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コジキジゲン

䃺=石+靡・・・石(岩・磐)に靡(なび)く、って?

2021-02-28 01:38:40 | 古事記字源

 サイロク、ケントウ・于=二+亅(かぎ=鉤棒・とび=鳶棒)
 2017-04-10 23:02:12
 「古事記字源」再参考
  ↓↑
 「朮」=おけら・ジュツ・シュツ
     オケラ (植物) =キク(菊)科の植物(朮)・・・術
     ナゼ「朮」が「おけら」なんだか、「杮(こけら)落とし」

     杮=木+巿=こけら
       木+一+巾
       ハイ
       こけら
       木の削りくず
     柿=木+市=かき
       木+亠+巾
       柿=柹
         木+𠂔
         異体字「𣐈・柿・簡体字=柿」
         シ
         かき
         かきのき・果樹の名
         カキノキ科の落葉高木
         柿の元字は「柹」
         旁は、「姊(=姉)」などに見られる
        「姉」
         母=姐
      巫女の長=女嬃=屈原の姉の名・楚の女巫の長
          「女嬃之嬋媛兮, 申申其詈予(離騷)」
            嬃=嬋=艶やかな女性・マリリン-モンロウ?
            嬃=須+女=彡+頁+女
            呂嬃=劉邦の妻呂雉の妹・樊噲(舞陽侯)の妻
         姉・姐・嬃は同じ系列の語で
         それぞれの地位・身分をあらわす
         弟=丷+弓+丨+丿
             弓=コ+勹
          =𠂖
  「𠂔=蔓の巻いた棒の上部」を指したもの

  つる植物・蔓植物(climbing plant)
  自らの剛性で体を支えるのではなく
  他の樹木や物体に絡みつき(つる性)
  高いところへ茎を伸ばす植物の総称
  蔓草(つるくさ・マンソウ)
  葛(くず)・蔓(かずら・かつら)
    屑・九頭・国栖   鬘・桂・和良
  つる植物
  草本(草本性つる植物 (vine))
  木本(木本性つる植物 (liana))
  があり
 「木本」になるつる植物のことを
 「藤本」という・・・
  蔦=つた=蘿・樢
    ツタ(蔦・地錦・アイヴィー・Ivy)
    ブドウ科ツタ属のつる性の落葉性木本
    別名、アマヅラ、ナツヅタ、モミジヅタ
    ツタは、 ツタ属(Parthenocissus)植物の総称

  「上方の・上位の」を意味
  「柿の皮」を水につけ上澄みから
   渋を取ったことによるもの(藤堂)・・・?
   𠂔=丂+丨+丿
     異体字「𠥽・𪩲」
   𠂔=一+㇉+丨+丿=𪩲
     𠂆+刀+丨
     エイ=ノ+丿=𠂆
     曳(ひ)く、綱などの長いもの
     またその先に物を繋いだものを
     引き摺(ず)るようにして引っ張る
     シ
   𪩲=一冂丨ノ=𠂔・・・束・拘束・束縛
     止める
     盛んに上に伸びようとする草木に
    「ノ」を加えて
    「伸びを止める」の意
     同「𠥽」 漢字
    「秭」=大きな数を表す
   𪩲=束から「乀(フツ)」の欠落
     ↓↑
     おケラ(螻蛄)
     バッタ目(飛蝗・直翅目)
     キリギリス(螽斯)亜目
     コオロギ(蟋蟀)上科
     ケラ科(螻蛄・Gryllotalpidae)
     に分類される昆虫の総称
     コオロギ類の中には
     地下トンネルを掘って住居し
     おケラは採餌行動も地中でする
     所持金がない状態を「おけら」
     遊泳、疾走、跳躍、飛翔、鳴き声、穴掘りなど多芸だが
     器用貧乏で「おけらの七つ芸」、「けら芸」という・・・
     ・・・忍者の「忍術」=彳+朮+亍・・・技術・芸術


 䃺=石+靡・・・石に靡(なび)く
         ・・・・邪靡堆(隋書)
         ・・・石井(岩井・磐井)に靡く?
            磐井の乱・527年(継体二十一年)
   石+广+林
   丆+口+麻+非
   一+丿+口+广+林+非
   一+丿+口+广+木+非
   マ
   バ
   みがく
   する
   とぐ
   臼(うす)・碾き臼(ひきうす)
   いしうす(石臼)・碓・碾・磑
      ・・・円柱中凹(オウ・ヨウ)状
              応用・黄葉・王様
   ユリウス=有理ウス=由利ウス・・・
   ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)
        替え笊・変え申・替え沙流・換え然る?
   ひく・うすをひく・うすですりつぶす
   する・すりへる・こする・摩擦する
   みがく・とぐ
   つとむ・物事に励む
   䃺(みが)く
   䃺(す)る
   䃺(と)ぐ
 ↓↑
 䖃・聶・舙・嚞・厵
 蟲・矗・轟・驫・贔
 磊
 姦・犇・晶・森
 毳
 刕
 劦
 叒
 厽
 品(ほん・しな・ヒン)
 ↓↑
 品=口+吅
   口=ク・コウ
     くち
     飲食や発声をする器官
     人や物が出入りするところ
     しゃべる・くちに出すことば
     人や家を数えることば
     くちずから
     自分のくちで・自分の言葉で
     刀剣を数えることば
     一口=一振り=刀一本
     日本語
     くち
     分割されたものを一つとして数える単位
     物事の分類・種類
     甘口・別口・辛口
     勤め先。仕事先
     嫁入り先・就職口
     物事のはじめ・はし
     序の口
     生口・・・奴隷?・・・海鼠?
          いきぐち=イキクチ
          なまくち=なまこ=海鼠
          譩(イ)=溜息
          恨みや嘆息をあらわす声の形容
          異体字「噫・億」
       譩譆(イキ)
       取穴部位:第6・第7胸椎棘突起間の外3寸
       筋肉:菱形筋
       運動神経:肩甲背神経
       知覚神経:胸神経後枝
       血管:頚横動脈
    吅=ケン・コン・セン
      かまびすしい・やかましい
      さけぶ・大声で呼ぶ
   品
   ヒン
   ホン
   しな
   しな・しなもの・いろいろな物
   物品(ぶっぴん)
   くらい・等級・位階
   人がら・人格・人の性質
   等級をつける・評価する
   良し悪しを判断する
   たぐい・種類
   物事の種類を数えることば
   きまり・制度・基準・法則
   仏典のなかで
   章・編などの一まとまりのこと
   日本語 ほん・律令制で親王に賜った位
       品位は一品から四品まで
 ↓↑
 吅=口+口+α
 ↓↑
 咒=吅+几
 咢=吅+一+丂
 哭=吅+犬
 㽞=吅+田
 啙=此+吅
 喌=吅+州
 駡=吅+馬
 㕺=吅+丂
 㖐=吅+尹
 㖾=吅+屰
 㗊=吅+吅
 骂=吅+马=ののしる・罵倒・・・骂=罵
 ↓↑
 α+品
 偘=イ+品
 區=匚+品・・・區=区
 嵓=山+品
 嵒=品+山
 䓵=艹+品
 喦=品+山
 喿=品+木
 傴=イ+匚+品
 榀=木+品
 煰=火+品
 剾=匚+品+刂
 嫗=女+匚+品
 摳=扌+匚+品
 匲=匚+大+品
 嘔=口+匚+品
 嶇=山+匚+品
 塸=土+匚+品
 彄=弓+匚+品
 䧢=阝+匚+品
 奩=大+匚+品
 慪=忄+匚+品
 漚=氵+匚+品
 碞=品+石
 蓲=艹+匚+品
 劋=品+木+刂
 澏=氵+品+山
 樞=木+匚+品
 敺=匚+品+攴
 膒=月+匚+品
 㠋=山+品+一+丂
 僺=イ+品+木
 歐=匚+品+欠
 蕚=艹+品+一+丂
 毆=匚+品+殳
 熰=火+匚+品
 㬽=月+品+丂
 操=扌+品+木
 澡=氵+品
 幧=巾+品+木
 瞘=目+匚+品
 鄵=品+木+阝
 噪=口+品+木
 甌=匚+品+瓦
 䆰=穴+匚+品
 懆=忄+品+木
 嬠=女+品+木
 䙔=衤+匚+品
 璪=王+品+木
 燥=火+品+木
 闆=門+品
 䌔=糸+匚+品
 氉=品+木+毛
 臊=月+品+木
 癌=疒+品+山
 橾=木+品+木
 謳=言+匚+品
 檶=木+大+匚+品
 藲=艹+木+匚+品
 軀=身+匚+品
 㿋=疒+品+木
 䡱=車+匚+品
 臨=臣+𠂉+品
 櫙=木+艹+匚+品
 襙=衤+品+木
 ↓↑
 躗=衛+足
   行+韋+口+龰
   行+韋+口+止
   彳+亍+口+㐄+龰
   彳+亍+口+㐄+止
   彳+一+丁+口+㐄+龰
   彳+二+亅+口+㐄+龰
   彳+一+丁+口+㐄+止
   彳+二+亅+口+㐄+止
   彳+一+亅+口+㐄+龰
   彳+一+亅+口+㐄+止
   エイ
   カイ
   誤る・失敗する・しくじる・間違う
   偽る
 ↓↑
 讆=衛+言=讏
   行+韋+言
   エイ
   いつわる・嘘をつく
   たわごと・寝言・たわごとを言う
   戯言・囈・譫
   悪人や悪行をたたえる
   ↓↑
  叴・㕤・厹=三刃の矛
  𠮠=口+勹=𠮠
    口+万=𠮠・・・?
    冂+万
    冖+万
    按𠮠下从刀與 另
    異字彙混入  另
    非正字通不知別有 𠮠
    叧(削ぐ)
    另(別ける)
  𠮣=乂+口
    ゴ・グ
    われ・わが=吾𢓲𨖍
    主 格(I) =吾
    所有格(my)=我
    目的格(me)=我
同「余・予」=𠮣
    壹與・壹余(餘)・壹予(豫)
    位地与・位置輿
     
    𠮥=𠮦=召
    ク=ハ=刀=刃
 ↓↑
 石=䂖=𥐘
 磊=𥗉=𥗐
   砥=石+
     䂡𥐺研磨碫礪砺䃺磨𥖤𢉳
     礯=石+縈
      エイ
      石火炏冖𤇾糸縈=礯
      石
   砳
   碔=石+武
   碔砆(ブフ)=赤地に白い紋様が入った玉石
   𥓔=石+委
   𥓿=水切り石
   磾=石+單
     石吅甲一
     絹を染めるために用いた黒い石
   𥕺=石+厽+𠆢+㣺
     シン
     磣碜𥕃𥓗硶
     石ム厸厽𠆢𠫯㣺𠇍叅=𥕺
     食べ物に砂が混じる
     異物が混じる
     同「墋」
     𡕎=石
      ト・ツ
      蠹蠧𧋌𥗤𧖌
      土士冖石𥑟石砳磊=𡕎
      キクイムシ(木食い虫)
      キクイムシ科の虫
      同「螙・蝎・𧒤・𧔄」
      虫が草木や書籍・衣服などを
      食い荒らす虫
      同「螙」「蛀」
      虫食い
      蝕(むしば)む
      日本国民の税金を・・・
      むしばむ人物って、結構存在する・・・
      脛(臑・すね)を齧っているって、ダレのスネなんだか
      カジれるヒトmohaya・・・
ーー↓↑ーー
 玉=王+丶
   ギョク・コク・たま
   𤣪・𥝍=玉
 玊=王+丶
   シュク・スク
   傷や汚点などの欠点がある玉
   玉を磨く職人
 王=𠙻・𠰶=王
   三つの横棒は「天人地」
   それらを纏め治める者
   秦代以降は「皇帝」
   皇帝に与えられた領土を治める者が「王」
   一族・一類に君臨する者
 主=丶+王=あるじ
   丶=チュ・てん・ ちょぼ・ぽち
     異体字「𪐴・主・注」
     声符「丶・主・㕻」
     チユ.・しるし
     きれめにしるす點
     ともし火・燈火の象形
     主宰の主の古字
 ↓↑
 領域国家化を達成した大国の君主が
 周王に取って代わる天下で
 唯一の王
  ↓↑
 「王」=一+土
     一+十+一=壱拾壱
     干+一・・・干の一=甲
     于+一・・・單于
           單=吅+甲+一
           磾=石+單
             石+吅+甲+一
             絹を染めるために用いた
             黒い石 
     二+丄=王
     丅+二=王
     丁+二=チヨウジ
     丁=一+亅・・・亅=鉤
     三+丨=参棒
     ↓↑
     甩用甪
     田甲申由
 ↓↑
 王を自称し、
 「王」が乱立
 その後
 ↓↑
 秦が
 紀元前230年に韓
 紀元前228年に趙
 紀元前225年に魏
 紀元前223年に楚
 紀元前222年に燕
 紀元前221年に斉
 を滅ぼし
 ↓↑
 紀元前221年~紀元前206年
 秦朝の
 統一~滅亡までの期間
 ↓↑
 「始皇帝」
 ↓↑
 初めて
 中国を統一した
 秦(シン)王
 嬴(エイ)
 政(セイ)
 ↓↑
 「王」号をかえ
 「皇帝」号を使用
  ・・・皇=白+王
       あわてる・あわただしい・せわしい
     帝=亠+ハ+冖+巾
 ↓↑
 紀元前206年~紀元8年)
 前漢成立と期間
 ↓↑
 紀元前221年
 王号は
 皇帝の臣下へ与えられる称号(諸侯王)
 あるいは
 皇帝の天下の権威を認めて
 従属姿勢を示す
 周辺国家の長に贈る称号とした
 (漢の対等国・・・対等?
  であった
  「匈奴」の
  君主の号は
  「単于」であり
  「王」ではない)・・・
  単于=單于=「吅+甲+一」+于
  吅=口+口
    口々に話す
   「喧」の原字・喧噪・喧嘩・出入り
   「雚」などを派生・灌漑・灌木
    異体字「厸・喧・訟」
    かまびすしい=カマビスシイ
    雚=艹+𨾴=雚=(艸・艹)+吅+隹=雚
      卝+𨾴
      艹+吅+隹
      異体字「萑・鸛」
      勸=口々に叫んで力づける=勧
      灌=水をどくどくと注ぐ=潅
   「驚き嘑叫ぶ」・大声を出す
    讙と同じで「讀みて讙の若くす」
    讙=言+雚
      異体字「唤・歡・歓. 簡体字. 欢」
      「謢」「護」・・・護国・護衛・護憲・護身・看護・擁護
       まもる
      「卫・守・戍・防・护・秉・拥・捍・衛・擁・衞」
 ↓↑    ↓↑
      雚+α
      雚・勸・灌・蠸・䟒・顴・權・矔
      𩁧・𪈩・𢑆・爟・觀・酄・驩・歡
      罐・貛・𩁰・懽・瓘・䚭・鑵・鸛
      観(觀)・勧(勸)・歓(歡)
    権=權・・・権力=權力
    ↓↑
    権=木+𠂉+一+隹・・・・・・なんで権力・権威・権原・権限?
    權=木+⺿+吅+隹・・・なんで權力・權威・權原・權限?
    異体字「權・𫞐・权」
    廾・艹・艹・䒑・艸・⺾・⺿・⻀
    𠂉=⺿=十+十=二十
           =弐拾=貳(貮)拾=念
            二足=ふたたり=ふたたる
                    二墫
    一=吅=口+口
       =囗+囗=國+國=二国=ニコク
          ふたこく=蓋国
               蓋=艹+去+皿
                  土+ム
                 十+一+ム
                 天蓋
 ↓↑  ↓↑
    淵蓋蘇文(ヱン ガイソブン
         ?~666年(宝蔵王二十五年)
    高句麗末期の
    大莫離支(テマクリジ・宰相)・将軍
    泉蓋蘇文=泉蓋金
    伊梨柯須彌(伊梨柯須弥・いりかすみ)
   「淵(泉)」
    𣶒=エン・ふち
      異体(體・タイ)字がナゼこんなにアルんだか・・・
      淵渊渕㴊𣷬渁𣾜渆𣷨𣴺𣴸㶜𣾬𤀵𠝃囦𡇋𠀯𡆼
 ↓↑  ↓↑
    高句麗語の「いり=水源」・・・?
          湖の「イリ湖」
          イリ湖はイリ、タルトゥ郡
          エストニア
          ↓↑
          タルトゥ郡イリ・・・樽問う君の邑のイリ
         Tartu County Illi
         カザフスタン西部
         バルハシ湖
         イリ=乙女の名
         イリ川(Ile・Ili・Ili bira)
         新疆ウイグル自治区の北部の
         イリ・カザフ自治州から
         カザフスタン南西部の
         アルマトイ州にかけて流れる川
         長さ1,439kmのうち815kmが
         カザフスタン部分を流れる
         天山山脈に源
         西に流れ
         バルハシ湖に注ぐ
         河口には巨大な三角州
         流域の
         イリ地方では
         烏孫
         チャガタイ・ハン国
         ジュンガルが興亡
         イリ河の上流部(東部)は
         新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州
         下流部(西部)は
         カザフスタン領(アルマトイ州)
 ↓↑       ↓↑
 イリ 王朝(崇神=御間城 入 彦五十瓊殖
       垂仁=活目  入 彦五十狭茅)
       
