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コジキジゲン

申命記⇔モーゼ⇔申す⇔申=さる・シン=猿・猨・狙・猱・猴 ⇔然る・砂流・沙流

2019-11-28 19:06:56 | 古事記字源
 捌く=deal・manage・explain・八=8=〇+〇⇔∞
 ↓↑
 申命記・・・十戒・・・石版・・・述懐・拾回・拾囘・拾階
 モーゼ=ギリシア語 Μωυσής
     ラテン語   Moyses・Moses
     ヘブライ語 ‎モーシェ
  ↓↑
 「モーゼ」≠「ラモーゼ」
 「ラモーゼ」・・・等(ラ)申せ(モーゼ)?
       ・・・拉(ラ)申せ(モーゼ)?
       ・・・覶(ラ)申せ(モーゼ)?
          覶=爫+コ+冂+厶+又+見
            爫+マ+冂+厶+又+見=𤔔+見・・・?
              コ=マ?
              覶=𤔔+見=?
                爫+コ+冂+厶+又+見
              覶=爫+マ+冂+厶+又+見
                  マ=コ?
              =覼=爾+見
               𤔔=爾
                 声符「𤔔・𡡗・辭・𢿢」
                  ラ
                  ラン
                  レン
                  みる
               事細かいさま・詳しいさま
               順序だてる・順序だてて述べる
               楽しげに見る
               to look about, order, sequence,
               complicated thought
                which is not easy to express
       ・・・羅蛙(ラァ)申せ(モーゼ)
       ・・・羅鴉(ラァ)申せ(モーゼ)
       ・・・太陽(ラァ)申せ(モーゼ)?

 アメンホテプ三世~四世・・・編め務補出附纂所為~読む成(歳)?
 エジプト宰相・・・・・・・・埃及・重字附渡?
 父はネビィ・・・・・・・・・音比意?
 母はアプヤ・・・・・・・・・阿附也・阿武也?・・・則天武后?
 父はデルタ地帯の・・・・・・出留多?
 アメン神殿で穀物管理者
 妻はメリエトプタハ・・・・・女里重都双葉?
 二人に子供はいなかった・・・
 ラモーゼが
 アメンホテプ三世に仕えた
 アメンホテプ四世(アクエンアテン)
 が
 アマルナに遷都・・・・・余留名・尼留名・天留名?
 ラモーゼも
 アマルナに転居
 彼の墓は未完のまま放棄
 テーベから・・・・・・氐(弖)重部
 アマルナへ遷都する時期
 墓の発見
 1879年
 ビリー・スチュワート・・・比理意・素中倭蛙訳?
 により発見
 1882年、再び墓を訪れ調査
 後
 ガストン・マスペロ・・・・臥諏図務・桝経賂?
 によって研究
 1924年
 ニューヨーク(紐育)
 メトロ(地下鉄・metro・metro)
 ポリタン(metropolitan)
 美術館(art museum)の
 ロバート・モンド・・・蘆(鷺・鸕)葉蛙訳・文渡?
 によって復元された

ーー↓↑ーー
 覶=𤔔+見=覼 ・・・
 覶=爫+龴+冂+厶+又+見=楽しげに見る・閲覧
 2019/06/15
 古事記字源
 古字記分解辭典
 故字記解剖辭典
 拠字記分捌辭典
 虎字記文滅辭典
 (運命時計の未来館発行・絶版逸書佚書焚書)
 ↓↑
 𤔔=ノ(へつ)のツのマの冂(国際)のムのヌ
 ↓↑
 「マ」の漢字の意味は?・「表裏反転の左右上下斜め」の文字・・・
 「マ」⇒「ム」⇒「ワ」⇒「ク」⇒「7」
 ↓↑
 辭=𤔔+辛
   爫+龴+冂+厶+又+辛
   爫+龴+冂+厶+又+立+十
   辛(シン・からい・つらい)
 異体字=異體字
    「辝・𨐕・辤・𨐲・𨾱」
       司・𤔧・𤔲・𦧦
    ・・・司=𠃌+𠮛(一口)
           𠮛の異体字「𠫔」
       𠮛=旨=シ・むね・うまい
       異体字「㫖・𣅌・𠤔・𤮻・𣅀・𠩊・𠮛」
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 辭=𤔔+辛
   異体字
  「辞・司・𤔧・𤔲・𦧦
   辝・𨐕・辤・𨐲・𨾱
   簡体字「辞」
   声符「𤔔」
   辭=辞・辤・辝
   ジ
   やめる
   ことば
   ことわる・・・・理由(ことわり)
   拒絶する・しりぞく
   ことば・言語・ふみ・文章
   いとまごいをする
   別れを告げる・辞去する
   うったえる・告げる
   責める・説明を求める
   韻文の一種
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 亂・乱=𤔔+乙(イツ・オツ)⇔(乚・イン)
       乙=跪(ひざまつ)く
         膝曲(ひざま)付く
         膝を地面について
        身を屈(かが)めたまま拝謁
       乚=膝を地面について
        身を起こして拝謁
         かくす(隠の古字?
         隔・蓋・覆・蔽・被・匿)
         隔離・天蓋・覆面・蔽遮・被覆・匿名
        「乙字」が旁(つくり)になるとき
       「α+乚」となり
       「乚=つりばり・乙繞(オツニョウ)」
        と呼ばれる
       乞=𠂉+乙・・・髪挿しの乙女
       乞巧奠(キッコウデン)=陰暦七月七日の行事
       女子が手芸・裁縫などの上達を祈った七夕祭り
       乞食(こつじき)=修行僧の
                物乞いの修行で
          食べるモノを
                乞い願う
                おめぐみアレ
 ↓↑
 辭・辞=𤔔+辛(シン・刃物)
 乱・辞(乱れをさばくこと・舌で裁く)
 ↓↑
 辭・辞=𤔔+辛
   𤔔=糸架(いとかせ)の上下に手を加
     糸の乱れをほぐそうとしている形
     糸の乱れ
   辛=把手のついている大きな針
     乱れている糸を針で解きほぐす意・・・?
 ↓↑
 𤔔=爪(爫・つめ)・・爪+マ=受の略字?
   マ(抓み)・・・・器のつまみ・蓋(ふた)の抓み
   禸(ジュウ)・・・獣の足跡
           「狐貍貛貉醜
            其の足は𨆌
            其の迹は厹(九ム)」
                九州の湾内の横嶋(ム)?
            足迹=厹=禸(説文)
   幺(幼)・・・・「マ+ム」・・・
           「么=ノ+ム=ヨウ」?
            異体字「幺・麼=麽(繁体字)」
            簒奪の「簒=竹+目+一+人+么」
            うばう・奪い取る・横取りする
            筑紫の乙女の
            壱(壹・臺・始)めの人は
            幺(么・幼)く
            ノ(ヘツ)のム(よこしま)に居る?
 ↓↑
   冂=冖(枠・ワ冠・和カンムリ)
   ム=私・己(わたくし・おのれ・よこしま・邪)
   又=右手=フ+乀=一+乂(重なる・刈る)
   ・・・冂(ケイ・キョウ・囲まれた境の南門・関所)の
      ム(シ・私・よこしま)な
      又(右手)を
      
