内的自己対話-川の畔のささめごと

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「ケア」という言葉の普及とその背景について

2024-03-12 13:09:09 | 哲学

 「ケア」という言葉が日本社会で一般に広く使われるようになったのはいつのころからなのか、正確なところはよくわからないが、『新明解国語辞典』(第八版、二〇二〇年)の第二の語釈「老齢者・身体障害者・病人や精神的ショックを受けた人などに対する支援や介護・看護」という意味で広く使われるようになったのは比較的最近のことなのではないだろうか。
 この意味での「ケア」は、医療の現場での多かれ少なかれ専門性を前提とする介護や看護という意味での用法よりもはるかに広い範囲にわたって使われるようになっている。この広義の「ケア」にピタリと対応する日本語がないから、「ケア」という英語がそのまま使われているのだろう。
 他方、介護保険制度の施行とともに、「ケア‐プラン」「ケア‐マネージャー」等の和製英語が生まれ、それも「ケア」という言葉の普及に拍車をかけたということもあるだろう。
 「ケア」という言葉は、場合・場面に応じて、「手入れ」「手当て」「管理」「心づかい」「配慮」「世話」「気にかけて対応すること」等の意味で使われるが、人に対するケアという広義で使われるようになったことは、災害等で大きなショックを受けている人に「寄り添う」という動詞が頻繁に用いられるようになったこと、介護を巡る諸問題がメディアでクローズアップされるようになったこと、性的マイノリティーに対する差別が社会問題として取り上げられるようになったこと、様々な社会的弱者の厳しい現実が広く知られるようになったことなどと無関係とは思われない。最近メディアでよく目にする「ヤングケアラー」という言葉も広義の「ケア」の普及を前提としている。
 それだけではなく、何らかのケアを必要とする人とそのケアを実行する人という一方通行的な枠組み自体が問い直され、人と人との基本的な相互関係性としてのケアということが倫理学の問題として取り上げられるようになっていることも、広義の「ケア」に関連する諸問題と連動していると思われる。
 フランス語にも実は英語の「ケア」にちょうど対応する語がない。十数年ほど前から、care という英語をそのまま使っている出版物が目立って増えている。Care Studies というタイトルの叢書さえPUFから刊行されている。
 Care の倫理が正面から取り上げられるようになったのは、一九八二年にキャロル・ギリガンの In a different voice(日本語訳『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』風行社、二〇二二年)が出版されてからのことで、そのフランス語訳は四年後の一九八六年に出版されている。これはフランスの慣例からするとかなり早い翻訳なのだが、それはフランスで活発なフェミニズムの流れのなかでのことで、ケアの問題の文脈で広く取り上げられるようになったのはやはり最近十数年のことである。
 このケアの倫理を政治の問題として取り上げたのが一九九三年に出版されたジョアン・トロントの Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care である。
 フランスでは、Corine Pelluchon がアメリカで上記の両者によって展開されたケアの倫理に対して一定の積極的評価をしつつ、自身が展開する éthique de la vulnérabilité をそれに対置している(Éléments pour une éthique de la vulnérabilité. Les hommes, les animaux, la nature, Cerf, 2011 ; Réparons le monde. Humains, animaux, nature, Rivage poche, 2020)。
 これら著作を通覧しつつ、かつ現在の世界が直面している諸問題、特に、深刻な生態系破壊を考えるとき、人と人の間のこととしてだけではなく、生き物すべてに対して、そして自然に対して、ケアが地球規模での中心的な課題であり、その諸側面に日々の生活のなかで私たち一人一人が直面していることが自ずとわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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