレオカメラを入手し、その後は特にパノラマ写真を好んだ。ステレオカメラに詳しい島和也によれば使ったカメラはジュール・リシャールのヴェラスコープではないかという。前橋文学館に45×107mm判写真乾板が展示されている。 これらの写真は妹の幸子の家で1972年に発見され、前橋市立文化会館館長で若い頃から朔太郎の詩に魅せられ研究を続けていた野口武久の元に持ち込まれ、7年をかけて撮影年代や場所を特定され、1979年『萩原朔太郎撮影写真集』として出版され、また再編集の上で1994年10月『萩原朔太郎写真作品-のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景』として出版された。」

 ここに紹介されている本「萩原朔太郎写真作品-のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景」(新潮社発行)を入手することができた。表紙と帯のデザインは次のようである。




「萩原朔太郎写真作品-のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景」の表紙とその帯

 この本には、朔太郎が撮影したステレオ・ペアを含む写真と共に、前出の「僕の写真機」、朔太郎の長女・萩原葉子さんの「父と立体写真」、葉子さんの子息・萩原朔美さんの「四角い遊具の寂しさ」というエッセイが載せられている。それぞれの文章から、朔太郎がステレオ写真に抱いていた思いを知ることのできる箇所を引用すると次のようである。

 「寫眞といふものに、一時熱中したことがあった。しかし僕の寫眞機は、普通のカメラと大いに変わったものであった。・・・レンズが二つあって、それが左右同時に開閉し、一枚の細長い乾板に、二つの同じやうな絵が寫るのである。これを陽画にしてから、特殊のノゾキ眼鏡に入れてみると左右二つの絵が一緒に重なり、立体的に浮き上がって見えるのである。と言えば、すぐ読者にも解るであらうが、つまり僕の愛玩した寫眞機は、日本で俗に双眼寫真と呼んでる、仏蘭西製のステレオスコープなのであった。
 このステレオスコープは、日本に来てから随分古い年代が経ち、既に明治初年時代にさへ、大形の物が輸入されていたにかかわらず、どういふわけか、日本では一向に流行しない。僕がこんな機器を持っていることさへ友人たちは軽蔑して、何んだそんな玩具みたいなものをといふ。・・・

 とにかく僕にとっては、このステレオスコープだけが、唯一無二の好伴侶だったのである。・・・
  
 元来、僕が写真機を持つてゐるのは、記録写真のメモリィを作る為でもなく、また所謂芸術写真を写す為でもない。一言にして尽せば、僕はその器械の光学的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されてる、自分の心の郷愁が写したいのだ。僕の心の中には、昔から一種の郷愁が巣を食つてる。それは俳句の所謂「佗びしをり」のやうなものでもあるし、幼い日に聴いた母の子守唄のやうでもあるし、無限へのロマンチックな思慕でもあるし、もつとやるせない心の哀切な歌でもある。そしてかかる僕の郷愁を写すためには、ステレオの立体写真にまさるものがないのである。・・・

 僕は今でも、昔ながらのステレオスコープを愛蔵してゐる。だが事変の起る少し前から、全くその特殊なフィルムや乾板の輸入が絶え、たださへ入手困難だった材料が、いよいよ絶望的に得られなくなってしまった。その上にカメラも破損し、安価の玩弄品以外には、新しい機械を買ふことができなくなった。これは僕にとって、いささか寂しいことである。」(「僕の写真機」)

 「父が写真に興味を持ったのは明治三十五年中学生の頃で、写真機を当時六十五銭で買ったそうだが、翌年五月大阪の父の実家へ行った時には、もう立体写真機で、風景を撮ったりしていた。・・・私は、もしかすると小学生の頃から撮っていたかも分らないと思う。・・・
 中学時代から、晩年まで立体写真を覗き(外国製の既製品の写真も覗いていた)、亡くなる前、病床に伏してからも枕元に置いてあった。
 立体写真機はレンズが二つあり、それで撮った二枚同じ写真を横長の板に並べてステレオスコープで覗くと、立体に浮き上って見えるのである。
 四百字原稿用紙大くらいの大きさで、厚みは十センチ余りの箱型で(寸法は、はっきりとは覚えていないが)、覗いてみると、風景や人物が浮き上がって見える。・・・」(萩原葉子「父と立体写真」)

 「ステレオ写真機の方は、どんなカメラだったのだろう。・・・
 日本カメラ博物館の『パノラマ&ステレオカメラ展』のカタログを見ると、この時期に入手可能なフランス製ステレオカメラは十台程ある。画面サイズからすると『カルブ・ポシェット』と『ステレオ・フィジオグラフ』、『ステレオ・マリン』、『フォト・ブカン・ステレオ』だ。ただし、残された立体写真用ガラス乾板は4.0x10.6センチ。カタログの中のカメラはどれも4.5x10.7センチなのだ。これも、計測の誤差なのかもしれないが、それも今となっては正解がない。・・・」(萩原朔美「四角い遊具の寂しさ」)

