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コジキジゲン

痁=おこり・感染症=瘧=わらわやみ・マラリア・発熱=㾬=痎

2022-04-30 20:01:04 | 古事記字源

 イキていたモノを殲滅するイキて存在するヤツラ
 「烏克蘭=宇克蘭」領居住民への
 プーチン
 「魯西亜=露西亜=俄西亜」・・・鹵西亜・虜西亜
 ロスケ
 の悪行、仕業
 ↓↑
 1941年11月4日
 内務人民委員部(NKVD)
 ヤルタ刑務所の全囚人を射殺
 殺(や)る多・・・遣る隋(太)
       ・・・遣隨使(小野妹子=蘇因高)?

  ↓↑
 「ツバメの巣城(Swallow's Nes・Schwalbennestt)」
 「 ツバメの巣 (ウクライナ語: Ластівчинегніздо
              ラストチキノヒニズド
         つばめ=ラーシカ?
             ラースタチュカ=ластівка
        ロシア語: Ласточкиногнездo
             Lastochkino gnezdo」
        つばめ=ラーストチカ(Ласточка)
  Castle of Love
 ↓↑
 クリミア半島・・・狂巳亜犯頭(プーチン)
          国連事務総長(2017年~)
          アントニオ・グテーレス氏
              (ポルトガル出身)
          と
       ・・・問答会談後
          4月28日
          宇克蘭訪問、会談最中
          基輔(吉和・計由)へミサイル攻撃
          ↓↑
          キエフ(ロシア語: Киев)
          キーウ(ウクライナ語: Київ, 発音 [ˈkɪjiu̯]
         (基輔・・・「基衛府」?
            【附錄】日本、
             外國地名的假名及漢字表記列表
            (ピンイン付き)【日文單詞表】)
         (吉和=青地林宗訳の地誌『輿地誌略』
          計由=『重訂万国全図(1855年)』
              磯部さんの日記(mixi)
             キーフ=キィフ
            「紀伊・奇異・貴意・忌諱」+附
             記委付・紀移付・紀+「畏怖・移付・異父」
          ・・・キのエのフ=基の輔=吉の和=計る由
             帰依負(夫・婦)・記絵附
 の
 ヤルタ
 と
 アルプカ
 の間の小さな温泉町
 ガスプラに位置する装飾的な城
  ↓↑
 「ツバメの巣 (ヤルタ)」・・・鳦(乙鳥・玄鳥・燕・鷰・津羽目)
               燕國=公孫淵・燕京=北京
 クリミア半島のシンボル
 帝政末期
 1912年
 バルト・ドイツ人貴族によって
 ネオ・ゴシック様式で建設

 「燕来る 時になりぬと
  雁がねは 国偲(しの)ひつつ
  雲隠り鳴く(『万葉集』巻19-4144)」
 ↓↑
 原文 燕来 時尓成奴等
    鴈之鳴者
    本郷思都追
    雲隠喧
 ↓↑
 訓読 燕来る時になりぬと
    雁がねは
    国偲ひつつ
    雲隠り鳴く
 ↓↑
 仮名 つばめ くる ときに なりぬと
    かり がね は
    くに しのひ つつ
    くも がくり なく
 ↓↑
 巻   第19巻
 歌番号 4144番歌
 作者  大伴家持
 題詞  見歸鴈歌 二首
  ↓↑
 「のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ
  屋梁(はり)にゐて
  たらちねの母は
  死にたまふなり
  (斎藤茂吉『赤光(シャッコウ)』)」
  ↓↑
 「ツバメの巣城(Swallow's Nest・Schwalbennest)」
 「ヤルタ」
 クリミア半島のシンボルの城
 帝政末期の
 1912年
 バルト・ドイツ人貴族によって
 ネオ・ゴシック様式で建設
  ↓↑
 ↓↑
 つばめ・ツバメ
 ↓↑
ーーーーーー
 トゥヴァ共和国
 Республика Тыва・トゥバ共和国・・・?
 ↓↑
 ロシア語表記の  Тува
 トゥバ語表記の  Тыва
 に変更
 中国語表記    唐努烏梁海
  ↓↑
  トゥバ人
 (トゥヴァ語 Тыва (Tiva)
  Тывалар (Tivalar)
  Тыва кижи(Tiva kiži))
 ↓↑
 エニセイ川源流域に居住
 テュルク語系言語
 トゥバ語を母語とする民族
 日本語表記 ツーバ人
 人種 モンゴロイド
 ↓↑
 『北史』鉄勒伝
 『隋書』・『旧唐書』・『新唐書』
 の記録
 「都播」
 「都波」・・・都波目・・・菟玖波(筑波・蹲)?
  が
 トゥバ人
 トゥバ
 自称の
 トファラル人
 コイバル人
 らしいと考えられている・・・?