 タラシ王朝(景行=大 足  彦忍代別
       成務=稚 足  彦
       仲哀=  足 仲彦)
 ワケ 王朝(応神=誉田
       別称 誉田  別  尊
          誉田  別 天皇
          品陀  和気 命
          大鞆  和気 命
          品太    天皇
          凡牟都 和希 王
          胎中    天皇)
       仁徳=大鷦鷯   天皇
       別称 難波天皇
          聖帝
          皇后 葛城 磐之 媛
          子女 履中      天皇
             去来穂   別 天皇
             大兄去来穂 別 尊
             大江之伊邪本和気命
             大兄伊射報本和気命

             住吉仲皇子

             反正      天皇
             多遅比瑞歯 別 天皇
                瑞歯 別
             多遅比瑞歯 別 尊
                水歯 別 命

             允恭          天皇
             雄朝津間  稚 子 宿禰天皇
             大草香(大日下)    皇子
             草香(若日下)幡梭姫  皇女

             安康          天皇
             穴穂          天皇

             雄略          天皇
             大泊瀬 幼 武     天皇
             大泊瀬 幼 武
             大泊瀬 幼 武     尊
             大長谷 若 建     命
             大長谷         王
             倭王武

             清寧           天皇
             白髪武広国押 稚 日本根子天皇
             白髪大倭       根子命
             母        葛城 韓媛
             皇居       磐余 甕栗宮

             顕宗           天皇
             弘計
             来目     稚 子
             袁祁           王
             袁祁之石巣  別     命
             袁奚           天皇
             父    市辺押 磐   皇子
             母            荑媛

             仁賢           天皇
             大脚(大股・大俣・大亦・大足)
             大為
             億計           天皇
             大石           尊
             意祁           命
             意富祁          王

             武烈           天皇
             小泊瀬 稚 鷦鷯     尊(紀)
             小長谷 若 雀      命(記)
 ・・・分別するなら「根子=ねこ・ネコ=猫」王朝もだが・・・
             持統天皇
             大倭 根子 天  之 廣野 日女尊
                   天津・氏 廣の里を予(預かる)?
 ↓↑   ↓↑        ↓↑         ↓↑
     隋皇帝 煬帝=唐王朝の追諡
         隋朝第二代皇帝
        (在位604年8月21日
          ~618年4月11日)
           660年・百済滅亡
           663年・白村江の海戦
           668年・高句麗滅亡
           670年~676年
           唐・新羅戦争で唐敗北
           新羅が朝鮮半島統一
           672年7月24日~8月21日
           壬申の乱
           大海人皇子・鸕野讃良が
           大友(伊賀)皇子の近江王朝に勝利
 ↓↑   ↓↑   ↓↑
     隋皇帝 煬帝
         本名は楊「廣(広)」
         別名は「英」
         小字は「阿麼(アマ)」
                阿毎⇔阿武⇔阿部・阿倍⇔布施?
                         阿倍比羅夫
             「麼=麻+幺=幺=麽」
                广+林+幺
                異体字「麽・嚒・庅」
                バ・マ・モ
                かすか・小さい・細かい
                か・や
                疑問をあらわす助字
               接尾語、疑問詞などの後につけて
               語調を整える
             ↓↑  ↓↑
             持統            天皇       
             高天原廣野        姫天皇
             鸕野讚良
             ↓↑  ↓↑
             文武天皇
             倭 根子 豊祖父      天皇
             天之眞宗 豊祖父      天皇
             珂瑠・軽
             父           草壁皇子
             母           阿閇皇女(元明)
             ↓↑  ↓↑
             元明               天皇
             日本 根子 天津 御代 豊國 成姫天皇
             阿閇・阿倍
             父           天智   天皇
             母           蘇我姪  娘
             皇配           草壁   皇子
             ↓↑  ↓↑
             元正               天皇
             日本 根子 高瑞浄 足     姫天皇
             氷高・日高・新家
             ↓↑  ↓↑
             聖武               天皇
             勝宝感神聖武           皇帝
             天璽国 押開 豊桜彦       天皇
             首(おびと)
             沙弥勝満
             ↓↑  ↓↑
             孝謙(第46代)
             称徳(第48代)
             高野              姫天皇
             阿倍
             宝字 称徳 孝謙         皇帝
             倭 根子             天皇
 ↓↑  ↓↑   
   「蓋蘇文」
    高句麗語で「かすみ」・・・「霞」?
   「ガイソブン」の漢字を当てた・・・?
    642年
    栄留王を殺害
    宝蔵王を擁立
    専権
ーー↓↑ーー
 日本
 王号の初出
 漢の
 光武帝
 「五十七=五拾七」年・・・ゴを拾うシチ
 (委)奴国の王に・・・・・イヌ・いぬ=狗・戌・犬?
            「ア-イヌ」=「蝦夷」・・・?
 賜綬した
 金印に彫られている
 「漢-委-奴-国王」
ーー↓↑ーー
 『隋書』
 「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」
 開皇二十年(600年)
 第1回遣隋使・上奏文
 「俀王
  姓
  阿毎
  字多利思北孤
  號
  阿輩雞彌」
 「俀王多利思北孤」の号
 「阿輩雞彌(アハケミ・おおきみ)」・・・
  アワ・あわ・阿波・・・?
 大業三年(607年)
 第二回
 遣隋使の上表文(国書)
 「日出處
  天子
  致書
  日沒處
  天子
  無恙云云」
 対外的に
 「天子」の称号を使用
 国内においては
 「大王(おおきみ)」、
 「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」
 の号が使用・・・
ー↓↑ーー=
 唐
 高宗
 674年
 「皇帝」を「天皇」と改称
 「天武天皇」も「天皇」表記を採用した・・・?
 「天皇(大帝)」
 中国古代の
 宇宙の最高神天帝の名
 道教思想と関わりを持つ
 天武の施政
 道教的色彩
 「天武」が
 「天皇」表記を用い始めた・・・ナゼ?
ーー↓↑ーー
 飛鳥京跡から
 「大津皇・津皇・皇子」
 などの文字の見える
 木簡の削り屑が出土
 天武の子
 「大津皇子」を指す
 同時出土の他の木簡から
 天武十年(681年)のもの・・・
 天武十年に
 皇子表記が使用されていることは、
 それ以前に
 「天皇」表記が用いられていた・・・
 「天皇」という表記の訓みは
 「スメラミコト・・・・・素女裸(猿女・宇受女)見事
  スメロキ」・・・・・・蘇女(目)賂記(紀・姫)
 「スメル=統べる」の転訛・・・素女留
 「上代特殊仮名遣」・・・・「上代特殊仮名遣」は
                ↓↑
 からこれは否定・・・・・・・関係無い
 現在も判然としていない・・・関係無い
            ・・・漢字自体が関係する・・・
 万葉集には
 「天皇」の表記が
 12例知られ、
 7例が
 「オオキミ」
 5例が
 「スメロキ」
 と訓ませている・・・
 文意の比較から
 「オオキミ」=「今上天皇」
 「スメロキ」=「過去の歴代天皇や皇祖神」
 に対して用いられていた・・・既に死亡した
               権力者が「スメロキ」・・・
              「星(星座)=天皇」になった?
ーー↓↑ーー
 武 則天=則天武后
 中国史上
 唯一の女帝
 唐の
 高宗の
 「皇后」となり、
 後に
 唐に代わり
 「武周」朝を建てた
 諱は
 「照(曌=明+空)」
 日本では
 「則天武后(そくてんぶこう)」
 この名称は
 彼女が
 自らの遺言により
 「皇后」の礼をもって
 埋葬された事実を重視した呼称
 中国では、
 彼女が「皇帝」として
 即位した事実を重視して
 「武則天」と呼ぶ・・・「天皇」=「皇后」?
ーー↓↑ーー
 王朝 武周
 在位期間
 690年10月16日~705年2月22日
 都城 長安
 姓・諱
 媚娘→武照(武曌)
 諡号 則天大聖皇帝
    則天順聖皇后
 生年 武徳7年1月23日
    (624年2月17日)
     ~
 没年 神龍元年11月26日
     (705年12月16日)
 父 武士彠
 母 楊夫人
 陵墓 乾陵
 ↓↑
 則天武后時代の
 664年に実権~690年に国号を武周
 年号  西暦       漢字の意味?
 光宅  684年・・・・・・ 光の宅 光沢・公宅・考拓
 垂拱  685年~688年・・・垂の拱 垂拱之化=ナニもしない
                  スベテが順調
                  手を拱(こまね)くだけ
 永昌  689年・・・・・・ 永の昌 詠唱・永正・英商・贏相
 載初  689年~690年・・・載の初 初めての掲載
 天授  690年~692年・・・天の授 天からの授かり
 如意  692年・・・・・・ 如の意 イの如く
 長寿  692年~694年・・・長の寿 オサのコトブキ
 延載  694年・・・・・・ 延の載 延長して掲載
 証聖  695年・・・・・・ 証の聖 聖(ひじり)を
                  証(あかす)・聖武天皇?
 天冊万歳695年・・・・・・ 天の冊=古事記・日本書紀
                  記紀の上巻、神話
              万の歳=太安万侶の歳?
 万歳登封695年~696年・・・万の歳
              登の封=唐風・東風・当風・当諷
                  渡邉崋山(登)
 万歳通天696年~697年・・・万の歳
              通の天=天に通じる
 神功  697年・・・・・・ 神の功=神功皇后
 聖暦  698年~700年・・・聖の暦=ひじり(セイ・西)の暦
 久視  700年~701年・・・久の視=櫛・串・駆使・句詞
 大足  701年・・・・・・ 大の足=オホのタリ
                  景行天皇
                  大足彦忍代別尊
                  第十二代天皇
                  大足彦尊
 長安  701年~704年・・・長の安=オサのアン(やすんじ)
ーー↓↑ーー
 天武天皇
 生年?
 舒明三年
 (631年)?
  ~   645年=大化の改新
  ↓↑       壬申の乱
           天武天皇元年6月24日~7月23日
      672年7月24日~8月21日(ユリウス暦)
            ↓↑
           則天武后
      655年(永徽六年)六月に皇后
      664年に実権
  ↓↑  690年に国号を「武周」
  ↓↑  690年~692年=年号は「天授」
 朱鳥元年九月九日
(686年10月1日)
 在位
 天武天皇二年二月二十七日
 (673年3月20日)
   ~
 朱鳥元年九月九日
 (686年10月1日)
 『皇統譜』の代数は
 第四十代天皇
ーー↓↑ーー
 則天武后は
 ↓↑
 利州
 都督
 武士彠
 と
 楊夫人の間に
 次女
 として生まれた
 諱を
 照(ショウ)・・・曌=明+空=天「照」大神=天明空
 幼名を
 媚娘(ビジョウ)・・・眉=まゆ=繭=蚕(かいこ・サン)
 ↓↑     七歳の「まゆわ=眉輪=繭輪=目弱」皇子
        父は大日下皇子(大草香皇子)
        都夫良意富美=つぶらおほみ=円大臣
              =葛城の円
 ↓↑     と共に「火宅」で自刃・・・
 12歳
 父が死去・・・・武士彠(尋蒦)=ブ-シ-カク
 14歳
 太宗の後宮に入り
 才人(妃の地位。正五品)
 当初は
 太宗の寵愛を受けていたが
 宮廷に
 「唐三代にして、女王昌」
 「李に代わり武が栄える」
 との流言が蔓延し
 「武照の聡明さが
  唐朝に災禍をもたらす」
 と疑い
 太宗は、
 武照を疎遠にした
 李君羨という武将が
 「武が栄える」の
 「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑
 太宗は
 李君羨の処刑後もなお
 武照と距離を置き続けた
 太宗の子である
 李治(高宗)が
 武照を見出し、
 太宗に殺害されることを恐れた
 武照は李治を籠絡し、
 李治は妄信的に
 武照を寵愛した・・・
ーー↓↑ーー
 太宗の崩御
 出家した
 ↓↑
 だが、
 額に焼印を付け
 仏尼になることを避け、
 女性の
 道士(坤道)となり
 道教寺院(道観)で修行
 ↓↑
 太宗の後継者である
 高宗の皇后だった
 王皇后と、
 高宗が寵愛していた
 蕭淑妃が対立
 ↓↑
 王皇后は
 高宗の寵愛を
 蕭淑妃から逸らす為、
 高宗に
 武照の入宮を推薦
 ↓↑
 武照は
 昭儀(後宮における上から5番目の地位)
 として後宮に入宮
 高宗の寵愛は
 王皇后の狙い通り
 蕭淑妃から逸れ
 同時に
 王皇后自身も
 高宗から疎遠となった・・・
ーー↓↑ーー
 立后
 永徽六年(655年)六月
 昭儀(後宮の位の一つ)だった武照を
 新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、
 宰相の
 韓瑗と
 来済の反対で実現はしなかった
 中書舍人
 李義府などの側近が
 皇后廃立と
 武照擁立の意図を揣摩し、
 許敬宗、
 崔義玄、
 袁公瑜
 等の大臣が結託し
 高宗に
 武照立后の上奏文を送った。
 高宗は
 王皇后を廃して
 武照を皇后に立てる事の是非を
 重臣に下問
ーー↓↑ーー
 この時の朝廷の主な人間は
 太宗の皇后の兄である
 長孫無忌、 太宗に信任されて常に直言をしていた
 褚遂良、
 高祖李淵と同じ北周八柱国出身の
 于志寧
 太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた 李勣の四人
 長孫無忌と褚遂良は反対し、
 于志寧は賛成も反対も言わず、
 李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認
 ↓↑
 10月13日(11月16日)
 高宗は詔書を以て、
 「陰謀下毒」の罪により
 王皇后と蕭淑妃の二名を庶民に落として罪人とし
 投獄した
 同二名の親族は官位剥奪の上
 嶺南への流罪
 7日後、高宗は再び詔書を発布し
 武照を立后とし
 諫言した
 褚遂良を潭州都督へ左遷
 11月初旬
 皇后になった武照は
 王氏(前皇后)と 蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処し
 処刑
  垂簾政治
 武皇后は
 高宗に代わり垂簾政治・・・ナゼ?
 武皇后は
 自身の権力を支える人材を
 非貴族層から登用
 狄仁傑・姚崇・宋蓂
 など
 武皇后は人材の採用に当たっては、
 身分のみならず才能と
 武皇后への忠誠心を重視
 姚崇
 宋蓂
 は後に
 玄宗の下で
 「開元の治」
 を導いた
  ↓↑
 顕慶五年(660年)
 新羅の請願で
 百済討伐
 百済を滅ぼし
 倭国(日本)・旧百済連合軍
 と
 唐軍
 が戦った
 白江口の戦い(白村江の戦い・663年)
    ・・・⺽=∈∋=E∃=Eヨ=臼
        竄=穴+鼠
         =宀+八+𦥑+レ+冫+レ+冫+乚
 に勝利し、
 その5年後には孤立化した
 高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵・668年)
 だが、
 武皇后の暴政と・・・?
 営州都督
 趙文翽の横暴により
 契丹が大規模な反乱
 河北へ侵攻
 遼東遼西の情勢は悪化
  ↓↑
 武皇后は
 娘の
 太平公主
 薛懐義・張易之・昌宗兄弟
 など自身の寵臣、
 武三思・武承嗣
 ら親族の
 武氏一族を重用し、
 専横を招く
 佞臣の
 許敬宗
 などを任用し
 密告政治により
 反対者を排除、
 来俊臣・索元礼・周興
 ら「酷吏」が
 反対派を監視する恐怖政治を行った
  ↓↑
 高宗は
 武皇后の廃后を計画
 武皇后は計画を事前に察知
 皇帝の権力奪還を許さなかった・・・?
  ↓↑
 弘道元年(683年)
 高宗が崩御
 子の
 李顕(中宗)が即位
 中宗の皇后
 韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に
 太平公主を使って
 中宗を廃位し
 弟の
 李旦(睿宗)
 を新皇帝に擁立
 睿宗は武后の権勢の下、
 傀儡に甘んじる
  ↓↑
 武則天の専横に
 皇族が次々と挙兵したが、失敗
 反乱軍の檄文を
 詩人の
 駱賓王
 が書いた
 その名文に感嘆した武則天が
 「このような文才のある者が
 (官職につけられずに)流落しているのは
 宰相の責任だ」と言った
 という逸話
 ↓↑
 登位
 宗族の挙兵を打ち破った後、
 武后は
 女帝出現を暗示する預言書
 (仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)
 を全土に流布
 周代に存在したとされる
 「明堂(聖天子がここで政治を行った)」を
 宮城内に建造させ、権威の強化を謀り
 帝位簒奪の準備を行った
  ↓↑
 天授元年(690年)
 武后は自ら帝位に就き
 国号を
 「周」とし、
 「聖神皇帝」と称し、
 「天授」と改元
 睿宗は皇太子に格下げされ
 李姓に代えて
 武姓を与えられた
 この王朝を
 「武周」と呼ぶ
 (国号は周であるが
  古代の周や北周などと区別)
  ↓↑
 帝室を老子の末裔と称し
 「道先仏後」だった唐王朝と異なり、
 武則天は仏教を重んじ朝廷での席次を
 「仏先道後」とした
 諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、
 自らを
 弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、
 このことを記したとする
 『大雲経』・・・大雲=八雲=大蜘蛛?
 を創り、
 これを納める「大雲経寺」を
 全国の各州に造らせた
  ↓↑
 武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが
 高宗の時代から彼女が実力を見い出し重用していた
 名臣
 狄仁傑(テキジンケツ)・・・狄(テキ)⇔荻(はぎ)
 武則天は
 狄仁傑を宰相とし
 諫言を聞き入れ、
 国内外の難題処理
 姚崇・宋蓂
 などの実力を見抜いて要職に抜擢
 この二名は
 玄宗の時代の
 開元の治
 を支える名臣
 武則天の治世の後半は
 狄仁傑らの推挙により
 数多の有能な官吏を登用
 宗室の混乱とは裏腹に
 政権の基盤は盤石
  ↓↑
 晩年
 武則天が病床に臥せがち
 宮廷内では唐復活の機運
 武則天は
 甥に帝位を譲ろうとしていたが、
 「子をさしおいて
  甥に譲るのは礼に反する」
 との狄仁傑の反対で断念
 子とは即ち
 高宗との子であり、
 唐王朝の復活
 武則天の
 寵愛をうけ
 横暴を極めた
 張易之・昌宗兄弟を除くために、
 神龍元年1月24日(705年2月22日)
 宰相
 張柬之
 は
 中宗を東宮に迎え、
 兵を発して
 張兄弟を斬り、
 武則天に
 則天大聖皇帝
 の尊称を奉ることを約束して位を退かせ
 これにより
 中宗は復位し、
 国号も唐に戻る
  ↓↑
 武氏の眷属は
 李氏を筆頭とする唐朝貴族と
 密接な姻戚関係を構築しており
 武則天自身も
 太后としての立場を有し
 唐朝再興に伴う粛清は
 太平公主
 や
 武三思
 などには及ばず命脈を保った
  ↓↑
 武則天死去
 706年(神龍二年)五月
 乾陵に
 高宗と合葬
  ↓↑
 謚号
 遺詔に
 「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」
 とあった・・・
 唐王朝での謚号はその後も変遷・・・
  ↓↑
 唐隆元年(710年)中宗、天后と改める
 景雲元年(710年)睿宗、大聖天后と改める
 延和元年(712年)睿宗、天后聖帝と改める
 開元四年(716年)玄宗、則天皇后と改める
 天宝八年(749年)玄宗、則天順聖皇后の謚を追加
  ↓↑
 史書伝
 少女期の媚娘は
 漆黒の髪
 切れ長で大きな目
 雪のような肌
 桃色の唇
 薔薇色の頬
 大きな胸
 魅了する媚笑
 聡明な頭脳
  ↓↑
 改称・改変
 称号や尊号、
 都市の名前など
 人や事物に対して
 伝統的に使用されてきた呼称に
 改変を加えることを好んだ
 顕慶四年(660年)
 皇帝と皇后を
 それぞれ
 天皇
 と
 天后
 とした
 「天皇と天后」
 という相互に比肩する字義を持つ組み合わせへと
 尊号を改めさせることで
 「皇后が国政に介入しているに過ぎない状況」
 を
 「天后が正統かつ正当な支配権を行使している状況」
 へと変貌させ、
 現状における自己の政治への介入状況を追認させた
 地名の改称
 洛陽を神都
 自らの出身県である
 文水県
 を
 武興県
 と改めた
  ↓↑
 武則天
 新漢字の発明
 則天文字と呼ばれる新しい漢字
 その数は20字程度
 「圀」の字は日本で
 徳川光圀と本圀寺の名に使用
 「國」が国構えの内に
 「惑=或+心」を含むこと(?)を
 武則天が忌み嫌った・・・
 国構えの「囗」に「八方」とした
 彼女自身の名の
 「照」の代替として、
 「曌=明+空」を造字
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・???・・・悪女・・・?
 コジキ姫「壱与」・・・「壹與」
 カンジて赤い絨毯にのり
 空をカケメグル
  「古事記・字源」物語
http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm

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「元始も現在も、女性は太陽」・・・鳦はオモネロ・・・

2021-02-25 18:58:24 | 古事記字源

 洋行乨の「やご(水蠆・yago)」・・・Dragon fly
 秦の始皇帝の末裔・・・
 ↓↑
 神功皇后
 応神天皇の時代
 秦氏一族(数千人から1万人規模)
 が当国に帰化
 弓月君
 阿直岐
 王仁
 阿知使主
 秦の始皇帝三世直系
 弓月君
 秦氏の中心的人物で
 和邇吉師(王仁)によって
 論語
 と
 千字文が伝わった(古事記)

 豊前国を拠点に全国に散らばった
 山背国葛野郡(京都市右京区太秦)
    紀伊郡(京都市伏見区深草)
 河内国讃良郡(大阪府寝屋川市太秦)
 摂津国豊嶋郡
 針間国(兵庫県)
 阿波国
 伊予国神野郡
 などに土着
 ↓↑
 丹波国桑田郡(京都府亀岡市)
 湿地帯の開拓
 雄略天皇の時代
 秦酒公(さけのきみ)が
 秦氏の伴造として
 各地の秦部・秦人の統率者となり
 公の姓を与えられた
 欽明天皇の時代
 紀郡深草里の
 秦大津父(おおつち)が伴造となって
 大蔵掾(おおくらのふびと)に任ぜられた
 ↓↑
 本拠地
 山背国
 葛野郡
 太秦
 桂川中流域
 鴨川下流域
 を支配
 山背国
 愛宕郡(京都市左京区、北区)
 鴨川上流域を本拠地とした
 賀茂氏と関係が深かった
 秦氏は
 松尾大社
 伏見稲荷大社
 などを氏神とし
 賀茂氏の創建した賀茂神社とならび
 山背国では創建が最古の神社
 推古天皇30年
 秦河勝が
 広隆寺を建立
 ↓↑
 河内国
 讃良郡
 「太秦」
 寝屋川市の町丁
 河内国
 太秦
 弥生中期頃の
 高地性集落(太秦遺跡)が確認
 5世紀~6世紀にかけて
 渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)
 淀川の治水工事として
 茨田堤を築堤する際に協力
 熱田神社(大阪府寝屋川市)が
 広隆寺に記録が残る
 河内秦寺(廃寺)の跡だった
 ↓↑
 天智天皇は
 秦氏による
 山背国(山城国)へ遷都を薦めていた
 天応元年
 桓武天皇即位
 延暦三年(784年)
 長岡京造営
 延暦十三年(794年)
 和気清麻呂
 藤原小黒麻呂(北家)
 らの提言で
 平安京遷都
 ↓↑
 相模国(秦野市)周辺地域に居住
 杉並区
 久我山が拠点
 井の頭池より玉川上水流域の
 北沢分水上堀
 江下山堀を通る用水路を開削
 久我山の下流水域には
 八幡山
 幡ヶ谷
 などの地名が残る
 ↓↑
 『新撰姓氏録』
 秦の始皇帝の末裔
 漢民族で
 応神十四年(283年)
 百済から日本に帰化した
 「弓月君(融通王)」などが祖
 ↓↑
 秦氏族の祖とされる陽父
 秦の血統
 漢民族
 弓月国
 百済を経由して日本へ帰化
 『日本書紀』
 弓月君が
 百済の120県の人民を率いて帰化
 秦王朝と同じ氏族(種族)
 辰韓滅亡後
 遺民が日本列島に到来
 中国の西に位置する
 天山山脈の麓の
 「弓月国」
 を源とした一族が建国した
 「秦韓(辰韓)」を構成した国王の子孫
 新羅の台頭により国が滅亡し
 王であった
 「弓月君」が日本に帰化
 景教
 (キリスト教・ネストリウス派)
 徒のユダヤ人が祖とされる
 五胡十六国時代
 羌族が興した後秦に由来
 羌族が
 チベット・ビルマ語派に属する
 チベット系民族で
 同言語において
 ハタは辺鄙の土地
 ウズは第一
 キは長官
 を意味
 『隋書』
 風俗が
 華夏(中国)と同じで
 「秦王国」
 なる土地が日本にあった・・・
 『義楚六帖』
 顕徳五年(958年)
 「寛輔」
 という日本僧侶から聞いた形で
 「徐福」が秦氏の祖となった・・・
 『史記』巻百十八
 「淮南衡山列伝」
 秦の始皇帝に
 「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」
 と具申し
 始皇帝の命を受け
 3,000人の童男童女
 百工(技術者)
 を従え
 財宝と財産
 五穀の種を持って東方に船出し
 三神山には到らず
 「平原広沢」を得て王となり
 秦には戻らなかった・・・
 ↓↑
 徐 福(ジョ フク)
 秦の方士
 斉国
 琅邪郡(山東省臨沂市周辺)出身
 別名は
     徐巿(ジョ フツ)・・・
      巿=十+冂=巿≠市(亠+巾)
      巿=一+巾=前掛け・割烹着
            作業用防護服
 扶桑⇔扶余=扶餘・・・百済、高句麗の種族
     徐巿・・・
     徐(おもむろ)・・・徐行
     餘(あまる)・・・・剰余・剰餘・磐余
     除(のぞく)・・・・除去・除雪・排除
 ↓↑
 秦の始皇帝
 辰韓の王
 秦韓の王
 斯蘆の王
 新羅の王