 以上のように、朔太郎が所有していたステレオカメラについては、撮影用のステレオカメラと、撮影後のステレオ写真を見るためのステレオビュワーとが共にステレオスコープというように表現されているようで、混同されているようなところもあり、確かに本人がフランス製と書き残しているのにもかかわらず、関係者はその他の部材から国産と推定したりしているのであろうと思う。

 カメラが破損してしまったという記述もあり、また複数台を所有していたと受け取れる文章もあるので、フランス製のステレオカメラと国産のステレオカメラの両方を持っていたとするのがいいのかもしれない。

 さて、もうひとつ私には思いがけないことがあった。朔太郎が大阪に出かけた時に撮影した、阪急宝塚線「石橋駅」のステレオ写真がこの本に掲載されていたのである。石橋駅は私が学生時代に乗り降りをしていた駅であるし、一時期は近くに下宿生活をしていた場所でもある。当時、このことを知っていたら、又違った目でこの石橋駅周辺を眺めていたかと思う。

 ところで、ここで、私が撮影した2組のステレオ写真のペアを見ていただく。最初は今年改修工事が終了したばかりの室生犀星記念館。もう1組は朔太郎と犀星が歩いた軽井沢銀座である。ステレオペアは交差法と平行法で配置しているので、立体視のできる方は挑戦していただきたい。


室生犀星記念館のステレオ写真(2019.9.12 撮影、ステレオ・ペアは交差法で配置)


同、平行法で配置


軽井沢銀座通りのステレオ写真(2019.9.12 撮影、ステレオ・ペアは交差法で配置)