 ↓↑
 傍観者ではいられないけれど・・・心臓脚気に腰痛・・・
 客観主義者ではいられれないケレど・・・
 主観主義者ではいられれないケレど・・・
 ボッチで
 提媚とU虫部を・・・TV YouTube
 観ながら
 聴きながら
 脳ミソが激烈に反応し
 脳ミソの領域中で昂奮・・・亢奮・公憤
 顔面、引き攣り、紅潮、蒼白
 口唇、歪曲
 気管支、咳気
 全身、痙攣、引攣、麻痺
 ↓↑
 慄き、戦き、おののき
 畏れ、懼れ、怖れ、惧れ、恐れ、虞、おそれ
 コブシを握り
 ↓↑
 チガう、たがう、異なるッて
 怒り、おこり
 発熱
 痎(二日に一度高熱症状が出る・おこり・マラリア)
 㾬(二日に一度高熱症状が出る・おこり・マラリア)
 痁(マラリア・おこり・感染症)
 瘧(おこり・わらわやみ・マラリア・発熱)
   瘧師(ギャクシ) ?・・・巫女・覡(ゲキ)・按摩・医者
            富山から北海道に屯田兵として渡った一族の苗字
   逆詞・・・劇詞・虐使
 哀(あわれ)・憐れ・・・遭われ・・・阿波連・安房・粟
 辛(つらい)
 悲(かなしい)
  哀=衣+口
   亠+口
   アイ
   あわれ
   あわれむ
   中あわれむ
   かなしい
   かなしむ
   かわいそう
   つらい気持ち
   父母の喪中
 ↓↑
 哀歌(アイか)
 哀感(アイかん)
 哀歓(アイかん)
 哀願(アイがん)
 哀史(アイし)
 哀愁(アイしゅう)
 ↓↑
 嗚呼哀哉
 哀哀父母=哀哀たる父母
 ↓↑
 哀感頑艶
  「頑」=愚人
  「艶」=頭が切れる人
  「哀しみ頑艶を感ぜしむ」
 ↓↑
 哀毀骨立(アイキコツリツ)
  悲しみで体を毀し、骨と皮ばかりになるほど痩せること
 ↓↑
 哀矜懲創(アイキョウチョウソウ)
  罰を与える者は
  相手を思いやる情け、悲しみ、哀れみの心を持て・・・?
  無理・ムリ・むり・・・武利
 ↓↑
 哀鴻遍地(アイコウヘンチ)
  戦いに敗れた兵士や
  さまよう難民があらゆる場所にあふれている様子
   哀しげに鳴く雁が
   野原にあふれる様子を
   流浪する兵士や難民にたとえた
 ↓↑
 そして笑い楽しんで癒(い)やしている存在・・・
 ↓↑
 バルカン半島
 クリミア半島
 クリミア(Crimea
      ロ語 Крым
      ウクライナ語 Крим
      クリミア
      タタール語 Къырым)
 黒海の北岸にある半島
 面積は2万6844km2
 2014年1月1日時点
 人口 235万3100人
 ↓↑
 ソビエト連邦
 「ヨシフ・スターリン」
 ↓↑
 クリミア半島住民
 クリミア・タタール人を
 シベリアや中央アジアへと強制的移住
 「スターリン」死後
 1954年
 「ニキータ・フルシチョフ」
 クリミアは
 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から
 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管
 1991年
 ソビエト連邦崩壊
 追放タタール人はクリミアへ帰還
 1992年
 ウクライナ
 クリミア自治共和国
 となった
 ↓↑
 ソビエト連邦時代
 クリミア・ソビエト社会主義共和国
 ロシア・ソビエト社会主義共和国
 の統治
 1954年以降
 ウクライナ・ソビエト共和国に属す
 1991年独立以後
 ウクライナの構成国家
 クリミア自治共和国に属す
 2014年3月11日
 クリミア最高会議が
 セヴァストポリ特別市
 と共に
 ウクライナからの独立宣言
 ↓↑
 クリミア危機
 ロシアへの編入の是非を問う住民投票
 以降
 ロシアの実効支配
 ロシアによる
 クリミア・セヴァストポリの編入
 ウクライナ側は
 ウクライナ憲法やCIS憲章などに違反しているとし
 編入無効を主張
 国際連合総会決議
 68 vs 262
 ウクライナを支持
 ↓↑
 クルム=クリミア
 ジョチ・ウルス時代
 クリミア半島の中心都市(スタリ・クリム)の名称
 オスマン帝国が
 クリミア・ハン国を支配していた時代に
 半島全体の名称となった
 クルムの語源
 古テュルク語 「丘・尾根・山頂」=Kɨr
 黒海北岸の古代地名
 「キンメリア」に関係
 ↓↑
 古ギリシア語の地名
 「Ταυρική(タウリケ)」に由来
 「タウリカ・タウリス」
 古代にクリミア半島居住の
 スキタイ=キンメリア系民族・・・「キン」+「メリア」
                  金    女里亜
 「タウロイ」に由来
 ストラボン
 プトレマイオスは
 「ケルチ海峡」を
 「ボスポロス・キンメリオス(キンメリア海峡)」
 タウリカの中心都市を
 「キンメリウム」
 半島=最東端の岬
 「プロモントリウム・キンメリウム(キンメリア岬)」
 「キンメリア人」と関連づけて呼ぶ
 ↓↑
 英語
 クリミア系統の名称の用例
 18世紀
 クリミア・ハン国
 クリム・タルタリー(Crim Tartary)
 「Crimea」の綴りは
 イタリア語(17世紀前後~)由来で
 1780年代に使われ
 19世紀を通じ
 英語の伝統的な名称
 「タウリカ」や「タウリス」
 に置き換わった
 ↓↑
 ロシア語
 古名タウリカが
 18世紀末
 ロシア帝国が併合した
 クリミア半島に
 「タヴリダ州」を設置し復活
 ソ連以降
 クリミア半島の
 タヴリダ国立大学
 SCタフリヤ・シンフェロポリ
 などに使用
 ↓↑
 紀元前5世紀頃
 ギリシア人の入植~有史時代
 「タウリカ」
 「ケルソネソス・タウリカ(タウリカ半島)」
  化留曾根素洲・隋烏里乎・・・?
   大曾根・中曾根
 と呼ばれていた
 スキタイ人(スキタイ=キンメリア人、タウロイ人)
 ギリシア人、ローマ人
 ゴート人、フン人
 ブルガール人
 ハザール人
 キプチャク人
 など様々な民族が
 クリミアを征服と支配
 ↓↑
 中世
 キエフ・ルーシ
 東ローマ帝国
 に支配
 モンゴル征服
 モンゴル帝国の分枝
 「ジョチ・ウルス」
 に支配
 沿岸の一部が
 ヴェネツィア
 ジェノヴァ
 の統治下に置かれた
 これらの諸勢力は
 15世紀~18世紀
 「クリミア・ハン国」
 と
 「オスマン帝国」
 に支配
 ↓↑
 1783年
 ロシア帝国
 クリミア・ハン国併合
 1921年~1945年
 ソビエト連邦の下に
 クリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置
 1954年
 クリミア州は
 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から
 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管
 1991年
 ソビエト連邦崩壊で
 ウクライナ独立し
 自治共和国
 2014年
 クリミア危機
 ウクライナ国内法を無視し
 独立を宣言
 ロシアによる
 「クリミアの併合」が宣言
 ↓↑
 2022年2月24日
 ロシアのウクライナ侵略で
 攻撃の策源地として利用
 ↓↑
 先史時代
 旧石器時代中期
 キイク・コバ洞窟の
 ネアンデルタール人の痕跡
 8万年前
 後のネアンデルタール人は
 スタロセレ(4万6000年前)
 ブルハン・カヤ3号(3万年前)
 でも発見
 ↓↑
 初期現生人類
 クリミア山脈
 ブルハン・カヤ洞窟(シンフェロポリの東)
 で発見
 化石はおよそ3万2000年前のもの
 遺物は
 グラヴェット文化に属する
 最終氷期の再寒冷期
 黒海北岸一帯は
 氷期終焉で
 中・北ヨーロッパに
 再拡散することになる人口の避難地
 何度かの亜間氷期を挟んで
 気温は緩和上昇
 周氷河地形の低地ステップが
 東ヨーロッパ平原に広がった
 人類の居住地帯の密度は
 クリミア地域にほとんど集中
 約1万6000年前まで増加
 黒海洪水説
 クリミアは
 紀元前6千年期
 黒海の水位上昇で半島として形成
 ↓↑
 新石器時代
 農業を伴わず
 陶器製造の開始
 石器多種類製造技術の変化
 豚の家畜化
 クリミア半島における
 麦生産の最古の証拠
 銅器時代の
 アルドゥチ・ブルン遺跡で発見
 紀元前4千年紀の中頃
 ↓↑
 紀元前3千年紀
 ヤムナ文化
 青銅器時代初期
 東イラン語群の
 「スキタイ」
 がクリミアに定着
 クリミア半島南部に
 スキタイ人によって駆逐された
 「キンメリア」人の一派の
 「タウロイ」が居住
 紀元前6世紀、7世紀
 「ミレトス」人によって
 最初のギリシア植民都市が建設
 ↓↑
 紀元前5世紀
 黒海北岸の
 ギリシア人の植民都市建設
 「タウリカ(ギリシア語)」
 クリミア半島の呼称
 古代ギリシア人は
 「タウロイ」人から
 「タウリカ」の地名を名づけた
 「タウロイ」人は
 クリミア半島南部の山岳地帯にのみ居住
 タウリカの名も当初は半島南部のみに使われていた
 ↓↑
 ギリシア神話
 タウリカは
 ミケーネの王女
 「イピゲネイア」
 の物語の舞台
 父王
 「アガメムノン」
 によって女神
 「アルテミス」
 の生贄にされた王女は
 これを憐れんだ女神によって救出
 タウリカに送り込まれた
 「イピゲネイア」は
 「アルテミス神殿」の神官となり
 タウリカの
 「トアス」王によって
 捕らえられた外国人を生贄に捧げるよう命じられた
 or
 タウリカの民
 「タウロイ」は
 野蛮な儀式と海賊行為で知られ半島のもっとも古い居住者
 タウロイの地と
 ギリシア人殺しに関する説は
 ヘロドトスの『歴史(ヒストリアイ)』にも記録
 ↓↑
 紀元前5世紀
 ギリシア人は
 黒海沿岸に植民を広げた
 ヘラクレアの
 「ドーリア」人は
 セヴァストポリ市に港湾都市
 「ケルソネソス」
 ミレトスの
 「イオニア」人は
 テオドシア(フェオドシヤ)
 パンティカパイオン(ケルチ)
 を建設
 ↓↑
 紀元前438年
 パンティカパイオンの
 「アルコン(執政官)」に就任した新植民者の
 「スポルトコス」が
 「キンメリオス・ボスポロス
 (キンメリア海峡・ケルチ海峡)」
 の王を称し
 アテネと緊密な関係を結んで
 麦、蜂蜜その他の商品を供給した
 スポルトコス王朝最後の王
 「パイリサデス5世」
 遊牧民スキタイの圧力を受け
 紀元前114年
 ポントスの王
 「ミトリダテス6世」の庇護を求め
 「ミトリダテス」の王子
 「ファルナケス2世」
 は、ローマ共和国と父王との戦いで
 ローマ側につき
 紀元前63年
 ローマの
 「ポンペイウス」
 によって
 ボスポロス王として承認
 紀元前15年
 ボスポロスは再び
 ポントス王国の支配下に戻されたが
 ローマの属州同然であった
 ↓↑
 ローマ時代
 紀元前1世紀
 ボスポロス王国を形成していた
 「タウリカ」
 はローマ帝国に併合
 ↓↑
 紀元1世紀~3世紀
 タウリカの都市
 「カラクス」
 にローマ軍団が駐留し
 ローマ人の植民都市となった
 ローマ都市
 「カラクス」
 は、遊牧民スキタイから
 「ケルソネソス」
 やその他の交易地を防衛するため
 「ウェスパシアヌス帝」
 によって建設された
 都市の防衛は
 第1軍団イタリカの支隊が当たり
 2世紀末には
 第11軍団クラウディア
 が加わり
 カラクス駐留の部隊の司令官の一人が統治した
 ↓↑
 3世紀中頃
 ゲルマン人の一派
 「ゴート族」
 が
 クリミアでローマ人とボスポロス王国を攻撃
 クリミア半島流入の
 「クリミアゴート族」
 は16世紀頃まで独自の文化と社会を保った
 ↓↑
 3世紀末
 ローマ軍の駐屯地放棄
 ↓↑
 中世
 ケルソネソス(セヴァストポリ)
 の遺跡に建つ
 聖ウラジーミル大聖堂
 遊牧民の流入
 ローマ人撤退後
 フン人(376年)
 ブルガール人(4~8世紀)
 ハザール人(8世紀)
 キプチャク(10世紀以降)
 と遊牧民族の征服と支配
 クリミア半島北部のステップは
 スキタイ以来
 遊牧民が支配した南ロシア草原と一連で
 インド・ヨーロッパ語族の
 イラン諸語に代わって
 この地域の遊牧民の言語となった
 テュルク諸語が話されるようになった
 ↓↑
 1025年
 東ローマ帝国
 10世紀中頃
 クリミア半島の東部は
 ハザールを滅ぼした
 「キエフ大公国」
 の
 「スヴャトスラフ1世」
 によって征服
 チェルニヒウ地方の
 「ルーシ」
 の
 「トムタラカニ公国(トムトロカン公国)」
 の一部となった
 988年
 「ウラジーミル1世」
 が東ローマ帝国の都市
 「ケルソネソス(セヴァストポリ)」
 を占領しキリスト教に改宗
 9世紀~11世紀
 半島の南端部は
 「ビザンチン帝国(東ローマ帝国)」
 の支配下に置かれた
 東ローマ帝国は
 ここに軍管区の
 「テマ・ケルソン」を設置
 ↓↑
 モンゴルの征服
 中世後期のクリミア
 「キエフ大公国」
 と東ローマ帝国は
 13世紀前半の
 モンゴルの
 「ルーシ侵攻」によって
 クリミア半島における支配権を喪失
 1238年夏
 チンギス・カンの孫
 「バトゥ」
 率いるモンゴル軍はクリミアに侵入
 1240年
 「キエフ」
 を破壊
 ↓↑
 13世紀
 イタリアの
 ジェノヴァ共和国
 ヴェネツィア共和国
 が
 クリミア南端の黒海沿岸に整備した港を奪い取り
 「チェンバロ(バラクラヴァ)」
 「ソルダイア(スダク)」
 「チェルコ(ケルチ)」
 「カッファ(フェオドシヤ)」
 などを建設
 ↓↑
 1239年~
 クリミアは・・・栗実味蛙・句理視丫
 モンゴル帝国の分枝
 「ジョチ・ウルス」の
 「テュルク=モンゴル系諸部族(タタール)」
 に支配された
 ↓↑
 半島の名称
 「クリミア(英語Crimea
       仏語Crimee
       独語(クリム・Krim)
       露語(クルィム)」
 は
 「テュルク系言語」の
 「クルム(クリミア・タタール語: Qırım, トルコ語: Kırım)」
 に由来し
 ジョチ・ウルス時代
 クリミアの中心都市
 内陸の
 「ソルハット(スタールイ・クルイム)」
 の別名から半島全体の呼称になった
 ↓↑
 1346年
 モンゴル軍がジェノヴァ支配下の
 「カッファ(フェオドシヤ)」包囲中に
 疫病で死んだ兵士の死体を
 城壁内に投げ込んだことが
 14世紀ヨーロッパの
 「ペスト大流行」の原因となった・・・説
 ↓↑
 14世紀ごろ
 東ローマ帝国系の国家
 「テオドロ公国」
 が、クリミア半島の南西部で独立
 首都は
 「マングプ」
 オスマン帝国に滅ぼされるまで
 東ローマ帝国の命脈を保った
 ↓↑
 近世
 15世紀中頃
 内陸部は
 クリミア・ハン国領
 南岸は
 ジェノヴァ領の諸港
 山間部は
 クリミアゴート族勢力が残存
 ↓↑
 1600年頃
 半島南端の旧ジェノヴァ領は
 オスマン帝国の直轄領になっていた
 ↓↑
 クリミア・ハン国(1441年–1783年)・・・栗実婀・飯語句
                     庫裏味亜・ご飯
                     句理診倦・誤判?
 1395年
 「トクタミシュ・ハン」
 が
 「ティムール」
 に敗れて没落
 ジョチ・ウルスの分裂
 クリミアにいた
 タタールの諸部族は
 1441年
 「チンギス・カン」
 の末裔(バトゥの弟トカ・テムルの子孫)
 「ハジ・ギレイ」
 をハンとして
 クリミア・ハン国を形成
 都は
 「クルク・イェル」
 16世紀初め
 「バフチサライ」
 へ移った
 ↓↑
 クリミア・ハン国
 支配圏は黒海北岸のステップ一帯に広がり
 東はクバンから
 西はドニエストル川まで及んだ
 内紛で
 クリミアの諸部族は
 オスマン帝国の
 「メフメト2世」
 に援軍を要請し
 1475年
 大宰相
 「ゲディク・アフメト・パシャ」
 率いるオスマン軍が
 クリミア南部の
 ジェノヴァ領諸都市を攻め落とした
 ↓↑
 内紛で
 「カッファ(フェオドシヤ)」
 に逃げ込み
 ジェノヴァ人の捕虜になっていた
 「ハジ・ギレイ」の子
 「メングリ・ギレイ」
 は、イスタンブールに連れ去られて捕虜となったが
 のちにオスマン帝国への忠誠を誓って解放されて復位し
 「クリミア・ハン」国は
 オスマン帝国の属国となった
 クリミア・ハン国は
 オスマン帝国から自治権を認められ自主的な統治を行った
 ハン国支配下の部族民からなる騎兵は
 ウクライナへの襲撃を繰り返し
 捕虜を奴隷とし
 オスマン帝国の市場に供給した
 1450年~1586年
 86回
 1600年~1647年
 70回の襲撃
 1570年代
 年間に2万人近い奴隷が
 「カッファ」
 で取引されていた
 ↓↑
 クリミア・ハン国統治下の諸民族
 クリミア・タタール人
 15世紀~18世紀
 クリミア・ハン国
 の統治下にあった人々により民族を形成
 8世紀以来、クリミア半島に流入した
 「テュルク系民族」の末裔で
 「クリミア・ゴート」人や
 「ジェノヴァ」人
 他の諸民族も混成・・・
 クリミア・ハン国の人々は
 クリミア半島中央部
 黒海北岸の
 「ノガイ」の二大グループに分かれていた
 タタールは主に農民
 遊牧民は
 「ノガイ」
 のみであった
 イスラム教スンナ派を
 信仰するクリミア・タタール人に混じって
 ユダヤ教カライ派を信仰し
 テュルク系言語のカライム語を用いる
 クリミア・カライム人も13世紀から確認
 彼らは主に
 「チュフトカレ」の山岳地帯に居住
 他に
 「ラビ派ユダヤ教徒」で
 テュルク系言語のクリムチャク語を話す
 「クリムチャク人」
 ビザンティン以来のキリスト教正教徒
 クリミア・タタール語を話す
 「ウルム人」
 同じく正教徒の
 「ギリシア人」
 アルメニア教会に属する
 「アルメニア人」
 などがクリミア半島で暮らしていた
 ↓↑
 ウクライナ・コサック
 クリミア・ハン国が形成された
 15世紀頃
 モスクワ大公国
 リトアニア大公国
 ハン国との間の緩衝地帯
 ステップ(ウクライナとロシアの南部)
 に住み着いた正教徒の人々が
 コサック(コザーク、カザーク)
 と呼ばれる武装集団を形成した
 1550年代
 ウクライナ・コサックのヘトマン
 ドミトロ・ヴィシネヴェツキー
 は
 コサックを軍事組織化し
 ドニエプル川の中洲に
 タタールの侵入に対抗するための要塞を建設
 形成された
 「ザポロージャ・シーチ」のコサックは
 クリミア半島
 オスマン帝国
 への襲撃を行った
 コサックが
 ポーランド
 リトアニア共和国
 からの自立を目指した
 「フメリニツキーの乱(1648年~1657年)」
 では
 ヘトマンの
 「ボフダン・フメリニツキー」
 はクリミア・ハン国と同盟して挙兵したが
 度々タタール軍に裏切られたことから
 「ペレヤスラフ協定(1654年)」
 でロシアと同盟を結び
 「ヘーチマン国家」の保護国化を招いた
 1783年
 ロシアの併合
 1682年
 第二次ウィーン包囲により
 大トルコ戦争開始
 ロシアも参戦し
 「露土戦争(1686年~1700年)」
 を有利に進め
 1700年
 「コンスタンティノープル条約」締結
 ロシアとオスマン帝国の間で直接結ばれたこの条約
 クリミア・ハン国は
 13世紀以来
 伝統として要求してきたロシアからの貢納の取り立てを禁じられた
 1774年
 「露土戦争(1768年~1774年)」
 に敗れたオスマン帝国は
 「キュチュク・カイナルジ条約」
 でクリミア・ハン国の宗主権を放棄させられ
 独立した
 クリミア・ハン国は
 ロシア帝国の影響下に入った
 1778年
 ロシアによって正教徒の住民が
 クリミアから
 アゾフ海北岸の
 「マリウポリ」周辺に強制移住させられた
 1783年
 ロシア帝国は
 「キュチュク・カイナルジ条約」
 を破棄し
 クリミア・ハン国を併合
 ↓↑
 ロシア帝国期(1783年~1917年)
 ロシア帝国統治下の
 ノヴォロシア
 クリミア
 ロシア皇帝
 「エカチェリーナ2世」
 1784年2月2日
 勅令を発し
 クリミア半島
 南ウクライナ
 を
 タヴリダ州とした
 「タヴリダ」
 の名前はギリシア語の古名「タウリカ」から
 州都は当初
 「カラスバザル」に置かれ
 後に
 「シンフェロポリ」
 へ移された
 ↓↑
 1802年
 皇帝「パーヴェル1世」
 旧クリミア・ハン国領の行政区画を改定
 「シンフェロポリ」を県都とする
 「タヴリダ県」を設置
 クリミア半島全域の25,133 km2
 南ウクライナの本土部分38,405 km2
 を管轄
 ↓↑
 19世紀
 ロシア人
 ウクライナ人
 ドイツ人(クリミア・ドイツ人)
 が流入
 クリミア・タタール人の人口が多数
 他に
 ユダヤ人(クリムチャク人・クリミア・カライム人を含む)
 ブルガリア人
 ベラルーシ人
 トルコ人
 アルメニア人
 ギリシア人
 ジプシー
 が居住
 ↓↑
 クリミア・タタール人は
 南部山岳地帯における多数派
 中央部ステップ地帯のおよそ半数
 ロシア人は
 フェオドシヤ地区に集住
 ドイツ人とブルガリア人は
 19世紀の前半に移住し
 豊富な資金と肥沃な土地を与えられ
 裕福な植民者として
 北部ペレコープ
 西部エフパトリヤ
 を中心に土地を取得
 ↓↑
 フランツ・ルボー
 「セヴァストポリ攻囲戦」
 (1904年)
 クリミア戦争
 1853~1856年
 オスマン帝国の分割に伴う勢力圏を
 ヨーロッパの列強が争った一環として
 フランス、イギリス
 オスマン帝国
 サルデーニャ王国
 ナッサウ公国
 の連合軍と
 ロシア帝国が激突
 ↓↑
 オスマン帝国の属国
 「ワラキア・モルダヴィア」
 と黒海で始まり
 1854年9月
 同盟軍がクリミアに上陸
 黒海艦隊の母港
 「セヴァストポリ」
 に進軍
 1855年9月
 セヴァストポリ攻囲戦
 陥落で決着
 ↓↑
 クリミア・タタール人は
 戦火の中で迫害や土地の収奪から逃れ、故郷を離れた
 逃避行、飢餓と病気を生き延びた人々は
 ドブロジャ
 アナトリア
 などの
 オスマン帝国領内に移住
 ↓↑
 1905年
 ロシア第一革命
 黒海艦隊の船員と
 セヴァストポリ駐屯地の兵士
 港の労働者
 らが武装蜂起
 ロシア全土で政治的ストライキ拡大
 クリミアでは大騒動
 ↓↑
 ヤルタ
 北緯44度29分58秒
 東経34度9分19秒
 ↓↑
 14世紀
 ジェノヴァ商人によって
 エタリタ(Etalita)
 ガリタ(Galita)
 と呼ばれた
 ↓↑
 12世紀
 ビザンチン帝国の漁港
 1475年
 オスマントルコ帝国に征服
 ↓↑
 1783年
 ロシア帝国に併合
 ↓↑
 1911年
 ニコライ2世が南西にリヴァディア宮殿を建設
 ヤルタ=岸辺・・・耶留他
 ↓↑
 1941年11月4日
 内務人民委員部(NKVD)
 ヤルタ刑務所の全囚人を射殺

