軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ギンリョウソウ(1)

2018-10-26 00:00:00 | 山野草
9月初旬のこと、南軽井沢の山荘に出かけたとき、庭の斜面に少し珍しいギンリョウソウが生えているのに気が付いた。昨年か、一昨年にもこのギンリョウソウが山荘の西側の壁際に、1本だけ生えているのを見つけたが、その後は見かけることもなくなっていた。今回は建物の反対側で、北東に向かって傾斜している場所であった。しかも、その数がとても多い。

山荘へのアプローチの斜面に出てきたギンリョウソウ(2018.9.5 撮影)

 今年は、雨が多かったせいか、軽井沢や周辺の山地ではキノコが豊作だとの話を聞いているので、このギンリョウソウもそうした天候の影響もあって、このように多数出現したのだろうかなどと思っていた。

 これまでにも、軽井沢に来てからではないが、山地などを歩いていて、稀にこのギンリョウソウを見かけることがあったので、名前は知っているつもりであったが、改めて手元の「原色牧野植物大図鑑」(1996年 北隆館発行)で調べてみたところ、ギンリョウソウ[ギンリョウソウ属]と並んで、非常によく似たアキノギンリョウソウ[シャクジョウソウ属]という種があることに気がついた。

 ギンリョウソウは茎も葉も花も透き通るような白さで特徴があり、他に似た種があることを知らなかったので、これまでずっとこの種の植物を見るとギンリョウソウであると思い込んでいた。

 この両種についての「原色牧野植物大図鑑」の記述はそれほど詳しくはなかったので、さらに詳しく知りたいと思い「週刊 朝日百科 植物の世界6」(1995年 朝日新聞社発行)のギンリョウソウの項を見ると、次のような記述があり、こちらではギンリョウソウと共に、ギンリョウソウモドキという名が紹介されていた。

 「ギンリョウソウとギンリョウソウモドキは花期の個体が酷似しており、とくに押し葉標本では区別しがたい。長い間『ギンリョウソウ』の名でよばれてきた植物が、まったく別属の2種からなるものであることがわかったのは、1938年のことであった。もっとも顕著な違いは、子房の中での胚珠のつき方であった。この点をドイツの植物学者アンドレス(H.Andres)から指摘された東京帝国大学の原寛は、子房を切断することを怠った、と残念がった。」

 東京帝国大学の植物の専門家でさえ知らなかったのだから・・・と言いたいところであるが、それはもうずいぶん前のことで、現在ではこの2種ははっきりと区別されている。その違いは、次表のようである。これらによると、今回山荘で見つけた種はギンリョウソウではなく、酷似したアキノギンリョウソウまたはギンリョウソウモドキであると判明した。

ギンリョウソウとアキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキの比較 

 上記の表には、出典としてさらにウィキペディアの記述からのものを追加したが、それは科名と和名についてである。ほぼ同時期の出版物である「原色牧野植物大図鑑」と「週刊 朝日百科 植物の世界6」ではギンリョウソウとアキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキの科名はそれぞれ、イチヤクソウ科、シャクジョウソウ科とされ、異なっていた。

 ウィキペディアには次のような記述があって、さらに科名が変遷していることが明らかになった。

 「ギンリョウソウ:古い新エングラー体系ではイチヤクソウ科に、クロンキスト体系ではシャクジョウソウ科に分類されていた。」

 素人には、何のことかよくわからないが、分類学の歴史的な変遷があって、「原色牧野植物大図鑑」はもっとも古い新エングラー体系を採用し、「週刊 朝日百科 植物の世界6」はクロンキスト体系を採用していたことになる。

 ウィキペディアは、1990年代以降になり、DNA解析により大きく発展してきた分子系統学による知見をもとに、さらに見直された植物の分類体系APG(Angiosperm Phylogeny Group)を採用している。旧説のクロンキスト体系は現在も広く使われているものの、学術先端分野ではAPG植物分類体系に移行したとされている。

 さて、山荘の庭に生えていたものは、アキノギンリョウソウまたはギンリョウソウモドキであるということになったが、これはギンリョウソウよりももっとずっと少ない種であるという。次に、写真をご紹介する。

アキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキ 1/3(2018.9.5 撮影)

アキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキ 2/3(2018.9.5 撮影)

アキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキ 3/3(2018.9.5 撮影)

 ギンリョウソウとアキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキを見分けるポイントの一つが、実の状態ということで、ギンリョウソウの実は液果、アキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキの実は蒴果であった。