      孚(妥奚采・菜荽・彩郛乳・俀俘傒・受)?
              耶靡台国・俀國伝・印綬
 ↓↑
 覶=𤔔+見=覼
   爫+龴+冂+厶+又+見
  =楽しげに見る・悦覧・閲覧・観覧
   見(みる)
   ラ
   事細かいさま・詳しいさま=覼=爾+見
   順序だてる・順序だてて述べる
 ↓↑
 亂=乿=乱=千口の鉤(鈎・鍵・科技)
 辭=辤=辞=千口のカラのイ(ツラのイ・立の足・亠䒑拾)
 ↓↑
 辞退=ジタイ=自体=事態・・・字体
 ↓↑
 𤔔=枠をはみ出ないように収める(治める)
   もつれて枠をはみ出る
 ↓↑
 𤔔=爫+龴+冂+厶+又
   異体字「亂・𤔐=・乱」
   声符「𤔔・𡡗・辭・𢿢・覶」+
  「幺子、相亂る。𠬪、之れを治むるなり(説文)」
  「𠬪+冂+幺の会意」
   ・・・「幺=厶+又」?
   ・・・「幺=く+厶
        =卜+ム
        =上+一+丶
        =ノ+七
        =乇」?・・・異体字「托・託・宅・拓」
         乇=膝マ付く人が顔を上げ両手を広げる?
 ↓↑
 𤔔=古文「𤔒・𤔐」・・・爪・マ・冖・ム・ヌ
   𤔐・𤔑・𤔒・𤔓
   𤔪・𤔫・𤔬・𤔭
 ↓↑
 「治也。幺子相亂、𠬪治之也。讀若亂同。
  一曰 𤔔、理也(說文)」
  𠬪=爫+又
    異体字「殍・莩」
    物を受け渡す意
    爰=𠬪(爪+又=手)=手渡し
      于=手を回す意
 ↓↑
 乱=舌+乚=亂=𤔔+乚
   𤔔=乱れる
   亂=「乚」に「𤔔」を加え
     「みだれる・おさめる」
      の両義を生じた(字通)
 異体字「乱・𠃶・𠃹・𠃿・乿・𠦸・𠧎・𠧏・𠮗
     𢿮・𢿢・灓・𢮣・𤔒・𤔐・𤔔・𤔦・𤔬
     𤕅・𤕍・釠」
 ↓↑
 𤔔=𤔐=𤔒=𤔬
 ↓↑
 𠭟=ラン
   𤔔𤔬𤔦𠧏𠧎𤕍𤔭𤔪𠮗𤔒𤔐𢮣𠦸
   タ夕月・丶ワ冖くム厶幺ヌ又𠭟
   乱れているものを秩序ある状態に戻す
 ↓↑
 ・・・「囜=囜(かしこい・ジン・ニン)
 ・・・「回=まわす・まわる・めぐる・かえる
       たがう・たび
       エ・カイ」
      異体字「囜・囬・佪・𢌞・廻・囘・𡇌」
 ↓↑
 「𤔔」=「縺(もつ)れた糸」
 「乙(乚)」=「骨篦(べら)」
 「骨べら=乙・乚」で
 「縺(もつ)れた糸を解く・故におさめる意(字通)」
 「亂の左の部分(𤔔)は
  糸を上下から手で引っぱるさま(受・冂・ム・又)
  右の部分は乙(乚篦)で押さえるさま」
 「乙=乚」の字形は
 「杼(ひ)や筬(おさ)」
  と呼ばれる道具・・・
 「予は杼の初文、
  杼は織物の横糸を通す道具・・・・杼
  これで糸を送ることを抒・・・・・抒
  その送る糸を紓という・・・・・・紓
  紐を井中に深くのばして、
  井水を挹(く)むことも抒・・・・抒
  杼(ひ)=機(はた)の横糸をのばし出す、糸巻き
       予(説文解字)
       その末端に糸のあらわれている形(字通)
       予=口印をひっぱってずらしたさま
         糸をのばして出す木製の糸巻き(漢字源) 」
 「杼(ひ)=1本の棒に
       緯糸(たていと)を巻いて用いていた」・・・
 ・・・何を楽しげに観るんだかは
   「亂・蘭・藍」ではなく
   「漢字」自体である・・・
 「辞=辭・𤔲・𨐲・𦧦・辝・𨾱
   =シ・ジ・ことば・やめる」・・・
 「辭=𤔔(爪+マ+冂+ム+又)
    +
    辛(立+十=つらい・からい
      入墨、刺青、黥、文身の針・鍼)」・・・
 ↓↑
 問題にしたいのは・・・
 「マ→ム→∠+ヽ」・・・
 ・・・「ム」の反転の「マ・7・ク」・・・
 「マ」は漢字で何を意味するのか?・・・
 「矛(ほこ)=マ+了+ノ」の上に記録される
 「マ」はナニか?
 「預(あずかる)=予+頁」の「予」、
 「予(あずかる)=マ+了」の「マ」はナニか?
  ↓↑
 「マ=刀→卩・・・「令=𠆢+一+刀」・・・
          「令=人+一+マ」
          「会=𠆢+云(二ム)」
          「會=𠆢一罒丶日」
 「麼=广+林+幺(ビ・ミ・バ・マ・モ・細かい・かすか
    そうか、そうでないかを訊ねる疑問の助詞…か)」
 「靡=广+林+非(なびく・ビ・ミ)
   =他の力に従う・靡然・風靡・衰える
           萎靡 (イビ)・はでで美しい
           猗靡 (イビ)・おごる・ぜいたく
           淫靡 (インビ)・奢靡(シャビ)
 「都於-邪靡堆・・・邪(牙+阝・ヨコシマの邑・阜)
           靡(麻+非・アサにアラズ)
           堆(土=十一+隹
              うずたかい・小さな丘)
           碓(うす)→小碓命=倭建
                =倭男具那
                =日本童男
 ・・・邪(よこしま)に
    靡(なびいた)
    堆(堆積された丘)
    堆=十一(壱拾壱・壹足臺)
      ・・・位置(位地)拾他意?
  則-魏志-所謂-邪馬臺-者也」
 ↓↑
 「勇(いさむ・ユウ)=マ+田+力
    =勇敢・勇気・勇士・勇壮・勇猛・勇躍
     義勇・豪勇・大勇・忠勇・沈勇・蛮勇
     武勇・思いきりがよい・勇退・勇断」
 ・・・「マ」は「丁髷(ちょんまげ)」・・・?
 「桶=十+八+マ+用=おけ」
 ・・・「マ」は「取っ手」か
    桶を縄で吊るす「∩字形の穴」・・・
    釣る瓶の取っての輪
 「勇=甬+力」=「甬鐘(ヨウショウ)という
          柄のついた鐘・鐘楼などにつるし
     梵鐘(時鐘)、陣鐘、喚鐘、楽鐘
     形状も各種あり
     周代の楽鐘が漢代の朝鐘となり
     日本の寺院の時鐘にもなった」
ーーーーー
 ???・・・カキくえばカネがナルなりホウリュウ字・・・?
 「コ(こ)」・・・非漢字
 「匚(はこ・ホウ)
  匸(𠃊+一・かくす・ゲ・ケイ)」
 「冂(ケイ・キョウ・冏構(けいがま)え・辺境)
  凵(カン・コン・かんにょう(凵繞)・くぼむ・欠ける)」
 「⊂・⊃・∩・∪(ユウ)」・・・∪字溝
 ↓↑
 古代エジプト美術
 新王国時代(前1550~前1069年頃)
 ↓↑
 デル・エル=メディーナの村長
 ラモーゼ
 王家の墓の造営職人たちの長
 ↓↑
 ラモーゼ
 宰相直属の中央行政庁の高官
 「真理の地(デル・エル=メディーナ)
  における王の書記」
 ツタンカーメンの父
 アクエンアテンの宰相
 第18王朝
 アメンヘテプ3世~4世
 (ツタンカーメンの祖父)時代の宰相
 ↓↑
 デル・エル=メディーナ村の
 職人達が
 王家の谷や王妃の谷に王家の墓を掘り
 その装飾に従事していた
 王が亡くなると
 後継者が正当に王座に着くために
 亡くなった王を
 必ず埋葬しなければならなかったので
 村の住人や村長は
 エジプト政治体制の
 中核
 約30年間
 長期間書記の職務に付いていた
 墳墓を1基
 ステラ(石碑)を25体
 彫像を6体
 供物卓を3台
 など作品を残した
 ↓↑
 ラモーゼは
 両手にオシリス神
    ネフティス女神
 が座っている玉座を握っている
 オシリス神は冥界の王
 ネフティス女神は
 イシス女神の協力者
 オシリスの妹で妻
 イシスは
 オシリスを蘇生させた
 この神々の足元には
 かつては
 防腐処理された
 臓器を保存する役目を担った
 「ホルス神の4人の息子たち」
 イムセティ
 ハピ
 ドゥアムウトエフ
 ケベフセヌウエフ
 の4体の立像が彫られ
 毎日の食事を
 乞う目的で作られていた・・・
ーーーー↓↑ーーーー

