『急行電車物語』
「急行」電車。
ある地点とある地点を速く結ぶ為に生まれた列車。
他の電車と何が違う?と問われても、特にこれと言う違いがある訳ではなく、ただ「急行」という名前だけがついただけ。
無機質な銀色のステンレスの車体に鮮やかな色でカラーリングされたフィルムをその車体にまとった電車が、ただ「急行」という文字を出しただけで、どこか雰囲気が違って見えるのは、単に「各駅停車」という当たり前の様に全ての駅を停車していく、その路線にとって重要な電車とは違うから、という事なんだろうか?
(あの時と同じ気持ちで乗れるだろうか?)
赤く塗られた地に白い文字で「急行」と表示されている電車。
1番最初に乗ったのはいつの事だろう、と彼は思う。
途中駅を数箇所飛ばして走り去っていく姿に、最初の内は、本当にこれが出来たんだ、という実感が生まれ、いざ乗ってみれば、こんな感じかという事を彼は思った。
最初の内は、物珍しさで何度も乗っては、なるほどこんなものがあるのか、という気持ちを毎回違って抱いたが、そんな気持ちもいつしか、当たり前になっていき、ついには何も感じはしなくなった。そして時間だけが過ぎて去り、いつしか、その「急行」電車に彼は乗らなくなっていた。乗りたいと言う気持ちが生まれなかった事とこれと言って乗るという機会も用事もないままに、ほうっておいたのだ。
銀色車体に巻かれたカラーフィルムの色は、あの時となんら変わりは無かったが、全ての電車に等しく、そのカラーフィルムが巻かれ、「急行」と強調し他の電車との区別が色濃かった時代にあった「特別さ」という物はなくなっていて、彼は、
「変わったな」
発車を待つ車内のシートに座って、そう静かに呟いた。それもその筈、登場してからもう何年も経っている。特別な存在として位置付けられていた「急行」電車は、いつしか、その路線の輸送における主役と化し、「かつて」にあった、「華やかさ」に「特別さ」と言うちょっとしたオマケみたいな付加価値はなく、「旅客を運ぶ」という本来あるべき姿となり、無機質感がただよっていた。
発車ベルがなり、ドアが閉まった。
(いよいよか)
1番最初に感じたあの時の気持ちに立ち返りたいという想いを強く抱いた。
――どうなるんだろう――
未知なる扉を開け、目の前に広がる見たこと無い知らない世界を体感するというナイーヴな気持ち。
しかし、それはもはや何度なく繰り返され、体感したものが蓄積されて行けば、「こんなものんだな」という当たり前感が滲み出てきて、そんな無垢な感情が崩れ去ってしまう。
動き出した急行電車は、車輪を軋ませながらポイントを通過し、急なカーブに差し掛かり少し走ると、1つ目の駅をゆっくりと通り過ぎた。窓の向こうには反対方向に向かう電車を待つ人の姿が見え、ああ、なんだ急行か…という何事も無い顔を浮かべているのが見えた後、ガクンという揺れと共にスピードが上がり始め、上り坂を走っていくといつしかマンションの3階より上の階の小部屋が見え、一軒家の屋根と学校の校舎のやはり2階より上の階、場合によっては屋上すら見える所までに電車が達した時、2つ目の駅を通過した。今度も先ほどと同じ、ああ、またか…と言う雰囲気をまとった乗客が反対方向へ向かう電車が来るホームにまばらに居た。
彼は長い椅子座席に座り、何とはなしに移り変わっていく姿を見ているが、そこにも、やはり「かつて」という気持ちは無かった。ただ、ああ、ここはこんなだったか、という事とこうなったんだ、という事が視界の中にそして記憶の中に閉じ込められて行くだけだった。
窓の向こうを見て居れば、確かにそんな景色が広がり、走っている、という事と自分が移動しているという事が改めて感じられる中で、急行電車は3つ目の駅を勢いよく通過した。
(次は、止まる駅か)
駅を飛ばすばかりが電車ではない、そんな事を思い知らされるのが、駅に止まる時だった。何かを置き去りに、忘れ去るかの様にただ通りすぎていく駅と景色にとり付かれると、止まるという基本的な事までも忘れてしまうから不思議である。