 液果とは、水分が豊富なくだもの状の実のことを指し、リンゴ、桃、柿などを思い浮かべるとよい。一方蒴果の方は乾燥したもので、朝顔などの実(種)を指しているとされる。

 先日、山荘に行き現在の様子を確認してきたが、すでに蒴果ができていた。また、この茎は来年まで残るとされているが、実際触ってみると、以前の真っ白な時とは打って変わって、剛直なものになっていた。

アキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキ の蒴果 1/3(2018.10.23 撮影)

アキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキ の蒴果 2/3(2018.10.23 撮影)

アキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキ の蒴果 3/3(2018.10.23 撮影)

 それにしても、ギンリョウソウもアキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキも不思議な植物である。真っ白な外見は、葉緑素をまったくもたないためとされる。この点について、「週刊 朝日百科 植物の世界4」の別の項「寄生と腐生」というトピックス欄に次のような記述がある。

 「光合成生物としての植物は、基本的には独立自養の生活をしています。光と水と二酸化炭素、そして土壌中から吸収する栄養塩類で、栄養は足りるのです。・・・ところが、ごく一部とはいえ光合成のための葉緑体を持っていない植物があります。・・・日本の森林の林床で見かける真っ白なギンリョウソウには、緑の葉がありません。ほかの生物から栄養分を得ている植物、つまり腐生植物です。・・・ギンリョウソウは光合成能力をなくしてしまい、菌類からすべての養分を得ている植物です。」

 マメ科の植物が、根粒菌(バクテリア)との共生関係にあることは、小学校で学ぶくらい有名であるが、他の多くの植物にも菌との共生的な関係が見られている。ギンリョウソウとアキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキは最新の分類でイチヤクソウ科からツツジ科に移動されていることを、上で紹介した。このツツジ科やイチヤクソウ科の植物は、普通は光合成をする独立自養植物であるが、菌根植物としても有名であるという。

 ツツジ科の植物たちが貧栄養で乾燥した環境でも生活をすることができる大きな要因に、菌根を発達させたことがあげられている。ツツジ科に見られる菌根はエリカ型菌根、ギンリョウソウなどに見られるのはシャクジョウソウ型菌根と、特別な名前で呼ばれているほどであるという。

 このトピックス欄の最後の「寄生と腐生の始まり」という項には次のような興味深い記述が見られたので紹介しながら、本稿を終わらせていただく。

 「多くの植物の個体間で、地下の根を通して物質のやりとりをしていることが明らかになっていますし、また寄生生活者の中には、同じ種の他の個体に寄生する自種寄生もあることが知られています。そのような相互関係から始まって高度に特殊化したのが、ヤッコソウやラフレシアのような特定の種類だけを宿主に選ぶ寄生関係でしょう。
 この宿主と寄生植物との関係は、両者の組織間の接続をするという点では接ぎ木のようなものですが、多くの寄生植物は、お互いには接ぎ木ができないような、系統的にはまったく違う植物を宿主にしています。
 このような寄生が成立するには、まず最初に、異種が組織内に侵入することに対する宿主の側の防衛システムを乗り越えなければなりません。寄生植物が宿主に侵入する際に、他者を認識する宿主の細胞のシステムを麻痺させるのか、それとも寄生植物の方が宿主の細胞に化けてしのび込むのか、細胞レベルや分子レベルでの相互関係の認識のメカニズムが明らかになれば、生物相互の関係についての新しい知の世界が開かれてくるでしょう。
 同じようなことは、菌類と植物との相互関係にもいえます。菌類の多くは、植物にとっては病原菌です。歓迎されない菌類の植物体への侵入は、植物が起源した時から開始された出来事だったでしょう。侵入された植物が死亡したり、侵入に成功しなかった菌類が増殖できなかったことが繰り返されたことでしょう。
 この植物と菌類との敵対的な関係の繰り返しのなかから、植物は菌類に有機物を供給し、菌類は植物に栄養分や水分を供給する共生的な関係が生まれて、その展開のなかから腐生植物が生まれ出てきたと考えられます」

追記:数年前に、山荘脇で見た「ギンリョウソウ」(正確には、”と思っていた”)の写真を妻が撮影していたことを思い出してくれた。確認したところ、こちらはまちがいなくギンリョウソウ属のギンリョウソウであった。決め手は、開花の時期と、花の中に青い花柱と黄色の葯が見えることである。写真を見較べると、前出のアキノギンリョウソウ/ギンリョウソウモドキとはずいぶん違っていることに気付く。