  ナイル川(the Nile)・・・名意留?
     英語 the Nile
     フランス語 le Nil
     尼羅・尼児・内留
     ↓↑
     エジプト(Egypt)
     埃及
     ↓↑
     サバク(desert)
     沙漠・砂漠・・・捌く=八=8=Ⅷ=はち=葉知
     ↓↑
     サハラ砂漠(Sahara desert)
        サハラ=アラビア語で砂漠

     ↓↑
     シリア砂漠(Syrian Desert
           Syro-Arabian desert)
     ↓↑
     ネフド砂漠(an nafud)
     ↓↑
     ゴビ砂漠(Gobi desert)
     大漠
     戈壁(カヘキ)
     瀚海沙漠
     語尾・語備
     ↓↑
     タクラマカン砂漠(塔克拉瑪干沙漠)
     タクラ・マカン(大戈壁)
     と呼ばれる大都市があった
     ウイグル語「入ると出られない」の意
    「タッキリ(死)+マカン(無限)」
     の合成語
     ペルシャ語「帰れない場所」
     ↓↑
     サルイイシコトラウ砂漠
    (Peski Saryishikotrau)
     サリエシク・アティラウ砂漠
     (Saryesik-Atyrau Desert)
     ↓↑
     パタゴニア砂漠(Patagonian Desert)
     ↓↑
     カラハリ砂漠(Kalahari Desert)
     「干上がった場所・乾いた土地」
     ↓↑
     ナミブ砂漠(Namib Desert)
     「何もない」という意
ーーーーー

 さばく=捌く=deal・manage・explain
     捌=八=8=〇+〇⇔∞
 サバクあらかると
 ↓↑
 カヴィール砂漠(イラン)
 カラクム砂漠(トルクメニスタン)
 キジルクム砂漠(ウズベキスタン、カザフスタン)
 グルバンテュンギュト
 (古爾班通古特)砂漠
 (中国・新疆維吾爾自治区)
 ゴビ砂漠(モンゴル、中国・内蒙古自治区)
 サルイイシコトラウ砂漠(カザフスタン)
 シリア砂漠
 (シリア、ヨルダン、イラク、サウジアラビア)
 タール砂漠(インド、パキスタン)
 タクラマカン
 (塔克拉瑪干)砂漠
 (中国・新疆維吾爾自治区)
 ↓↑
 ダフナー砂漠(サウジアラビア)
 ネゲヴ砂漠(イスラエル、パレスチナ)
 ネフド砂漠(サウジアラビア)
 ハジャラ砂漠(イラク)
 バダインジャラン
 (巴丹吉林)砂漠
 (中国・内蒙古自治区)
 ホルチン砂漠(中国・内蒙古自治区)
 ムウス(毛烏素)砂漠(中国)
 モインクム砂漠(カザフスタン)
 ルート砂漠(イラン)
 ルブアルハリ砂漠
 (サウジアラビア、アラブ首長国連邦
  オマーン、イエメン)
 レギスタン砂漠(アフガニスタン)
 ガンベリー砂漠(アフガニスタン)
 ↓↑
 アタカマ砂漠(チリ)
 グレートサンディ砂漠
 (アメリカ合衆国)
 グレートソルトレーク砂漠
 (アメリカ合衆国ユタ州)
 コロラド砂漠
 (アメリカ合衆国、メキシコ)
 ソノラ砂漠(アメリカ合衆国、メキシコ)
 ブラックロック砂漠
 (アメリカ合衆国ネバダ州)
 ペインテッド砂漠(アメリカ合衆国)
 モハーヴェ砂漠
 (アメリカ合衆国カリフォルニア州)
 ↓↑
 カラハリ砂漠
 (ボツワナ、ナミビア
  南アフリカ共和国)
 サハラ砂漠
 (エジプト、リビア、チュニジア
  アルジェリア、モロッコ
  西サハラ、モーリタニア、マリ
  ニジェール、チャド、スーダン)
 ナミブ砂漠(ナミビア)
 ニーリ砂漠(ケニア)
 ヌビア砂漠(スーダン)
 リビア砂漠(リビア、エジプト)
 シャルキーヤ砂漠(エジプト)
 ガルビーヤ砂漠(エジプト)
 ワラーヌ砂漠(モーリタニア)
 ビルマ砂漠(ニジェール、チャド)
 オリエンタル砂漠
 (アルジェリア、チュニジア)
 ↓↑
 カウ砂漠(アメリカ合衆国ハワイ州)
 ギブソン砂漠
 (オーストラリア
  ウェスタンオーストラリア州)
 グレートサンディ砂漠
 (オーストラリア
  ウェスタンオーストラリア州)
 グレートビクトリア砂漠
 (オーストラリア
  ウェスタンオーストラリア州
  サウスオーストラリア州)
 シンプソン砂漠
 (オーストラリア・北部準州
  サウスオーストラリア州
  クイーンズランド州)
 タナミ砂漠(オーストラリア)
 スタート砂漠
 (オーストラリア
  サウスオーストラリア州
  クイーンズランド州)
ーーーーー
 ↓↑    ↓↑
     鳥取砂丘 Tottori sand dune
             dune=砂丘
     捌く=deal・manage・explain
        捌=八=8=〇+〇⇔∞
     佐幕
     裁く=consider
        Eli, Eli, lima sabachthani?
        エロイ,エロイ,ラマ,サバクたに
        That is,
        “My God, my God,
         why have you forsaken me?”
               ファセイクン
 ↓↑     ファ(ル)セェィカァン(ヌ)
 申命記
 モーゼ
 ↓↑
 申す
 申=さる・シン=猿・猨・狙・猱・猴
         然る・砂流・沙流
         ↓↑
         「さしすせそ」
          + + + + +
         「らりるれろ」
         ↓↑
         沙羅・紗羅・娑羅
         沙良・砂良
         更・皿
         沙楽・紗楽
         ↓↑
         讚良=鸕野讚良=持統天皇
ーーーーー
 ・・・???・・・

