内的自己対話-川の畔のささめごと

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戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十六)― 語る主体における個別と普遍との弁証法的過程

2017-03-17 19:02:46 | 哲学

 日本語という個別言語の性格を分析する方法を日本の伝統的文法理論の歴史の中に探索し、他方では、言語一般の本質を言語過程として捉え、言語の存在条件として主体・場面・素材を根底に据えるの一般言語理論を構築した時枝の思想は、個別と普遍との間の緊張関係に貫かれている。個別的なものの振る舞いをその細部に至るまで探究することを通じて普遍的なものへ到達しようとする志向が一方にあり、普遍的な原理の思索あるいはスペキュレーション(時枝自身がこの言葉を『国語学への道』の中で使っている)の妥当性を一つの個別言語の諸事実に照らし合わせて検証するという志向が他方にある。互に真逆のこれら両志向性が時枝の言語本質観の磁場を形成している。
 その言語本質観の探究の主体は、その磁場の中でしか思考することができない。なぜなら、普遍性への飽くなき志向を放棄した個別性への独善的内閉も、個別性への絶えざる注意を放棄した普遍性への無批判的安住も、どちらも思考の死を意味するほかないからである。
 ある個別言語の中で思考するほかない主体は、しかし、その個別言語そのものを徹底して考察することを通じて言語一般の本質へと到達することができれば、その個別言語をその固有性に従って使用しながら、その固有性に無自覚に拘束されることはなく、それに対して超越論的であるという意味で、普遍的立場に立つことができているはずである。
 時枝が執拗なまでに主張し続けた主体的立場とは、このような個別と普遍との弁証法的過程の生きた現場のことなのではないだろうか。












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