 ↓↑
 陽侯史=「陽侯」忌寸
     隋の「煬帝」の子孫
     達率
     楊候
    「阿子王」
     の末裔を称する渡来系氏族・・・
 陽侯氏=ヨウコウシ=要項詞・要綱史・・耶語・・・?
     洋行乨の「やご(水蠆・yago)」・・・Dragon fly
          埜語
     蠆=萬+虫
       艹+禺+虫
       タイ・さそり
     䘍=萬+䖵
       艹+禺+虫+虫
 蜻蛉(セイレイ・とんぼ)
   の幼虫=ヤゴ(水蠆=スイタイ)=蠆・䘍・虿
      =ヤンマ(蜻蜓)
       トンボ目不均翅亜目ヤンマ科
       (Aeshnidae)の昆虫の総称の幼虫
 ↓↑
   タイコウチ(太鼓打・water scorpion
            ウォータースコーピオン)
   カメムシ目・タイコウチ科に属する
   水生昆虫の一種

ー↓↑ーーーー
 若いツバメ(燕・鳦・鷰・津波目・乙鳥)
 と
 年増のライチョウ(雷鳥)
 ↓↑
 明治時代
 婦人運動・女性解放運動の
 平塚雷鳥=平塚 明(ひらつか はる)
      1886年2月10日
      ~
      1971年5月24日(85歳没)
           大運1968年3月(82歳)辛巳比肩
      丙戌(辛丁戊)正官・比肩冠帯⇔辛亥比肩
      庚寅(己丙甲)劫財・印綬 胎⇔癸巳食神
      辛丑(癸辛己)  ・食神 養⇔己酉偏印
      甲午(丙 丁)正財・正官 病⇔庚午劫財
       辰巳空亡
 ↓↑    ↓↑
      1908年(明治四十一年)3月 戊申
      22歳
      森田草平
      と心中未遂事件(塩原事件)
      1911年(明治四十四年)9月 辛亥
      25歳
      雑誌「青鞜」を創刊
      「元始、女性は太陽であった」
 ↓↑    ↓↑
      森田 草平(もりた そうへい)
      1881年〈明治十四年〉3月19日
      ~
      1949年〈昭和二十四年〉12月14日
            大運1946年9月(65歳)戊戌偏官
      辛 巳(戊庚丙)印綬・偏印 絶⇔丙戌偏財
      辛 卯(甲 乙)印綬・傷官 死⇔庚子偏印
      壬┏子(壬 癸)  ・劫財帝旺⇔壬戌比肩
      丙┗午(丙 丁)偏財・正官 胎⇔丙午偏財
        寅卯空亡
 ↓↑    ↓↑
      本名 万戸 満平・・・萬の戸の 満の平
         夏目漱石の門下生
 ↓↑
 平塚雷鳥
 と
 年下の青年画家
 奥村博史=明治22年10月4日
       1889年10月4日?
      明治24年
       1891年10月4日?
       ~
      昭和39年2月18日
       1964年2月18日
           大運1959年3月(69歳)丙寅正財
      己丑(癸辛己)偏官・偏官冠帯⇔甲辰傷官
      癸酉(庚 辛)比肩・偏印 病⇔丙寅正財
     ┏癸丑(癸辛己)  ・偏官冠帯⇔丁酉偏財
     ┗戊午(丙 丁)正官・偏財 絶⇔丙午正財
       寅卯空亡
 ↓↑
 の恋に由来・・・
 奥村から平塚に宛てた手紙
 「若い燕は
  池の平和のために
  飛び去っていく」
 ↓↑
 ・・・「池(チ・ジ)=氵+也」って、ナンだ?
     池=筂
       いけ・自然にできた水たまり
       ほり・みぞ
       すずり(硯)の水を貯めておく部分
       太陽電池=半導体を利用し
       太陽光などの光エネルギーを
       電気エネルギーに変える装置
       ため池・溜池
       灌漑や消火用の水をためておく池
       浄水池
       金城湯池=守りに優れ
            攻めに強い城
            防備堅城
       光禄池台=豪華で、絢爛な屋敷
           「光禄」は高級官僚の役職
           「光禄勲」
           「池台」は庭にある
            池の中の建物
            光禄勲の長官だった
            王根の屋敷の豪華建築
       ↓↑
       池魚(チギョ)=池に住む魚
      「氵(水)+也」の稚魚⇔眞魚⇔真名
       池の「まな(茉菜)⇔真名=漢字」
       氵=サンズイなり=ミズなり
         纂隋(髄・瑞・蘂・頭維)
          隋書の真髄・心髄・神髄
       蓄電池=充電池・バッテリー
           知句伝知?
       乾電池=日本人の発明
           屋井 先蔵(やい さきぞう)
           明治20年(1887年)
          「乾電池」を発明
           特許の第一号は
           高橋 市三郎
           日本初の電池製作者
           佐久間 象山(1811年~1864年)
           液体式の「ダニエル電池」
       ↓↑
       池沼
       池亭=休憩や景色を楽しむために
          池のほとりに建てられた小屋
 ↓↑
 簡狄呑鳦・・・簡狄=カンテキ=韓敵・漢敵・間敵?
        呑鳦=トンイツ=遁何時
           鳦(イツ)=鳥+乙=燕
 ↓↑
 殷の 
 契(セツ・ケイ・ちぎり・チギル)
   楔形(セッケイ)・・・設計・雪渓・赤経
 の母
 簡狄は・・・・狄=テキ=萩=はぎ⇔松下村塾
 有娀氏の娘で
 帝嚳・・・・嚳(コク)
       名は俊(夋)・姓は姫
       黄帝の曾孫
       父は蟜極(キョウキョク)
       祖父は玄囂
       玄囂の父は黄帝
       高辛になって帝位に即いた
       陳鋒氏の女を娶り
       放勛(ホウクン)を生む
       娵訾(シュシ)氏の女を娶り
       摯(シ)を生む
       帝嚳が崩じ
       摯が立ったが不善で崩御し
       弟の
       放勳が立って
       帝堯(テイギョウ)となった
       高辛は
       顓頊の族子
       帝顓頊(センギョク)
       高陽は黄帝の孫
       昌意の子
       上古中国神話上の帝王
       名は夋・[夒-巳]
       辛に封じられ、高辛氏と称した
       五帝の一人
       顓頊(せんぎょく)の後を継いで
       帝位に就いた
       摯、堯、后稷、「契」の父
       嚳=𦥯+告
         異体字「俈・喾」
 の次妃である
 女三人で水浴をしている時
 鳦(つばめ・玄鳥=玆鳥)が
 卵を生み落としたのを見
 狄がそれを呑んで孕み
 契が生まれた
 ↓↑
 彼は成長して
 禹の治水事業を助けた
 帝舜は人々が互いに親知せず
 五品(父母兄弟子)の秩序が乱れている
 司徒となり五教(義慈友恭孝)を
 「徐々に天下に弘めよ」
 と彼に命じ
 「商」に封じ
 「子」氏
 の姓を賜った
 「契」は唐虞大禹の時に起こり功業著し
 民生は安定した
 ↓↑
 史記(殷本紀第三冒頭)
 十八史略(巻一・殷王成湯)
 芸文類聚(巻一〇・符命)
 史記所引
 巻九二・燕
 列仙伝(所引)
 太平御覧(巻九二二・燕・史記所引)
 円機活法(巻二三・燕)
 事文類聚(後集巻四五・燕)
 渕鑑類函(巻四二四・燕二・列仙伝所引)
ーーーーー
 ・・・???・・・

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女郎蜘蛛vs蜻蛉・・・絡新婦(ジョロウぐも)・・・秋津に捕食?

2021-02-21 23:30:00 | 古事記字源

 ヤゴとトンボ・・・秋津洲・・・遣唐使・・・遣隋使・・・
 検討すること・・・秋津洲・・・遣唐使・・・遣隋使・・・
 またか・・・ボケだから・・・同じことヤッテいる・・・ムシムシむし・・・

 ヤゴ(水蠆)はトンボ目(蜻蛉目)の
 不均翅亜目
 の
 幼虫
  ↓↑
  蠆=萬+虫
   艹+禺+虫
   異体字「䘍=萬+[m:318]・虿=万+虫」
   蟲・虫
   タイ
   さそり(蠍・[m:110])
   さそり・尾の先端に毒針を持つ
   刺す・毒虫が刺す
  「水蠆(スイタイ)」=蜻蛉(とんぼ)の幼虫
   ヤゴ

 トンボ(蜻蛉・蜻蜓・とんぼ・dragonfly, damselfly)
 細長い翅と腹を持った昆虫
 蜻蛉目(トンボ目・Odonata)
 南米産の
 ハビロイトトンボは
 巣を張っているクモに体当たりし
 落ちてきたクモを捕食・・・?
      ・・・女郎蜘蛛vs蜻蛉
          絡新婦(ジョロウぐも)・・・???
          カラメとるシンプ
          絡=糸+各=からむ
          新=立+木+斤
          婦=女+帚
            女 彐 冖 巾
            菷・掃・箒
           (ほうき・はく)
            法規・放棄・蜂起・宝亀・伯耆?・白?
          イトにカラみ、タチキのキンのジョのハク?
          クモ(蜘蛛・spider)
          節足動物門
          鋏角亜門
          クモガタ綱
          クモ目(Araneae)
          歸=丿+㠯+止+帚
            丿+㠯+止+彐+冖+巾
            帰=皈=白+反・㱕=止+帚
            歸(かえす)す
            歸(かえる)る
            歸(おくる)る
            歸(とつぐ)ぐ
            思帰・思歸(シキ)故郷に帰りたい望郷・郷愁
            思帰鳥・思歸鳥(ほととぎす)・不如帰・霍公鳥
            子規・田鵑・杜宇・蜀魂・時鳥・沓手鳥
           (杜鵑・Cuculus poliocephalus
            =カッコウ目・カッコウ科
             郭公
            「うぐいす=鶯=鴬」に「托卵」する・・・ナゼ?
            大陸、半島渡来人?・・・遣隋、遣唐使の留学生?
            望郷は「渡り鳥」だが、故郷、故国とは「出生地」
            ノスタルジア(nostalgia)
            ノスタルジー(nostalgie)
         濅=氵+宀+帚+又=浸・・・侵入・侵略・侵攻
           氵+宀+彐+冖+巾+又
           濅す(ひたす)
           濅る(ひたる)
           濅みる(しみる)
           濅かる(つかる)
           濅く(つく)

 寒冷地ではふつう幼虫で越冬するが
 オツネントンボの仲間は成虫で越冬・・・
 「秋津の臀呫(となめ)の如し」・・・神武天皇
 (トンボの交尾のようだ)と述べた・・・
 ↓↑
 み吉野の 袁牟漏が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰ぞ 大前に奏(まを)す
 やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 呉座にいまし
 白栲(しろたへ)の 衣手着そなふ 手腓(たこむら)に 虻かきつき
 その虻を 蜻蛉早咋ひ かくの如 名に負はむと
 そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ・・・雄略天皇