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連翹(レンギョウ・Forsythia・フォルシシア)・練行・連衡・・・鎮痛薬・鴆通訳・陳寿通訳

2019-11-26 20:39:12 | 古事記字源
 安東将軍?(倭讃)・・・???
 安東将軍?
 ↓↑

 安東氏(あんどう)
 中国の地名(アントン、Āndōng, Antung)
 安東省=中華民国にかつて存在した省
 安東県・安東市=中華人民共和国
 ↓↑       遼寧省
         丹東市の旧称⇒丹東市
         遼寧省(Liaoning)
         東北部に位置
         省都は瀋陽
         主要都市は大連
         旧称は盛京省
         後に奉天省
         遼寧省
         瀋陽市・・・盛京=ムクデン (mukden)
         北緯41度47分
 ↓↑       ↓↑
         大連市
         北緯39度02分
 ↓↑       ↓↑
         平壌
         北緯39.03度
 ↓↑       ↓↑
         北緯38度43分~40度10分
         緯度付近
         仙台市
         サンフランシスコ市
         ワシントンD.C
 ↓↑      アテネ市
 安東県=中華人民共和国
     江蘇省
     漣水県の旧称
 安東郷 (忻城県) =中華人民共和国
          広西チワン族自治区
          来賓市
          忻城県の郷
 安東郷 (漢源県)=中華人民共和国
          四川省
          雅安市
          漢源県の郷
 ↓↑
 安東市(アンドンシ)
 大韓民国
 慶尚北道の中部にある市・・・慶(よろこび)
               尚(なお)
               北の道
 慶尚北道の道庁所在地
 ↓↑
 韓国
 安東市
 ↓↑

 下位行政区画 1邑13面10洞
 安東市の木  チョウセンレンギョウ
        朝鮮連翹・・・練行・蓮行・連衡
        漢方医学で
        解熱剤、消炎剤、利尿剤
        排膿剤、腫瘍・皮膚病
        などの鎮痛薬に用いる
        属名のForsythia(フォルシシア)は
        19世紀初頭(1737年~1804年)
        イギリスの園芸家
        ウィリアム・フォーサイス
        (William A. Forsyth)
        による
        Forsythia(フォルシシア)=レンギョウ属
        suspensa=吊るした
        古名は鼬草(いたちぐさ)
 安東市の花  ウメ・・・梅・宇女・宇目・埋め・産め
 安東市の鳥  カササギ・鵲・襲詐欺?
 緯度 36.566 度・・・
 ↓↑    東京都
        新宿区
        西新宿二丁目8番1号
        北緯35度41分
        都の木 イチョウ
        都の花 ソメイヨシノ
        都の鳥 ユリカモメ
 ↓↑      ↓↑      
        千葉県千葉市
        北緯35度36分
        県の木 マキ
        県の花 菜の花
        県の鳥 ホオジロ
        県の魚   タイ
 ↓↑      ↓↑
        神奈川県
        横浜市中区日本大通1番
        北緯35度26分
        県の木 イチョウ
        県の花 ヤマユリ
        県の鳥 カモメ
 ↓↑      ↓↑
        山梨県甲府市丸の内
        北緯35度39分
        県の木 カエデ
        県の花 フジザクラ
        県の鳥 ウグイス
        県の獣  カモシカ
 ↓↑      ↓↑
        京都府京都市
        上京区
        下立売通
        新町西入藪の内町
        北緯35度1分
        府の木 北山杉
        府の花 しだれ桜
              嵯峨ぎく
             ナデシコ
        府の鳥  オオミズナギドリ
 ↓↑      ↓↑
        知夫里島(ちぶりじま)
        北緯36度01分
        隠岐諸島
        隠岐国(おきのくに)
 ↓↑      ↓↑
        島根県松江市殿町
        北緯35度28分
        県の木 クロマツ
        県の花 ボタン
        県の鳥 ハクチョウ
        県の魚   トビウオ
 ↓↑      ↓↑
        福井県福井市大手
        北緯36度3分
        県の木 松
        県の花 水仙
        県の鳥  つぐみ
 ↓↑      ↓↑
        岐阜県岐阜市薮田
        北緯35度23分
        県の木 イチイ
        県の花 レンゲソウ
        県の鳥 ライチョウ
        県の魚 アユ
 ↓↑      ↓↑
        長野県長野市
        大字南
        長野字幅下
        北緯36度39分
        県の木 白樺
        県の花 リンドウ
        県の鳥 雷鳥
 ↓↑      ↓↑
        群馬県前橋市大手町
        北緯36度23分
        県の木 クロマツ
        県の花 レンゲツツジ
        県の鳥 ヤマドリ
        県の魚  アユ
 ↓↑      ↓↑
        埼玉県さいたま市
        浦和区高砂
        北緯35度51分
        県の木 ケヤキ
        県の花 サクラソウ
        県の鳥 シラコバト
 ↓↑      ↓↑
        茨城県水戸市笠原町
        北緯36度20分
        県の木 ウメ
        県の花 バラ
        県の鳥 ヒバリ
 ↓↑      ↓↑
        青島
        膠東半島の南岸
        北緯36度5分
        山西省
        太原市・・・別称 龍城
              旧称 晋陽
              略称 晋
        北緯37度52分