山荘脇のギンリョウソウ 1/2(2016.7.11 妻撮影)

山荘脇のギンリョウソウ 2/2(2016.7.11 妻撮影)


 

 









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一乗谷朝倉氏遺跡

2018-10-19 00:00:00 | 日記
 大阪から車で軽井沢に戻ることになり、さて道中どこかに寄り道をしていこうということになって、場所を探していたが、福井県の一乗谷はどうだろうかということになった。

 ここは、私も以前から一度行ってみたいと思っていた場所で、朝倉氏の居城跡が発見され、発掘が進んでいるというニュースを、もうずいぶん前に何かで読んだことがあった。それではということで、福井市内に一泊して、翌朝この一乗谷朝倉氏遺跡に行くことに決めた。

 この一乗谷朝倉氏遺跡は、福井市街の東南約10kmにあり、北東から南西方向に伸びる細長い谷あいに広がっている。ここには、戦国大名朝倉氏の城下町の跡がそっくり埋もれていた。この遺跡の発掘調査は、昭和42年から進められ、昭和46年には、一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定され、さらに平成3年には諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園の四庭園が特別名勝に指定されるなど、重要な史跡が多く存在している場所である。


一乗谷周辺地図(福井市発行、一乗谷朝倉氏遺跡パンフレットより)

 現地で説明を聞いて驚いたのであるが、戦国時代、この一乗谷には当主の館を中心に、家臣たちの住まい、寺院、町屋などが建ち並び、約1万人が暮らしていたとも言われている。城下町の外には、人々の暮らしを支える商業地があり、この一帯は全国有数の大都市であったとされる。

 ちなみに、当時の都市人口を見ると、京都10万、博多3.5万、堺3万、という数字があるので、現地で聞いた「日本では当時3番目の大都市」という説明には少々身びいきの感があるとしても、かなりの規模の都市がこの地にあったことは間違いなさそうである。次の図は、現地で配布されていた資料にある街並みの復元画である。


一乗谷復元画(文化庁発行、歴史の証人より)

 では、なぜこれほどの規模の都市が地中に埋もれ、そして長い間忘れ去られていたのかという疑問が起きる。そのことについては、遺跡の少し手前に、「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館」があり、詳しい説明展示が行われていたので、まずここに立ち寄って、予習をしてから現地に向かうように配慮されていた。


福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(2018.9.16 撮影)

 資料館内の展示室入り口には、この遺跡からの出土品約170万点のうち、2,343点が重要文化財に指定されているとの説明がなされているのだが、その数の多さに驚く。

 重要文化財指定品で、最も多いものは、土器・土製品の1,246点、続いて金属製品456点、木製品267点とあるが、ガラス製品も1点含まれている。


重要文化財指定書の写しが展示されている(2018.9.16 撮影)

 資料館では、年配のボランティアの方が付き添ってくださって、発掘された品々や、県内の他場所に保管されてきた資料などの説明をしていただいたが、それによるとこの一乗谷朝倉氏遺跡の歴史は次のようであった。

1428年(正長元年)・・・初代朝倉孝景(1428~1481)が、越前守護であった斯波氏の家臣、朝倉家景の子
            として生まれる
1471年(文明 3年)・・・朝倉孝景が、応仁の乱で功績を挙げ、一乗谷に居城を移す
1481年(文明13年)・・・朝倉氏景(1449~1486)が家督を継ぐ
1486年(文明18年)・・・朝倉貞景(1473~1512)が家督を継ぐ
1506年(永生 3年)・・・朝廷絵師の土佐光信に京を描かせて都市の景観を手本とし、一乗谷に理想の都
            市建設をしようとした。九頭竜川の戦いで、加賀の一向一揆を撃退
1512年(永生 9年)・・・朝倉孝景(1493~1548)が家督を継ぐ
1548年(天文17年)・・・朝倉義景(1533~1573)が家督を継ぐ、一乗谷は近隣諸国に比べ安定して一大
            文化圏となる
1568年(永禄11年)・・・織田信長、上洛
1570年(元亀元年)・・・姉川の合戦
1573年(天正元年)・・・刀根坂の合戦で大敗、朝倉義景自害。一乗谷の町は戦火により焼土と化す
            その後、400年以上の間、そっくり埋もれて現在まで残されることとなった

 朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主君の斯波高経に従って越前に入国した。朝倉孝景の代に、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定した。