同、平行法で配置

最後に、略年譜を記して本稿を終る。

略年譜

萩原朔太郎
・1886年(明治19年)1歳
 11月1日、群馬県東群馬郡前橋北曲輪町69番地(のちの前橋市北曲輪町⦅現・千代田町二丁目一番十七号⦆)に、開業医の父・密蔵(35歳、大阪出身)母・ケイ(20歳、群馬出身)の長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名された。
・1890年(明治23年)5歳
 妹(長女)ワカ誕生。
・1893年(明治26年)8歳
 群馬県尋常師範学校附属小学校に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、「学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。」と孤独を好み、一人でハーモニカや手風琴などを楽しんだ。
・1894年(明治27年)9歳
 妹(次女)ユキ誕生。
・1900年(明治33年)15歳
 旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)入学。妹(三女)み祢誕生。
・1903年(明治36年)18歳
 与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首掲載され、石川啄木らと共に「新詩社」の社友となる。
・1904年(明治37年)19歳
 妹(五女)アイ誕生
・1906年(明治39年)21歳
 3月、群馬県立前橋中学校卒業。4月、前橋中学校補習科入学。9月、早稲田中学校補習科入学。
・1907年(明治40年)22歳
 7月、高等学校入学試験を受験、第五高等学校に合格。9月、熊本にある第五高等学校第一部乙類(英語文科)に入学。
・1908年(明治41年)23歳
 9月、岡山にある第六高等学校第一部丙類(ドイツ語文科)に転校。
・1909年(明治42年)24歳
 岡山高等学校を第一学年で落第。
・1910年(明治43年)25歳
 4月、六高に籍を残しつつ慶應義塾大学予科一年(J組)に入学するも直後に退学。同年の夏頃にチフスにかかり、帰郷し5月、六高を退学する。6月、大逆事件の群馬県下への波及により、朔太郎の知人坂梨春水が逮捕される。10月、妹ユキ、津久井惣次郎(医師)に嫁ぐ。
・1911年(明治44年)26歳
 慶応義塾大学部予科一年(B組)に再入学する。11月、慶大予科を中途退学。津久井惣次郎・ユキ前橋に帰住し、惣次郎は萩原医院の仕事をした。
・1913年(大正2年)28歳、
 北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表、詩人として出発し、そこで室生犀星作品に感動して手紙を送り、生涯の友となる。
・1914年(大正3年)29歳
 東京生活を切り上げて帰郷し、屋敷を改造して書斎とする。6月に室生犀星が前橋を訪れ、そこで山村暮鳥と3人で詩・宗教・音楽の 研究を目的とする「人魚詩社」を設立。
・1915年(大正4年)30歳、
 1月、北原白秋が前橋を訪問し、萩原家に滞在。3月、室生犀星、山村暮鳥、萩原朔太郎の3人により、人魚詩社から詩集誌『卓上噴水』創刊。誌名は犀星による。5月、金沢に犀星を訪問。10月、犀星前橋を訪問。
・1916年(大正5年)31歳、
 春頃から自宅で毎週一回の「詩と音楽の研究会」を開き、6月に室生犀星との2人雑誌『感情』を創刊。
・1917年(大正6年)32歳、
 第一詩集『月に吠える』を感情詩社と白日社共刊により自費出版で刊行。北原白秋の斡旋による縁談の見合いに上京。
・1918年(大正7年)33歳、
 『感情』に詩3編を発表したのを境に、作品発表を中断。前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催し、前橋在住の詩人歌人たちと「文芸座談会」を設ける。
・1919年(大正8年)34歳、
 5月、上田稲子(21歳)と結婚。6月、若山牧水来訪。父密蔵(68歳)が老齢のため開業医をやめ、津久井惣次郎が「津久井医院」を開業。
・1920年(大正9年)35歳
 9月、長女葉子誕生。
・1921年(大正10年)36歳
 7月、室生犀星に電報で軽井沢駅に招かれ、共に妙高山麓の赤倉温泉に遊ぶ。12月、妹み祢、碓氷郡安中町の星野幹夫に嫁ぐ。
・1922年(大正11年)37歳
 3月、詩集『月に吠える』アルスより再版。風俗壊乱の理由で初版では削除されていた二編を収録。4月、『新しき欲情』を刊行。9月、次女明子(あきらこ)誕生。8月、室生犀星と伊香保へ赴き、軽井沢に遊ぶ。
・1923年(大正12年)38歳
 1月詩集『青猫』刊行、7月『蝶を夢む』を刊行し、8月には妹ユキ、アイと谷崎潤一郎を訪問。
・1924年(大正13年)39歳
 2月に雑誌『新興』創刊号に発表した「情緒と理念」により同誌が発売禁止となる。直接の理由は軍国主義の虚妄を衝いた「ある野戦病院に於ての出来事」。5月、妹津久井ユキと関西を旅行。
・1925年(大正14年)40歳
 2月、妻と娘二人を伴い上京し、東京府下荏原郡大井町6170番地(現・品川区西大井5丁目)へ移り住む。4月、東京市外田端町311番地(現・北区田端2丁目)へ移転、近隣の芥川龍之介や室生犀星と頻繁に往来する。犀星とは毎日のように会う。8月、妹ユキ、アイと共に軽井沢に行き、つるや旅館滞在中の室生犀星を訪問。芥川龍之介、堀辰雄らと遊ぶ。次いで四萬温泉に行く。。雑誌『日本詩人』の編集を、後に妹・アイが嫁ぐ佐藤惣之助と担当。11月、妻稲子の健康回復のため鎌倉町材木座に転居。
・1926年(昭和元年)41歳、