やがて、スピードが落ち車体が大きく傾いた時、急行電車は1番最初の停車駅についた。
(やっぱり、こんなものか)
降りる客はなく、数人が新たに車内へ乗り込み落ち着いた所で扉が閉まり、急行電車は車体を傾かせたまま、再び走り始め、速度が上がると写真が軋む音が車内に響く。それを何事もないようにして、急行電車は次なる駅を目指して走っていく。
(そろそろ河だな)
4つ目の通過駅の手前で小さな河を渡るので、彼は座席を立ち、進行方向向かって左側にある出入口に立った。
彼の記憶の中では、流れの緩い、青粉が浮いた単なる水路と言われても仕方ないが、河の名前が書かれた看板がそこに建っているのだから仕方ない。
(変わらない)
いつか見た時のままの色を浮かべてそこに河があったな、と思った時、4つ目の通過駅を急行電車は通り過ぎた。
(追い越しはなしか)
ホームの上で、止まらない電車をただ見つめる旅客達の向こうのホームには、もう1つの乗り場があり、前を行く電車を追い越せる駅になっていたが、あいにく、この時間は居なかった。それはそうだデータイムのこんな時間に追い越しは不要であるのだから。
電車はやがて、下り坂に差し掛かり、平行して走る車の屋根からドライバーの顔が見える所まで下がった所で水平となった所で5つ目の通過駅を過ぎた。ほぼ無人だった。
(ここは乗るたびにそんなだよな)
だからこそこの電車は止まらなくて良いだろう、という事が実感出来る地味な小さな駅。かつて彼の知人がこの駅近くに住んでいたというから、多少、面識はあった。
そんな彼の思いも余所に、急行電車は平たい所を一気に駆け抜け、6つ目の通過駅を躊躇いなく通り過ぎ、初めて踏み切りを横切った。
(次は停車か)
そのあっと言う間さは、本来は、良く解釈される筈が、「つまらない」という感情が彼の胸の中で広がっている所で、急行電車は速度を落とすと足元から2本のレールが不意に広がり、やがて駅のホームに立つ旅客達の姿が彼の目に広がった。
(各駅停車と連絡か)
今乗って居るのと同じ無機質な銀色の車体にカラーフィルムを巻いた車両が扉を開けて、止まっていた。
(このドアが開くのか)
チャイムと同時に扉が開いたので、彼は1歩退いて、乗り降りする旅客をやり過ごすがそこまで多くの旅客が乗り降りすることもなく割と落ち着いてはいたが、乗り降りはスムーズにという駅員か車掌の案内があった。
やがて、急行電車は何事もなかったかの様に扉を閉め、動き始めた。
(この先は、また高架を行くんだよな)
小さな踏切を越えたところで、再び車体が進行方向に向かって傾き、彼の視界に広がっている家々が下へ下へと流れて行き、先ほどと同じ様に屋根を見下ろす形なった所で、カーブに差し掛かり、車輪を軋ませるものの速度を落とす事無く、急行電車は行き、7つ目の通過駅を通り過ぎた。
(次が最後の通過駅か)
そんなこと等お構いなしに急行電車はスピードを上げ、全速力で8つ目の通過駅をぶっ飛ばした。
(ここが1番速く感じられる)
長い直線と平坦区間を活かして走るのを車内に乗って体感出来るのは、悪い事ではない。だがその良い事は長く続くことはなく、急行電車は減速し始め、あっさりと終着駅に到着した。
(ここまでか)
もう少し乗っていたい、そんな印象は今も昔も変わらない、と思いつつ、彼は急行電車を降り、別の路線へと乗り換えた。
そんな彼のお気に入りの急行電車は今も走りつづける。
車両はかつてからは変わりはしたが、唯一変わらないものがある。それは沿線の景色でもなければ旅客の顔ぶれでもなく速さでもない……停車駅数。
月日が経てば、路線の旅客の流れも変わり、少子高齢化に伴う旅客数の減少から、停車駅にも変化が生まれ、通過する駅よりも止まり行く駅の数が増えていくが、この路線の「急行」電車の止まる駅の数と場所は変わらないままに走っている。半分貴重で半分時代錯誤と言えるかも知れないが、それでも「変わらずに残っている」という事が大きい。端で見たらどうという事の無い電車である。しかし、彼にとっては思い出深いものがある「急行電車」として今も走り続けている。