  ↓↑
 「ツバメの巣城(Swallow's Nes・Schwalbennestt)」
 「 ツバメの巣 (ウクライナ語: Ластівчинегніздо
              ラストチキノヒニズド
         つばめ=ラーシカ?
             ラースタチュカ=ластівка
        ロシア語: Ласточкиногнездo
             Lastochkino gnezdo」
        つばめ=ラーストチカ(Ласточка)
  Castle of Love
 クリミア半島の
 ヤルタ
 と
 アルプカ
 の間の小さな温泉町
 ガスプラに位置する装飾的な城
  ↓↑
 「ツバメの巣 (ヤルタ)」・・・鳦(乙鳥・玄鳥・燕・鷰・津羽目)
               燕國=公孫淵・燕京=北京
 クリミア半島のシンボル
 帝政末期
 1912年
 バルト・ドイツ人貴族によって
 ネオ・ゴシック様式で建設

 「燕来る 時になりぬと
  雁がねは 国偲(しの)ひつつ
  雲隠り鳴く(『万葉集』巻19-4144)」
 ↓↑
 原文 燕来 時尓成奴等
    鴈之鳴者
    本郷思都追
    雲隠喧
 ↓↑
 訓読 燕来る時になりぬと
    雁がねは
    国偲ひつつ
    雲隠り鳴く
 ↓↑
 仮名 つばめ くる ときに なりぬと
    かり がね は
    くに しのひ つつ
    くも がくり なく
 ↓↑
 巻   第19巻
 歌番号 4144番歌
 作者  大伴家持
 題詞  見歸鴈歌 二首
  ↓↑
 「のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ
  屋梁(はり)にゐて
  たらちねの母は
  死にたまふなり
  (斎藤茂吉『赤光(シャッコウ)』)」
  ↓↑
 「ツバメの巣城(Swallow's Nest・Schwalbennest)」
 「ヤルタ」
 クリミア半島のシンボルの城
 帝政末期の
 1912年
 バルト・ドイツ人貴族によって
 ネオ・ゴシック様式で建設
  ↓↑
 ロシア内戦期(1917年~1921年)
 「ロシア内戦」
 「クリミア半島におけるテロ事件 (1917~1918)
 第一次世界大戦
 1917年
 ロシア革命の後
 クリミアの軍事・政治は混乱
 ロシア内戦の間
 クリミアでは何度も統治者が交代
 一時期は
 白軍(反革命側)の最後の牙城
 ↓↑
 クリミアを統治した諸政権
 ↓↑
 クリミア地方政府が発行した25ルーブル紙幣
 クリミア人民共和国
 1917年12月~1918年1月
 クリミア・タタール人が主導
 ↓↑
 タヴリダ・ソビエト社会主義共和国
 1918年3月19日~4月30日
 ソビエト政権
 ↓↑
 ウクライナ人民共和国
 1918年5月~6月
 ドイツ帝国の支援を受けて統治
 ↓↑
 クリミア地方政府(第一次)
 1918年6月25日~11月25日
 ドイツに擁立された
 リプカ・タタール人の将軍
 「マツェイ・スリケヴィチ」政権
 ↓↑
 クリミア地方政府(第二次)
 1918年11月~1919年4月
 ドイツ撤退後
 カライム人の元立憲民主党員
 「ソロモン・クリム」
 が首班の
 「反ボリシェビキ政府」
 ↓↑
 クリミア・ソビエト社会主義共和国
 1919年4月~1919年6月
 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
 の一部を構成するソビエト政権
 ↓↑
 南ロシア政府
 1920年2月~4月
 白軍のデニーキン将軍の政府
 ↓↑
 南部ロシア政府
 1920年4月(正式には1920年8月16日)–11月16日
 白軍の
 「ヴラーンゲリ」将軍の政府
 「ヴラーンゲリ」将軍が率いる白軍にとって
 ネストル・マフノの
 パルチザンと
 ミハイル・フルンゼが率いる赤軍に対する
 最終防衛地となったのがクリミア
 白軍の抵抗は
 1920年
 「ペレコープ=チョーンガル作戦」
 により撃滅され
 反革命派兵士が船で
 イスタンブールへと脱出
 ↓↑
 「クリミア半島の赤い恐怖」
 ソビエト連邦期(1922年~1991年)
 戦間期
 「クリミア自治ソビエト社会主義共和国」
 1921年10月18日
 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の構成国
 クリミア自治ソビエト社会主義共和国発足
 クリミアは新生ソビエト連邦の一部
 自治共和国は
 当時クリミアの人口の
 およそ25%にまで減少していたクリミア・タタール人たちを
 1930年代以降の
 「ヨシフ・スターリン」
 による強権政支配から
 保護するための体制としては機能しなかった
 数の少ない
 ギリシア人も犠牲
 彼らの耕地は
 「農業の集団化(コルホーズ)」
 の過程で取り上げられ
 金銭的補償は与えられなかった
 自治共和国の主体民族ではなかったギリシア人は
 資本主義国家であるギリシアと
 関係が深い「反革命的」民族と疑われ
 ギリシア語学校は閉鎖され独自文化が抑圧された
 クリミアは
 1921年
 1932年
 ホロドモール
 と2度の深刻な飢饉
 1930年代
 ソビエトの地域開発計画に基づき
 スラブ系人口の大幅な増加
 住民構成の変化は
 地域の民族間バランスを根本的に変容
 ↓↑
 第二次世界大戦
 クリミアは独ソ戦の激戦地の一つ
 東ヨーロッパの
 スラブ人を駆逐し
 ドイツ人を植民する
 東部総合計画に基づき
 ナチス・ドイツは
 東方生存圏の一部として
 クリミア半島を征服、植民
 1941年夏
 クリミア占領の
 「ドイツ第11軍」
 は
 クリミア半島を
 ソ連本土と結ぶ
 ペレコープ地峡に迫り多大な犠牲を出した
 ドイツ軍は
 半島のほぼ全域を制圧し(トラッペンヤクト作戦)
 セヴァストポリを残すのみとなった
 赤軍は戦死または捕虜となった17万人の兵員を失い
 3個軍団(第44、47、51軍)
 21個師団が壊滅
 ↓↑
 クリミア
 「ヤルタ会談」
 ウィンストン・チャーチル
 フランクリン・ルーズベルト
 ヨシフ・スターリン
 ↓↑
 「セヴァストポリ包囲戦」
 1941年10月~1942年7月3日に陥落
 クリミア全域を支配したドイツは
 1942年9月1日
 クリミア行政地区を設置
 地区行政委員に
 「アルフレート・エドゥアルト・フラウエンフェルト」
 を任命し
 ウクライナの国家弁務官の下においた
 クリミアには
 「アインザッツグルッペンが」派兵
 多くのユダヤ人を虐殺
 クリムチャク人は
 人口の75%が殺された
 ↓↑
 ナチス・ドイツ
 の戦略と
 ルーマニア軍
 イタリア軍
 による支援にもかかわらず
 クリミアの山間部には
 地元レジスタンス(パルチザン)が篭る要害が
 半島が解放されるまで未占領のまま抵抗
 1944年
 赤軍はペレコープ地峡を封鎖
 クリミア攻略開始
 ドイツ軍は敗北
 セヴァストポリまでソ連に奪還されたが
 セヴァストポリの都市機能は完全に破壊された
 ↓↑
 独ソ戦末期
 1945年2月
 第二次世界大戦の
 戦後処理を決定した
 「ヤルタ会談」が
 クリミア半島の
 「ヤルタ」で開催
 ↓↑
 クリミア・タタール人の追放
 クリミア解放直後の
 1944年5月18日
 スターリンのソ連政府
 クリミア・タタール人の全員を
 中央アジアへと強制移住
 追放は
 ナチス・ドイツの占領軍に
 協力した者がいたことを理由に
 民族ぐるみの制裁として行われ
 移住の過程で
 タタール人のおよそ半数に当たる
 10万人が飢えと病気で命を落とした
 1944年6月26日
 アルメニア人
 ブルガリア人
 ギリシア人
 も同様に中央アジアへ追放
 独ソ戦初期
 すでに追放されていた
 クリミア・ドイツ人
 も含めて
 1944年夏までに
 クリミアにおける
 「民族浄化」が完遂
 スターリン死後も彼らの帰還は認められず
 1967年
 民族の権利が回復され少数の家族が
 クリミアに戻ることを許されたが
 本格的な帰還は
 ソ連末期まで法的に禁止されていた
 1945年6月30日
 クリミア自治ソビエト社会主義共和国廃止
 クリミア州が設置
 ↓↑
 第二次世界大戦後
 1954年2月19日
 ソビエト連邦最高会議幹部会
 クリミア州を
 ロシアから
 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管する決定
 この決定はウクライナ出身の
 「ニキータ・フルシチョフ」
 ↓↑
 戦後
 新たに旅行者向けの
 アトラクション
 保養所
 が開発され、観光地になった
 1989年
 160万人のロシア人
 62万6000人のウクライナ人
 が半島に居住
 ↓↑
 ソ連崩壊
 ウクライナ独立
 1991年
 「ペレストロイカ」開始後
 クリミア・タタール人の帰還運動
 ソ連中央政府は委員会において
 タタール人のための
 自治共和国を再興する要求を
 1988年に却下したが
 1991年1月20日
 クリミア州住民による住民投票が実施
 2月12日
 ウクライナ議会によって
 クリミア自治ソビエト社会主義共和国
 再建
 ↓↑
 1991年8月19日
 「ソ連8月クーデター」
 クリミア半島
 フォロスの別荘で休暇中の
 「ミハイル・ゴルバチョフ」
 大統領が軟禁
 クーデターの失敗により
 ソ連崩壊が早まり
 8月24日
 ウクライナ議会は独立宣言を採択
 12月1日
 ウクライナの完全独立の是非を問う住民投票が行われ
 ロシア系住民が過半数を占める
 クリミアでも有効投票の過半数となる
 54%が賛成票を投じた
 12月25日
 「ゴルバチョフ」
 大統領を辞任
 クリミアは完全独立の
 ウクライナの一部となった
 ↓↑
 クリミア自治共和国
 1992年~
 ウクライナは
 クリミアに自治共和国を復活させ
 クリミア・タタール人の帰還が許可され
 クリミアの全人口の約1割を占めた
 ↓↑
 1992年5月5日
 クリミア議会はウクライナからの独立を決議
 クリミア共和国を宣言
 ウクライナ議会は
 5月15日
 独立無効を決議
 黒海艦隊の基地として
 ロシアは独立を支持
 5月21日
 クリミアのウクライナ移管を定めた
 1954年の決定は違法とする議会決議
 ロシアから
 独立宣言したチェチェン共和国に対し
 1994年にロシアが武力鎮圧を開始
 自国からのチェチェンの独立を禁圧しながら
 ウクライナからの
 クリミアの独立を支持するのは
 自己矛盾であるとの国際的批判
 ロシアは
 クリミア独立運動への支援を取りやめた
 ↓↑
 クリミアの自治権
 1996年に制定されたウクライナの現行憲法で再確認され
 クリミア自治共和国の設置が規定されたが
 同時にクリミア半島は
 「ウクライナの不可分な構成部分」
 とされ、自治共和国の離脱権は否定された
 1998年
 ウクライナ憲法の枠内で
 クリミア自治共和国憲法が制定された
 ↓↑
 ロシアによる
 クリミア併合宣言
 2014年
 キエフにおける騒乱
 ロシアのクリミア侵攻
 クリミアの帰属問題再燃
 ↓↑
 3月11日
 クリミア自治共和国最高会議(議会)
 セヴァストポリ特別市評議会(市議会)
 は、クリミアおよびセヴァストポリ独立宣言を採択
 ウクライナからの一方的な独立を求めた
 16日
 ロシアと親ロシア派の
 監視下のもと実施された住民投票では
 ロシア編入が多数派となり
 17日
 クリミア自治共和国
 が
 セヴァストポリを特別都市として
 包括したクリミア共和国として独立
 ロシアへの編入を求める決議を議会が行った
 3月18日
 ロシア連邦大統領
 「ウラジーミル・プーチン」
 クリミア併合を宣言
 クリミア・セヴァストポリの代表との編入条約に署名
 ↓↑
 ロシア実効支配下で
 ロシア連邦政府は
 クリミアで軍事施設を再開・増設
 クリミア・タタール人らを弾圧
 ↓↑
 ロシア連邦政府は
 クリミアの東側にある
 ケルチ海峡に
 クリミア大橋をかけて
 ロシアとの人・物資の往来をしやすくしたが
 クリミアでの民生に支障
 北クリミア運河を経由して
 ウクライナ本土から供給されていた水が不足し
 地下水の過剰汲み上げによる塩害が発生
 軍用道路や住宅の建設のため
 自然保護区域が破壊されている
 ↓↑
 2022年2月24日
 ロシア連邦軍が
 クリミアから
 ウクライナ本土南部に攻撃・進軍
 ウクライナ東部のロシア側支配地域
 と
 クリミアをつなぐ
 アゾフ海北岸の回廊を確保したと主張
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑

 移転したボクの「HP」の(中途半端な)目次 

 ボクの動画・YouTube

 「プラトン古事記をカタル」は少しづつ移転

 「プラトン古事記をカタル」+「表紙・画像・音楽」

 本日の「干支歴」

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「プーチンのテーマ」・・・?

2022-04-29 04:02:39 | 古事記字源


「殺し屋のテーマ」

 衝撃波は超音速の物理現象だが超光速には衝撃波は無い?
 「殺し屋のテーマ」って・・・「プーチンのテーマ」・・・?
 「軍事作戦=侵略」・・・「住居侵入+殺傷+強奪+凌辱」・・・?
 他に方法がなかった・・・「虚偽・詐偽」
 他に選択肢がなかった・・・「詭弁・詐称」

 ↓↑
 ・・・侵略か、防衛か・・・?
 政治の延長・・・戦争決着・・・暴力的殺傷勝敗
         政治目的=スラブ民族三位一体・ネオナチ打倒・・・?
              オマエが「Z」=「卐」だろうッ
 口論の延長・・・恫喝、威喝後の一方的な暴力行為・・・での決着?
         原爆使用をチラつかせての恫喝・・・
 ・・・「正当防衛」・・・「不可正当防衛」?
 ・・・侵略された烏克蘭(ウクライナ・Ukraine)の「反撃」が
 強烈な武器使用なら
 「過剰防衛」だってか・・・ダレダ・・・オマエ、腐汚塵・・・
 オマエは
 「過失殺傷罪」だってか・・・ダレダ・・・オマエ、腐汚沈・・・
 プーチンは「獣道禍」の黒帯格闘家、素手で戦っているとしても・・・殺人鬼
  ↓↑
 自招侵害(ジショウシンガイ)
 正当防衛をするような状況を作り出すこと・・・?
  ↓↑
 「緊急避難」での権利侵害(窃盗)は無罪・・・

  ↓↑
 「市民社会」での
 正当防衛(仏語: legitime defense)
 「急迫不正」の侵害に対し
 自分または他人の
 生命・権利を防衛するため
 やむを得ずにした行為・・・???
  ↓↑
 「やむを得ずした行為」
  必要性と相当性がなければ・・・
 「正当防衛」とは認められない
 ・・・多に選択の手段があった・・・
 相手の暴力を回避する為に
 「逃避行動」があった・・・?
 「逃げ場」がない所にバンカー爆弾・・・
 地中貫通爆弾(Bunker Buster・バンカーバスター)
 ↓↑
 権利侵害=生命、身体、財産などに対する
      加害行為=暴力・殺傷・窃盗・強奪・掠奪
     「生命>身体>財産」の維持保全
 ↓↑
 急迫性=権利侵害行為が切迫・進行形で発生しつつある事態
     暴力行為者の拘束=正当防衛
     拘束状態で相手に暴行、傷害を与えると暴行罪・傷害罪
     ↓↑
     特定の相手から攻撃されることを
    「予想(妄想?)」し
    「先制攻撃」を行うことは
    「急迫性が否定」され
     &
    「自己防衛の意思が否定」
    される・・・

  ↓↑
 「テーマ」
 行動や創作などの基調となる考え
 ドイツ語の「Thema(テーマ)」・主題・論題
 英語は「theme(シーム)」
 スペイン語「 tema(テーマ)」
 主題
 論文の題目
 楽曲の主旋律
 催し・創作などの基調として
 その全体を通して表わそうとした考え、思想、観念
 主題
 文学、美術、映画などの作品の主題
 「コンセプト」・・・概念・商品企画などの基本的かつ統一的な考え方や視点
           コンセプト(concept)=概念・観念
           conceive(心に抱く)の名詞形
           全体を通して一貫した基本的設定構想
           コンセプトは単なる「目的」ではなく
           終始一貫してブレることのない基本的な方向性・・・?
           概念=category(カテゴリー)=範疇・本質
              種類・範疇・部類・部門・領域・分野
              言語認識での
              一般、特殊、個別性の分別、区別性
             =命題の要素となる項・・・?
              ドイツ語の「Konzept(コンツェプト)」
              物事の概括的な意味内容
 「テーマ」・・・・・主題・芸術作品などの中心となる主張的思想内容
 「コンセプト」・・・テーマに対する始~終、終~始の一貫性の構想・・・
 ↓↑
 殺し屋のテーマ
 ペリー・ボトキン
https://www.youtube.com/watch?v=17nlnm0PSwI

 衝撃波は超音速の物理現象だが
     超光速には衝撃波は無い・・・?
     超光速は存在しないから・・・?

 ↓↑
 冬星座
 スパンコールの散りみて
 ささやく如く
 煌めきて見ゆ
 (日下 芙蓉・田園・九号・昭和五十九年四月一日)

 ↓↑
 スパンコール
 光を反射させるために使用する服飾資材
 穴の空いた金属やプラスチックの小片
 スパングル (spangle)
 シークイン (sequin)
 パイエット(仏: paillette)

 スパンコール=spangle の日本語訛り
 ペルシャ湾沿岸で使用
 アラブの
 硬貨シッカ (sikka) に似た装飾品
 様々な形状のものがある
 直径6ミリメートル程度の中央に
 穴の空いた円形のものが多く
 糸を通してリボン状にしたもの
 衣服や装飾品に縫い付けて使用
 亜鉛鍍金で
 表面にスパングルと呼ばれる
 花模様の結晶ができる

ーーーーー
 2022/4/26・火曜日・・・追加添文・・・

 「Ⅰ(アイ)」の造形・象形・・・
    逢=辶+夆
        夆=ホウ・ブ
         さからう・あう・ひく・ひっぱる
      辶+夂+丰・・・丰采(フウサイ)=美貌・美容
      辶+夂+三+丨
        攵=ホク・ボク=たたく=攴・叩く・敲く
        夂=チ=おくれる=遅れる・遅刻・遅滞
        夊=スイ=夂= 夊
        ふゆがしら・ち・すいにょう・なつあし
        ゆっくり行く・ゆっくり歩く
        足をひきずるようにゆっくりと歩いて進む                  
      辶+夂+二+一 +丨
    「I(アイ)」⇔「l(エル・L)・ℓ(リットル)」
                 L⇔乚=乙 
      姶(みめよい・アイ・オウ)
      娃(美女・アイ・ア)
      阿姨(アイ)・Aunt
      母親の姉妹、母方のおば・母親と同年輩の女性に対する呼称
      おばさん・おばちゃん
      乳母 ( うば ) ・保母・maid(女中)
                 メイド・・・made(make)⇔名句
                 冥途(the other world・hell)
                 明度(brightness)
        eye(アイ)⇔目=め=女
    間(カン)=あい-だ
         =英田⇔英拿・・・
          英=はなぶさ=花房・萼・纐纈・・・英国
 ↓↑
「阿那 邇夜 志愛-袁登古-袁
 (あな にや しえ-をとこ-を)」・・・?
 伊邪那美命
 先言
 「阿那 邇夜 志愛-袁登古-袁
 後 伊邪那岐命 言
 「阿那 邇夜 志愛-袁登賣-袁
 (あな にや しえ-をとめ-を)」・・・?
  ↓↑
  阿那 邇夜  愛  袁登古
  (あな にや  えし をとこ)
  阿那 邇夜  愛  袁登志賣
  (あな にや  えし をとしめ)
 ↓↑
 各言 竟之後
 告其妹 曰
 女人 先言 不良
 伊邪那美命
 ↓↑
 陰神 乃先唱曰
   姸哉、可愛少男歟
   姸=女+幵・・・幵=平にする=干+干
   开=一+廾=開・・・開閉(カイヘイ)
       一 +丿+丨
     开(あ)く・・・形(かたち)・研(とぐ)
             人形・形象  研究・研摩
     开(あ)ける
     开(ひら)く
     开(ひら)ける
     开(はだ)かる
     开(はだ)ける
 陽神 後和之曰、姸哉、可愛少女歟
 遂 爲夫婦、先生 蛭兒
 姶 「阿那 邇夜 志愛-袁登古-袁」
ーーーーー
 ・・・???・・・
 whiter(ホイッター)=white(白い)の比較級.
 Whiter Shade of Pale
 青ざめた・青白い・蒼白な・白に近い色調
 青い影(A Whiter Shade of Pale)
 プロコル・ハルム(Procol Harum)
 「男のもとを去ろうとする女の歌」・・・?
 ↓↑
 one of sixteen vestal virgins
 「16人のヴェスタの処女たち」のひとりのように
 who were leaving for the coast
 海岸に向かって発っては欲しくなかったんだ
 and although my eyes were open
 それに私の目は開いているはずなのに
 they might have just as well've been closed
 まるで双眸が閉じているかのようだった
 ↓↑
 And so it was that later
 それからしばらくしたあとだった
 as the miller told his tale
 粉挽きの男が身の上話をすると
 that her face, at first just ghostly,
 はじめは幽霊のように青白かった彼女の顔が
 turned a whiter shade of pale
 さらに青ざめていったんだ
ーーーーー
 ???・・・血の気が退(ひ)いていく・・・ってカンジ・・・
 引き潮(仏: Liza・伊: La cagna)・・・潮が退いていく・・・
 引き潮 フランク・チャックスフィールド   Ebb tide
 Le Sauvage(1975) ~うず潮~ Michel Legrand

 Desmond: Take Five / The Dave Brubeck Quartet, Live in Belgium, 1964
https://www.youtube.com/watch?v=JXi3rHqnAIU

 You Raise Me Up ユー・レイズ・ミー・アップ
 アンタがいればこそ・アンタのオカゲ
https://www.youtube.com/watch?v=a2Ko0k2c33A
   ↓↑   ↓↑

 移転したボクの「HP」の(中途半端な)目次 

 ボクの動画・YouTube

 「プラトン古事記をカタル」は少しづつ移転

 「プラトン古事記をカタル」+「表紙・画像・音楽」

 本日の「干支歴」

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タメシて移転目次

2022-04-28 14:07:10 | 古事記字源
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「日下」と「帯」の 読み方・・・

2022-04-27 11:27:38 | 古事記字源

 現存・古事記・漢字源の世界・再五考 

プラトン古事記をカタる

 そして
 日本地図を作成した

 伊能忠敬→「アトラスアン(地図製作者)」であった・・1820年文政三年死去
           亜虎(寅・於兎)、州、案・・・異能のヒトで、
                        アルキづくめのアルキメデス
   「足の軽い名人」だったかも・・・「軽度」なのか「緯度」なのか・・・?「会稽、東冶の東」
    「足軽」からの立身出世は「豊臣秀吉」と「伊藤博文」でもあった・・・

   日本列島、弓の形・・・
   伊能忠敬のおじいちゃん、スゴイ!