 以後、五代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、この間、四代孝景は、近江、美濃などの隣国にたびたび出兵し、また京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれたという。

 五代義景は、足利義昭を一乗谷の安養寺の御所に、また南陽寺に迎え観桜の宴を催し歓待したが、義昭を奉じて上洛することはしなかった。

 五代義景の時代、「義景の殿は聖人君主の道を行い、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えられていたが、織田信長からの「上洛して従え」との書状を無視したため、1570年(元亀元年)信長は義景を討つべく、大群を率いて越前に侵攻したとされる。しかし、この時は、一乗谷への侵攻を目前に、浅井長政の謀反の知らせにより急遽撤退している。

 その後、義景と信長の対立は続き、遂に1573年(天正元年)、両雄衝突の後、義景軍退却途中の「刀根坂の戦い」で大敗を喫することとなった。

 このとき、最後は、一族朝倉景鏡(かげあきら)の裏切りにあっている。そして、信長から本領を安堵された景鏡が越前を治めることとなったが、これに反発した他の家臣団との間で戦となり景鏡は討ち死にする。

 このことに激怒し、押し寄せた織田信長の軍勢により、一乗谷は火を放たれ、瞬く間に巨大な炎の海と化した。これにより、約100年にわたって華麗な文化の華を咲かせた戦国大名・朝倉氏の城下町は、三日三晩燃え続け、その後放棄された場所は自然に、あるいは人の手で埋められて畑地や田の下に隠れていき、次第に人々の記憶からも消えていった。

 このような、事前の勉強をして、資料館を出て現地に向かった。最初の遺跡は、城下町の入り口に当たる下城戸。これは、谷が最も狭い地点に、土塁を45t以上の巨石を用いて築き、城門としたもの。外側からは町の中を見ることができないように、矩折(かねおれ)状につくられていた。尚、城下町の南西端には同じく上城戸が築かれている。


下城戸跡(2018.9.16 撮影)

 ここを過ぎて駐車場に向かったが、この日、現地では小雨の中、戦国歴史街道を行く「朝倉トレイルラン2018」が開催されている最中で、交通規制がされ、臨時駐車場も設営されていた。


広場に設けられた「朝倉トレイルラン」のゴール付近の様子(2018.9.16 撮影)

 我々は、休憩所脇の駐車場に車を停めて、すぐそばにある「町並立体復原地区」から見学した。ここには、発掘調査の結果明らかとなった戦国時代の武家屋敷や町屋など、京都を見習ったとされる当時の町並が忠実に再現されている。

 
一乗谷遺跡の全体配置図(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の資料より)

 復元された建物の一部は、食べ物やみやげ物を売る場所としても利用されていて、販売している人達も当時の服装と口調で、「お父さんは戦になるとそこの鎧を着けて、槍を持って出かけるのですよ・・・」などと話し、我々を煙にまくのであった。また、当時の服装で歩く若い女性や、百姓や商人姿の格好をしたエキストラもいて、雰囲気を盛り上げていた。


復元された武家屋敷の庭と井戸(2018.9.16 撮影)


復元町並の中央の道路(2018.9.16 撮影)



当時の姿で復元町並を歩く若い女性(2018.9.16 撮影)


町屋(2018.9.16 撮影)


復元町並に再現された商店と、商人姿の店員(2018.9.16 撮影)

 復元町並の、道路を挟んで東側には領主の館群があった。現在は建物跡だけで、まだ建物は復元されていないが、朝倉館の復元模型は資料館で見ることができる。また、ここには、後年江戸時代の初め頃造られたとされる朝倉義景の墓所や、江戸時代中期頃に、朝倉義景の菩提を弔うため建てられたという松雲院の山門である唐門などを見ることができる。


唐門(2018.9.16 撮影)

 さらにその後方、一段高い所にある、4つの庭園跡は大きな石組みが残されていて、組み直された姿は、当時を偲ばせるものであった。


岡本太郎が飽かず眺めていたとされる湯殿跡庭園(2018.9.16 撮影)


諏訪館跡庭園(2018.9.16 撮影)


観光客と黄色い彼岸花(2018.9.16 撮影)

 遺跡から出土したものの中には、ちょっと面白いものも含まれていた。資料館に展示されていたが、現在の物とは異なる駒数の将棋や、ガラス器の破片などである。


朝倉象棋に見られる駒「酔象」(2018.9.16 撮影)