 三好達治、堀辰雄、梶井基次郎などの書生や門人を多く抱えるようになる。三好達治は朔太郎の4人いた妹の末っ子アイに求婚するが断られ、のちにアイが再々婚した佐藤惣之助に先立たれると、妻を離縁しアイを妻として三国町で暮らすが、まもなく離縁する。11月、東京府下荏原郡馬込村平張1320番地(現・大田区南馬込三丁目二十三番)へ移る。
・1927年(昭和2年)42歳
 7月、湯ヶ島温泉滞在中、朝食時に芥川龍之介の自殺を知る、10月、朔太郎の奨めで三好達治、大森へ来住し、爾後晩年にいたるまで親しく交わる。
・1928年(昭和3年)43歳
 11月、稲子夫人の紹介で、室生犀星、大森谷中1077へ来住。互に近隣住居となり、犀星、朔太郎は田端時代に似て再び頻繁に往来。
・1929年(昭和4年)44歳
 2月-3月、室生犀星と帝国劇場、中央映画社試写会、浅草の映画館などに出かけ、その帰りなどに頻繁に飲み歩く。7月、離婚決意を室生犀星あて書簡に書く。同月末、稲子夫人(31歳)と離別。娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月、『虚妄の正義』を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町六番地(現・港区赤坂八丁目)のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。父発病、重態となり前橋に帰る。12月、東京定住を決め、妹アイと住む借家をさがす。
・1930年(昭和5年)45歳
 7月、父密蔵死去(78歳)。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町十三番地(現・新宿区市ヶ谷台町十三番地)に居住。
・1931年(昭和6年)46歳
 5月、万葉集から新古今集にいたる和歌・437首の解説を中心とする『恋愛名歌集』を刊行。9月、世田谷町下北沢新屋敷1008番地(現在の世田谷区北沢二丁目37番地)へ移り、母ケイ、二児、妹アイと一緒に住む。このころ江戸川乱歩を知る。
・1932年(昭和7年)47歳
 4月、室生犀星、大森区馬込町東三の七六三に新築移転。犀星に家を建てることを奨められる。11月、世田谷区代田1丁目635番地の2(現在の世田谷区代田1丁目6の5の3)所在の土地147坪6を借地し(地代月17円71銭)、自己設計の家の建築にかかる。
・1933年(昭和8年)48歳、
 1月、代田の家の新築落成。母ケイ、二児、妹アイと共に入居。個人雑誌『生理』を発刊。ここで、与謝蕪村や松尾芭蕉など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。 10月、妹アイ、佐藤惣之助に嫁ぐ。
・1934年(昭和9年)49歳、
 6月、詩集『氷島』を刊行。同年7月に明治大学文芸科講師となり、詩の講義を担当するようになる。9月、軽井沢避暑中の室生犀星に招かれ、犀星と沓掛などに遊ぶ。10月、室生犀星の斡旋で再婚話がほとんど決定したが、結局まとまらず。12月ころ、一人の女性と交渉があったが、同女はその後昭和十二年頃死去。この女性には犀星は一度も会っていないという。
・1935年(昭和10年)50歳、
 4月『純正詩論』、10月『絶望の逃走』、11月には『猫町』を刊行。自らが発起人となって伊東静雄の出版記念会を行った。
・1936年(昭和11年)51歳、
 3月『郷愁の詩人与謝蕪村』、5月随筆論評集『廊下と室房』を刊行。前年に雑誌『文学界』に連載した「詩壇時評」により、第八回文学界賞を受ける。10月に「詩歌懇和会」が設立されると役員となる。
・1937年(昭和12年)52歳、
 2月、上毛新聞主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷。同月下旬、大谷忠一郎の斡旋で、結婚の見合いのため福島県白河市に赴く。朔太郎は見合いの相手よりも、お茶を運んできた忠一郎の妹美津子に強く惹かれた。3月、大谷美津子に正式に結婚を申し込み、同女より交際をした上でという返事を受ける。「透谷会」の創立発起人となり、9月に「透谷文学賞」が設立されると、島崎藤村・戸川秋骨・武者小路実篤と共に選考委員となる。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになる。
・1938年(昭和13年)53歳、
 1月、「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊。3月、『日本への回帰』を発表して日本主義を主張し、一部から国粋主義者と批判される。雑誌『日本』に「詩の鑑賞」を執筆した。4月、北原白秋夫妻の媒酌で、大谷美津子(当時27歳)と結婚するも入籍せず。7月から9月まで、室生犀星の斡旋で三井の別荘を借り、美津子夫人と軽井沢に滞在。
・1939年(昭和14年)54歳、
 2月、美津子夫人、萩原家を出て東京四谷区に住む。朔太郎はそこで原稿を書いた。その後、美津子夫人は二・三ヵ所ほどに移り住み、そこへ朔太郎は通った。萩原家、朔太郎、美津子夫人の間が円滑でなかった模様。11月、バノンの会(正式名・詩の研究講義の会)を結成。9月『宿命』を刊行。
・1940年(昭和15年)55歳、
 『帰郷者』(第四回透谷文学賞受章)、『港にて』を刊行し、10月『阿帯』を刊行する。この頃から身体に変調を感じ始める。
・1941年(昭和16年)56歳
 8月、妹・津久井ユキ宛ての書簡で健康に変調があることを告げ、その後津久井医師の診察を受けるも、格別の病状は認められなかった。9月、明治大学文藝科の講義を、三好達治に代講をあおぐ。
・1942年(昭和17年)57歳、
 4月末付で明治大学講師を辞任。同年5月11日に急性肺炎で世田谷の自宅にて57歳で死去。墓所は前橋市榎町政淳寺。法名は光英院釈文昭居士。