 ↓↑
 虫(蟲・むし)
 人類・獣類・鳥類・魚類以外の
 小動物の総称
 蠕形動物のこと・回虫
 回虫原因の腹痛
 潜在する意識
 ↓↑
 虫=中+ム
   ヘビの象形文字
   它・蛇・蝮
   キ
  「蟲」とは異なる概念
  「蟲」=人間を含めてすべての生物
      本来「チュウ」と読む文字
 ↓↑     ↓↑
      「羽蟲=鳥」
      「毛蟲=獣」
      「鱗蟲=魚および爬虫類」
      「介蟲=亀(かめ)、甲殻類、貝類」
      「裸蟲=ヒト(人)」
      「蟲」の略字=「虫」
  ↓↑
 「竜(龍)」
 「蛟(ミズチ・水中の竜
  蛟竜(こうりゅう)
  水霊(みずち)」
 「蜃(シン・水中の竜」
 「蜃気楼」=「蜃」の吐く息の昇華現象
 「虹(コウ・にじ・天に舞う竜の化身」
 「虹蛇(こうだ、にじへび)」
 ↓↑
 まむし=眞虫=蝮=磨虫・魔虫
 「三尸(サンシ)の虫」
 ↓↑
 虫の知らせ
 腹の虫
 虫の居所が悪い
 虫がいい
 虫が好かない
 獅子身中の虫
 ↓↑
 蠕虫・蛞蝓・田螺・でんでん虫=蝸牛
 長虫=へび
 ↓↑
 扁形動物門のウズムシ
 紐形動物門のヒモムシ
 星口動物門のホシムシ
 軟体動物のフナクイムシ
 虫=チュウ・むし
 ↓↑
 線形動物
 センチュウ、カイチュウ、ギョウチュウ
 中生動物
 ニハイチュウ
 単細胞生物・原生動物
 ゾウリムシ・ラッパムシ
 節足動物の多足亜門、六脚亜門、鋏角亜門
 の蛛形綱、甲殻類のワラジムシ亜目
 ↓↑
 虫の息
 悪い虫が付く
 虫酸が走る
 虫も殺さぬ顔
 飛んで火に入る夏の虫
 蓼食う虫も好きずき
 一寸の虫にも五分の魂
 苦虫を噛み潰したよう
 虫の居どころが悪い
 弱虫
 泣き虫
 点取り虫
 ~の虫
 蟹・蛬・蛍・蠱・螯・蚕・蚩・蝨・蠢
 蜀・蝕・蜃・螫・蚤・蠆・蛋・蜑・蟄
 虫・蟲・蠹・蟇・蛮・蜚・蜜・融・蠡
 ↓↑
 蠡=彖+䖵
   彑+豕+虫+虫
   レイ・ラ・リ
   ひさご・にな・ほらがい
   ヒョウタンを割って作った器
   蠡測
   巻貝の一種
   蠡(にな)
   蠡(ひさご)
   蠡測(レイソク)
 ↓↑
 宝亀八年(777年)六月
 第14次遣唐使の判官
 第三船で渡唐
 七月
 持節副使(大使代行)
 小野石根が乗る第一船と共に
 揚州海陵県(江蘇省泰州市)に漂着
 八月末
 揚州大都督に到着
 「安禄山の乱」の影響で駅舎が荒廃
 観察使兼
 陳少遊との取り決めにより
 長安への入京者が60人(65人)に制限
 十月に85人で揚州を発ち
 百余里進んだところで
 中書門下の勅牒により
 人数を20人に制限され
 遣唐使側の依頼により
 23人を追加して計43人が入京
 宝亀九年(778年)正月
 持節副使・小野石根
 副使  ・大神末足
 らと共に長安に入城
 宣政殿で拝謁の儀が行われるが皇帝は出御せず
 三月
 延英殿で皇帝
 代宗に対面し、官や賞を授けられた
 四月
 中使・趙宝英と共に使節一行は
 長安を去り
 六月に揚州に到着
 九月
 滋野の第三船は
 唐使を乗せて
 揚州海陵県から出航
 三日目に逆風で座礁
 船の修理後
 十月半ばに出航
 1週間ほどで
 肥前国
 松浦郡橘浦(長崎県上五島町・玉之浦町付近)
 に帰着
 十一月
 第一船・第二船
 出航し
 第一船は遭難し
 判官・大伴継人ら41名のみが
 肥後国天草郡に漂着し
 第二船は薩摩国出水郡に帰着
 ↓↑
 宝亀十年(779年)四月
 副使
 大神末足
 大伴継人
 録事
 上毛野大川
 らの渡唐の功労に対する叙位
 滋野は従五位下に叙爵
 共に渡海した唐使の
 孫興進
 秦怤期
 が入京
 五月
 光仁天皇に拝謁
 宝亀十一年(780年)
 滋野は豊前守に任官
 陽胡 玉陳(やこ の たまふる)
 名は「王陳」とも記録
 姓は史
 陽胡(陽侯)氏の祖・・・要注=幼虫
    ・・・煬帝=楊広
          別名は「英」・・・英国
          小字は「阿麼」・・阿毎・阿部
 ・・・并
 幵=ケン・たいら・そろえる
   さお(干)を平にそろえた形
 姸=女+幵・女+开(磨く)
  =姸・妍(磨かれた美しい女性
     妍しい・うつくしい)
 研=研究(穴+ノ+乙)・研磨・麿・厲=みがく・砥ぐ・とぐ
ーーーーー
 全ての
 参考文献(by ウィキペディア(Wikipedia))
 ↓↑
 隋皇帝
 在位期間
 604年8月21日 - 618年4月11日
 姓・諱 楊広
 諡号 明皇帝(楊侗より)
 煬皇帝(李淵より)
 閔皇帝(竇建徳より)
 廟号 世祖(楊侗より)
 生年 天和4年(569年)
 没年 大業14年3月11日
    (618年4月11日)
     宇文化及らに殺される
 父 文帝=楊堅の次子
 母 独孤皇后
 后妃 蕭皇后
 陵墓 雷塘
 年号 大業 : 605年~618年
 ↓↑
 王世充
 隋末唐初の群雄の一人
 鄭国 (テイコク) 皇帝 (在位 619~621)
 字は行満
 西域の胡人
 煬帝が殺されると
 楊 侗 (ヨウトウ) を皇帝に立て
 不和となると専権をふるい
 楊 侗を廃して
 鄭国を建て帝位につき
 楊 侗を毒殺
 李世民 (唐の太宗 ) に攻められて捕えられ殺された
 ↓↑
 本姓は支氏
 西域胡人の子孫
 王は祖母の再婚先の姓
 王世充は
 兵法・卜占・暦法などに長じ
 煬帝の寵臣となった
 反乱軍討伐のため洛陽に駐屯
 煬帝が殺されて
 帝の孫
 越王侗が洛陽に即位すると軍事権を握り
 619年(皇泰二年)
 楊侗を廃して鄭国を建国
 華北は
 唐・鄭・夏(竇建徳(トウケントク))に三分
 鄭は夏と結んで唐に当たったが
 李世民(太宗)に攻め落とされ
 長安に送られた後殺された
 ↓↑
 恭帝 侗(キョウテイ トウ)
 隋の第4代皇帝
 元号を皇泰とし
 皇泰主とも史称
 姓・諱 楊侗
 字   仁謹
 諡号 恭皇帝
 生年 仁寿4年(604年)
 没年 開明元年(619年)6月
 父  楊昭
 母  小劉良娣
 年号 皇泰 618年~619年
 ↓↑
 元徳太子の
 楊昭の次男
 大業3年(607年)
 祖父の
 煬帝に
 越王に立てられた
 大業9年(613年)
 「楊玄感の乱」が起こると
 戸部尚書の
 樊子蓋
 とともに洛陽を守備
 東都留守のまま
 高陽郡太守に任じられた
 大業13年(617年)
 煬帝が江都に下ると
 段達・元文都・韋津・皇甫無逸
 らとともに洛陽を守った
 洛口倉に拠った
 李密がしばしば攻勢をかけ
 王世充らを派遣して一進一退を繰り返し
 大業14年(618年)
 煬帝が宇文化及らに殺され
 段達らに擁立されて即位
 ↓↑
 段達が礼部尚書・右翊衛大将軍
 王世充が吏部尚書・左翊衛大将軍
 元文都が内史令・左驍衛大将軍
 盧楚が内史令
 皇甫無逸が兵部尚書・右武衛大将軍
 郭文懿が内史侍郎
 趙長文が黄門侍郎
 朝廷を牛耳る段達らを「七貴」と称した
 元文都・盧楚・郭文懿・趙長文
 らは
 王世充に殺害され
 皇甫無逸は長安に逃れて唐に帰順した
 ↓↑
 王世充が李密を破って実権を掌握
 皇泰2年(619年)5月
 恭帝は王世充に禅譲
 潞国公に封ぜられ
 王世充によって服毒自殺を命じられ
 服毒するが
 死ななかったために縊り殺された
ー↓↑ーーー
 「陽侯=陽胡」氏・・・ヤゴ=水蠆(スイタイ)
            トンボ=蜻蛉の幼虫
 ↓↑
 ヤゴはトンボの幼虫(ヨウチュウ)
 ヤゴ(水蠆)はトンボ目(蜻蛉目)
 不均翅亜目の幼虫
 推古天皇十年(602年)
 百済の僧侶
 観勒
 が日本に渡来
 暦の本・天文地理の書・遁甲方術の書
 を朝廷に貢いだ
 書生3、4名を選んで
 観勒の元で学ばせ
 「玉陳」
 は暦法を学んでこれを修めた
 ↓↑
 陽侯 真身(やこ の まみ・むざね)
 父 不詳
 母 不詳
 子女
 陽侯 令珍
 陽侯 令珪
 陽侯 令璆
 陽侯 人麻呂
 ↓↑
 官位は従五位下・但馬守
 元正天皇
 養老六年(722年)
 矢集虫麻呂
 大和長岡
 らと共に
 養老律令撰修の功労により功田を与えられ
 真身の功田は4町
 聖武天皇
 天平二年(730年)
 通訳養成のために
 粟田馬養
 ら4人と共にそれぞれ
 弟子を2人取り漢語を教授
 『楊氏漢語抄』は真身の著作という説・・・
 天平七年(735年)
 外従五位下
 天平10年(738年)四月
 豊後守
 天平十三年(741年)八月
 但馬守
 地方官を歴任
 四月
 巨勢奈弖麻呂
 藤原仲麻呂
 らとともに
 河内国と摂津国が
 河の塘(茨田堤)の境を争っている場所を巡検
 天平二十年(748年)
 外従五位上
 従五位下に昇叙
 孝謙朝初頭
 但馬守
 東大寺大仏建立で
 銭1000貫
 牛1頭を献上
 ↓↑
 陽侯 麻呂(やこ の まろ)
 姓は史
 官職は大隅国守
 陽侯氏(陽侯史=陽侯忌寸)
 隋の煬帝の子孫
 達率
 楊候
 阿子王
 の末裔を称する
 「楊候・楊胡・陽候・陽胡」
 とも記録
 文武天皇四年(700年)
 僧の
 「通徳」
 が還俗して
 「陽侯史」の姓と
 「久爾曾」の名を与えられ
 勤広肆に叙せられた
 陽侯麻呂
 国司に任命
 ↓↑
 大隅国守在任中の
 養老四年(720年)
 反乱を起こした隼人によって殺害
 二月二十九日
 に大宰府から朝廷に報告
 「隼人の反乱」
 勃発
 ↓↑
 陽侯 令璆(やこ の れいきゅう/りょうぐ)
 名は「玲璆」とも記録
 姓は史(毘登)
 のち忌寸
 但馬守
 陽侯真身の子
 官位は外従五位下・豊後介
 名は玲璆とも記録
 ↓↑
 天平感宝元年(749年)
 東大寺大仏建立で
 令珍ら兄弟3人と共に
 千貫の貢銭を行い
 令璆は
 従八位上から外従五位下に叙せられた
 天平宝字三年(759年)
 越後守任官
 天平宝字四年(760年)
 渤海使
 高南申
 を渤海に送り届けて帰国し
 内位の従五位下に叙せられる
 天平宝字七年(763年)
 内匠助
 神護景雲二年(768年)
 一族64名が
 史(毘登)姓から
 忌寸姓に改姓した際
 弟の
 人麻呂が一族の代表
 淳仁朝から
 称徳朝にかけて政争に巻き込まれた・・・
 宝亀九年(778年)
 外従五位下に復され
 宝亀十一年(780年)
 尾張介
 天応元年(781年)
 尾張守
 天応二年(782年)
 豊後介
 光仁朝末~桓武朝初頭に
 地方官を歴任
 ↓↑
 陽侯 令珍(やこ の れいちん・りょうちん)
 名は「玲珍」とも記録
 姓は史(毘登)
 但馬守・陽侯真身の子
 官位は外従五位下・日向守
 天平感宝元年(749年)
 東大寺大仏造営に
 弟3人と共にそれぞれ
 銭1000貫を貢進
 従七位上~外従五位下に叙せられる
 淳仁朝
 漆部正
 伊賀守・日向守
 の地方官を歴任
 神護景雲二年(768年)
 族64名が
 史(毘登)姓から忌寸姓に改姓
 弟・人麻呂が一族の代表とされた
ーーーーー
 ・・・???

 

コメント
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該=言+亥=兵士に誓いを言う決意表明・・・亥は猪子の言?

2021-02-18 20:53:57 | 古事記字源

 猿田弖(氐)意名蛙・エンターテイナー( entertainer)
 エンターテイナー( entertainer)

 ↓↑
 猿 田 弖(氐)意名蛙・・・?
 ・・・猿女・・・宇受女・・・
 シルヴァーナ・マンガーノ
(Silvana   Mangano)
 1930年4月21日?
 ~
 1989年12月16日
      大運1985年7月(55歳)甲戌 正財
 庚午(丙 丁)劫財・偏官 病⇔己巳 偏印
 庚辰(乙癸戊)劫財・印綬 墓⇔丙子 正官
   (偏財・食神・印綬)
 辛丑(癸辛己)  ・偏印 養⇔庚戌 劫財
 甲午(丙 丁)正財・偏印 病⇔壬午 傷官
  辰巳空亡
  危宿/辛丑         翼宿/庚戌
 1930年4月20日?
     大運 1985年3月(54歳)甲戌 偏財
 庚 午(丙 丁)比肩・印綬沐浴⇔己巳 印綬
 庚┏辰(乙癸戊)比肩・偏印 養⇔丙子 偏官
  三合壬・食神(正財・傷官・偏印)
 庚┏子(壬 癸)  ・傷官 死⇔庚戌 比肩
 庚┗辰(乙癸戊)比肩・偏印 養⇔壬午 食神
   辰巳空亡
   虚宿/庚子         翼宿/庚戌

 壬┗午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔壬午 食神
ーーーーー

 ・・・???・・・
 悲しみよコンニチは
 (Bonjour Tristesse)
 2016-08-24 00:37:36
  ↓↑
 乚(乙)=「乚」は「隠」の古字
      かくす
      人の目に触れないようにする
      物で覆ったり、しまいこんだりする
      物事を人に知れないようにする
      秘密にする
      死者を土に埋める
      かくれる
      表面・外部から見えないところに存在
      世間に名前や力が知られないでいる
      去る・いなくなる
      ひそむ・ひそかに
      かすか
      いたむ=心配する=(同意語)=慇
      悲しむ
      落ち着いている
      盛ん=殷
      拠(よ)る
        ↓↑
      ある物事の根拠
      基準・理由となる
      甲乙の「乙」・・・偶数の始り「二=次」
      甲乙の「甲」・・・奇数の始り「一=初」
      甲音・・・甲高い音声
      乙音・・・押さえてつかえさせ止める
           書物を読んで口調をとめるしるし
           吃音(どもり・キツオン)