        陝西省
        西安市・・・略称 鎬
              旧称 長安
        北緯34度16分
 ↓↑      ↓↑
        甘粛省
        蘭州市
        略称 蘭
        別称 金城
        北緯36度03分
 ↓↑      ↓↑
 寧夏回族自治区
 (ねいかかい)
 銀川市
 簡体字 宁夏
 繁体字 寧夏・・・寧夏
       ニンシャー
 ↓↑      ↓↑
 寧夏     寧夏
 ↓↑      ↓↑
 哱拝(ボハイ)の乱
   1590年(万暦二十年)
   明代中国の
 寧夏で起き
   明軍副総兵
   の
   ボハイ(哱拝)による反乱
  「哱拝」は元、投降モンゴル人
   寧夏兵変、寧夏の役とも
   困窮した
   家丁兵士側の
   自主的蜂起
   万暦帝の治下の
   万暦の三征の一・・・
ーー↓↑ーー
 1592年
 干支    壬辰
 日本    天正二十年
 皇紀2252年
 中国
 明     万暦二十年
 李氏朝鮮  宣祖二十五年
 ↓↑
 1592年(万暦二十年)2月18日
 劉東暘
 に率いられた兵士
 200人が兵備副使の
 石継
 と
 巡撫の
 党香を殺害し
 役所の印を奪い
 6門を閉鎖
 囚人を解放
 略奪や焼き討ちを始めた
 5月2日
 巡撫に新任された
 朱正色
 が
 董一奎
 牛秉忠
 と共に城を攻めた
 5月6日
 モンゴル軍が黄河を越えて侵入
 ↓↑
 5月10日
 豊臣秀吉・・・文禄・慶長の役(~1593年)
       「海路諸法度」
        ホンタイジ誕生
        清の第2代皇帝
       (1592年11月28日~1643年)
       (万暦二十年十月二十五日)
 ↓↑
 が
 朝鮮四道を破るとの情報が伝わり
 明朝では
 寧夏の反乱軍を懐柔しつつ
 モンゴル兵を計略で退去させ
 朝鮮へ注力することを画策
 魏学曽
 の罷免案
 援軍の
 梅国楨
 李如松
 が現地に到着
 ↓↑
 5月11日
 モンゴル兵
 が万騎で渡河・侵入
 賀蘭山から
 平虜まで進出
 寧夏国境は牧地となった
 ↓↑
 6月6日
 都御史の
 葉夢熊
 が
 霊州で
 神砲器400車を調達
 ↓↑
 6月19日
 明軍4万と苗兵による攻勢が計画
 ↓↑
 6月20日
 李如松
 梅国楨
 が城南に移陣し
 哱拝
 とモンゴルの連絡を遮断
 6月22日
 6月23日
 攻城を実施失敗
 6月25日
 明軍は
 哱拝父子以外の赦免を条件に降伏を要求
 許朝は拒否
 籠城が長く食糧の不足
 城内では
 明軍に内応する者が出始め
 反乱軍と戦った
 ↓↑
 7月4日
 モンゴルとの連絡を絶たれた
 哱拝は城を捨て
 モンゴルへ走ることを提案
 息子の
 哱承恩
 は反対
 7月11日
 明軍は
 寧夏城の東北が低地であることから
 水攻め開始
 7月17日
 総督の
 魏学曽
 が罷免
 葉夢熊
 が後任
 7月18日
 堤防が完成、湖の水が注がれた
 モンゴル軍が
 沙湃
 などへ侵入
 哱拝や許朝は寧夏への誘導を行ったが
 退去するモンゴル兵が多かった
 7月20日
 水攻めにより
 寧夏城が浸水
 ↓↑
 8月1日
 反乱軍が船で堤防を破壊
 水が引いた
 破壊された堤防を築いた
 呉世顕
 は明軍に責任を追及されて処刑
 8月7日
 堤防が修復されて再度水が注入
 城内は食糧不足、餓死者が続出
 8月25日
 土文秀は重病
 劉東暘
 許朝
 土文秀
 の兵を分け
 狼煙を上げてモンゴルの来援を待った
 モンゴル側では
 着力兎
 の800騎が鎮北堡から侵入
 8月27日
 モンゴル数千騎が侵入
 哱承恩
 を救出して
 寧夏
 へ住牧すると表明
 明軍に撃破される
 ↓↑
 9月3日
 明軍陣営に
 浙兵1000
 苗兵・荘浪土兵が到着
 9月5日
 浸水で北方城壁が崩れる
 反乱軍は貧民をし
 富民より米を供出させ
 反抗される
 9月8日
 梅国楨
 葉夢熊
 が南方より入城
 城民は歓迎
 梅国楨
 は
 哱拝
 父子を説得するも失敗
 9月9日
 劉東暘
 許朝
 が
 土文秀
 を殺したことにより
 哱拝
 父子から警戒される
 9月16日
 明軍は
 許朝
 劉東暘
 を殺し
 城上に晒し首
 9月17日
 明軍は
 哱承恩
 を生け捕りにし
 哱拝
 は家丁を率いて抵抗し
 最後に自殺して遺体を焼かせた
 明軍は火中から死骸を取り出し斬首
 「哱拝の反乱」は終結
 ↓↑
 11月11日
 哱承恩
 は京師にて磔刑
ーー↓↑ーー
 古代
 昌寧国
 三国時代
 新羅に吸収
 古昌郡 設置
 豪族
 金宣平(安東金氏の祖)
 高麗建国に功績
 高麗時代
 安東府に昇格
 吉州に名称を変え
 1012年
 再び安東府
 高麗の後期
 都護府
 大都護府が設置
 朝鮮王朝時代
 安東府への昇格
 安東県への降格
 を幾度か繰り返した
 鮮王朝時代中期
 李滉がこの地で生まれた
 陶山書院を拠点に教育を行い
 嶺南学派を形成した。
 1895年
 安東府が
 安東郡となり
 広域行政区画である
 安東府(観察府)が置かれた(二十三府制)
 1896年
 観察府は廃され
 慶尚北道(十三道制)に所属
 1914年
 礼安郡を編入
 ↓↑