追記(2019.10.10):冒頭紹介した旧三井別荘が解体されたと、地元の「軽井沢新聞」(2019年10月10日号)が報じた。



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山野で見た蝶(7)北軽井沢探チョウ(4/4)

2019-09-13 00:00:00 | 
 北軽井沢での探チョウ記については、思いがけず4回にわたることになったが、今回が最終回。

 今回は、ミドリヒョウモンから。前翅長31~40mm。以前、「庭に来たチョウ(18)」(2017.12.1 公開)で紹介したので生態などは割愛するが、軽井沢周辺でもっともよく見ることのできるヒョウモンチョウの仲間である。食草はタチツボスミレなど各種スミレ類。

 先日の早朝、我が家の建物の基礎部に止まっている本種を見つけたが、羽化直後でまだ翅は乾いていない状態であった。鉢植えの草に止まらせて室内に取り込みしばらくビデオ撮影をしたりしていたが、やが翅も乾き飛び去っていった。 我が家の庭の園芸種のヴァイオレットを食べ、育ったもののようであった。

 長野県ではほぼ全域の平地から山地にかけて分布し、樹林地周辺に生息する。県内では最も普通に見られる大型ヒョウモンチョウで、東信地方でも各地で多く見られる。近年の里山の草地減少・森林化の進行により、本種が好む森林環境が増えたため、発生量、個体数は増加傾向にあるとされる。

 今回訪問した草原でも、いたるところで見かけることができた種であった。翅色はウラギンヒョウモンよりも更に濃く赤味の強い個体もいたが、橙色のものも混じっていて、変化が大きい。♂の場合、よく発達した4本の性標が目立ち、野外でも判別は容易である。♀は翅色の緑味が強く、こちらもわかりやすい。


アカツメクサで吸蜜するミドリヒョウモン♂1/9(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン♂2/9(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン♂3/9(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン♂4/9(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン♂5/9(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン♂6/9(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン♂7/9(2019.7.24 撮影)


地上に止まるミドリヒョウモン♀8/9(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン♂9/9(2019.7.24 撮影)

 次はクモガタヒョウモン。前翅長33~42mm。年1回の発生で、成虫は5月下旬頃から出現する。林縁や林道を敏速に飛翔し、訪花吸蜜するほか、吸水行動も見られるという。夏季休眠し、9月に活動を再開する。食草はタチツボスミレなどの各種スミレで、孵化間もない1齢幼虫で越冬する。

 長野県ではほぼ全域の山麓部平地から山地にかけて分布、樹林地と周辺の草地に生息する。東信地方ではかつては記録が少なかったが、近年は各地で比較的多く見られるようになり、増加傾向がうかがえるという。里山の森林化の進行により、本種の発生に好適な樹林地が増えたためと考えられている。

 このクモガタヒョウモンはオカトラノオの群生している場所から少し離れた草むらの中にいた。はじめはその場所に1本だけ咲いているオカトラノオに止まり吸蜜をしていて、頭部が見える状態であったが、その後飛び立って近くの葉上に止まり、そこで長い間じっととどまっていたので、じっくりと撮影することができた。


葉上で休息するクモガタヒョウモン♂1/6(2019.7.24 撮影)


葉上で休息するクモガタヒョウモン♂2/6(2019.7.24 撮影)


葉上で休息するクモガタヒョウモン♂3/6(2019.7.24 撮影)


葉上で休息するクモガタヒョウモン♂4/6(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するクモガタヒョウモン♂5/6(2019.7.24 撮影)


葉上で休息するクモガタヒョウモン6/6♂(2019.7.24 撮影)

 今回撮影した個体は翅表に2本の性標が見える♂であった。


翅表の2本の性標がみえるクモガタヒョウモン♂(2019.7.24 撮影)

 以下は、今回の北軽井沢での探チョウをまとめる意味で、チラと見かけ撮影できた種の紹介をさせていただく。これまでのように、じっくりとは撮影ができなかったチョウ達の紹介である。

 ベニシジミ、ヒメアカタテハ、イチモンジチョウそしてホシミスジから。これらの種はいずれも「庭にきた蝶」ですでに紹介し、そこで生態についても紹介しているので、ここでは写真の紹介にとどめる。

 最初はベニシジミ。翅形から♂と判定した。


ヒメジョオンで吸蜜するベニシジミ♂1/3(2019.7.24 撮影)
 

ヒメジョオンで吸蜜するベニシジミ♂2/3(2019.7.24 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するベニシジミ♂3/3(2019.7.24 撮影)

 次はヒメアカタテハ。


アカツメクサで吸蜜するヒメアカタテハ(2019.7.17 撮影)

 続いて、イチモンジチョウ。


葉上にとまるイチモンジチョウ1/3(2019.7.24 撮影)


吸蜜中のイチモンジチョウ2/3(2019.7.24 撮影)


葉上にとまるイチモンジチョウ3/3(2019.7.24 撮影)

 4番目はホシミスジ。


葉上で休息するホシミスジ1/2(2019.7.24 撮影)


葉上で休息するホシミスジ2/2(2019.7.24 撮影)

 最後に、ヒメキマダラセセリとコキマダラセセリの2種。いずれも我が家の庭の花にはやってきたことが無く、これまで紹介したことがない種である。

 先ず、ヒメキマダラセセリ。前翅長27~36mm。暖地では年2回発生するが、長野県の多くの地域では年1回の発生で、成虫は6月中旬頃から出現する。各種の花を訪れて吸蜜する。食草はイネ科のチヂミザサ、ヤマカモジグサ、カヤツリグサ科のカサスゲ、テキリスゲなどで、幼虫で越冬する。