 将棋の方は、「朝倉象棋」と呼ばれ、現在の将棋に「酔象」という駒を玉将の前に配置する。「酔象」は裏が「太子」で、敵陣3段目までに行くと「太子」になれる。「酔象」、「太子」は玉将と同じで再利用はできず、「酔象」は真後ろ以外の方向に1マス動くことができ、「太子」は全方向に1マス動くことができる。

 「太子」となれば、玉将と同じ働きとなり、玉将を取られても「太子」が残っていれば、勝負は続行となるルールとされる。

 もう一つの出土品のガラスについては、これまでに150点以上のガラス遺物が見つかっているが、その多くは小玉と熔解ガラス片である。その中で、2個のガラスについては、詳しい研究がなされ、組成が明らかにされるとともに、復元が試みられている。

 一つは、長くこの小破片がどのようなガラス器の一部であったのか、謎のままであったが、最近ある人がイギリス・ロンドンのビクトリア&アルバート博物館の展示品の中に、その形状と類似したベネチア産の高脚杯があることに気づき、ようやく長年の疑問が解けたと説明されていた。


出土品の透明ガラス片(戦国時代の金とガラス《福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館発行》より)


迫田岳臣氏により復元された有リブ高脚杯(戦国時代の金とガラス《福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館発行》より)

 もう一つは、マンガン着色の赤紫色ガラス片であるが、こちらは金属製鋳型による型押(プレス)成形による皿の一部とされている。


出土品の赤紫色ガラス片(戦国時代の金とガラス《福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館発行》より)


迫田岳臣氏により復元されたガラス皿(戦国時代の金とガラス《福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館発行》より)

 発掘品の中には、この地方で製造されたガラス器は含まれていなかったのであるが、ガラスの製造場所跡が町外れで見つかっているとボランティアの案内者から聞いた。まだ詳しいことが判っておらず、それ以上の情報は得られなかったのであるが、この地方で作られたガラス器が発見されるかもしれないと期待している。

 今回訪れたこの一乗谷朝倉氏遺跡は、全国的にも珍しい場所で、すでに様々な方法で採りあげられ、コマーシャルの撮影で使用されるなど、広く知られるようになっているようであるが、先ごろ開通した北陸新幹線が、2023年には現在の金沢から更にその先の敦賀まで延長されるとの予定が発表されているので、そうなるとこの一乗谷遺跡へのアクセスがよくなり、一層多くの観光客が訪れる場所になるのであろうと思われた。





 







  

 


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ヤママユ(4)羽化

2018-10-12 00:00:00 | 
 繭を作り、その中で蛹になってから約1ヶ月ほどすると、ヤママユの羽化が始まる。このヤママユの羽化の様子も、一連の記録作業として撮影しようとしたが、はじめのうちはいつ、どのように羽化が始まるのかが判らなかった。

 朝、気がついたら繭に羽化後のヤママユがぶら下がっていて、撮影できなかったり、繭からヤママユが出始めているのに気が付いて、慌てて撮影を開始するということを繰り返した。しかしやがて、羽化の前兆というものがあることに妻が気がついてくれ、たくさんある繭の中で次にどの繭が羽化するのか判るようになった。おかげで撮影の準備をして、その瞬間を待つことができるようになった。

 羽化は繭の上部が濡れてくることから始まる。これは、繭内部で殻を破って蛹から抜け出しはじめたヤママユが、次に口から繭の糸を分解する液体(酵素)を吐き、繭を溶かして出口を作るための行動である。孵化の際には、幼虫は卵の殻を食い破って出てくるのであったが、蛹の期間中、その外側でヤママユをしっかりと守ってきた繭から羽化した成虫が出る方法とはどのようなものか、興味があった。成虫になったヤママユは、繭の糸であるたんぱく質の分解酵素を吐き出すという別な戦略をもっていた。

 繭の上部を湿らせ、しばらくして、繭壁がじゅうぶん軟らかくなったところで、内側からその部分を押し開いて、出口を作る。そして、そこから慎重に顔を覗かせて出てくるのであった。


ヤママユの羽化1/3(2016.8.20 7:45 撮影動画のキャプチャー画像)

 軟らかくなった繭の上部を、ヤママユは内部から押し上げるため、繭の上部は膨らんでくる。


ヤママユの羽化2/3(2016.8.20 8:15 撮影動画のキャプチャー画像) 

 内部から繭の上部を更に押し広げて出口を作る。そして、開いた出口から、外の様子をうかがいながら慎重に這い出して来る。


ヤママユの羽化3/3(2016.8.20 9:40 撮影動画のキャプチャー画像)