 

    アレキメデス(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης)
     ↓
     ↓アレ・キメ・デ・ス→(稗田)阿礼・記目(決め)・出・諏(素・州)
    アルキメデス(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης)
     ↓アル・キ・メ・デ・ス→或る・記・女・出(弟)・諏(主・数)
     ↓
    シラクサの→白草→城草→稲城→佐本媛(垂仁天皇)
    アルキメデス( Archimedes of Syracuse、
     ↓
     ↓ 紀元前287年~ 紀元前212年)
     ↓             ↓
     ↓       日本書紀の元の前、弐百壱拾弐
     ↓                    ↓
     ↓       次はモモ、壱(輿)が足(重)なる(東)冶
     ↓
    古代ギリシアの数学者、 物理学者、技術者、発明家、天文学者
    「シシリー島」で生まれ→シシリィ→獅子理意
    「シラクサの戦い」において、→しらくさ→視落差→瀧の瀑布
    共和制ローマ兵によって殺害→キョウワ=享和  鳴滝と幕府
   ↓                  ↓
   ↓1801(寛政13-享和元年・辛酉)二月五日享和に改元
   ↓三月. 幕府、伊能忠敬に伊豆等の 沿岸測量を命ずる
   ↓四月九日肥後国天草の百姓、
   ↓      熊蔵、田に現れた巨大な蟒と格闘(耳嚢).
   ↓      本居宣長死去・七十一才→翻意、宜しく、訳語
   ↓             七拾壱=七(漆)を拾う位置
   ↓1802年
   ↓享和二年・十返舎一九「東海道中膝栗毛」刊行
   ↓1803年       栗毛=西紀望・膝=月(肉・ジク)+黍(きび)
   ↓享和三年・前野良沢死去・八十才→米寿の差異→八方医のコトブキ(事部記)
     ↓     ナポレオン皇帝就任←虎     「蘭学事始・解体新書」
     ↓1804年文化元年二月十一日文化改元
     ↓       ロシア使節通商を求め長崎へ来航
     ↓1820年:文政三年・伊能忠敬死去
     ↓  ↓
     ↓壱千八百弐拾→位置(位地)を知る頗(よこしま)、百の念の撚
     ↓1828年文政十一年
     ↓       シーボルト事件
     ↓       三条大地震
     ↓
   享年、75歳→七拾五→史地を拾う語
   「砂の計算」→スナのケイサン→州名の稽の纂
   「幾何学理論(アルキメデスの無限小)」
   「牛の問題」にはエラトステネスに宛てた
   「序文」がある
   「Universal History」には
   70年前のアルキメデスの死が記されいるらしい

   アトラース(Atlās)は両腕と頭で天の蒼穹を支える巨人
   名前は「支える者」・「耐える者」・「歯向かう者」を意味する
   地図帳を「ア・トラ・ス」と呼ぶのは
   「16世紀にメ-カル-トが→壱拾六(位置拾う陸)の正規、目得架留得図
   地図帳の表紙としてこのア・トラ・ァ・スを描いたことに由来する」
     ↓         ↓
     ↓          阿・虎(斗等)・亜・州
   「地図」は異称漢字で「輿(ヨ・みこし・神輿・御輿)=臼+車+一+ハ」で
   二本の担ぎ棒、方形の天辺、頂上、頭には
   「夜明けを告げる鶏(にわとり)」が据えられている
   「一羽でもニワ鳥」とは、コレ、如何?・・・である

 「夜明けのスキャット」とは「ユキサオリ」・・・であった
 スキャット→ (Scat)とは、→「S字形のネコ」→すきゃっと→諏伽通斗?
 古代エジプトでは「ネコが神様」で、王様の名前も「ネコ王」が存在した
 真面目な説明は「主にジャズで使われる歌唱法(カショウホウ)で
 意味のない音声をメロディーにあわせて即興的(アドリブ)に歌う こと」 で
 「同音異字漢字」は
   「仮称法・加商法・寡少法・迦葉法」である。
    ↓
   「嘉祥元年・戊辰848年
         ↓
         七月十六日」とは→八百四拾八年七月壱拾六比
   「豊後大分郡・寒川」で「白亀」が捕獲、献上され、
   年号が
   「承和」から
   「嘉祥」に改元されたコトが「続日本紀」の記録にある。
   「戊辰」とは
   「明治の元年・戊辰戦争」でもあった。
   「嘉承元年」とは
   「長治三年」を→「長(おさ)」の「治(はる・ジ)」
               ↓
              訳語の「水(氵・シ)+台(ム口)」
              清水の次郎長(?)
   改元した「1108年丙戌」で、中国では
   「北宋・崇寧五年」
   「遼・乾統六年」
   「西夏・貞観六年」
   「大理国・文安二年」
   「李氏朝鮮・龍符六年」

 であった。
 そして「信西」が生まれた年でもあった。
      ↓
    「信西(しんぜい)」とは「法名」で、号は「円空」
    「藤原通憲(ふじわらみちのり)=高階通憲(たかしなみちのり)」
    である。「高階」姓は「七歳の時に養子」に入った縁戚の姓である
    「ぬぎかふる

     衣の色は

     名のみして

     心をそめぬ ことをしぞ思ふ(月詣和歌集)」と和歌を詠み

    表裏、本音を隠し、上辺の「策謀・策略」家で、権力を握った後は
   「薬子の乱(870年)」以後「346年間」廃止されていた

   「死刑」を復活させた
    「天文知識・占星術」も極めた人物であった
    「保元の乱(1156年)七月」を経
    「平治の乱(1159年)十二月」で自害し
    その首は「西の獄門」のに懸けられた

 「西」とは「酉支」で「トリ」ある。「神獣」は「白虎・麒麟」である

 ハナシは「伊能忠敬」の「地図=輿」であった、
  同義異称漢字の「輿(ヨ・みこし・神輿・御輿)=臼+車+一+ハ」の上に乗る
  「鶏(にわとり・ケイ)」のハナシであった。
  「地図」、「地理誌」とは地球、大地、宇宙を載せ、更に「鶏」を乗せる
 「坤輿」とは
 ・・・「易経」説卦の「坤(未申)を地と為し、母と為し、大輿と為す」から「大地」を大きな「輿=乗り物・載りモノ→法(のり・則・矩・紀・憲・朔)」に譬(例えた・比喩)えた語であるらしい。仏教で言う「大乗の仏法」である。「乗り物」だが、「海苔(のり・カイダイ・うみコケ・うみゴケ)=海(氵+毎)+苔(丱+ム+口)」と、「糊(のり)=米+胡(古+月)」とは異質である。海苔は海草、海藻、「カイソウ」で「回想・改装・廻漕・廻送・階層・会葬・改葬・怪僧」と解そう。それに乾燥させたモノは「黒い紙」のようだし、元々は糊のような液状である。接着剤の「糊」は「説地訳西」の接着の座位で「米→八方の胡人、西方人」と考えよう・・・
  「坤輿万(萬)国全図」は
  宣教師
  「マテオ・リッチ=利瑪竇(リマトウ)」が作成した
  漢訳版世界地図。
  地球球体説を基にして
  六枚一組にして、
  卵型の図形の中心に中国を描き、他に
  天文図なども含んだモノ
 1602年に北京で刊行され、日本にも輸入され、世界的な知識の吸収源とされ、リッチ死後に刊行されたものも含めて16種が知られているらしい・・・それで、「坤(未申=羊猿)」が「裏鬼門」の方角なのに何故、「地」で、「母」なのかは・・・その音が「裏の記文」で、漢字そのものの「坤(コン・ひつじさる)=土(十+一)+申(日+|)」である。「十一=壱拾壱(イチを拾う始)」、「申(日+|)」は日に立てる「|=棒」で「日時計」、同音異字の「コン」は「昏(たそがれ・黄昏)」である。「坤=昏」とは「昼夜=明暗の視界に於ける天地、天海の境目」であるからだ。
  「昏=氏+日」で、
  「氏」は「氐(テイ・タイ・もと・ふもと・ね・柢の古字→根本・根底)=氏+ー=木の根」の省略形で、
  地底、海底、地下の意味である。地下は「黄泉(よみ)の世界」である。
 「昏」は沈んだ日(太陽)の前後の夕暮れである。「氏(うじ・シ)」そのもの意味は
 「結婚した女(おんな)の母の姓に付ける字」である
女(おんな)の姓は変わらない、と言うことである。ならば

 「ひつじさる」は「比通字佐留」である

「輿(ヨ・みこし・神輿・御輿)」とは祖霊を運ぶ二本の担ぎ棒に設置された箱である
 この「輿(ヨ・こし)=臼+車+一+ハ)」は
     ↓
    「與(ヨ・あたえる)=臼+与+一+ハ」
   と類字で、類似である。
    「邪馬台国の宗女」の
    「壱与」の「壱(イチ)=士+ワ+ヒ(七)」は
    「壹與」の「壹(イチ)=士+ワ+豆(一口ハ一」と
    「臺(吉(十一口)+ワ+至)=台(ム+口)」
   と類似で、類字である。
   竜(龍・辰)宮城では釣り針が咽喉に刺さった
   「鯛=魚+周」はムクチ(ム口)であった。
   「現存・古事記」では
   無口な人物は「本牟田和気」と、
   「猿女(宇受女)」に口を裂かれた
   「海鼠=なまこ」であった。この「海鼠」の漢字分解は
   「海=氵+毎」+「鼠=臼+レ+冫(:;〃)+レ+冫(:;〃)+レ」
   「鼠」=「ソ・ねずみ・ねず・ね」→「子」
   「改竄」の「竄」とは「穴(あな・ケツ)の鼠(ねずみ・ソ)」
                      ↓
                 「ウ+八+臼+爪(ノレ:レ:レ)+=+=」

 歴史上、地球を輪切りにした「緯度」の概念を、その知識を確実に有し、実測し
 明確に知っていたのは、
 「伊能忠敬」
 であった。 だが、上に記した日本史的(指摘)な歴史上の事件は
 幕末から明治にかけて存在した「蘭学者・乱学者」である・・・
 ・・・・テモ、トテモの「712年・和銅五年七月七日」・・・は
 ・・・「コジキ」には無理である・・・なッ、「カツラ君」・・・

 「邪馬台国」の「邪」は「よこしま」とヨムのだが・・・
     ・・・九州で薩摩の邪魔な馬とは誰か?
             土佐の龍馬だった、かも・・・西郷隆盛
                        邁志(にし)←爾志の合の龍星
                        邁進(マイシン)の号の流星
              「邁志(マイシ)」を何故、にし」と訓むのか?
               蝸牛=マイマイ→田螺→谷氏
               ↓
             西郷軍から
             熊本城を死守したのは
             谷 干城(たに たてき・かんじょう)
             天保八年二月二十二日
             (1837年3月18日)~1911年 5月13日)
             土佐 藩士。
             通称は申太郎、守部。
             号は隈山。
             第2代 学習院院長。
             官位は陸軍中将
             正 二位勲一等
             子爵→シシャク→支杓→柄杓

 であった。九州、「西南」に幕末~明治にかけての「歴史的人物」の「事件」である。

 「現存・古事記」から私が推理した「日本・古代史」は次のごとくである。
 すなわち、「古事記」に展開されている「地理(輿)と人物(姓名)」は

 1、地理的な場所は阿蘇山を中心にした東西南北の「九州」である。
 理由は日本の九州は、中国大陸の「九州」とその「地名」が
 「故事的」に「音」をとって日本の九州に重ねられたからである。
 しかも、日本人にはおなじみの占ない、幕末から明治に活躍した
 高島易断の「九星学」は3x3=9のマトリックスの魔法(方)陣で、
 縦、横、斜の升目の合算が十五となる「方位学」の占ないである。
 これは「気門遁甲・鬼門遁甲」とも呼ばれているものだ。
 この占いの「年のサイクル」は
 「9→8→7→6→5→4→3→2→1→9→・・・」として
 「九から一」へと逆順、巡回する。
 「九のサイクル」は太陽の黒点周期とも言われているが、多分、
 「宿曜経」の「二十八宿」の「牛宿」を省いた「二十七宿」に合致させたモノである。
 「9×3=27」・・・「九の乗除」・・・「9×4=36」→「9×40=360」
 すなわち、升目は「縦並び3個、横並び3個、斜並び2個」で、並び方は「八・8」。
 「9×3=27」