 「子羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」
 ・・・中国では淡水の「河豚(ふぐ)=河+豚」は
    ブタ(豚)に似た鳴き声をするらしいからの名前らしい・・・
 そして「鮐・鰒・鯸・魨・鯺」の異字漢字も「フグ」らしい・・・
 「鮐=フグ(fugu)フグ科の魚類の総称
    ふぐ(河豚)
    およそ120種の魚がフグ科に分類」・・・
 「ナゴヤフグ(名古屋フグ)」
  との呼称もある
 「毒に当たればミノオワリ(美濃尾張)」の洒落
 「毒」は
 「主(亠+十+一)」
  の
 「毋(ない・ブ・ム)
  or
  母(はは・ボ)
  or
  毌(つらぬく・カン・ガン・貫)」
  である・・・
  ↓↑
 「毌丘倹(カンキュウケン)」
  ?~255年
    ↓↑
    干支       乙亥年
    ↓↑       ↓↑
     亥=骨組みが引き締まっている
       骸骨・・・
      「胡亥(姓は嬴(エイ)
       始皇帝の末子・秦朝第二代皇帝)」
       戦いの時の
      「該=言+亥」は
       兵士に誓いを言う決意表明
    ↓↑       ↓ ↑
          ・・・乙の該・・・?
        該=かねる・そなわる
          かねそなえる
          あまねく・ことごとく
          該究・該洽(ガイコウ)・該博
          あたる・あてはまる
          該当
          その・指定する言葉
          該案・該日・該地
          当該(トウガイ)
          博該(ハクガイ)
          ある場面で
          問題になっている
          当面の物事をさしていう
          その・この・当の・当該
          該(かねる)る
          該(そなわる)わる
          該(その)の
         「該事件の報告書」
         「該資料」
    ↓↑       ↓↑
    神功皇后 摂政  055年
         皇紀  915年
    中国
    魏    正元  002年
    蜀    延熙  018年
    呉    五鳳  002年
    朝鮮
    高句麗  中川王 008年
    新羅   沾解王 009年
    百済   古尓王 022年
         檀紀  2588年
  ↓↑     ↓↑
 「毌丘倹(カンキュウケン)」
  字は
 「仲恭」
  并州
  河東郡
  聞喜県
  出身
  尚書郎
  洛陽の典農
  魏の
  荊州刺史
  幽州刺史
  魏の将軍
  最後は
  司馬師
  に反乱後、討伐された
  ↓↑
  魏の官僚
  毌丘興
  の子
  毌丘甸
  毌丘宗
  の父
  毌丘秀
  の兄
  孫は
  毌丘重
  毌丘奥
  孫娘は
  毌丘芝
  ↓↑
  毌丘倹
  ↓↑
 237年
 「孫権」
 は
 高句麗
 と通じ、
 遼東へ親征を行おうとした
 魏は
 「毌丘倹」
 を派遣しこれと対陣
 「毌丘倹」
 が
 「鮮卑」
 の軍を動かして
 遼東に駐屯させたので
 「孫権」
 は遠征を断念
  ↓↑
 魏は
 「公孫淵」
 に対し上洛を命じたが
 「公孫淵」
 はこれを拒否、挙兵して
 遼隧で
 「毌丘倹」
 を撃退
  ↓↑
 遼東の
 「公孫淵」が
 呉と接触
  ↓↑
 「毌丘倹」は
 魏王
 「曹叡」
 の命により
 幽州刺史となり
 「烏丸」
 の単于
 「寇婁敦」・・・「倭寇・元寇」?
 と
 「袁尚」・・・・「袁の尚」
 「烏丸」
 へと逃げた者
 5000余を降伏させた
  ↓↑
 遼隧の戦い(238年)
 魏王
 「曹叡」は
 「司馬懿」
 に4万余の兵を与え、
 「公孫淵」征伐
  ↓↑
 「238年・・・遼隧の戦い」と「卑弥呼」
  ↓↑
ーーーーー
 倭に関係する極東国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、
      後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、
      「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、
      中遼の二郡とし自らの太守を設置
      また、
      山東半島に
      「営州刺史」を置き
      「遼東侯・平州牧」
      と号した「公孫度」の子
      「公孫康」
      が継ぎ
      「度」の弟
      「恭」が
      「永寧郷侯」
      となり
      「康」
      は西暦196~220年まで
      「楽浪郡」を分けて
      「帯方郡」を置いた
 220年 後漢滅亡
      魏王
      「曹丕」
      が
      「献帝」を廃し
      魏の
      「文帝」
      となる
 221年 「劉備」
      燭漢の
      「昭烈帝」となる
 229年 「孫権」
      呉の
      「大帝」となる
      「公孫康」の子
      「淵」が
      「魏王」から
      「遼東太守」、
      「車騎将軍」
      の爵号を授
 232年 呉の
     「孫権」、
     「淵」に
     「燕王」
     の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣
     「淵」
     はこの使者を殺し
     その首を「魏」に差しだし
     「楽浪公」
     の爵位を得る
 235年 高句麗王
     「位宮」
      呉から
     「単于」の爵号を受く
 237年 「魏」は
      幽州刺史の
     「毋丘倹」
     を将軍にし
     「淵」軍と戦い敗北
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 238年 六月、「卑弥呼」、
         大夫
         「難升米」を
         「魏」におくる
 ・    ↓
 ・    八月、「魏」の
         「司馬懿」を
          将軍とする軍隊に
         「淵」軍敗北、戦死
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 239年 帯方郡・太守
     「弓遵(辷+尊)」が
     「韓」族に攻められ戦死
     「韓」滅亡
 244年 「魏」は
      幽州刺史の
      「毋丘倹」
      を将軍にし
      高句麗軍を壊滅さす
      帯方郡太守
      「王・頎(斤+頁)」
         頎=キ・ゲ・キン・コン
           斤+頁
           ザン・セン・サン・きる
           斬=車丿𠂆一𠂋T斤=斬
           罪人を切り殺す
           裂(さ)き殺す
           刃物で切る
           裂く・断(た)つ
           断ち切る・絶(た)える
           同「絶」
  ↓↑  ↓↑
     「王頎」
      玄菟郡の太守(245年)
      丸都から逃走した高句麗王の
     「位宮」を
     「毋丘倹」
      に命ぜられ追撃
      沃沮を通り
      粛慎氏の南端までたどり着き
      石碑を建てた
      道中で老人の話を聞いた
     「東の海の彼方の島に流れ着くと
      言葉が通じない、
      七月に
      童女を海に沈める習慣の国があった
      他に女ばかりで男のいない国もある」
      248年
      帯方郡の太守
     「卑弥呼」は
      狗奴国の王
     「卑弥弓呼(素)」
      と戦争中であると
      帯方郡に使者を遣わし報告
     「王頎」は
     「塞曹掾史」
     「張政」を
      黄幡、檄文を持たせ派遣
  ↓↑  ↓↑
 「王頎」
 天水太守
 263年
 「鄧艾」
 に命ぜられ
 「姜維」
 の本陣に進軍
 「姜維」
 は撤退し
 魏軍は追撃して
 「姜」を破った
 (魏書・毋丘倹伝・東夷伝、鄧艾伝)
 鄧=登+阝
   異体字「邓」
 「演義」では
 「鄧艾」に命ぜられ
 一万五千の兵を率いて諸軍と協力し
 「姜維」を漢中から撤退さた
 沓中では
 「姜維」と自ら刃を交えるが
 負けて引き下がった
 蜀が平定されると
 「鄧艾」に益州の
  長官に任命された
  ↓↑   ↓↑
      塞曹掾史
      「張政」を「倭国」に派遣
  ↓↑   ↓↑   ↓↑
 この「年表」に記されている
 「人名」と「官名」、「地名」
 の漢字とその「音」に注意すれば
 「古事記」
 が何を示唆しているか明かである・・・?
 更に
 「238年」の
 「六月」から「八月」・・・
 ワズカ、
 「二カ月間」・・・
 「卑弥呼」の「倭」は
 少なくても
 「六月」までは
 「もと『燕=公孫氏』に属」
 さざるを得なかったハズである・・・?
 何故なら
 「公孫淵=燕」は
 「237年」には
 「呉」と同盟
 あるいは册封関係にあり
 敵対する
 「魏」の
 「幽州刺史」の
 「毋丘倹」
 を将軍とする軍隊と戦い
 コレを撃破して勝利
 翌年
 「238年の八月」に
 「魏」の
 「司馬懿」
 を将軍とする軍隊に敗北し
 戦死した
 時間的な流れでいえば、
 「倭」は
 「238年六月~八月」までは
 「呉」と深い関係にあった
 「公孫淵=燕」に
 「属」していたハズだ・・・
 もちろん、状況的に
 直接的にも
 「倭」は
 「呉」と深い関係にあった・・・?
 すると、
 「238年『六月』」、
 この『六月』に
 「卑弥呼」が
 大夫
 「難升米」を「魏」におくる
 と云うことはどういうことなのであるか
 記録上の齟齬がナイとしたならば
 朝鮮半島・遼東半島は
 いまだこの年の
 『八月』まで
 「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
 この「未だ燕の支配下の『六月』」
 どのような経路でいけたのか?・・・
 どのような目論見で
 「難升米」を
 「魏」におくったのか?・・・
 方法は色々考えられるとしても・・・
 戦局が未だ定まらぬ
 「敵地=燕地」の経路をである
 「卑弥呼」は
 「邪馬台国」をまもるため
 「呉=燕」の配下にありながらも
 二股をかけざるを得なかった・・・
 あるいは
 「公孫淵=燕王」の
 「対魏戦略」に
 「卑弥呼」は乗せられた・・・
 あるいは
 「燕=公孫氏」
 「呉=孫氏」そのものと
 「縁籍」であった・・・
 そして、
 『八月』
 「公孫淵=燕」
 は
 「魏」の
 「司馬懿」
 を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
 『十二月』
 「卑弥呼」は
 「魏王=明帝」
 から詔と「親魏倭王」としての
 「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらった・・・
  ↓↑  ↓↑    ↓↑
 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦
            卑弥呼の死亡
            「邪馬台国で男王」立つが
            「内乱」
            「宗女・壹與=壱與」が
           「十三才で女王」
            となる
  ↓↑   ↓↑   ↓↑
 238年から六年後
 244年
 「高句麗王=位宮」も敗北
 朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?
 ・・・当然、「倭」へ、である・・・
 滅亡した隋(581年~618年)の亡命も「倭」へだろう・・・
    「隨・隋・随」・・・ズイズイず転ばし、ゴマみそズイ・・・
              帰化人は陽侯 麻呂(やこ の まろ)
              姓は史・官職は大隅国守
              陽侯氏(陽侯史のち陽侯忌寸)
              隋の煬帝の子孫
              達率 楊候 阿子王
              の末裔を称した
              陽侯 人麻呂(やこ の ひとまろ)
              姓は史(毘登)のち忌寸
              但馬守・陽侯真身の子
              官位は外従五位下
              宝亀十一年(780年)三月
              吉田古麻呂の後任の豊前介
              同時に
              小野滋野が豊前守に任じられた
              兄弟 令珍・令珪・令璆
              小野 滋野(おの の しげの)
              左京大夫・小野竹良の子
              ↓↑
 そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は
 「魏」の
 「張政」に担ぎ上げられた
 「壱与」に権力交替した・・・
 「狗奴国との対立」
  や
 「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
 すなわち、この部分に於いても
 「陳寿」は
 「使訳」の報告すべてが
 正しいわけがあるまい、と言っている
 「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的で
 同音異字なら「芝居」で
 しかも「芝居(しばい)」は
 日本語であるから・・・。
 この『六月』の「卑弥呼」に対する
 「魏」の答えは・・・
 「卑弥呼」の排除・・・
 243年
 「宗主国」である
 「魏の帯方郡太守」が
 「倭へ使者」を派遣してきた
 その後の
 「壱与」・・・壱=いち=壹・位地・位置・一
          いつ=乙・伊都・何時・一
          いつ=逸・伊津・伍・伊豆?
          乙=乚
 の権力交替は
 「帯方郡使」としての
  ・・・帯=垂らし=多羅氏・多良氏=誑し
       たらし⇔足る=充分
           樽=木尊=十+八+丷+酉+寸
           弛=弓也・・・たるむ・・・弦・絃
                  弛緩(シカン)
                  緩慢(カンマン)
           罇=午凵尊・・・馬韓の見事
           墫=十一尊・・・壱拾壹の見事
        α+尊=竴嶟擲・噂・撙・僔・鐏・蹲=ソン⇔孫
             投擲(トウテキ)⇔当的
 「張政=魏」の策謀(告喩)による
 「淵=燕=呉」親派の
 「卑弥呼」の
 「縊殺・絞殺」
 あるいは
 「溺殺」によるものである・・・
 漢字の
 「乙・乚」の秘密である・・・
  ↓↑
 「張政」と「壹與・壱与」の
 「告喩」としての
 「卑弥呼」に対する侵攻は
 朝鮮半島、博多「伊都」
 そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし
 「長崎」、「諌早」
 「熊本・宇土・横島」
 へとその勢力を浸透させて
 「卑弥呼」を「殺害(?)」した・・・?
 その後
 「壱与」は「宇佐」に東遷し
 権力の基盤を
 「大分」に置いた
 だが
 「卑弥呼」の親派勢力は
 長崎「諌早」、「天草諸島」
 「熊本・横島」・・・ム=横嶋=
 そして
 「沖縄」、「台湾」
 にその勢力を有していた・・・?
 結論的に
 九州(倭)は「魏」の配下に入ったが
 「二人の女王」の勢力は
 「遼東半島」、「山東半島」
 「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」
 の亡命者、血縁者を抱え
 「太陽の烏=卑弥呼
      =長崎・諌早=左目=天照大御神」
 と
 「月の卯=壱与=大分・宇佐
        =右目=宇受女=豊受大神」
 に分裂=磐余(イワレ)=「大分」
 していた・・・
 もちろん
 「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」
 は
 「博多・伊都=須佐之男」
 である・・・ハズだ・・・が?
 その後、
ーーーーー
  ↓↑
 公孫淵も
 卑衍・・・卑の衍?
      衍=あまる・エン
        余分にあまる
        余計な
        衍字・衍文
        延び広がる
        押し広げる
        衍義=敷衍
 楊祚
 らに数万の軍を与えて
 遼隧に派遣・・・・・遼の隧?
 司馬懿が
 遼東に到着
 卑衍が
 司馬懿を攻撃したが、
 司馬懿は
 胡遵らを派遣して・・・胡の遵(辶+尊)
 卑衍を破った
  ↓↑
 公孫淵は
 遼隧に塹壕を掘り、
 司馬懿の軍を迎え撃った
 遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だったので
 司馬懿は、
 東南に退却したとみせかけ、・・・東南=辰巳=巽
 国都の
 襄平に侵攻
 公孫淵は遼隧の軍を撤退
 都の守備に当たらせたが、
 敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲された
  ↓↑
 公孫淵は
 呉の
 孫権に謝罪し、援軍を求め
 孫権は援軍として
 羊衜・・・羊の衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
               道
 鄭冑・・・鄭の冑=かぶと・介冑・甲冑
         「胄(あとつぎ)」
          は別字・・・?
          何処が別の字なんだか?
          同字にしか見えないのは
          ドウジだから・・・
          兎に角
         「胄」は「世継ぎ」
 孫怡・・・孫の怡=忄(心)+台(臺)
 を派遣
 が、すでに公孫淵は敗北、
 遼東で
 魏の
 張持・・・張の持
 らを破って、
 男女の
 捕虜を得たにとどまった・・・
  ↓↑
 長雨の時期で兵糧が欠乏
 公孫淵は人質を出して
 和睦・・・和の「睦」とはダレ?
 しようと画策するが、
 司馬懿はこれを拒否
 公孫淵を捕え、処刑
 遼東
 公孫氏は滅亡
  ↓↑
 司馬懿はこの地に
 魏への反抗勢力が出ぬよう
 15歳以上の男子を皆殺(genocide)
 ↓↑
 244年(甲子年)
 毌丘倹は
 呉との同盟していた
 高句麗討伐
 高句麗王
 位宮・・・位の宮
 を攻め
 都を破壊
 位宮
 は逃亡
 高句麗を滅ぼせなかった
 高句麗の
 東川王(憂位居)=位宮
 は
 公孫淵討伐には
 協力的であったが、
 242年以降
 再び魏と険悪な関係になった
 毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、
 244年
 更に東へと進んで
 高句麗の軍勢を大破し、
 都の
 丸都・・・丸い都
 を蹂躙
 東川王(憂位居)に逃られ
 高句麗を
 滅ぼすことはできなかった
 ↓↑ 
 司馬懿・・・「懿」が付く天皇?
 が反乱し
 魏を支配し
 司馬懿の長男
 司馬師・・・馬師の司は「左右の馬の守」?
 が実権者となる
 ↓↑
 毌丘倹は
 胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰
 らと共に
 都督
 左将軍
 鎮南将軍
 豫州刺史・・・豫の州とは「伊豫」?
 となる
 ↓↑
 252年
 呉の
 孫権、死亡
 ↓↑
 討伐軍として
 呉に攻め込んだ
 魏の
 諸葛誕・・・諸の葛の誕
 が
 呉の
 驢馬の息子・・・驢=馬+盧
 諸葛恪・・・諸の葛の恪=忄+各=つつしむ
                 きまじめ
                 カク・キャク
 に大敗
 ↓↑
 毌丘倹は
 諸葛誕に代わって、
 揚州刺史の文欽と共に
 呉への備えとして
 鎮東将軍に転じ
 揚州に駐屯し
 驢馬の息子の
 諸葛恪が攻めてきた時
 文欽・司馬孚・張特
 と共にこれを防ぎ、
 撤退の
 諸葛恪を追撃
 ↓↑
 254年
 夏侯玄・・・夏の侯の玄
 が
 司馬師に反乱し失敗
 司馬師は
 曹芳を帝位から降ろし
 曹髦を帝位につける
 ↓↑
 夏侯玄と親しかった
 毌丘倹の立場もあやうくなり、
 息子の
 毌丘甸と
 かって、
 司馬師に処刑された
 曹爽の寵臣だった
 文欽と共に・・・文は「欽」・・・欽明天皇?
 彗星が
 西北の空を・・・北西=乾=戌亥・・・狗意
 覆ったのは瑞祥
   ・・・瑞・・瑞皐(ズイコウ)=高野長英?
         玄瑞(ゲンズイ)=久坂玄瑞?
 だとし
 司馬師を弾劾する
 皇太后の詔勅を偽造し、反乱
 毌丘倹は、
 寿春を老人や子供に守らせて
 項城に入り、
 毌丘倹は城内
 文欽は城外に駐屯
 ↓↑
 先鋒の
 王基が
 攻撃を避け
 毌丘倹は
 諸葛誕や胡遵が
 寿春を攻撃される状況で
 退却も出来ずに兵は逃亡・・・
 ↓↑
 城外の
 文欽は
 訒艾・・・訒の艾=よもぎ
 に夜襲を仕掛けたが
 敗れて
 呉へと逃亡
 毌丘倹は逃亡しようとしたが
 張属・・・張の属
 に射殺され、
 首は
 魏都にて晒された
 ↓↑
 毌丘甸は、
 父の反乱に際に
 魏都に残ってい
 山に篭ったが討伐軍に敗れて捕らえられ、
 一族もろとも処刑された
 荀一族の女であった
 毌丘倹の妻は
 荀邈らの嘆願によって許され、
 孫の
 毌丘重
 毌丘奥
 は、
 晋の時代に出仕
 ↓↑
ーーーーー
 『三国志』
 倭国で男王(70~80年間)
 後に内乱(5~6年間)
 後、卑弥呼の即位
 鬼道に仕え、よく衆を惑わす
 年齢は既に高齢で夫はない
 弟がいて国の統治を補佐
 ↓↑
 景初二年(238年)12月
 卑弥呼
 難升米らを魏に派遣
 魏から
 親魏倭王の仮の金印
 銅鏡100枚を与えられた
 ↓↑
 正始元年(240年)
 帯方郡から
 魏の使者が倭国を訪れ
 詔書、印綬を奉じ
 倭王に拝受
 ↓↑
 正始四年(243年)12月
 倭王は
 大夫の
 伊聲耆
 掖邪狗
 ら八人を復遣使として
 魏に派遣
 掖邪狗
 らは
 率善中郎将の印綬を受けた
 ↓↑
 正始六年(245年)
 難升米に黄幢を授与
 ↓↑
 正始八年(247年)
 倭は
 載斯
 烏越
 らを
 帯方郡に派遣
 狗奴国との戦いを報告
 魏は
 張政
 を倭に派遣
 難升米
 に詔書、黄幢を授与
 ↓↑
 卑弥呼 死亡
 墓造作
 男王が立つが
 国が混乱
 互いに誅殺しあい千人余が死亡
 卑弥呼の
 宗女「壹與」を13歳で王に立て
 国が鎮定
 倭の女王
 壹與は
 掖邪狗
 ら20人に
 張政
 の帰還を送らせ
 掖邪狗らは
 都に向かい
 男女の生口30人
 白珠5000孔
 青大句珠2枚
 異文の雑錦20匹を貢いだ
 『後漢書』
 建武中元二年(57年)
 倭奴国が金印を授与される
 永初元年(107年)
 倭国王
 帥升
 が
 安帝に拝謁を願う
 ↓↑
 桓帝と霊帝の間(146年~189年)
 倭国大乱
 ↓↑
 ???・・・西暦247年3月24日
       皆既日食夕方
       朝鮮半島南部から
       中国大陸へ向かって観測
       日本列島で観測された地点は無い
       壬卯
       癸卯
       庚午
       壬午
 ↓↑
 ・・・・・・西暦248年9月5日早朝
       観測地域
       北関東
       ~
       北陸・能登半島に掛けて観測
       戊辰
       庚申
       辛酉
       辛卯
 ↓↑
 正始中(240~248)卑弥呼 死亡
       卑彌呼以死
       大作冢、徑百餘歩
       殉葬者 百餘人
 ↓↑
 522年
 継体天皇
  522 年 6 月10日の日食

