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コジキジゲン

スベテはラン学から、ハジ-マル

2013-04-22 17:49:40 | 古事記字源
 スベテは「丸(まる・ガン)」、
 すべては「球(たま・キュウ)」、
 すべては「卵(たまご・ラン)」、
 スベテは「英(はなぶさ・=花房・はな・エイ・ヨウ)」
     ↓
 「はなしべ=花のしべ・かずい・ズイ・ヌイ・蘂=ハナシベ.はな‐しべ=花蕊(蘂)」
     ↓
 「サ+心+心+心+木」→「種子植物の、雄しべと雌しべ・しべ」
     ↓
 噺し部・話し部→御伽部(おとぎ部)・・・
 「蘂」、「蕋」は俗字であるらしい・・・
     ↓
 話し部・・・・語り部

 数意・・・・・数の意味

 隋・・・・・・隋書倭人伝

 蘂・・・・・・サ、三心、木→草冠、纂審、記紀

 ・・・すべては、「ランガク」からハジマル・・・? 

ーーー

 天初蘂源

 宝徳三年(1451年)

  ~

 大永四年五月十四日(1524年)

 伊達持宗の子

 曹洞宗

 越後

 耕雲寺の

 周剛

 宗厳の法をつぐ

 明応七年

 父がたてた

 陸奥

 伊達郡(福島県)

 輪王寺三世

 耕雲寺の住持

 享年七十四歳

ーーー

 季瓊真蘂

 応永八年(1401年)

  ~

 文明一年八月11日(1469年9月16日)

 臨済宗の僧

 別号に雲沢,松泉

 播磨国(兵庫県)の

 赤松氏一族

 上月氏の出身

 法を

 叔英宗播に

ーー↓

 叔英宗播

 ?~1441年

 室町時代の僧。

 臨済(りんざい)宗

 太清宗渭(たいせい-そうい)の法をつぐ

 将軍足利義持(よしもち)の信任をうけ

 相国寺

 建仁寺

 南禅寺の

 住持となる

 義堂周信、

 絶海中津に学芸を学んだ

 嘉吉(かきつ)元年九月十九日死去

 播磨(はりま・兵庫)出身

 別号

 交蘆道人

 著作

 「五灯会元抄」

 編著

 「禅林曇華集」

ーー↓

 (季瓊真蘂)は

 嗣ぐ(一山派)

 足利義教の命で

 鹿苑院僧録の補佐となり

 五山官寺を統轄し

 後世

 蔭涼職(相国寺内蔭涼軒の軒主職)

 1435年

 真蘂は「蔭涼軒主」を僭称し

 「僧録司」をしのぐ

 「蔭涼職」と呼ばれる官職名で権威をふるい

 「蔭涼軒」焼失後も存続し

 1615年(元和一年)に

 「鹿苑僧録司」とともに廃止された

ーー

 赤松満祐による

 将軍

 義教暗殺の

 嘉吉の乱(1441)が起こり、

 一時職を退く

 義政の代に

 長禄二年(1458年)年に

 復権

 政所執事

ーーー↓

  嘉吉(かきつ)の乱

ーー↓

 1441年~1444年までの年号

 後花園天皇の元号

 前元号は

 永享(えいきょう)

 次元号は文安(ぶんあん)

 1441年

 (永享十三年)二月十七日改元

ーー↓ 

  1441年(嘉吉一年・辛酉年)

  播磨国守護の

  赤松満祐は、

  「結城合戦」の戦勝を祝うとして

  将軍義教を自邸に招いて謀殺

  領国に逃亡したが幕府追悼軍に敗れ自害した

ーーー↓

 季瓊真蘂は

 伊勢貞親とともに

 斯波氏の・・・・・・織田信長の主家

 内紛に介入するなど

 応仁の乱(1467年)の一因を作って

 文正一年(1466年)失脚

 近江国

 牛口山に退居

 義政の信任厚く

 応仁二年(1468)年上洛

 相国寺に戻り

 同寺内

 雲頂院に住し

 院内に

 雲沢軒

 七条柳原に

 禅仏寺を開いた

 日記として

 『季瓊日録』

ーーー

 枕草子

(七段)