------------------------------------------------------------
   九星学上の配置        現在的な北を上とした地図上の配置
      南                    北  鬼門

     4 9 2             6 1 8
  東  3 5 7 西            西 7 5 3 東
     8 1 6             2 9 4

      北                裏鬼門   南

                      ↑
               北

 「6・六(陸)白」・「1・一(壱)白」・「8・八(捌)白」

 「7・七(漆)赤」・「5・五(伍)黄」・「3・三(参)碧」

 「2・二(弐)黒」・「9・九(玖)紫」・「4・四(肆)緑」


 2、物語は九州・阿蘇山一円(圓)を中心にした

 「北(子・鼠)=博多  =伊都=一白・水星・中男」
 「西(酉・鳥)=長崎  =諌早=七赤・金星・少女」
 「中央     =阿蘇山=    五黄・土星・主人」
 「東(卯・兔)=大分  =宇佐=三碧・木星・長男」
 「南(午・馬)=鹿児島=     九紫・火星・中女」

 の地域、及び、九州周辺の島々と本州西南、四国、そして「朝鮮半島」での展開ある。

 3、「古事記・神話」に展開されている人物は

 「魏志・倭人伝」に展開された

 「卑弥呼」、「壱与=壹與」

 の歴史的「事実(?)」を下敷にし、中国の漢籍、書籍に記されている「故事」によって説明されている。
  「壱与」が十三歳の少女であったとしたら方位の示唆は

        庚辛→庚申→更新→後身→後進→高進→兌換
                          ↓
 である。スナワチ、                ↓(金)
 「西(酉)=長崎=諌早=七赤・金星・少女・庚、辛・兌」である。
 「13歳(才)=壱拾参歳(才)」とは
   ↓            ↓
   ↓ 才知・才能・才覚・才気・才度・才媛・才女→才=始めての意味
   ↓  霧隠才蔵←猿飛佐助=忍の者→真田十勇士の文庫本
   ↓
 「十二支+一支=12+1=13」で、
 「子~亥→子=13(一三・十三・壱参・壱拾参)支」
 「子」=「一+了」→始終
 十二支一巡、子(ねずみ)~亥(いのひひ)、加える一支は「子」で
 子から拾って3番目の支は「寅=虎」である。
 「子(ね・シ)」→「丑(うし・チュウ)=牛(うし・ギュウ・ゴ)」→「寅(とら・イン)」
      ↓ ↓                           ↓  ↓
    音 詞                          度等 韻
 「鼠(ネズミ)→ソ・ね=音」を獲(取・採)るのは「猫(ネコ)→ビョウ=拍描標表」である。
 この「ネコ」は、「虎ネコ」か「縞文様(紋様・模様)のドラネコ」である・・・
 唐王朝の歴史では、
 ネズミとは則天武后(武昭・阿武)であり、
 ネコとは「蕭淑妃」+「王皇后」であった。
 「四柱推命学」上の数理では
 「ネズミ=子」と
 「ウシ=丑(牛・愛し・憂し・うし→主)」の「支合」を
 「害」するのは
 「ヒツジ=未」である。
  ↓
 「ネコ(根子→彦根→井伊直弼)」は
      ↓
      根=木+艮(丑寅・鬼門)→東北・主虎・記文
         キコン=鬼魂・既婚・己恨・季根(白桃の根)
         ↓    季根(白桃の根)→李氏の恨(怨)
         ↓    季今→スモモ(判事)のコン(今・魂)
         ↓    リシ(裏支→裏鬼門=未申(羊猿)
         ↓    呪文(ずもん・じゅもん)は密教の専売
 「未だにネズミ(子)を害せず」で、
 「八番目の羊(未)」と→「捌(ハチ・わける)判目」
 「七番目の馬(午)」の関係「支合」を→「漆(シチ・うるし)判目」
 邪魔し、「害(そこなう)」モノである。「捌判目」か・・・
 ここは歴史的な「李さん一家」の姓名と履歴を調べれば一目瞭然である。

 ちなみに、三国史(呉蜀魏→誤植義)の「魏志倭人伝」によれば、
 「卑弥呼」は長生きした「鬼道の老婆」であった。
 「老婆・養母・母」の示唆の方位は「二黒・土星」の
 「裏鬼門・未申=羊猿=南西」である。
 「老爺・養父・父」の示唆の方位は「六白・金星」の
 「戌亥=犬猪・乾・西北」である。
 「壱與(七赤・金星)」は
 北西「帯方郡」からやってきた。
 「帯の方」とは天体の「獣帯・黄道」である。
 「壱與(ヨ・与)→位置の夜」
     夜の位地の余(あま・ヨ)りは天理である。
     夜明け前・明け方・早朝→宵の明星=金星
    李世民→理性視        酔いの味余剰とは二日酔        
 「張政(六白・金星)」と「対・ペァ」の関係で、いずれも「金」であった。
  カラクリの張本人は「阿倍清明→姓名・盛名・声名・生命・声明」で
  唐王朝の図書館長「阿倍仲麻呂(麿)=朝衡(晁)」である、
  「アベ・マリア(毬亜・真理亜)」はシューベルトが28歳の時の作品であった。

 「赤球」と「白地」の「日の丸」の関係である。
 九州の地図を広げて「阿蘇山」を中心に東西南北の地名を観て欲しい。
 
 4、「邪馬台国の都=女王国=斎宮」は

 「九州内の各地域」に時代的状況によって移動=遷都した。
 「遷都」したのは「邪馬台連合国」の「宗主国=斎宮=西宮」で、
 「宗主・女王国=斎宮」である。
 その場所は九州に現在も地名として残されている

 各「横島よこしま」


 「横島」を意図的に結ぶと「逆台形」。この「台形」はナニを意味しているのか?

 である。

 九州の政治権力は「卑弥呼」の死後、「三分(?)」されていた。

 西は「日=左目=烏=鴉=阿=肥の国」
 東は「月=右目=卯=兎=宇=豊の国」
 北は「時=中鼻=子=鼠=禰=筑紫国」

 南は別格の隼人、薩摩の国、「句奴国」である。
 九州とは別個に「出雲の国」、「安芸の国」、「四国」、「大和の国」、「東北、蝦夷の国」が存在した。

 「卑弥呼」は先ずは中国三国時代の「呉国」、朝鮮半島の「公孫淵・燕国」と関係があり
 「台湾・沖縄琉球・九州南西」に影響力を持つ海女族の「女王(?)」であり、
 「長崎半島・島原・天草半島」に存在した。
 「壱与」は
 「帯方郡派遣」の「張政」と縁籍の者(?)で「人質(?)」であったが、
 「卑弥呼」殺害後(?)、「玉名・横島(?)」に存在し、その後、
 「豊国」の「宇佐」に遷都した(?)。

 そして、この「三つの権力」の影響を受けた人々は縄文・蝦夷族の地山陽、山陰、西海、東海、北陸、東北へと移動、移民した。

 「白村江の海戦」後に「志賀・長津」から「滋賀・大津」に遷都し、伊勢内宮に遷宮したのは「壱与・百済」系・・・?
 「壬神の乱」後に「大和」に遷都し、
 伊勢外宮に遷宮したのは「卑弥呼・新羅(唐)」系・・・?

 「ヨコシマ(横島)」と読まれる漢字は「感冒」の「冒」をはじめに

 よこしま=(宀+九)=横・邪・姦・干(カン=諌=甲)・佞・漢
 よこしま=侘・差・左・ム・私
 よこしま=(宀+九)=侈(シ)・佻(チョウ・ジョウ)・犯
 よこしま=毎・曲・奸・淫・自・己

 「宀+九=キ・よこしま」は「邪悪・姦・・悪者・盗人」と諸橋轍次先生の「大修館・新漢和辞典(改訂版)」にはあり、「究」の「八」を欠字させた漢字である。
 「菅原(すがわら)」の「菅」も「よこしま」と訓れている・・・漢和辞典を注意してみないと「よこしま」とヨマれている漢字を見落とす事になる・・・もちろん、太宰府に流刑された「菅原道真」の「菅」である。

 現存する「横島=ヨコシマ」と呼ばれている地名の場所は

 弟一番目の地理として挙げたいのが
 熊本県玉名郡「横島」は
 江戸時代の1605年乙巳(慶長10年)に
            中国明王朝万暦三十三年
 初代
 熊本藩藩主→熊本→大熊座・小熊座
 加藤清正の命により、→加藤・清正
                可等(加等・華唐)・清が正しい
 現在の
 外平山に→ガイヘイザン→ゲヒョウサン
        画意 柄算   解標  纂
 あたる島
 (横島)と
 本土の間の
 海を→海=うみ・カイ・あま=海=氵(シ)+毎
        宇美・界(貝)・天  纂隋→視→阿毎王朝
 干拓して→カンタク→間の度
 陸地とし、→理句知
 それ以後
 江戸時代から
 明治時代中期にかけて干拓を繰り返し、
 南側に陸地が伸びている。
 1889年
 明治22年己丑年4月1日
 町村→チョウソン→兆孫
 制度施行により、
 横島村と
 大園村が
 合併して→ガッペイ・ゴウヘイ→傲(模倣)並
 横島村が
 発足。→ホッソク→歩測
 同年同月同日には
 「市制施行、弘前市・横浜市・久留米市など
 「31都市」が選ばれる」→「31巻」は日本書紀・「13歳」は「壱輿」
  ↓            13歳も31日も「変わり目」で、
  ↓           「三十日+一日」も「変わり目」である。
  ↓           「30+1、晦日、朔日」
  ↓           三十比=みそか・一日=ついたち
 戦後の
 1967年丁未(昭和42年)に国により
 横島町としては最後の干拓が実施された。

 ヨコシマ黄昏→横浜タソガレ→横須賀タソガレ

 熊本県玉名郡「1)横島」
 大分県南海部郡「2)横島」
 愛媛県南宇和郡「3)横島」
 愛媛県「日振島」に隣接する「4)横島」
 長崎県北松浦半島、田平沖北方に存在する「5)横島」
 広島県、倉橋沖南方の「6-a)横島」と、
 呉市の南方に存在する「6-b)横島」
 天草諸島を東西に横切り、西に天草、その東に存在する「7)横島」

  各「横島」を結ぶと逆「台形」である。

 長崎県「諌早=伊 邪        早(日 十)」
        ↓ ↓           ↓ ↓
        伊の邪(よこしま)の 日の十(叉=交差)

 この現存する「よこしま」は単なる偶然ではない
 ・・・もちろん、「イト的」なモノである・・・「古事記・神代の七代目」に登場する「伊邪那岐いざなぎ」、「伊邪那美いざなみ」の「邪(よこしま)」である。「日本書紀」の「伊弉=(壯+廾)=奘(壯+大)諾尊」、「伊弉=(壯+廾)=奘(壯+大)冊尊」の「弉=邪悪」の「漢字」とは「イト的」に異なるのだ。

 伊邪那岐
  ↓
 伊弉諾 尊・・・諾=言+若
  ↓
  弉=(壯+廾)=奘(壯+大)=ソウ・ゾウ・大きい・壮ん・健やか
 伊邪那美
  ↓
 伊弉冊 尊・・・冊=册=几(冂)+几(冂)+一
  ↓   几(キ・おしまずき・ひじかけ・机・台)=きにょう→パイ・π・Π
  ↓     ↓  ↓                   ↓   円周率
  ↓     記・渡島好き=於島図記=御島津記 記似様・記二様
  ↓        ↓      ひじかけ→日出架=秘事懸=比字掛
  ↓       蝦夷(毛人)=北海道
  ↓   冂(ケイ・キョウ・国境・牧)=まきがまえ・けいがまえ→坰(土+冋)
  ↓     ↓  経・教       巻構(が前)・景構(が前) 叵→匚+口
  ↓     形・景・刑・系・馨・稽             向≠叵≠冋≠同
  ↓           コッキョウ→国教・古句経・刻響   ↓
  ↓           マキ→巻き・眞記・魔記・摩記    不可・出来ない
  弉=(壯+廾)=奘(壯+大)

 「砂=いさ=諫」で、「くじら=鯨=いさな=勇魚」、「寝覚め=いさめ=伊邪女」、「いさは=斑葉=石和・井沢・胆沢・伊沢・井澤・胆澤・伊澤」、「いざり=漁り」、「イザ、ナギ」へ、「イザ、ナミ」へ等の「誘い」である。

プラトン古事記をカタる

 

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前回からのツヅキ・現存・古事記・漢字源の世界・再四考

2022-04-27 10:18:53 | 古事記字源

 現存・古事記・漢字源の世界・再四考

プラトン古事記をカタる

 コジキのキリちゃん、砂漠で蜃気楼を追う 
 プラトン古事記をカタる

 ハナシは、「乙=L=五拾=log」だった・・・「乙巳(いつし・いつみ・おつみ)の変(645=陸肆伍=六百四拾五年)」で「炎上」した「蘇我氏の邸宅にあった本」であった・・・「乙」と「巳」・・・つばめ(燕・津波目)」とは「乙鳥」と当て字され、「龍宮城」とは「乙姫」さまの「海神=海蛇(巳)=龍神」の城で、「乙訓」とは「おとくに」のコトであった。「乙夜」とは「午後十時過ぎ二時間」である。亡くなった人の火葬前の「お通夜」である。約440年前の「つばめ市の伝説」の濁流に流されてきた祠のハナシは「津波(つなみ)の目」だったカモ・・・約510年前に「水原憲家」という人(水原氏は鎌倉時代から白河荘の地頭の家柄)がその子の「景家」に出した手紙に、「おまえに津波目の土地を与える」ということが書かれてあるらしい(燕市広報ブログ)。「燕」は昔、「津波目」と書いていた。