 その様子を見ていただく。頭を出しはじめてから、体が完全に出るまで約3分間である。


ヤママユ♂の羽化(2016.8.20 9:39~9:42)

 出てきたのは♂のヤママユであった。自然界では、まず♂が羽化し、しばらくしてから♀が羽化してくるのを待つという一般的なパターンがある。

 ヤママユをはじめとしたこの種の仲間の蛾の雌雄の判別は、触角の形状により容易に行うことができる。映像からわかるように、このヤママユの触角は幅広い形をしている。これは、♂の蛾に見られる特徴で、別な場所で羽化した♀の出すフェロモン・誘引物質を敏感に嗅ぎとり、♀のいる場所にたどり着くための構造とされている。♀の場合、この触角は細いものでしかない。

 繭から出てきたヤママユの翅はまだ軟らかく、湿っているように見える。このあと、ヤママユは繭にぶら下がったまま翅が完全に伸びて、しっかりと固まるまでじっとしている。その様子を30倍のタイムラプス撮影を交えながら追った。


羽化後、ヤママユの翅が伸びる様子(2016.8.20 9:46~11:40 30倍タイムラプス撮影を交え編集)

 ♂の羽化が続いた後、今度は♀の羽化が始まった。この年のヤママユ飼育は、2つのグループに分かれていた。先のブログで紹介したが、自然に孵化してきたグループと、卵を冷蔵庫で保管して、孵化の時期を13日程度遅らせたグループである。この孵化のタイミングの差があったため、羽化はまず8月19日に、♂から始まったが、続いて♂/♀両方の羽化があり、その後♀の羽化が多く続くという結果になった。意外にも最後の羽化は♂で、9月13日であった。

 次に紹介する映像は、一連の羽化の後半、9月7日に羽化した♀のものである。


ヤママユ♀の羽化(2016.9.7 19:24~19:26)

 ♂の場合と同様の経過をたどったが、今回は約1時間半ほどかけて、翅が十分に伸び、しっかりと固まってくると、ゆっくり開翅し、美しい姿を見せた。
 

ヤママユ♀の開翅(2016.9.7 20:50~20:52)

 前回紹介した、繭をうまく作ることのできなかったヤママユの羽化の様子を紹介しておこう。別途購入してあったお土産用の繭の一部をカットして、その中に入れた前蛹は、無事蛹になっていたのだが、他の繭から羽化が始まると、この借り物の繭の中の蛹も、動きを見せ、やがて蛹の上部を破って、頭部が見え始めた。♀であった。

 ヤママユが、繭の中でとる動きについては、繭を切って中を覗いて見るなどしなければ、正常な繭では見ることができないものであるが、偶然、この個体のおかげで繭内部の様子を垣間見ることができた。

 繭の一部を切り取って蛹を入れ、透明なプラスチック片を張り付てて蓋をしていたのであるが、この個体は、他の正常に成長した個体がとるような、口から酵素液を吐いて、繭の上部を軟らかくさせるというステップを踏むことはなかった。蛹の殻を抜け出した成虫は、繭とプラスチックの蓋の隙間から抜け出そうとし始めたので、この蓋は途中で取り除いてやり、羽化後のまだ翅の伸びる前の成虫は、他の羽化前の繭に止まらせてやった。

 こうして、翅が完全に伸びるのを待ったが、この個体は翅の伸び方がやや不完全で、やはり何かしら異常なものを持っていることをうかがわせた。しかし、最終的にはこの個体も次世代の卵を残すことができた。


繭作りに失敗したヤママユの羽化♀(2016.9.8 20:50~22:09 30倍タイムラプス撮影を交えて編集)


繭から抜け出した「繭作りに失敗したヤママユ」1/3(2016.9.8 22:12 撮影動画からのキャプチャー画像)


繭から抜け出した「繭作りに失敗したヤママユ」2/3(2016.9.8 22:40 撮影動画からのキャプチャー画像)


繭から抜け出した「繭作りに失敗したヤママユ」3/3(2016.9.8 22:45 撮影動画からのキャプチャー画像)
 
 今回観察したヤママユのふる里は、クヌギの葉を餌として、ヤママユの養蚕を産業としてきた安曇野市地方の、天蚕センターであることは、このシリーズの最初の、ヤママユ(1)孵化~1齢幼虫の脱皮(2108.9.7 公開)のところで紹介したとおりであるが、そのヤママユ養蚕の歴史に関連する話題として、次のような記述(西口親雄著「森と樹と蝶と」2001年 八坂書房発行)を紹介して4回にわたったヤママユの孵化から羽化までの映像による紹介を終わることとする。

