二〇二三年九月十日 NO・五十―二四 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)エレミヤ 四五章(月) 〃 四六章
司会 坂 本兄(火) 〃 四七章(水) 〃 四八章
奏楽 内 間姉(木) 〃 四九章(金) 〃 五十章
招詞祈祷 イザヤ五七章十八~十九節 (土) 〃 五一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五六番 ◎十四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎十一日(月)牧師夫妻は、筑波福音同志会へ。
交 読 文 詩 編百十九編ダレト ◎十八日(月・祝)は午前十時より半日修養会です。
讃 美 讃美歌三三一番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り 新栄兄
讃 美 聖 歌四六一番 だが今やあなた方は罪から自由にされて
説 教 ローマ六章十五~二三節 神の奴隷となり、聖化へといたるあなた方の実を、
讃 美 聖 歌五五三番 すなわち究極的には永遠の生命へといたる実を
祈 祷 高澤兄 持っている。(田川訳)
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ六章二二節
聖化について
パウロが宣べ伝えた福音は、主イエス・キリストの真実、すなわちその死と復活によって、「不敬虔な者を義とされる」(4章5節)神の恵みである。この恵みを誤って受け取って「罪にとどまる」(1節)、「罪を犯そう」(15節)という者がいた。しかしパウロは、罪を犯すことを正当化することを決して容認しない。
16節からパウロは奴隷の比喩を用いて、そのことを証明する。パウロは、現代人のように人間を自主独立の存在と見ないで、人間は「罪の奴隷」(17節)か「義の奴隷」(18節)のどちらかであり、この二者択一しかない存在と言う。そしてキリスト者は、「キリストにあって」罪と死の支配から解放された(7節)者であり、「罪と死の世界」から「義と命の世界」に移された存在である。
以上を踏まえて、19節以下で「聖化・聖潔」について言及される。パウロは、3章21節以来、キリストによって、不敬虔な者を義とされる(義認)ことを語って来た。では私たちは「義認と聖化」の関係をどう捉えたらよいか? よく言われるのは、義認はキリストの救いによる一回限りの出来事であり、聖化は生涯にわたって継続される、と。そしてキリスト者はすでに義とされているのだから、罪を犯さない清い生活を送るように召されている、と。しかしここで義認と聖化を分離して、義認は神の一方的恵みによって私たちに与えられたが、聖化の歩みは、私たちの(信仰の)努力で成し遂げられなければならない、と理解するなら、それは大きな間違いである。それは律法の行いによる義の追求と変わらなくなる。そうなれば、それは律法による義よりもさらに高尚な「山上の説教」を自力で実行するという到底不可能な事への過酷な戒めとなる。そこには神との平和も神の愛の満たしもないのであり、もはや救いではない。
聖化は、義認と切り離すことはできず、その延長線上にある。義とされたキリスト者は、以前の罪の奴隷の生活が「恥と死」(21節)であることを知っている。そして今や義の奴隷とされて、罪に仕えない生活へと召され入れられている。それは神との平和、神の愛の注ぎの中を歩む生活である。そして聖化の歩みは、「永遠の命」に至るまでの道程である。永遠の命は確実に備えられており、そこに至るまで、キリスト者は恥ずべき実ではなく、義の美しい実を結ぶ歩みが許され備えられている。そこを歩め、と。
礼 拝 次 第 (日)エレミヤ 四五章(月) 〃 四六章
司会 坂 本兄(火) 〃 四七章(水) 〃 四八章
奏楽 内 間姉(木) 〃 四九章(金) 〃 五十章
招詞祈祷 イザヤ五七章十八~十九節 (土) 〃 五一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五六番 ◎十四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎十一日(月)牧師夫妻は、筑波福音同志会へ。
交 読 文 詩 編百十九編ダレト ◎十八日(月・祝)は午前十時より半日修養会です。
讃 美 讃美歌三三一番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り 新栄兄
讃 美 聖 歌四六一番 だが今やあなた方は罪から自由にされて
説 教 ローマ六章十五~二三節 神の奴隷となり、聖化へといたるあなた方の実を、
讃 美 聖 歌五五三番 すなわち究極的には永遠の生命へといたる実を
祈 祷 高澤兄 持っている。(田川訳)
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ六章二二節
聖化について
パウロが宣べ伝えた福音は、主イエス・キリストの真実、すなわちその死と復活によって、「不敬虔な者を義とされる」(4章5節)神の恵みである。この恵みを誤って受け取って「罪にとどまる」(1節)、「罪を犯そう」(15節)という者がいた。しかしパウロは、罪を犯すことを正当化することを決して容認しない。
16節からパウロは奴隷の比喩を用いて、そのことを証明する。パウロは、現代人のように人間を自主独立の存在と見ないで、人間は「罪の奴隷」(17節)か「義の奴隷」(18節)のどちらかであり、この二者択一しかない存在と言う。そしてキリスト者は、「キリストにあって」罪と死の支配から解放された(7節)者であり、「罪と死の世界」から「義と命の世界」に移された存在である。
以上を踏まえて、19節以下で「聖化・聖潔」について言及される。パウロは、3章21節以来、キリストによって、不敬虔な者を義とされる(義認)ことを語って来た。では私たちは「義認と聖化」の関係をどう捉えたらよいか? よく言われるのは、義認はキリストの救いによる一回限りの出来事であり、聖化は生涯にわたって継続される、と。そしてキリスト者はすでに義とされているのだから、罪を犯さない清い生活を送るように召されている、と。しかしここで義認と聖化を分離して、義認は神の一方的恵みによって私たちに与えられたが、聖化の歩みは、私たちの(信仰の)努力で成し遂げられなければならない、と理解するなら、それは大きな間違いである。それは律法の行いによる義の追求と変わらなくなる。そうなれば、それは律法による義よりもさらに高尚な「山上の説教」を自力で実行するという到底不可能な事への過酷な戒めとなる。そこには神との平和も神の愛の満たしもないのであり、もはや救いではない。
聖化は、義認と切り離すことはできず、その延長線上にある。義とされたキリスト者は、以前の罪の奴隷の生活が「恥と死」(21節)であることを知っている。そして今や義の奴隷とされて、罪に仕えない生活へと召され入れられている。それは神との平和、神の愛の注ぎの中を歩む生活である。そして聖化の歩みは、「永遠の命」に至るまでの道程である。永遠の命は確実に備えられており、そこに至るまで、キリスト者は恥ずべき実ではなく、義の美しい実を結ぶ歩みが許され備えられている。そこを歩め、と。