 カケラレテいるのは「現存・古事記」のスベテの「個々の漢字文字、合字された漢字を分解した漢字も含める」である・・・
 そして
 「北緯33度23分秒」、「東経120度7分秒」は、

 「補(保)-句-意(違・異)
  参・拾(足)・参・
  度(渡・斗・途・都)
  弐拾(念)・参
  分(和気・別け・訳・腋・和記・倭紀・輪軌・環徽・話記)」、

 「東-経(問う稽・問う景・島形・当稽)
  壱・百・弐拾(念)
  度(渡・斗・途・都)
  七(漆)
  分(和気・別け・訳・腋・和記・倭紀・輪軌・環徽・話記)」

 である。ついでに中国「上海」の「位置」と「別称、簡称」を挙げておくと、

  北緯31度10分→31.166667度

  東経121度29分→121.483333度

  別称→申→シン・もうす→「網巣・亡子」→さる→猿女君=宇受女
  簡称→滬→コ・ゴ・えり・あじろ→上海の東北、松江の下流にある川の名前。
                  「滬上」とも・「えり」は衿・襟
                  「あじろ」は竹網の仕掛け、魚獲りの罠
       滬拼(コヘイ)→氵+扈+手+并→扈(コ・ゴ・つきそう・とも・家来・しもべ
             とどめる・禁止・蔓延・はびこる・おおきい)
       扈従(コジュウ)→小舅・小姑→虎獣・虎従→付き従う 

 一々出典著作は個々に挙げないが、私が参照、参考にしたモノのホトンドは諸々の「現存・古事記」、「岩波文庫本・日本書紀」、諸々の腐るほどの「日本史関係書」、「世界史関係書」などの「歴史書本」、そして、ボロボロになった「大修館・漢和辞典」、「平凡社・百科辞典」、そして諸々の「旺文社・古語辞典+アルファ」、「英和・和英辞典+アルファ」、更には手っ取りバヤクてコピー、複写改作に便利な「ウイキペデア百科事典」等であるから・・・疑わしきは、読者が直接「コレラ(瀑瀉)」、「コロリ(虎列刺)」を調べて欲しい・・・危険か、安全か、有害か無害かは保障しない・・・原発事故、メルトダウン、放射能汚染は視えなし、一昔前のはガイガー機器は「ガァガァ」と測量音だけが頼りだった・・・毎年の伝染行事、「インフルエンザ菌」の感染は「平常体温36度5分」以上の高熱度、発熱度、そして「咳き込み」の激しさ、ゴホン、ゴホンと、泪と鼻タレの度合いが目安の判断である・・・地震、カミナリ、台風、突風、暴雨、洪水、豪雪、雪崩、噴火、貰った「受(授)命」、肉体(ジクタイ)はドウショウモない、ニッポンレットウ・・・それでも「天空」を見上げるのさ・・・ハヤブサはイトカワから帰還したのだから・・・キボウはチキュウを周っているのだし・・・

 何時の時代からあった地名かは不明だが、「東冶」と「東台」の違いは「冫」が「有るか無いか」である。しかもここは「緯度32度50分」、ほとんど「33度線上」に存在する。そして「邪馬台国は会稽、東冶の東に存在」したのだ。
 「会稽、東台の真東、緯度32度50分」あたりには九州長崎、島原諫早、熊本玉名郡横島、阿蘇山頂、横島、四国土佐横島、八丈島が並んでいる。
 「東台」→東→「邪馬台」→「32度50分」にあるとするならば当時の中国人は平面な地球ではなく、「球体」としての地球を知っていたのだ。傾いている地球を輪切りにした「緯度」の概念を明確に知っていた。
 歴史上、日本ではその知識を確実に実測して有していたのは江戸天文方の

 高橋景保→「カルデアン(天文地理・占星術師)」であった・・・
      「軽を、出す、案」・・・ヨルを観察するヒトは「塩漬け」
                  「古事記の島(秋津島・大八島)」は
                  「塩水の滴り、点滴」から形成

 高橋景保の履歴は、

 天明五年(1785年乙巳)から
 文政十二年2月16日(1829年己丑3月20日)の生涯であった。
 通称、
 作左衛門。
 字(あざな)は
 子昌。
 号、観巣
 文化七年1810年庚午、
 「新訂万国全図」銅版画制作。
 伊能忠敬の全国測量事業を
 監督→かんとく→寛徳
 ↓       ↓
 ↓   寛徳(かんとく)は、年号
 ↓   長久五年十一月二十四日(1044年甲申12月16日)に改元
 ↓   永承元年(1046年丙戌5月22日)前までの三年間の年号
 ↓   後朱雀天皇~寛徳二年、親仁親王が即位し後冷泉天皇の時代 
 ↓    ↓    巻得似撚  ↓ ↓   足依 ↓ 
 ↓   語取座句→後首割   信認震央 測位 碁例線→ご霊前
 ↓
 ↓   寛徳のコトバは「杜林」と言う人物の評判伝
 ↓   (後漢書・杜林伝)の「上下歓欣、人懐二寛徳一」
 ↓   建武二十二年(46年)、光禄勲に再任。
 ↓   同年冬に、→同年問う  項録訓 再認
 ↓   「朱浮」が罷免されその後任として
 ↓   「大司空」に任命された。
 ↓   「司空は『周礼』に記された六官の一つ、三公の一で、
 ↓   周代では「冬官」の長として灌漑、土木 工作を監督。
 ↓   『漢書』の注には水と罪人を主る(つかさどる)役人とある。
 ↓
 全面的に援助。
 忠敬の死後、彼の実測を基に→実測→字通素句→日足
 「大日本沿海輿地全図」を完成。→輿(ヨ)=地図→与・夜・世 
 文化八年(1811年辛未)、→文化→文の変化は葉の知を念
 「蛮書和解」→「蛮(バン)=亦+中+ム」の書の話(環・輪)
 御用の主管。→おんよう→陰陽の主幹→音要の取換
 「厚生新編」の翻訳開始。→構成→恒星→更正→光星
 文化十一年(1814年甲戌)→文の変化はイチを拾うハジメ
 「書物奉行兼天文方筆頭」就任。
 文政十一年(1828年庚寅)の→文の所為は重(獣)の位置を撚る
 シーボルト事件に関与投獄、→ジィボルト→字意簿留(流)図(斗)
 文政十二年(1829年己丑)二月十六日に獄死。→語句史・極視
 享年四十五才。→四拾五→肆を拾う語→ヨム、カサネル、語の才能
 遺体は→異体・意他意・意多意→意富→太安萬侶
 塩漬け保存。シヲ→潮汐→朔望→新月-満月→円
 その後、遺体は→意他意→意対(碓・態・鯛・帯・台・戴・太・胎・退)
 引っ張り出され→引張出(弟=乙・音・手=又=右手)→索引され
 斬首刑。→算珠計(稽)・参主形→オリオン座三星・台形・逆台形
        斬(車+斤)首(具の逆字)→キルクビ→記留句備

 であった。

 「かる・カル」とは
 歌舞伎(かぶき・カブキ→化武記)の
 「仮(假)名手本・忠臣蔵」に登場する「おかる(お軽)・かんぺい(勘平)」の名前にもなっているのだが・・・知っているかな?・・・事件の場所は「赤穂藩」である。現在の「赤穂市は、兵庫県の南西端部に位置し、岡山県との県境に位置する市。
 古代には赤穂は吉備の国に属していた。
         ↓
「桃太郎の黍(きび・ショ)団子の国」→氵+黍=漆(うるし・シチ・シツ)→七・7
     ↓           ↓
    「黍糕(米+羊+灬)=ショコウ」→黍(もちきび)・禝(うるちきび)

 とすると、「鬼(おに・キ)」は「仇(かたき・キュウ・ク・玖=王+久=たま(黒曜石の球・球磨→熊)=イ+九」である。「玖=王+久」→「オウキュウ=王宮・応急」の示唆である。「吉良上野介」は名前からすると「吉良」で「綺羅」である、のだが・・・
 兎に角、
 「赤穂浪士・四十七士の仇(敵)討ち(1702年壬午、元禄15年12月14日)」のハナシである。
 「仮(假)名手本」とは「いろは四十七(47=四拾七=肆拾漆)文字歌」に懸けられたタイトルで、「四+七=11→十一=壱拾壱」である。歌舞伎での初演の配役は、勘平が五代目「市川海老蔵」、 お軽が三代目「尾上菊五郎」・・・ お軽は矢絣に縦やの字帯の御殿女中の着物姿。この着物は「景事(所作、動作)」によっては振袖にもなるらしい。、勘平は黒の紋付の着流し、「東からげ(あづま絡げ)= 尻っぱしょり(尻端折り)=着物の裾を腰の両わきにからげて帯に挟むこと」で舞台に登場。
 「五段目」では一人三役で登場人物を役者が早替わりで演じる。「火縄銃(ひなわじゅう)」で「猪(いのしし)」を二度撃つ「二つ玉」と呼ばれる場面がある。
 「七段目」では「由良助が密書を読み、おかると縁の下に隠れていた九太夫に盗み見されてしまう」場面である。
 上に記した浄瑠璃、歌舞伎の筋立て、台本の「文字、漢字、数字」、「シナリオ段取り文章」は時の「御政道」の権力を慮って、当時の江戸時代の事件を作家が「過去の時代の歴史的事件」に移(写・映・遷・ウツ)し、変(代・換・加重・買・飼・替・カ)え、重(笠・加佐・暈・傘・量・瘡・嵩・カサ)ねて、「脚色」したモノなのである。
 これを踏まえ、ここは、主に「日本書紀」、「古事記」、「ギリシャ神話」に記されている人物と事件を歴史(暦史・轢死・例記詞・レキシ)の流れの中で拾ってイキタイ・・・
 更に
 「幕末~明治」に登場する人物の名前や、その履歴傾向、彼等の事件があった場所等を重ね、時代が異なるのに何故、同じような物語展開がナサレテイルノカを、妄想、推理しながら追求してイキタイ。

 *「→」は私が文字、文章、数字、を「同音異字」で変化させたモノで、
  「合字」された「漢字」を文字分解して同音異義で読んだモノも含む。
 *「↓」は関連させたモノへのツナギ方向である。
 *「←」は関連示唆ではないのか、と思われるモノである。
 *「干支六十(60・六拾)サイクル年」の重なりとして
  同音異字を記し、漢字分解もしてヨンだが特に注目してほしい。
  例(タトエ)ば、
  「子=鼠=ね・こ・す・シ」、「子」=一+了=壱+了(ア・あ)=始終

  1)
 「軽」皇子とは「木梨軽」皇子(きなしのかるのみこ)で
 第壱拾九(玖)代の
 允恭天皇の→「允(イン)=ム+儿」→ヨコシマのヒト→木戸孝允
   ↓      ↓                          ↓
   ↓      ↓         桂 小五郎=長州閥」の長(おさ)
   ↓      ↓ 天保四年六月二十六日・1833年八月壱拾壱日
   ↓      ↓ 誕生
   ↓      ↓ 明治十年1877年五月二十六日死没←胃癌?
   ↓      ↓ 
   ↓      充から「亠(音の字の略)」を除去した漢字
   ↓      まこと=眞言・眞人・信・誠・実→承認・認可
   ↓      允文・允武→天子が臣下を褒め称えるコトバ
   ↓      眞人は天武天皇→天渟中原瀛真人(まひと) 
   ↓      ↓   第四拾代天皇・明日香清御原宮(御宇)天皇(萬葉集)
   ↓      ↓   在位は天武二年二月二十七日(673年3月20日) 
   ↓      ↓   朱鳥元年九月九日(686年10月1日)
   ↓     国語では主殿寮第三等判官「允(じょう)」と訓む
   ↓
 第一皇子、皇太子であった・・・
 「軽」の漢字分解は
 「車」の「圣(又+土)」で、車輪の「直径・半径・径行・圣→茎(くき)」
                   ↓
     小道・横路・横道・差渡し・径行
     径(けい、diameter)とは、図形の差し渡しの長さのこと。 
 「軽(かるい・ケイ・キン)=車+又+十+一」は古代の戦車である。
     ↓          ↓     ↓     戦車に乗って
     ↓          車の右手の壱拾壱→鞭か槍か弓の弦に番えた矢
     ↓    11=壱拾壱=イチひろうイチ=位置を拾う射置→鯱(魚+虎)
     ↓              ジュウイチ=重位置・獣位置
     ↓              十=と・たり・ そ・ はつ
     ↓              ↓ ↓  ↓  ↓  ↓
     ↓              七 充  足 三十日 二十日
     ↓              ↓       ↓  ↓
     ↓              ↓  晦日(みそか) 念
     ↓              一=はじめ・はじまり
     ↓                 ↓
     ↓                始初肇創元春本源甫基啓哉
     ↓              一日=ついたち→対他値→朔日(サクジツ)
     ↓                 月建(立)    昨日→差句字通
    かるい=駆る・駈る・刈る・狩る→借る意