 「クヌギは、武蔵野の雑木林の、いたるところに自生しているので、日本在来の樹種のようにみえるが、本当の自然林には出現しない。クヌギという木は、かなりむかしに、中国から日本に入ってきたものらしい。しかし、クヌギを導入した理由がはっきりしない。

 私は、『森の命の物語』という本の中で、日本人はクヌギの葉でヤママユを飼育し、ヤママユの繭から絹糸をとりたかったのではないかと推理した。しかしヤママユという蛾は日本にしかいない、日本特産種である。その蛾を、中国原産のクヌギで飼育する、という発想が、どこから来たのか、という疑問が残った。・・・

 そこで、『中国高等植物図鑑』をひもといてみた。『クヌギの若葉で柞蚕(サクサン)を飼育し、絹糸をとる』という記載が目に飛び込んできた。中国でも、クヌギで蛾を飼っている! サクサンって、どんな蛾?

 そこで『原色昆虫大図鑑Ⅰ』をしらべてみると、ヤママユガ科にぞくし、学名をAntheraea pernyiといい、日本のヤママユ(A. yamamai)にごく近い種、とあった。

 日本にはヤママユガ科の仲間が九種存在するが、ヤママユ以外は、すべて同じ種が中国大陸にも分布している。つまり、中国大陸から日本列島にかけて、広く生息する、広域分布種なのである。しかしヤママユだけが日本特産で、中国に同じ種がいない。これには、何か、納得できないものを感じていたのだが、今、中国にヤママユにごく近い種(サクサン)の存在することを知った。つまり、ヤママユとサクサンは同じ種みたいなもの、と考えれば、やはり、広域分布種となり、納得できる。

 中国には昔から、クヌギの葉でサクサンを飼育し、繭糸を採る技術があった。そして、いつの時代かよくわからないが、クヌギの木は、サクサンと共に日本にやって来た、と考えたい。日本には、サクサンにそっくりのヤママユが存在する。だから、クヌギの葉でヤママユを飼育することは、ごく自然の成り行きだろう。日本で、クヌギの葉でヤママユを飼育する理由がわかったような気がした。」














 
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庭にきた蝶(24)クジャクチョウ

2018-10-05 00:00:00 | 
 今回はクジャクチョウ。前翅長26~32mmの中型のタテハチョウの仲間。学名の「Inachis io (Linnaeus, 1758)」のioはギリシャ神話に出てくる女性名。ユーラシア大陸の温帯、亜寒帯域に広く分布しているが、日本を含む東アジアに分布するものは亜種 「Inachis io geisha (Stichel, 1908)」とされている。 この亜種名 "geisha" は”芸者”に由来し、鮮やかな翅の模様を着飾った芸者に喩えたものであるとされる。実際、そのとおりで翅表は赤褐色、前・後翅に大きな青白色の目玉模様があるという派手なものである。裏面は一転黒褐色となる。

 日本では、北海道と本州の東北から中部地方に棲息し、北海道では低地にも見られ、本州では山地性の種である。寒冷地では年1回の発生、暖地では年2回の発生で、1回目は6月下旬~7月、2回目は8月下旬~9月に見られる。成虫で越冬する種である。幼虫の食草は、ホップ、カラハナソウ(クワ科)やイラクサ科のホソバイラクサ、エゾイラクサなどとされる。

 1964年(昭和39年)に保育社から発行された、「原色日本蝶類図鑑 増補版」の箱にはミヤマカラスアゲハ(箱裏)と共に、このクジャクチョウ(箱表)の写真が用いられている。


1964年(昭和39年)保育社発行の「原色日本蝶類図鑑 増補版」の箱をミヤマカラスアゲハ(箱裏)と共に飾るクジャクチョウ(箱表)の写真

 中・高校生のころ、この図鑑を買って、飽かず眺めていたが、箱の表裏の写真にあるクジャクチョウとミヤマカラスアゲハの2種や、本体の本の表紙写真にあるギフチョウはあこがれの的であった。特に、このクジャクチョウは、他の2種と違って、当時住んでいた大阪には棲息しておらず、信州にでも行かなければ見ることができないものであった。