 長野県ではほぼ全域の低山地~山地の樹林地周辺に生息する。東信地方では、林間の草地、渓谷部の林縁や林道沿いなどで比較的よく見られる。森林性のチョウで、草原の森林化で、個体数の増加している産地もあるとされる。


アカツメクサの花にとまるヒメキマダラセセリ♀1/5(2019.7.24 撮影)


アカツメクサで吸蜜するヒメキマダラセセリ♀2/5(2019.7.24 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメキマダラセセリ♀3/5(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメキマダラセセリ♀4/5(2019.7.17 撮影)


アカツメクサで吸蜜するヒメキマダラセセリ♀5/5(2019.7.24 撮影)


葉上で休息するヒメキマダラセセリ♂(2019.7.24 撮影)

 次はコキマダラセセリ。前翅長27~36mm。年1回の発生で、成虫は6月下旬頃から出現し、各種の花を訪れて吸蜜する。食草はイネ科のススキ、ヒメノガリヤス、カヤツリグサ科のヒカゲスゲなどで、幼虫で越冬する。

 長野県ではほぼ全域の山地、高原のススキ草原に生息するが、近年は県南部を主に、森林化による山地草原の衰退が影響し、減少傾向にあるとされる。東信地方では高原や山地の自然草原、牧場やスキー場などで見られ、良好な環境下では、発生数も多いようである。


葉上で休息するコキマダラセセリ♀(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するコキマダラセセリ♂(2019.7.24 撮影)

 2回の北軽井沢探訪で思いのほか多くのチョウを見ることができ、また撮影することができた。何種類ものチョウが衰亡していく中で、逞しく生き残っている種がほとんどであったが、中には準絶滅危惧種も含まれていて、貴重な生育環境が維持されていることが実感でき、喜ばしいことであった。

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山野で見た蝶(6)北軽井沢探チョウ(3/4)

2019-09-06 00:00:00 | 
 前2回に続いて北軽井沢で7月下旬に撮影した蝶を紹介させていただく。

 先ずヒョウモンチョウ。前翅長21~31mm。年1回の発生で、成虫は6月中旬頃から出現する。草原上を比較的ゆるやかに飛翔し、訪花吸蜜を行うほか吸水活動も見られる。1齢幼虫で越冬し、食草はワレモコウ。

 ヒョウモンチョウ類の代表格の名前「ヒョウモンチョウ」を命名されたこの種、アゲハチョウの場合と同じように、ナミヒョウモンとも呼ばれるようである。北海道と本州(東北、北関東、中部)に分布し、長野県では南部を除きほぼ全域の低山地から山地にかけての草原に分布するが、発生量は減少傾向にあるとされる。
 
 古い「原色日本蝶類図鑑」(横山光夫著 1964年保育社発行)には、「中部地方の多産地としては、浅間・蓼科・八ヶ岳・妙高などが知られ、陽光の暖かい山地草原の花上に集まる。」との記述も見られるが、新しい「信州 浅間山麓と東信の蝶」(鳩山邦夫・小川原辰雄著 2014年信州昆虫資料館発行)には「東信地方でも浅間山系高原の火山性草原や御牧ヶ原台地の草地など、本種の成育に好適な草原環境が数多く存在し、かつては多産したが、近年は衰亡が著しい。特に、里地周辺では、開発や草地の荒廃、森林化により見られなくなった産地が多い。環境省版レッドリストで準絶滅危惧種に区分されている。」とあって、この種もまた近年の変化が著しいようである。

 ヒョウモンチョウの仲間としては比較的小さい種で、コヒョウモンによく似ているが、コヒョウモンの方が、翅表の黒斑が発達し、前翅外縁が丸みを帯びるとされる。しかし、コヒョウモンとの混生地では、判別が困難な個体もあるとのことである。

 コヒョウモンには以前、池の平湿原で多くの個体に出会っているが(2017.8.4 公開の本ブログ:池の平湿原の蝶と花探訪(1))、今回見かけた種はすべてヒョウモンチョウの方であり、コヒョウモンの姿は見られなかった。

 義父のコレクションにも、この両者が含まれているので比較してみると次のようであった。野外で個別に見ていると判りにくいが、こうしてみると名前通りで、コヒョウモンはヒョウモンチョウに比べだいぶ小さいことが実感される。


ヒョウモンチョウ(下)とコヒョウモン(上)(2019.9.2 撮影、年号は昭和) 

 オカトラノオが群生している場所で10数頭のヒョウモン類が吸蜜しているところに出会ったが、中でも一番多く見られた種がヒョウモンチョウであり、次いでミドリヒョウモン、ウラギンヒョウモンの姿が見られた。