 「かるい」は「狩る射(畏=くま=熊=大熊座・小熊座・北斗七星」)」で、
 この「母子の熊、二頭の物語」は
 ギリシャ(希臘)神話に語られているモノである。
  ↓
  主神の
  ゼウス(ユピテル)が→ぜうす→是-ウス(臼・碓・薄・有珠)
  ↓     ゆひてる→結い手瑠・唯出留・諭意輝(耀・照・瑛)
  ↓     ゼウスは稲妻の光、落雷の「雷電の神」で、
  ↓                  来電→頼伝(傳)→人は専→伊藤博文
  ↓    落雷音→ラク・ライオン」は「殷(イン)→轟音→號(号・合)音
  女神→おんなかみ→音名化視→めがみ→目加美
  ↓       ジョシン→序審
  アルテミス→あるてみす→在る出(弟)見素
  侍女の→ジジョ→次女・二女・児女・爾汝・自序・自助・次序・字如
  ↓        はべるおんな→葉辺(邊・部・経)留音名
  乙女→おとめ→音目→いつめ→何時芽・逸目・伍目・溢目・意津女
   ↓   ↓
   ↓  処女→ショジョ→書所→図書館・翰林館→坂本乙女→坂本龍馬・お龍
   ↓ 「乙名=乙人」とは長崎出島の管理通訳役人でもあった。
   ↓ 「乙名(おとな=乙人)部屋」もある。
   ↓      ↓
   ↓   耶蘇会士「ジェロラモ・デ・アンジェリス」は
   ↓              ↓
   ↓              出・編む字絵利州
   ↓              ↓
   ↓   「元和二年」に津軽に流されたキリシタンを慰問した。
   ↓   その時に彼は津軽の深浦から出帆し、「蝦夷が島」に渡航。
   ↓   上国(かみのくに)付近に着き、徒歩で松前城下に入った。
   ↓   この地では「乙人(おとな)」の待遇を受け
   ↓   10日ほど滞在してキリシタン信徒の「告解」を受けて出羽に戻った。
   ↓   同僚の「カルワリオ」も「六年・七年」に蝦夷地に渡っている。
   ↓        ↓
   ↓    「カルワリオ」の記録→軽・話・理・御→化留話理御
   ↓      ↓                ↓
   ↓      ↓        (緒・汚・悪・於・尾)
   ↓    彼は金(キン・コン)掘坑夫に変装し蝦夷地に渡り、
   ↓    金山に存在していた隠れキリシタンのために
   ↓        ↓    「8月15日」の「聖母昇天祭」を祝った。
   ↓    ここにいた隠れキリシタン(切支丹)は→切(七刀)支丹
   ↓        ↓       ↓長崎→     七島視譚=横島
   ↓    寛永十四年(1637)の「島原の乱」があった後の寛永十六年に
   ↓    蝦夷地の大沢、知内、石崎の金山に潜伏していたが
   ↓    松前藩はこれら「106人」を捕らえて斬首にした。
   ↓    「正保元年(1644)」に「日高の様似」の金坑で
   ↓    隠れキリシタンの「児玉喜左衛門」を捕らえて江戸に送った。
   ↓               ↓
   ↓     字を漁る句(区・九)記、左(よこしま)に重る意(異)文
   ↓    この時点で蝦夷の隠れキリシタンは絶滅した、らしい。
   ↓
   ↓
   カリストと→かりすと→借素賭・仮州都・雁州渡・刈諏斗・化理素図
   ↓     かるしと→軽視斗→北斗七星→大熊座、小熊座
   関係し→カンケイ→環形・還啓・姦計
   妊娠させ、→にんしん→認真・仁診・任審・人参・人身・人臣・壬申
   カリストは男子→だんし→談詞・旦視・檀氏・檀紙・拿務史
   アルカスを出産。→しゅっさん→出纂・出燦・出参・出讃・取津山
   ゼウスの妻→つま→津間→サイ→歳・才・斎・差異・差意・差緯
   ヘラ(ユノー)は→へら→箆・平良・経等・辺羅
   その→園・苑・素埜(乃・廼・之・野・能)
   事情を知って→ジジョウ→自浄・二乗・治定・字條
   ことのなさけ→古都の名差懸(化)
   激怒し→ゲキド→劇奴→解記度
   ↓
   カリストを
   熊に→くま→球磨・久万・玖磨・曲・隅・隈→大隈重信
   ↓            ↓         ↓
   ↓        クマ=「宮間」の逆→間宮→間宮林蔵
   ↓                          ↓
   ↓ 蝦夷渡島→樺太(からふと・サハリン)→間宮海峡(マミアのセト)
   ↓              佐和(佐波)臨 ↓  ↓
   ↓      1808年(戊辰)間宮林蔵↓↑発見→松田伝(傳)十郎
   ↓  ↓  1809年(己巳)渡航↓   ↓↑
   ↓  ↓ 北満州-沿海-ハバロフスク間の海峡=海人の背徒
   ↓  ↓           タタール海峡→祟る海峡?
   ↓  ↓ お庭番←間人←間諜(スパイ)→密告→鳴滝(瀧)塾→蛮社の獄
   ↓  ↓       ↓  間人王女                       蛮=亦中ム
   ↓  ↓        真人=大海人皇子
   ↓  ↓            ↓  ↓
   ↓  ↓        忍者・変身→隠密・お庭番
   ↓  ↓             ↓ ↓
   変身させてしまった。→ヘンシン→返信・変身・変心
   ↓  ↓              ↓ ↓
   ↓ 「交・響・曲」・・・1808年12月22日に
   ↓   ↓ ↓      壱千八百八撚壱拾弐ガツ弐拾弐比
   ↓   ↓ヒビキ(比備記)が交わるヨコシマ(横嶋・邪)
   ↓ ベートベンが→邊(辺・部)重都弁
   ↓ 「運命(第五番)」と→ハコブ(葉胡分)イノチ(亥の地=北西)
      ↓   ↓     大悟の番(つがい・対)
   ↓ ウンメイのダイゴバン→有無名の代(拿意)語伴→第(竹弟)→題
   ↓ 「田園(第六番)」を→デン(傳・伝)エン(円・苑・猿・媛・塩)
   ↓ タソノのダイロクバン→多祖の代録判
   ↓ ウィーンで初演・・・アン・デア・ヴィーン劇場
   ↓              ↓
   ↓           案 出亜 武意音(允・寅・蔭)→木戸孝允
   ↓                      ↓     桂小五郎
   ↓           松下村塾→吉田松陰(寅次郎)
   ↓
   アルカスは→歩かす
  (アレカス)→稗田阿礼→阿礼が化した州
   狩の名手に成長し→メイシュ→名取・盟主・明主・姪主・命取
   谷間で→たにま→他似眞・多爾間・太邇間
   ↓    コクカン→国間・刻間・告奸(姦・翰・官)・弧区間
   熊に変身させられた
   母カリストを発見し
   槍で熊を殺そうとした瞬間
   大神ゼウスは、
   アルカスを小熊に変身させ、
   二頭の→ニトウ→二等・二島・似唐・爾当・爾問・次当→字問・時当
   ↓    じとう                 ↓
   ↓    字問→「邇邇芸命」=天津日子番能邇邇藝(芸)命
   ↓                  ↓
   ↓                  ツガイの二字の解意明
   ↓        笠沙(かささ・リュウサ=龍座)の御前(みさき・音作記)
   ↓           量の差             見左記 音叉器
   ↓        木花之佐久夜毘賣=記(胡)のハナシ作句依る備目
   ↓        泣く子も黙る地頭→名句胡摸拿眞留字答→時塔=時計台
   ↓
   大熊と小熊を→大熊(ダイタイ)代替・大腿・大隊・大体
   ↓        おおくま→大隈・逢隈→大隈重信
   天空の→あまのそら→雨の空・海女の空・海部の素等・海士の空
   ↓    テンクウ→転空・典句得・点空・添句宇
   星座とした。→セイザ→正座・静座・静坐
   だが
   ヘラの
   怒りと→いかり・おこり→錨・猪狩・起こり・興り・熾り・瘧
   憎しみは納まらず→にくい→似句意→シミ=詞(史)視=染・凍・衣魚・紙魚・滲
   両親の→リョウシン→良心→龍神・龍人→龍審
   海神→あまかみ→天神
   オケアノスと→おけあのす→尾懸亜名素
   ↓             ↓
   ↓            尾張をかけたアマネシの名の本
   その妻
   テーティスに→てえてぃす→手重訂す→出(弟)重帝椅子(慰す)
   二頭の母子熊の→丹(朱・紅・赤)等の星の熊
   星座が
   海中に沈まないように訴え
   海中で→改鋳→天中→てんちゅう→典中→天誅→添注
   休息するコトが出来ない→きゅうそく→球速・九速・九足・求測
   北極星(ポラリス)の→ぽらりす→歩等理数
   「周極星座」とさせた。紫薇苑(垣)の天皇皇帝=北極星
                           ↓
                        小熊座の尻尾の星

 その見上げた夜の天界の転回の天海の「展開図」である。
 「見上げてご覧、夜の星をォ~ヲ~」である・・・

   「渦(カ・うづ)留(ル・とどまる)意(イ・音(立日)心)」=天体図
         ↓        ↓    ↓   ↓  ↓
        宇津・宇図   斗度〇 移  音(立つ日)の個々路
                逗留            海流・潮流
        潮汐の旋廻→迂通→迂回→鳴門→なると→月の朔望    ↓
         ↓         ↓    ↓   ↓         ↓
     渦とは旋毛(旋風)→「つむじ」の形の螺旋巻き→有頭の回転  ↓
                ↓宇・雨・烏・兎・う=鵜(弟鳥・鸕)頭の廻添
                ↓得=ウ→弟鳥→音取→乙酉
                ↓「宇=ウ+于」は「字=ウ+子」に類字
                ↓「宇受女=猿女」→目が丸い←古事記
               竜巻・龍巻・辰巻→建巻き←乞事記
                ↓           ↓
     「摘む字・詰む字・積む字・抓む字」    ↓ 台風←候時季
                ↓           ↓秋=穐(禾亀)・空
           現存・古事記→←大和(倭)建の命 ↓
                    ↓       能義亀
                  垂仁天皇       ↓
      佐波遅比賣=沙本毘賣→差和字秘・査本備目  鼈甲→別項・捌考
            ↓               ↓
    唖の品牟都和氣=本牟智和氣→大鷹(帝鳥)→阿藝登比=アキ
    ↓            ↓   ↓          ↓アキ=安芸→広島
    ↓        本(叛)無知訳        安芸問い(土肥)
    ↓                       高知←土佐・肥後→熊本
    唖(おし・ア)の「建皇子(たけるのみこ」の履歴
    (白雉二年・651辛亥~斉明天皇四年・658年戊午)→白雉→白知
    「唖で語ふこと能はず(日本書紀)」        白きじ→白記事 
    天智天皇の第二子                  ↓
    母親は落智姫(蘇我倉山石川麻呂の娘)        生地・木地→落智
    斉明-皇極天皇は「萬歳千秋の後に、(建を)要ず朕が陵に合せ葬れ(日本書紀)」
     と言って「建皇子」を一緒の墓に埋葬することを命じた。
     建皇子享年、「数えで八才(歳)」、「満で七才歳」
                          ↓
              「目弱王=眉輪王」は「七歳」で
   雄略天皇=「大長谷若建=大泊瀬幼武」に「都夫良意富美」と共に殺された。
                 父は「大日下王」、つぶら(円)
     母は「長田太郎女=中蒂(丱+帝=へた・臍・ね・棘・テイ・タイ・蔕)」
        ↓              ↓   ↓      ↓
        おさだ=訳語拿      へそ・ほぞ  とげ ++ナ廿九ワ巾

 2)
  そして、
 「孝徳天皇=軽皇子
 (645年7月12日・大化元年六月十四日即位~654年11月24日・白雉五年十月十日」
 「天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」であった。
 大化元年十二月九日、都を難波長柄豊碕に遷した。
 父親は「茅渟王」
 母親は「吉備姫王」であり、
 皇后は「間人皇女」であった。 
 妃は阿倍倉梯麻呂の娘「小足媛」
 妃は蘇我倉山田石川麻呂の娘「乳姫」

 3)
  もう一人の「軽」は
 「珂瑠(かる)、軽(かる)皇子」で、
 文武天皇(もんむてんのう、第42代天皇
 (在位文武天皇元年八月一日(697年8月22日)
  ~慶雲四年六月十五日(707年7月18日)。
 諱が珂瑠(かる)、軽(かる)。
 和風諡号は
 二つ、
 「倭根子豊祖父天皇(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)」
 旧字体:豐祖父
   と、
 「天之真宗豊祖父天皇-『続日本紀』797年(延暦十六年)である。
 父親は「草壁皇子=日下部皇子」で
 母は「阿陪皇女」である。

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