 ↓↑
 王朝時代の儒学者
 李滉の故郷
 儒教的伝統地=河回村・・・?
 『仮面劇』、李退渓(イ・テゲ)の故郷?
 洛東江が円く曲がって村を囲んだ地形から
 「河回村(ハフェマウル)」と名称された
 ↓↑
 紀元前59年
 念尚道師
 によってつくられた
 昌寧国
 が起源・・・
 新羅時代は
 高敞郡(コサングン)
 高麗時代に
 安東府・・・高麗時代(918年~1392年)
 ↓↑    918年
       王建(太祖)が建国
       936年
       朝鮮の
       後三国を統一した
       李氏朝鮮の
 ↓↑    1392年まで続いた・・・
 が設置され「安東」の地名が初出・・・???
 「413年 義熙九年
       倭王讃の朝貢」・・・
 「438年 安東将軍(倭珍)」の
 「拝命・役職名」の
 「安東」ではない・・・?
 ・・・時代もズレる1392-438=954・・・
 ・・・「支配権の地名地域」ではないならナニ?
 ・・・東方を安堵・安寧・安定・治安・・・・する?
 ↓↑
 「新羅」について
 「沙比(サヒ)の新羅(神功皇后四十七年四月条)」
 「匝羅(サフラ)の表(雄略九年三月条)」
 「沙比(サヒ)」も
 「匝羅(サフラ)」も同じ地で
 「草羅(サフラ)」とも書き
 慶尚南道
 梁山市・・・梁山泊?
 を指す
 「梁山」は
 倭国にとって
 対「新羅」
 戦略上重要な地点
 そのまま
 「新羅方面」を指す呼称となった・・・
 匝=サフ・ソウ・めぐる・異体字「帀」
   めぐらす・とりまく
 羅=ラ・・・ラリルレロ
 「匝羅=サフラ=草羅=ソウル」?
 ↓↑
 陁=阝+㐌
   阜=阝(こざと・こざとへん・おか)
   イ
   タ
   チ
   斜め・斜めになっているさま
   山が長く連なってのびているさま
   平坦でない・平らでない・道が険しい
   崩れる・壊れる・崩れ落ちる
   㐌(yi・イ)=𠂉+也
    ↓↑
 拓跋 猗㐌(たくばつ いい)
 267年~305年
 鮮卑族の中部拓跋部の大人(部族長)
 拓跋沙漠汗の長男
 弟に
 拓跋猗盧・拓跋弗
 子に
 拓跋普根・拓跋賀傉・拓跋紇那
 『宋書』で
 「索頭単于猗駞(いだ)」
 と書かれる
 ↓↑
 阤=阜+也
   チ・ジ・イ
   阜阝せ也阤
   壊(こわ)れる
   壊れてぱらぱらと落ちる
   大きく崩れるのは
  「崩・陁・陊」
  「國語・周語下・靈王二十二年
   ・・・是故聚不阤崩而物有所歸(大曰崩小曰阤)・・・」
   急な坂
 ↓↑
 陁=阝+㐌
   阜=阝(こざと・こざとへん・おか)
   イ
   タ
   チ
   斜め・斜めになっているさま
   山が長く連なってのびているさま
   平坦でない・平らでない・道が険しい
   崩れる・壊れる・崩れ落ちる
   㐌(yi・イ)=𠂉+也
 ↓↑  ↓↑
 拓跋 猗㐌(たくばつ いい)
 267年~305年
 鮮卑族の
 中部
 拓跋部の大人(部族長)
 拓跋沙漠汗の長男
 弟に
 拓跋猗盧・拓跋弗
 子に
 拓跋普根・拓跋賀傉・拓跋紇那
 ↓↑
 『宋書』で
 「索頭単于猗駞(いだ)」
 と書かれる
 ↓↑
 阤=阜+也・・・陁=阝+𠂉+也(乜+丨)
          阝=阜(丘)・邑(村・里)
          𠂉=髪挿し・櫛
          也=乜+丨
            乜(バ・メ)=斜視・藪睨み
          squint=目を細めて見る
              ちらりと見ること
              横目で見ること
              斜視
              skwint・スクィントゥ
            丨(コン)=棒
 ↓↑
 阤=チ・ジ・イ
   阝=阜
   也=乜+丨
 阤=壊(こわ)れる
   壊れてぱらぱらと落ちる
   大きく崩れるのは
  「崩=陁=陊」
  「國語・周語下・靈王二十二年
   ・・・是故聚不阤崩而物有所歸
     (大曰崩小曰阤)・・・」
   急な坂
 ↓↑
 高句麗=(コマ・狛・貊・駒)
 高麗=(コマ・高驪)
 百済=(クダラ・クタラ・伯済)
 新羅=(シラギ・シラキ・斯盧・斯羅)
 『日本書紀』の訓
 ↓↑
 高句麗=たかくら=高倉・高蔵・高庫・高鞍?
          鷹倉・多可句等?
 ↓↑
 『三国志・東夷伝』
 「馬韓五十五国」の一国
 「乾馬国」
  or
 「古蒲国」
 ・・・
 「新羅城」
 ↓↑
 「クタラ」
 『三国史記・地理志』
 居陁郡⇔クタラ・・・もとの地名?
 居陁郡の比定地
 慶尚南道
 晋州市(居陁州)・・・?
 or
 慶尚北道
 安東市(古陁耶)・・・?
 ↓↑ ↓↑
 しらナイ・・・「白・師等・氏等・士等」
        「知ろ・城・代」
        「知らす・白洲・白子・白須」
         +
        「な・に・ぬ・ね・の」
         +
        「イ」?
         名似ぬ音の
 ↓↑  ↓↑
 くだらナイ・・・「くだる・下る・降る」
         「くだける・砕ける」
         「くだ」
          +
         「ら・り・る・れ・ろ」
          +
         「な・に・ぬ・ね・の」
          +
         「イ」?
          名似ぬ音の
 ↓↑
 静岡市
 葵区
 安東・北安東
 広島市
 安佐南区
 安東(やすひがし)・・・?
 ↓↑
 安東
 安東=あんどう=安藤=安堂=安道=阿藤=杏藤
 安東=あんとう=安島・安嶋・安納・暗闘
 ↓↑
 安東将軍?
ー↓↑ー
 壹與の
 女王継承と
 継承後・・・
 倭の五王(互応)・・・
 150年後
 ↓↑ ↓↑
 413年 義熙九年
     倭王讃の朝貢・・・
 ↓↑ ↓↑
 421年 安東将軍?(倭讃)
 438年 安東将軍 (倭珍)
 443年 安東将軍 (倭済)
 451年 安東大将軍(倭済)
 462年 安東将軍 (倭興)
 478年 安東大将軍(倭武)
 ↓↑・・・雄略天皇
     (大泊瀬幼武・大泊瀬幼武尊)?
      大=一+人=ハジメのヒト
      泊=氵+白=サンスイのシロ
      瀬=氵+束+頁=サンスイを束ねるページ
      幼=幺+力=チイサイチカラ・揚力?
      武=一+弋+止=ハジメの
        弋=ヨク・イキ
          いぐるみ・ とる
          くろい・うかぶ
          獲物をからめとる・弋猟
          くろい・黒色
          うかぶ・水にうかび泳ぐ
     (大長谷若建命・大長谷王)?
      大=一+人=ハジメのヒト
      長=丨+≡+𧘇
       =镸=丨+≡+一+厶
       =兏=厂+卜+兀
      谷=八+𠆢+口
      若=艹+ナ+口
      建=廴+聿
        廴⇔㇋+乀
          及=㇋+人
          乃=㇋+丿
            丆+丂=丆+𠃑
            丆+ㄅ
            丂=一(気)に
              礙(さまた)げらる
              巧(たくみ)
              曲刀⇔鎌
              刳(えぐ)りとる曲刀
              彫刻刀・鑿(のみ)
          乃蛮=ナイマン
          10~13世紀
          アルタイ山脈と
          その西方の
          イルティシ川流域で活躍した
          トルコ系の遊牧民族
          1204年(元久元年)
          ジンギスカン(成吉思汗)に敗北
          西方に移動して復興
        聿(イツ・イチ)
        聿=肀+二=筆(ふで)
          肀+一+一
 ↓↑  ↓↑
 479年 南斉建国
     鎮東大将軍(倭武)
 502年 梁建国
     征東将軍 (倭武)
   (征東大将軍?)
ーーーーー
 ・・・???・・・
 高麗(918年~1392年)
 王建(太祖)が建国
 李氏朝鮮建国の
 1392年まで続いた国家
 首都は
 開京
 ↓↑
 新羅の朝鮮半島統一
 8世紀末~9世紀
 王位継承戦争
 農民反乱
 真聖女王・・・真聖「女王」
        ?~897年12月31日
        新羅下代(676年~ 935年)の唯一の女王
        三国時代の3番目、最後の女王
        在位887年~897年
        平安時代の
        宇多天皇と同時代
        姓は金
        諱は曼または垣
        恵文王の娘
 ↓↑      ↓↑
        広開土王碑
       「百殘 新羅
        舊是屬民・・・新羅・百残は(高句麗の)属民
        由來朝貢
        而
        倭
        以
        耒卯年・・・辛卯年(391年)・・・391年
        來渡海
        破
        百殘 加羅 新羅
        以為臣民」・・・倭の臣民となした
        碑文=甲寅年九月廿九日乙酉
           西暦414年10月28日
       「好太王」の業績を称え
        子の
       「長寿王」が設置