 干支     壬寅
 継体天皇   十六年
 中国
 梁     普通三年
 北魏    正光三年
 ↓↑
 越前の大王・継体天皇
 近畿を征服
 磐井の乱
 司馬達等が来朝
 文帝、南朝陳の第2代皇帝誕生
 ↓↑
 『三國志』(三国志)卷四
  魏書四 三少帝紀 第四
  正始四年
 「冬十二月 倭國女王 俾彌呼 遣使奉獻」
 十二月は菊の花・・・
 ↓↑
 「キクの名前」
  の
 「背負う説」資料です・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
 『日本書紀』の巻第二十二
 「日有蝕尽之」
  戊┏子(壬 癸)比肩・偏財 胎
  丙┣辰(乙癸戊)偏印・正官冠帯
  戊┗申(戊壬庚)  ・偏財 病
  壬┗子(壬 癸)偏財・正財帝旺
  ↓↑
 
 628 年4月10 日「三月丁未朔、戊申日有蝕尽之」
        (三月の丁未の朔、戊申日、蝕え尽きたること有り)
        都の飛鳥京で皆既食が見られた
        実際は日本のすぐ南東沖を通過した皆既食で
        飛鳥京では食分0.93程度の部分食
        推古天皇は5日後の4月15日
       (推古天皇三十六年三月七日)
        死去
 ・・・6+2+8+4+1+0=21・・・2+1=3
             念初   参=參
                  㕘叅叄
                  參=厽+㐱
                    厶+厸+人+彡
    6 2 8 4 1 0
    六拾弐萬八千四百壱拾
    陸拾貳萬捌阡肆陌壹足
          肆=シ=乨=台+乚=始=女+台
              臺+乙=はじめる
 ・・・???・・・
 「阝坴扌合二貝弋艹禺扌別阝千镸聿阝百一足」
 乨=始
 the beginning; to start, to begin, to be the first
 玉篇・古文 始字。註詳女部五畫。
 女之初也。从女台聲。詩止切〖注〗
 乨=兘・・・始=女 +台=女+臺
 古文。
 『說文解字注』
 (始)女之初也。釋詁曰。初、始也。
 此與爲互訓。初、裁皆衣之始也。
 基者、牆之始也。
 凡言之者皆分別之䛐。有叚殆爲始者。
 七月毛傳云殆始也是也。从女。
 台聲。詩止切。
 一部。按凡始事有急緩之殊。不得云有二義。
 今人乃爲之二音。緩者讀去聲。
 月令紀節物用始字十餘。
 而蟬始鳴獨市志反。
 其亦庸人自擾也矣。
ーーーーー
 ・・・???・・・
 コジキ姫「壱与」・・・「壹與」
 カンジて赤い絨毯にのり
 空をカケメグル
  「古事記・字源」物語
http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm

コメント
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妸娿=婀娜=しなやかで美しい・嫋やかで美しい・・・媕婀

2021-02-16 21:42:31 | 古事記字源

 「丸まる」はイロッポイ、艶っぽい・・・壊れるモノに丸みは無い・・・
 2021/2/13/23:07・・・12日=朔月 室宿 辛卯日
 辛 丑(癸・辛・己)
 庚 寅(己・丙・甲)
 壬 辰(乙・癸・戊)月齢 1.3(大潮) 壁宿
 甲 子(壬・ ・癸)
 ・・・鎌の鋭利な月齢の刃型は・・・非艶(ヱン)・・・非妖艶
 ・・・「ω・Ω」・・・「β・B」・・・「m・m」・・・「Q・Q」
 ↓↑
 睘=罒+一+口+𧘇
 瞏=罒+袁
   罒+土+口+𧘇
 袁=土+口+𧘇
   エン
   着物がゆったりと長いさま
   長袖・long+sleeve
   古代中国の地名

 圜(まる)い
 圜(めぐらす)らす
 圜(めぐる)る
 ↓↑
 妥=爫+一+女
   爫+一+く(L)+ノ
   爫+一+友
   爫+ナ+又
   爫+一+ノ+又
 ↓↑
 圖=圗=图=図
 ↓↑
  㜯=女+熙
    女+煕
    女+巸+灬
    女+巳+灬
    女+己+灬
 ↓↑
 熙=巸+灬
   巳+灬
   己+灬
  ↓↑
 㜯=女+熙
 巸=巸
   𦣞+巳
   𦣝+巳
   異体字「𣢮・戺・𦣤・𢨪・𢩂」
   巸=イ・キ
     巳(赤子)+𦣝(乳房)」・・・巳=🐍・蛇・它・蝮
            巳は「赤子」ではなく形象で蜷局だろう
     乳房が一つになった形に
     巳がついて「巸」になった
     婦人が赤子に授乳している形
     赤子が乳を飲んで
     よろこぶ・おだやかの意
     赤子に乳を飲ませる
     イ・キ
     ひろいあご・・・?
     口と頬っぺた・・・
 煕=𦣝+巳+灬
 媐=𦣝+巳+女
 ↓↑
 㜯=女+
   キ
   女匚丨コ口臣𦣞𦣝
   コ匚乚己巳巸灬熙=㜯
   婦人に対する呼び名
   賤称(相手をさげずんで呼ぶ名)
   同「娭」
   玉篇:卷三:女部第三十五
   㜯=許宜切婦人之稱也
   集韻:卷一:之:之第七
   「娭㜯=婦人賤稱」
 ↓↑
 2021/2/13/23:07
 M7,3
 ↓↑
 康熙帝(コウキテイ)
 清の第4代皇帝
 諱は玄燁(ゲンヨウ・燁=火+華)
 君主称号
 モンゴル語でアムフラン・ハーン
 廟号 聖祖
 諡号 合天弘運
    文武睿哲
    恭倹寛裕
    孝敬誠信
    功徳大成
    仁皇帝(略して仁皇帝)
 ↓↑ ↓↑
 疱瘡で城外に出され
 乳母の手で育てられた
 父の
 順治帝は
 子供の養育に関心が薄く
 「玄燁」は祖母の
 「孝荘文皇后」に養育
 順治十八年(1661年)
 玄燁が皇太子に指名され
 順治帝は崩御
 「玄燁」は8歳で皇帝に即位
 即位後は
 スクサハ
 ソニン
 エビルン
 オボイ
 重臣4人の合議で政権運営
 康熙六年(1667年)
 ソニン死去
 オボイ
 が反対派を粛清し
 専横を振った
 康熙八年(1669年)
 康熙帝は
 ソニンの遺児
 「ソンゴトゥ」
 と謀って
 モンゴル相撲にかこつけて
 「オボイ」を捕らえて排除し
 15歳で
 親政開始
 康熙十二年(1673年)
 三藩の乱
 漢人
 (南明王朝の裏切り者で
  清に臣従していた)
 呉三桂
 尚可喜
 耿精忠
 の3人の藩王(周)が反乱
 康熙帝は
 漢人の
 「周培公」らを起用し
 康熙二十年(1681年)
 周の「三藩の乱」を鎮圧
 後に
 「李光地」
 を採用
 台湾の
 「鄭」氏政権からの降将
 「施琅」を登用し
 台湾を制圧併合
 反清勢力を滅ぼした
  ↓↑
 『康熙字典』
 『大清会典』
 『歴代題画』
 『全唐詩』
 『佩文韻府』
 などを編纂させ
 『古今図書集成』
 の編纂を命じた(完成は雍正帝)
 『朱子全書』
 『性理大全』
 などの朱子に関する著作をまとめ
 『明史』の編纂も
 大部分を完成
 (全巻完成は乾隆4年(1739年)
 イエズス会宣教師
 「ジョアシャン・ブーヴェ」
 らの実測で最初の中国地図
 『皇輿全覧図』を作成させた
  ↓↑
 「文字の獄」
 政策は
 子の雍正帝
 孫の乾隆帝
 にも受け継がれた
 ↓↑
 漢文を構成する漢字は
 「表意文字」
 で
 「同音異義字」
 などを利用し
 裏の意味を持つ文章を作成
 漢字の特性を生かし
 予言や体制批判
 為政者は
 文書を読み、その裏の意味を探る
 過度な疑いで
 書き手の意図を歪曲し
 弾劾した