オカトラノオで吸蜜するヒョウモンチョウ1/13(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するヒョウモンチョウ2/13(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するヒョウモンチョウ3/13(2019.7.24 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒョウモンチョウ4/13(2019.7.17 撮影) 


ヒメジョオンで吸蜜するヒョウモンチョウ5/13(2019.7.17 撮影) 


ヒメジョオンで吸蜜するヒョウモンチョウ6/13(2019.7.17 撮影) 


ヒメジョオンで吸蜜するヒョウモンチョウ7/13(2019.7.17 撮影) 


ヒメジョオンで吸蜜するヒョウモンチョウ8/13(2019.7.17 撮影) 


オカトラノオで吸蜜するヒョウモンチョウ9/13(2019.7.24 撮影)


葉上で休息するヒョウモンチョウ10/13(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜するヒョウモンチョウ11/13(2019.7.24 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒョウモンチョウ12/13(2019.7.17 撮影)


オカトラノオで吸蜜するヒョウモンチョウ13/13(2019.7.24 撮影)
 
 次はウラギンヒョウモン。前翅長27~36mm。年1回の発生で、成虫は6月下旬頃から出現する。食草はスミレ、タチツボスミレなどの各種のスミレ。孵化間もない1齢幼虫で越冬する。

 長野県ではほぼ全域の平地から山地にかけての草地環境に分布する。東信地方でも広範囲に分布、高原の草地、牧場などを中心に比較的普通に見られる。里山草地の荒廃で、平地では減少している産地もあるが、分布域が広いため全体的には個体数の目立った増減は見られないとされている。

 今回も、ミドリヒョウモンと共に、草原のあちらこちらでよく見かけた。オカトラノオの群生している場所では、複数頭のウラギンヒョウモンの吸蜜している姿が見られた。


オカトラノオの花に群がるヒョウモン類(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するウラギンヒョウモン1/8(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するウラギンヒョウモン2/8(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するウラギンヒョウモン3/8(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するウラギンヒョウモン4/8(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するウラギンヒョウモン5/8(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するウラギンヒョウモン6/8(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するウラギンヒョウモン7/8(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するウラギンヒョウモン8/8(2019.7.24 撮影)

 このウラギンヒョウモンの写真を整理していて、翅の色が異なる2種がいたことに気がついた。上で紹介した個体は、色が濃い方のものであるが、翅全体に赤みが強い。

 一方、以下に紹介する個体は、橙色で全体に色が淡い印象を受ける。翅裏の縁に並ぶ銀白点の数が5個で、♂に見られる性標が2本はっきりと見えることから、ウラギンヒョウモンと判定したが、翅表の後翅縁に並ぶ黒班がややm字型に見えることもあり、ありそうにないことではあるが、オオウラギンヒョウモンではないかとの疑問が湧いた。
 

オカトラノオで吸蜜する淡色のウラギンヒョウモン1/6(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜する淡色のウラギンヒョウモン2/6(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜する淡色のウラギンヒョウモン3/6(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜する淡色のウラギンヒョウモン4/6(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜する淡色のウラギンヒョウモン5/6(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜する淡色のウラギンヒョウモン6/6(2019.7.24 撮影)

 この個体、最終的にはウラギンヒョウモンであるとの判断をしたが、同定作業はなかなか楽しいものであった。参考にした書籍はこれまでにも紹介している、①「フィールドガイド 日本のチョウ」(2013年 誠文堂新光社発行)、②「チョウ①」(1991年 保育社発行)、③「原色日本蝶類図鑑」(1964年 保育社発行)、④「日本産蝶類標準図鑑」(2011年 学研発行)である。

 各書籍記載の同定方法を整理すると次のようである。


各著書によるウラギンヒョウモンとオオウラギンヒョウモンの識別方法

 私にとっての、最終的な決め手は前翅の形状であった。書籍④に掲載されている多数の写真を見ると、ウラギンヒョウモンとオオウラギンヒョウモンの前翅形状の違いは明確であった。その他の斑紋形状などでは、オオウラギンヒョウモンの特徴がみられて、判断しかねていたのであったが、この図版と撮影した写真とを見比べて納得した。

 オオウラギンヒョウモンではないと判定したが、「日本産蝶類標準図鑑」のウラギンヒョウモンの解説には次のような記述があり驚かされる。

 「なお本種はDNAの知見や発香鱗の形状、交尾器の形状を検討した結果、従来の Fabriciana adippe のほかに、Fabriciana niobe 系統の別種が混在することがわかっている。つまり、2種の別のチョウを同じウラギンヒョウモンとして扱っていたことになる。しかし、まだこれについての正式な発表がなされていないので、ここでは以前と同じように、混在した2種の『ウラギンヒョウモン』を1種のチョウとしてあつかう。」
 