       『宋書(倭の五王)』
       「讃、珍、済、興、武」
        倭の王(天皇)
       「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
        六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」
       「安東大将軍」
 ↓↑
 時代
 地方豪族たちが
 新羅を分裂させた
 892年
 半島西南部で
 甄萱
 が後百済建国
 901年
 弓裔
 が後高句麗(泰封と改称)建国
 以降を後三国時代
 ↓↑
 後高句麗
 の将軍
 王建は
 後百済との戦争で何度も勝利
 弓裔
 に命を狙われた
 弓裔は
 失政を重ね、民衆不満
 自分を
 「弥勒菩薩」
 ↓↑・・・弥=弓+尓=彌=弓+爾=镸+爾
        弓+丿+乛+小
      彌=弓+爾
        弓+一+八+冂+丨+㸚
        弓+一+八+冂+丨+爻+爻
        弓+一+八+冂+丨+爻+㐅+乂
        弓+一+八+冂+丨+㐅+乂+爻
        弓+一+八+冂+丨+㐅+乂+㐅+乂
        ビ
        ミ
        や
        あまねし
        いや
        いよいよ
        つくろう
        ひさしい
        わたる
        ひさしい・とおい
        わたる・月日を経る・時間が経過する
        広く行きわたる
        つくろう・おぎなう
        ほころびを縫ってつくろう
        いよいよ・ますます
        いや・いよいよ・さらに
        や・弥生(やよい)
 ↓↑   勒=革+力
       ロク
       おさえる(抑える)
       おさめる(治める)
       きざむ(刻む)
       くつわ(轡)
       ほる(彫る)
       と呼ばせて
       超能力があるとし
       反対派を粛清
 ↓↑
 918年6月
 騎將の
 洪儒
 裴玄慶
 申崇謙
 卜智謙
 らが
 王建を王に推戴
 王建は断るが
 妻の
 柳氏が鎧を着させ、督励
 弓裔は山中に逃亡隠れ
 麦と穂を盗んで食べる途中
 民たちによって殺害された
 建国の地
 鉄山(円山)は
 高句麗の旧領内なので
 国号を「高麗」
 年号を「天授」と改元
 ↓↑
 その後
 高麗と後百済の戦争が一進一退
 935年
 後百済の王の
 甄萱
 が四男の
 甄金剛に王位を継がせようし
 長男の
 甄神剣
 が反乱
 父を廃位し
 後百済王となった
 甄神剣は
 甄萱を寺院に監禁
 935年6月
 脱出し、高麗に亡命
 王建は
 甄萱を
 尚父と呼んで厚遇
 11月
 新羅の
 敬順王が君臣を挙げて
 高麗に帰順
 新羅は高麗に吸収合併
 後百済は弱体化し
 936年
 高麗の攻撃で滅亡し
 高麗によって統一された・・・
ーーーーー
 ・・・
 1145年・・・・・
 朝鮮半島史書
 「三国史記」が完成
 1145年
 干支 乙丑
 日本
 天養二年、久安元年
  (天養元年十二月七日
  ~
  久安元年十一月十六日)
 中国
 南宋 紹興十五年
 金  皇統五年
 西夏 人慶二年
 ↓↑
 1146年
 平清盛、安芸守
 ↓↑
 1147年5月9日(久安三年四月八日)
 誕生
 源頼朝、鎌倉幕府初代征夷大将軍(~1199年)
 ↓↑
 『東京夢華録』(とうけいむかろく)
 南宋の
 孟元老が撰した回想録・10巻
 北宋時代の
 首都・開封の繁栄が詳細に誌されている
 「東京=開封」
 1127年
 北宋が
 金に滅ぼされる
 宋人が江南へ
 逃亡した
 孟元老が
 1147年に旧都開封を
 回想して誌した
 のが『東京夢華録』
 ↓↑
 隋・唐代
 首都・長安
 人口100万人
 条坊ごとに
 周囲を牆壁に囲まれ
 条坊間の夜間通行が制限された
 対して
 北宋代
 開封は通行制限はなく
 瓦子(がし)と呼ばれる盛り場で
 昼夜、飲食店・商店・劇場が開かれ
 大道芸が行われ
 多くの住民が
 都市生活を謳歌
 『東京夢華録』は
 北宋代の首都
 開封の市民生活を描いた風俗志
ーーーーー
 ・・・
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仮(かり・假・𠖊・𠭊)の世界・・・諦?啼?帝?・・・蝃?醊?餟?綴?