 この図鑑のクジャクチョウの項には次のような記述もあるが、稀なケースであり、普通の昆虫少年にとって遠い存在であったことに変わりはない。

 「・・・中部以西には、中国・九州にも産しないが、近年四国と近畿の伊吹山に発見されたことは昆虫界の話題をにぎわすものである。・・・」

 3年前に、軽井沢に住むようになり、妻からは浅間山の湯の平で、かつてクジャクチョウの乱舞するところに出会ったという話を聞いていたし、周辺の山地に出かけることが多くなったので、八千穂高原や池の平湿原などでは、このクジャクチョウに出会うこともあった。

 ただ、自宅では一度それらしい姿をチラと見ただけで、庭に来ることは期待していなかった。ところが、9月下旬の昼下りに、偶然、庭のブッドレアの花に吸蜜に訪れたところを撮影することができた。続いて、10月1日、台風一過晴れ上がった朝、今度は期待した通り、再びブッドレアの花に吸蜜に訪れた。

 庭のブッドレアにはこれまでも何種類ものタテハチョウ科のチョウが吸蜜に来ていたが、やはりクジャクチョウの訪問は、驚きと同時に嬉しさも一入であった。


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.9.28 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.9.28 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.10.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.10.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.9.28 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.9.28 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.10.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.10.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.10.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するクジャクチョウ(2018.9.28 撮影)

 このクジャクチョウについては、故鳩山邦夫さんの著書「チョウを飼う日々」(1996年 講談社発行)の第1章「私の原体験」にその思いが綴られているので、紹介させていただきたいが、次のように始まる。

 「クジャクチョウ、それは幼いカルチャーショック
 記憶や体験は遺伝子に乗って、子そして孫へと遺伝していくものなのだろうか。デジャビュー(既視感)を覚える光景とは、普通なら乳幼児期に連れていかれた場所であるケースであろうが、ひょっとすると、父や母が若いころくらしていた場所や、それに非常に良く似ている光景なのかもしれない。夢のある楽しい話である。・・・」

 この後、氏の軽井沢の別荘でのクジャクチョウとの出会いが記されていく。

 「私がそんなことを書いてしまうのは、チョウに魅せられてから二~三年経過した時分、夕食時に祖父(一郎・元総理大臣)が突然、『おまえたちは、オオムラサキをもう捕らえたか。ボクは子供のころ目白坂でずいぶん採ったもんだ』といい出したことが、鮮烈ということばで足りぬくらい強烈に、今でも私の記憶中枢に残っているからである。
 兄が小学三年生、私が一年の時、恒例の軽井沢ぐらしの中で、母が二本の捕虫網を私たちに買ってくれたことからすべてが始まった。・・・

 最初の年、つまり小学一年生の時、ある夏の日の昼下がり、兄が庭で特別に美しいチョウを採ったといって、息せき切って家に飛び込んできた。
 アミから取り出した中型のそのチョウの裏は、暗闇のようにまっ黒。その黒さにも驚いたけれど、表は正反対にショッキングレッド。そこにギョロリとにらんだような美しい目玉模様がついているではないか。スゴイ、キレイ、どんな形容詞も感嘆詞も不十分に思えるようなショックと羨望が、私の胸を満たしていった。・・・

 当時、私たちはまだ図鑑を持っていなかったが、どこで手に入れたのか、カラーで二十~三十種のチョウが刷り込まれている下敷きがあった。・・・その”下敷図鑑”によって二頭(注:上記の後、もう1頭をいとこが採集していた)の驚くべき美麗種が、クジャクチョウなる和名を冠されていることが判明した。・・・

 クジャクチョウ。中部地方の山地には極めて普通の中型タテハチョウであり、チョウ屋の酒宴で話題になることの決してない平凡種にすぎぬ。しかし、その平凡種が小学校一年生の私に対し”神はいかにしてこの美麗なるチョウを造りたまいしか”というたぐいの衝撃を与えたのである。・・・

 あまりに普通種であるがゆえに、全く関心を注ぐことのないクジャクチョウではあるが、その色彩のコントラストと眼状紋の美しさは、特筆すべき存在かもしれぬ。」

 故鳩山邦夫さんのクジャクチョウに対する思いがひしひしと伝わってくる文章であるが、それは同世代の私とも共通するものである。氏の別荘は、我が家からそれほど離れていない。氏の思い出話は今から60年程も前のものであるが、その当時鳩山邦夫少年の受けた感動が、よみがえってくるようなクジャクチョウとの出会いであった。













コメント
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