 今回私が撮影した外観のやや異なる2種は、ここでいう別種のことなのだろうか。外観などからの詳しい同定方法についての記述はこの著書にはまだ記載されていなかったが、その後偶然、海野和夫さんの「小諸日記」の2019.8.4投稿記事を見る機会があったが、そこには、「本州のウラギンヒョウモンはサトウラギンヒョウモンとヤマウラギンヒョウモンの2種に分けられたそうだ。・・・前翅が丸っこいのがヤマウラギンで、前翅端が突出しているのがサトウラギンだという。」と書かれていた。そういえば、キマダラヒカゲでも同様のことがあった。私には、微妙な差でありまだ何とも判断できないでいる。

 さて、今回幻に終わった軽井沢の周辺でのオオウラギンヒョウモンについては、「信州 浅間山麓と東信の蝶」には、「国内のチョウ類の中では、最も衰亡が顕著な種の一つで、全国的に多くの産地が消滅している」とされる。長野県では、1960年代までは比較的記録も多かったが、以降は著しく減少し、1990年以降は確認されていないという。「東信地方でも、浅間山麓の高原で1980年代まで見られたが、現在は目にすることができない。環境省版、長野県版ともにレッドリストで絶滅危惧Ⅰ類に区分されている。」とある。

 「原色日本蝶類図鑑」には、「本種は東亜にのみ分布する特産種で、近畿から西に多く、・・・」とあるので、各地での減少傾向はとても残念である。 

 また、故鳩山邦夫氏の著書「チョウを飼う日々」(1996年 講談社発行)の「オオウラギン狂騒曲」の章にある次の文章も、このオオウラギンヒョウモンのことを考える上で興味深いものであった。

 「追分ヶ原のオオウラギン
 横山図鑑のオオウラギン♀にはなんともいえぬ魅力を感じていた。その圧倒的な量感は、幼な心にも女性の豊かなボリュームを連想させるのに十分であった。曰く、『輝かしい陽光の草原をネットを振って、飛翔もたくましい”豹”のようなこの蝶を追う快感は、何にもたとえようもない』とあり、当時は普通種であったにもかかわらず、横山氏自身がそのメスには特別の魅力と愛着を感じていたことを窺わせる一文を残している。だがそのためか、♂の標本が図示されておらず、まことに恥ずかしいことであるが、私はウラギンヒョウモンとオオウラギンのはっきりした同定法を知らずに育ったのだ。『後翅外縁にそったM字型の紋』の表現は、小学生にはやや難解であったことも手伝って・・・。・・・
 問題はオオウラギンを採っていたのかどうか、採っていても気が付かなかった可能性があるという点だ。特に♂だったとしたら、図鑑に載っていないから同定不能は当然でもある。そのころの私の思い込みは、オオウラギンの♀は図鑑に示すごとく巨大なチョウであるということ、そして♂も♀と同じく、他のヒョウモン類より圧倒的に大きいだろうということで、♂が小さく、山地性のオオウラギンが概して小型化することなど知るよしもなかった。・・・」

 少年時代のこの思いに突き動かされるように、後年鳩山氏はオオウラギンヒョウモンの採集そして、累代飼育まで手掛けるようになっていく。この章の最後の部分で鳩山邦夫氏は次のように結んでいる。

 「自然保護運動家たちは尾瀬だ、上高地だ、それにオオシラビソだ、サツキマスだと特定地域や特定の生物にターゲットを絞ってモノをいう。それもわからぬではないが、自然を議論するなら里山や河川敷のような、もっと身近な自然の復活に熱心になってもらえぬものだろうか。そこに自然の本質があることを、残念ながら理解できぬ御仁が多い。
 スミレが咲き、オオウラギンが飛ぶ。私にはそれだけでいい。オオウラギンを育む草原なら、他のありとあらゆる小動物や草や花を抱く寛大さを持っていることを知っているから・・・。
 オオウラギンヒョウモン、たかがヒョウモン、されどヒョウモンである。その勇壮な飛翔は草原の王者と呼ぶにふさわしい貫禄、いやむしろ、♀のボリュームを女王と称すべきか。その偉大な体躯に似合わぬ偏食ぶり、すなわち有茎種のスミレを受けつけぬがゆえに、他の大型ヒョウモンたちと運命を共有せず、一人悲劇的結末に突き進んでいく。
 火入れや草刈の停止が一つの要素となりえても、それだけではこの異常な減少ぶりを説明できぬと指摘するむきもある。それを宿命というのだろうか、それともすでに種としての生命力が尽きてしまったというのだろうか。
 草原の女王、初秋の女王、私の愛着はこの悲劇の女王から当分離れることはなさそうである。」

以下次回。
 

 
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