 明王朝
 1368年
 洪武帝は建国の功臣の粛清
 彼が卑賤の出で、これに劣等感を抱き
 文人たちに猜疑心を持ち
 多くの官僚が文書で
 「皇帝を謗っている」
 として処罰
 春節に戸口に貼られる
 「倒福の起源」も
 洪武帝の「文字の獄」
 ↓↑
 春節で家々に貼られる
 「福」の字を書いた赤色の紙
 一般に上下逆さまに貼ることから
 「倒」(逆さにする)「福」と称される
 ↓↑
 「福」の文字は
 「倒福=福気・福運」の意味で使用
 その福が到(発音は拼音: dao)る
        倒(拼音: dăo)して
 貼るのが一般的
 ↓↑
 「倒福の習慣」
 明の洪武帝の皇后
 馬皇后の伝承
 ↓↑
 ある春節に際し
 洪武帝はお忍びで
 市井を散策した際に
 とある人物の描いた
 年画(春節用の縁起ものを描いた絵)
 を目にした。
 そこには豊作を願った
 纏足をしていない
 西瓜を抱えた女性が描かれていたが
 洪武帝は
 「懐西(西瓜を抱える=淮西と音通)
  の婦人の足が太い」
 という画題が
 淮西出身
 (養父 郭子興が安徽省定遠県の出身)
 の馬皇后が民間の出身で
 纏足をしておらず
 気品に欠けると嘲笑したものと考え
 年画を描いた者を処罰しようとした
 ↓↑
 洪武帝は年画を描いた人物を調べさせ
 無関係な者の家には
 「福」の文字を書いた紙を貼るように命じ
 翌朝
 「福」の表示がない家の者を処刑しようとした
 「馬皇后」はこの計画を知ると
 無実の罪で処罰される民衆に同情し
 明け方までに全ての家に対し
 「福」の表示を貼ることを命じた
 ↓↑
 ある一軒の住人が
 文字を知らなかったために
 「福」の文字を逆さまに貼った
  ↓↑
 洪武帝は
 「福を倒して貼る」
 とは皮肉った行為と激怒し
 御林軍に対しその家の者を
 斬首するように命じた
 「馬皇后」は
 その家の者は
 洪武帝の使者が訪問することを知って
 故意に「福を逆さ」に貼って
    「福が到る」を表現したと
 洪武帝を説得し
 無辜の民衆に危害が及ぶことなく済んだ
 ↓↑
 以降
 「馬皇后」
 を顕彰し除夕(大晦日)に
 民衆は門上に
 「福」の文字を大書した赤紙を
 逆さに貼り
 一家が平安を願った・・・
  ↓↑
 「天に道あり」←「道」は「盗」と同音
 「皇帝」は「盗人」
 「光天の下、天は聖人を生じ
  世の為に則を作す」←「光」とは「坊主」
 「皇帝(洪武帝)」が
 僧侶だった経歴を謗っている
 「則」は「賊」と同音で
 皇帝を「賊」だと謗っている
 ↓↑
 清
 康熙帝
 からはじまり
 その子の
 雍正帝による
 「文字の獄」が有名
 反満反清的記述をした者には
 極刑
 孫の
 乾隆帝の代にもあった・・・
  ↓↑
 「維民所止」
 科挙の出題に『詩経』から
 「維民所止」が出題
 「雍正」という二文字の頭である
 「亠」と「一」を取り払い
 「民所」の字で分断し
 雍正帝を呪っているとされ
 関係者が処罰された
 ↓↑
 縦読み・折句
 避諱・忌み言葉・隠語
 倒福
 西遊記の成立史
 猪八戒は当初
 「朱八戒」という名で
 「朱」が
 明室と
 同じ
 「朱姓」であったために
 「猪」に変えられた
 海瑞罷官
 李鵬「元宵」事件
 何日君再来
 大坂の陣
 方広寺 鐘銘事件・国家安康
 きりしま事件
 言葉狩り
 ↓↑ ↓↑
 嫏=女+郎
   ロウ
   女丶ヨレノ丿艮良丨邑阝郞=嫏
   「嫏嬛(ロウカン)」
   天帝の「蔵書庫」
 ↓↑
 媠=女+左+月
   タ・ダ
   嫷=女ナ𠂇エ工左月=媠
   女性が美しいさま
   だらだらとして
   何もしようとはしない
   怠(なま)ける
   同「惰・𡡙」・惰性
 ↓↑
 嬛=女+睘
   カン・ゲン・ケン・ケイ・ギョウ
   𡣱=女四罒一口ノ丿レ𧘇睘=嬛
   しなやかで(すらりとして)美しいさま
  「便嬛(ベンケン)」
   一人ぽっち・独(ひと)り
   同「惸」
  「嬛嬛(ケイケイ)」
   一人ぼっちで寂しい思い
   心細いさま
   同「惸惸」
  「孤特=孤独・一人だけ・たった一人」
 ↓↑
 𡣱=女+瞏
   カン・ゲン・ケン・ケイ・ギョウ
   嬛=女罒土士口𠮷吉丿レ𧘇衣袁瞏=𡣱
   しなやかで
   すらりとして美しいさま
  「便嬛(ベンケン)」
   一人ぽっち・独(ひと)り
   同「惸」
  「𡣱𡣱(ケイケイ)」
   一人ぼっちで寂しい思いがするさま
   心細いさま
   同「惸惸」
 ↓↑
 嬭=女+爾
   ダイ・デイ・ナイ
   𡤘㛋=女Tハ冂メ㐅乂爻爾=嬭
   乳(ちち)
   乳房(ニュウボウ・ちぶさ)
   子に乳を飲ませる
   同「妳・奶・乳」
   母・母親
   同「奶・妳」
 嬮=厭+女
   エン
   女厂冂二冃日曰月冐月大犬肰猒厭=嬮
   見目好(みめよ)いさま
   にこやかで物静かなさま
 嬯=女+臺・・・「邪馬臺國」
   タイ・ダイ
   女土士口𠮷吉ワ
   冖一ム厶𠫔土至台臺=嬯
   鈍(のろ)い・動作が鈍(にぶ)い
   最下級の家臣・奴隷
   同「儓」
  「闒嬯(トウタイ)」・粗野で鈍いさま
 ↓↑
 𡣠=𤲶+女
   ヨウ
   田力男𤲶女=𡣠
   もの静かで美しいさま
   ほっそりとして美しいさま
   同「𡣡・窈」
  「字彙補:丑集:女部:𡣠=音義與窈同」
 ↓↑
 𡣡=女+𤲶
   チョウ・ジョウ
   女田力男𤲶=𡣡
   もの静かで美しいさま
   ほっそりとして美しいさま
   同「𡣠・窕」
  「字彙補:丑集:女部
   𡣡=音義與窕同」
 ↓↑
 媈=女+軍
   キ・コン・ゴン
 ↓↑
 媂=女+帝
   テイ・タイ
   女亠立ワ冖巾帝=媂
   厠(かわや)の神の名
  「集韻:去聲
   媂=圊室神名」
 ↓↑
 媛=女+
   エン・オン
   ひめ
   女丿ツ⺍爪爫爫一二𠂇又友爰=媛
   上品で美しい女性
   心が引き寄せられるように美しいさま
   引き寄せる・引き付ける
   同「援」
  「嬋媛(センエン)」
   容姿や物腰が美しいさま
   引き込まれる・巻き込まれる
   関わり合う・絡み合う
   ひめ・姫・貴人の娘・婦人の美称
 ↓↑
 㛲=女+頁
   ハツ・ホチ
   かみ
   髮髪𩬇𩬕𩬃𨱳𩠖𩠙𩠕𩑱𡞝𩑛𤕥
   =女一目自𦣻貝頁=㛲
   人の頭部の毛
   山に生える草木が
   頭に生える髪に似ていることから草木
 ↓↑
 婢=女
   ヒ・ビ
   はしため
   女丿田甶十卑=婢
   女性の召使い・使用人
   男性は「奴」
   女性が自分を
   謙(へりくだ)っていう語
 ↓↑
 婋=女+虎
   コウ・キョウ
   女ト⺊卜フ乛丿七虍L乚儿虎=婋
   聡明で美しい女性
 ↓↑
 娿=女+
   ア
   婀妸=丨阜阝一亅丁口可阿女=娿
  「娿娜(アダ)」
   しなやかで美しいさま
   嫋(たお)やかで美しいさま
  「媕娿(アンア)」
   なかなか決心がつかないさま
   決断できないさま
 ↓↑
 婀=女+阿
   ア
   妸娿=女丨阜阝一亅丁口可阿=婀
  「婀娜(アダ)」
   しなやかで美しいさま
   嫋(たお)やかで美しいさま
  「媕婀(アンア)」
   なかなか決心がつかないさま
   決断できないさま
   愚図る
 ↓↑
 娬=女+武
   ブ・ム
   嫵𡣆妩=女二一丶弋上止武=娬
   見目好(みめよ)いさま
   愛らしいさま
 ↓↑
 娭=女+矣
   キ・アイ
   女ム丿大天矢矣=娭
   喜ぶ・喜び戯(たわむ)れる
   婦人に対する呼び名
   賤称(センショウ)
   相手をさげずんで呼ぶときの名)
   同「㜯」
  「玉篇:卷三:女部第三十五
   㜯=許宜切婦人之稱也」
  「集韻:卷一:之:之第七
   娭㜯=婦人賤稱」
 ↓↑
 娃=女+圭
   ワ・エ
   女土圭=娃
   美しい女性
   可愛い少女
 ↓↑
 𡝐=女+余(餘)・・・扶余・扶餘?
   タ・チャ
   女人一亼二小余=𡝐
   女性が美しい
  「廣韻(宋本廣韻):下平聲:麻第九
   𡨀:𡝐=美也」
 ↓↑
 𡉓=土+女
   アイ
   土女=𡉓
   品行(ヒンコウ)の良くない女
   同「毐」
  「集韻:卷二:平聲二:咍第十六
   毐𡉓=人無行」
 ↓↑
 妣=女+比
   𡚧=女ヒ𠤎匕比=妣
   母親
   亡くなった母親に対する呼称
   父親は「考」
   妻は「嬪」
  「禮記:曲禮下
   =生曰父曰母曰妻死曰考曰妣曰嬪」
 ↓↑
 妤=女+予
   ヨ
   女龴フ乛亅𠄐予=妤
  「婕妤」
   女官の職位名
 ↓↑
 妥=爫+女
   タ・ダ
   𡛎=ノ丿ツ⺍爪爫爫女=妥
   座りがよい・落ち着く
   安定している
   同「綏・𢼻」
 ↓↑
 𡛑=分+女
   ホン・ボン
   坌=ハ八刀分女=𡛑
   ものや人がたくさん集まる
   塵(ちり)・塵が舞い上がる
   舞い上がった塵が降りかかる
   同「坋」
 ↓↑
 妽=女+申
   シン
   女田申=妽
 ↓↑
 姖=女+巨・・・巨勢?・・・
   キョ・コ
   女匚コ巨=姖
  「吳姖(ごきょ)」
   山名・未詳
  「山海經:大荒
   西經=大荒之中有山名
      曰日月山天樞也
      吳姖天門日月所入」
   巨=「規巨也(キキョ・さしがね」
   通仮字「距・渠」
   異体字「𢀓・𠫕・㠪・𢀑
       鉅・矩・榘」
   繁体字「鉅」
 ↓↑
 𡛸=女+囙
   イン
   姻婣𡜭𤯠=女口囗コ囙=𡛸
   婿の実家
   嫁の実家は「婚」
  「婚𡛸(コンイン)」
   結婚して他家と親族の関係になること
   縁組(えんぐみ)
 ↓↑
 𡛾=女+用
   ダイ・ナイ
   女用=𡛾
   乳(ちち)
   乳房(ニュウボウ・ちぶさ)
   子に乳を飲ませる
   同「嬭」
  「龍龕手鑑:卷二:女部第八
   𡛾=俗妳通
   女仐爾
   正嬭今奴買反乳也」
 ↓↑
 姡=女+舌
   カツ・ガチ
   𡜶=女ノ丿十千口古舌=姡
   面目(人に合わせる顔)がない
   恥じる・恥じている顔付き
   同「靦」
  「說文解字注:女部
   姡=面靦也」
   言葉巧みに人を騙(だま)す
   狡(ずる)い・狡賢(ずるがしこ)い
 ↓↑
 𡜌=十+冖+二+女
   セイ・サイ
   つま・めあわせる・めあわす
   妻𡜈𡝣𡜛=十冖二女=𡜌
   男子の配偶者・夫が自分の配偶者を呼ぶ語
   娘を他家に嫁(とつ)がせる
   他家から娶(めと)り配偶者とする
 ↓↑
 㛒=女+豆
   トウ
   𡟳=[女一口ソ丷一䒑豆㛒]
   話ができないさま
 ↓↑
 㛙=女+
   ショウ・シン
   𨐎=女立十干辛=㛙
   妾(めかけ)
 ↓↑
 娒=女+毎
   ボ・モ・ブ・ム/] [女ノ丿一𠂉母毋毎每娒]
   女子に礼儀や学問などを教育する婦人・同「姆」
   侮(あなど)る・相手を軽(かろ)んずる・「嫚   娒(マンブ)」
 娓=女+尾
   ビ・ミ
   女コノ丿尸毛尾=娓
   美しい
   従う・従順な
  「娓娓」
   絶えまなく続くさま
   飽くことがないさま
 ↓↑
 娖=女+足
   サク
   𨃢=女口上止龰足=娖
  「娖娖(サクサク)」
   相手を敬い
   慎(つつし)み深く振る舞うさま
   丁重(テイチョウ)なさま
   同「娕」
   きれいに揃う・整(ととの)う
  「稱娖(ショウサク)」
   整然と並んでいるさま
   隊列が整然としているさま
 ↓↑
 娞=女+妥
   スイ
   女ノ丿ツ⺍爪爫爫女妥=娞
  「㛱娞」
   洗練されていて美しいさま
   安心なさま・落ち着くさま
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「酸っぱい葡萄」
 イソップ寓話
 (ラテン翻字 Alopex kai staphyle
     和訳 狐と葡萄
     英訳 The Fox and the Grapes
 葡萄を採ろうとした狐が果たせず
 後に、あの葡萄は酸っぱいと
 自己正当化し
 酸っぱい葡萄(sour grape)は
 自己の能力の低さの
 正当化をするため
 対象を貶めたり
 価値の無いものだと
 負け惜しみを意味する・・・

 ルサンチマン(仏語 ressentiment)
 弱者が強者に対して
 「憤り・怨恨・憎悪・非難」
 弱者が強者に対して
 「恨み・嫉妬心」
 の感情を持つことをいう
 弱い立場にある者が
 強い者を「悪」であるとみなし
 その対立項である自分たち弱者を
 「善」とみなすという
 転倒した価値判断
ーーーーー
 ・・・???・・・
 コジキ姫「壱与」・・・「壹與」
 カンジて赤い絨毯にのり
 空をカケメグル
  「古事記・字源」物語
http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm

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