 うへに侍ふ御猫は、かうふり給はりて、命婦のおもととて、いとをかしければ、寵(かしづ)かせ給ふが、端に出でたるを、

 乳母の

 馬の命婦

 「あなまさなや、入り給へ」とよぶに、聞かで、日のさしあたりたるにうち眠りてゐたるを、おどすとて、

 「翁丸いづら、

  命婦の

  おもと食へ」といふに、まことかとて、しれもの走りかかりたれば、おびえ惑ひて、御簾の内に入りぬ。朝餉の間にうへはおはします。御覽じて、いみじう驚かせ給ふ。

 猫は御懷に入れさせ給ひて、男ども召せば、藏人忠隆まゐりたるに、

 「この翁丸

  打ち調じて、

  犬島につかはせ。只今」と仰せらるれば、集りて狩りさわぐ。馬の命婦もさいなみて、

 「乳母

  かへてん、

  いと

  うしろめたし」と仰せらるれば、かしこまりて、御前にも出でず。犬は狩り出でて、瀧口などして追ひつかはしつ。

 「あはれ、

  いみじく

  ゆるぎ歩きつるものを。

  三月三日に、頭の

  辨柳の

  かづらをせさせ、

  桃の花かざしにささせ、

  櫻腰にささせなどして、

  ありかせ給ひしをり、

  かかる

  目

  見んとは思ひかけけんや」とあはれがる。

 「御膳のをりは、必むかひさぶらふに、さうざうしくこそあれ」などいひて、三四日になりぬ。ひるつかた、犬のいみじく泣く聲のすれば、なにぞの犬の、かく久しくなくにかあらんと聞くに、よろづの犬ども走り騒ぎとぶらひに行く。

 御厠人なるもの走り來て、

 「あな

  いみじ、

  犬を藏人

  二人して打ちたまひ、死ぬべし。流させ給ひけるが歸りまゐりたるとて、調じ給ふ」といふ。心うのことや。翁丸なり。「忠隆實房なん打つ」といへば、制しに遣るほどに、辛うじてなき止みぬ。「死にければ門の外にひき棄てつ」といへば、あはれがりなどする夕つかた、

 いみじげに

 腫れ、

 あさましげなる

 犬の

 わびしげ

 なるが、

 わななき

 ありけば、

 「あはれ丸か、

  かかる犬やは

  このごろは見ゆる」などいふに、翁丸と呼べど耳にも聞き入れず。

 それぞといひ、あらずといひ、口々申せば、「右近ぞ見知りたる、呼べ」とて、下なるを

 「まづとみのこと」とて召せば參りたり。「これは翁丸か」と見せ給ふに、「似て侍れども、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また翁丸と呼べば、悦びてまうで來るものを、呼べど寄りこず、あらぬなめり。それは打ち殺して、棄て侍りぬとこそ申しつれ。

 さるものどもの

 二人して打たんには、生きなんや」と申せば、心うがらせ給ふ。

 暗うなりて、物くはせたれど食はねば、あらぬものにいひなして止みぬる。つとめて、

 御梳櫛にまゐり、

 御手水まゐりて、

 御鏡もたせて御覽ずれば、侍ふに、犬の柱のもとについ居たるを、「あはれ昨日、翁丸をいみじう打ちしかな。死にけんこそ悲しけれ。何の身にかこのたびはなりぬらん。いかにわびしき心地しけん」とうちいふほどに、この寢たる犬ふるひわななきて、涙をただ落しにおとす。いとあさまし。さはこれ翁丸にこそありけれ。よべは隱れ忍びてあるなりけりと、あはれにて、をかしきことかぎりなし。御鏡をもうちおきて、

 「さは

  翁丸」・・・・おきなまる・オウガン

 といふに、

 ひれ

 伏して

 いみじくなく。

 御前にもうち笑はせ給ふ。

 人々まゐり集りて、右近内侍召して、かくなど仰せらるれば、笑ひののしるを、うへにも聞し召して、渡らせおはしまして、

 「あさましう

  犬なども

  かかる

  心あるもの

  なりけり」と笑はせ給ふ。うへの女房たちなども來りまゐり集りて呼ぶにも、今ぞ立ちうごく。なほ顏など腫れためり。「物調ぜさせばや」といへば、「終にいひあらはしつる」など笑はせ給ふに、忠隆聞きて、

 臺盤所のかたより、

 「まことにや侍らん、かれ見侍らん」といひたれば、

 「あなゆゆし、さる者なし」といはすれば、「さりとも終に見つくる折もはべらん、さのみもえかくさせ給はじ」といふなり。さて後畏勘事許されて、もとのやうになりにき。猶あはれがられて、ふるひなき出でたりし程こそ、世に知らずをかしくあはれなりしか。人々にもいはれて泣きなどす。

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コメント
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