内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自分の虚無をそれと知らずに感じるとはどういうことか ― パスカル『パンセ』より

2023-12-03 23:59:59 | 哲学

 いきなりだが、パスカルの『パンセ』の断章の一つ(S70,L36, B164)を掲げる。

Qui ne voit pas la vanité du monde est bien vain lui-même. 
Aussi qui ne la voit, excepté de jeunes gens qui sont tous dans le bruit, dans le divertissement et dans la pensée de l’avenir ?
Mais ôtez leur divertissement, vous les verrez se sécher d’ennui.
Ils sentent alors leur néant sans le connaître, car c’est bien être malheureux que d’être dans une tristesse insupportable aussitôt qu’on est réduit à se considérer et à n’en être point diverti.

 この世のむなしさを悟らない人は、その人自身がむなしいのだ。
 それで騒ぎと、気を紛らすことと、将来を考えることのなかにうずくまっている青年たちみなを除いて、それを悟らない人があろうか。
 だが、彼らの気を紛らしているものを取り除いてみたまえ。
 彼らは退屈のあまり消耗してしまうだろう。そこで彼らは、自分の虚無を、それとは知らずに感じるだろう。なぜなら、自分というものを眺めるほかなく、そこから気を紛らすことができなくなるやいなや、堪えがたい悲しみに陥るということこそ、まさに不幸であるということだからである。(中公文庫、前田陽一訳)

 訳中の動詞「悟る」は原文の voir に対応している。しかし、「悟る」は適訳だろうか。岩波文庫の塩川徹也訳は「見る」を用いており、ここはそのほうが相応しいように思う。ただ、「悟る」を「見る」に置き換えてみても、私はこの断章でパスカルが言おうとしていることがよくわからない。
 騒ぎと気晴らしと将来への思いのうちにある青年たち以外は、いやでもこの世のむなしさが見えてしまう。なぜなら、たとえこの世のむなしさを見まいとしても、まさにそうすることで己自身がむなしいものであるのだから、どの道、むなしさを目の当たりにせざるを得ない、ということだろうか。
 第三段落の人称代名詞 ・間接目的語の leur は前段落の「青年たち」を指していると考えるほかない。彼らから気晴らしを取り除くと、退屈のあまり憔悴してしまう。そのとき、彼らは、己の虚無 néant をそれと「知る connaître」ことなしに「感じる sentir」。
 虚無を「知る」ことなしに「感じる」とはどういうことなのか。己が虚無であることを知ることなしに、自分と向き合わざるを得なくなり、しかもそこから逃れる術もないという堪えがたい悲しみのうちに沈むということか。そして、人間が「感じる」の次元にとどまるかぎり、不幸でしかありえない、ということなのか。
 この「知る」と「感じる」との区別は、「三つの秩序」のうちの「精神」と「身体」とにそれぞれ対応させて理解するべきなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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