2019-11-22 21:35:25 | 古事記字源
 弐拾弐=念+貳・・・2+0+1+9+1+1+2+2=18・拾捌


 ・・・歴史上の「人物名」の「ヘン」・・・
 ・・・・・・・「数=かず=和」の「ヘン」・・・
 ・・・「滅び行く者達の興亡」・・・
 ↓↑
 334年
 干支=甲午
 日本
 仁徳天皇二十二年・・・弐拾弐=念+貳
 ↓↑
 中国
 東晋=咸和九年・・・咸(あまねく)和(やわらぐ)
 後趙=延熙元年・・・延(のばす)熙(キ)=𦣞+巳+灬=喜ぶ・広げる
                      𦣝+巳+灬=明らかにする
           𦣝=乳房
           巳=抱きつく赤子
           巸(イ)=赤子が乳を飲んで喜び穏やかになる
                赤子に乳を飲ませて養育する意
 成漢=玉衡二十四年・・・玉(たま)を衡(はかる)
 前涼=建興二十二年・・・建(たける)を興(おこす)
     (西晋元号を継続使用)
 代=烈皇帝(拓跋翳槐)六年
 ↓↑
 朝鮮
 高句麗=故国原王  四年・・・故国は原の王
 百済 =比流王 三十一年・・・流れを比べる王
 新羅 =訖解王 二十五年・・・訖(言を乞う)を解する王
 ↓↑
 後趙の皇帝石弘が廃位の後殺害される
 成漢の初代皇帝李雄が崩御、李班が即位
 成漢の皇族李期が李班を殺害して皇帝に即位
 ↓↑
 死亡
 陶侃、中国の西晋、東晋の武将(259年~334年)
 石弘、後趙の第2代皇帝。(313年~334年)
 ↓↑
   石 弘(せき こう)・・・石(いし・いわ)=丆(面)+口(〇)
               弘(ひろし・ひろい)=弓+厶
               弘文天皇?・・・大友皇子=伊賀皇子
              妃=十市皇女
              妃=藤原耳面刀自(藤原鎌足女)
                (耳面刀自=みみもとじ
                      みみものとじ)
              娘=壱志姫王(いちしひめのおおきみ)
              息子=葛野王~淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船)
              母=伊賀采女宅子娘
             (いがのうねめ・やかこのいらつめ)
              姉妹=御名部皇女(みなべのひめみこ)
                 母は
                 蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘
                 同母妹は阿陪皇女(元明天皇)
                 高市皇子の正妃
 ↓↑ ↓↑            長屋王の母       
   五胡十六国時代の
   後趙の第2代皇帝
   石勒・・・274年~333年8月
        字は世龍
        上党郡武郷県(山西省晋中市楡社県北西)
        出身の
        羯族・・・羯(ケツ・去勢した羊)
       (匈奴羌渠種の子孫
        羯人・・・羯諦羯諦 波羅羯諦?
             羯啼羯啼 波羅羯啼?
             羯帝羯帝 波羅羯帝?
             揭諦揭諦 波羅揭諦?
             故説
             般若波羅蜜多呪
             即説
             呪曰
             羯帝羯帝 波羅羯帝?
             波羅僧 羯帝
             菩提僧莎訶
             般若心経
        「その先は匈奴の別部
         分散して上党武郷の
         羯室に住んだので羯胡と号した」
        後趙が滅んだ350年頃
        漢人の
        冉閔の大虐殺で
        歴史から姿を消した)
        元の名を㔨
        幼名は㔨勒
        祖父は耶弈于
        父は周曷朱(乞翼加)・・・乞食に翼を加える
                     古事記に與句を加える?
        奴隷の身分から
        中原を統べる皇帝(鹿)まで昇った
                 ・・・滋賀・近江?
        中国史上唯一の人物
   ・・・石(いし)の・・・石=いし=医師・意思・意志・遺志
                 ウズベキスタン(Oʻzbekiston)
         ウズベキスタン=宇受別記州譚???
                 宇受部月州譚・・・宇受女=猿女
                 月即別・月祖伯
                 烏茲別克斯坦
                 烏茲別克斯坦
                 烏茲別克・烏茲別・克斯坦
                 石国(タシュケント・Toshkent)
                 石州=イシス・磐国・岩国
                 磐井の乱・岩居の伽藍
                 石猿=孫悟空=斉天大聖
                 明の民間説話
                『西遊記』
                 冥界を司る
                 地藏王菩薩が
                 孫悟空(斉天大聖)
                 地獄から
                 天の玉皇大帝に
                 上奏する
                 花果山・水簾洞・美猴王
                 觔斗雲・如意金箍棒
 ↓↑ ↓↑ 勒(ロク)=革+力⇔弥勒菩薩
                 地蔵菩薩=クシティガルバ
                 地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道
                 人道・天道に現れて衆生を救う菩薩
                 六道能化
              廿+中+十+力
              ロク
              おさえる
              おさめる
              きざむ
              くつわ
              ほる
              抑えつける・強制する
              まとめる・統率する
              きざむ・ほる
 ↓↑ ↓↑         くつわ・おもがい
   の次子
   字は大雅
   父は石勒
   母は程夫人
   石勒
   の死後に帝位に即いた
   実態は
   石虎(叔父)
   の傀儡
   翌年に殺害された
 ↓↑
   313年
   石勒
   の次子として生まれた
   322年2月
   石興
   が世子だったが早世し
   石弘が世子に立てられ
   中領軍の統率
   衛将軍に任じられ
   開府辟召
  (自らの幕府を開く事)を認められた
   326年10月
   石勒は鄴の宮殿を建て
   石弘に鄴の統治を任せようと考えたが
   鄴は
   中山王・・・中山=チュウサン
           =なかやま
           =那珂の讃(撰・宋・纂・簒)
         中大兄皇子・・・那賀大江(覆え)?   
   石虎(石勒の従子)
      ・・・従兄弟・従兄・伊都子・伊斗子?
    ・・・石虎=石(岩・磐)の
       虎(寅・斗羅・取等)・・・大海人皇子?
   が守っており
   鄴(河南省の都)
    ・・・鄴=業+阝=ギョウ
         业+䒑+未+阝
         业+丷+一+未+阝
         业+䒑+一+木+阝
         业+丷+一+一+木+阝
   を譲る考えは無かった
   石勒は
   程遐(石弘の母の兄)・・・?
    ・・・程
       遐=辶+叚=返
         叚=異体字「假・𠖊・𠭊・仮」
           簡体字「假」⇔イ+段=仮
                   階段⇔階反
                    段=反
         叚=ケ・カ=仮
           かりる・かす
           たとえれば
           もし~であれば
           if~as that~
 ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑
       瑕疵=玉+𠭊+疒+此
          玉+𠭊+疒+止+匕
          カ
          あやまち
          きず・欠点・かけめ
          過失・つみ・とが
          はるか・遠い
          瑕疵の玉 =和氏の璧=連城の璧
         (かしのタマ・かしのヘキ)
         『韓非子(和氏篇十三)』
         『史記』
 ↓↑     ↓↑  ↓↑ ↓↑
       蝦夷=虫+𠭊+夷
          虫+𠭊+大+弓
          虫+𠭊+大+弓
        中+厶+𠭊+一+人+弓
        中+厶+尸+二+ヨ+又+一+人+弓
        中+厶+厂+三+コ+又+一+人+弓
        中+厶+反+一+人+弓
 ↓↑     ↓↑
       霞=雨+𠭊
           𠭊=叚(口+ㅑ+コ+又)
           叚=口+ㅑ+コ+又
           𠭊=厂+≡+ヨ+又
       鍛=金+段・・・鍛冶
       鍜=金+𠭊・・・錏鍜
       鍜(カ・ゲ・しころ)≠鍛(タン・きたえる)
      錏鍜(アカ)=冑・兜の
             左右や後方に垂らし
             首筋を守る防具
 ↓↑  ↓↑
   と密談し
   石虎の家室を鄴から移らせた
   石虎は
   程遐を怨み
   程遐の家を夜襲させた
   石弘は鄴の鎮守を命じられ
   禁兵1万人を配され
   車騎が統べていた54の陣営全てを任せられた
   驍騎将軍
   領門臣祭酒王陽が
   六夷(胡族)を統率し
   石弘を補佐
   330年2月
   石勒が趙天王を称し・・・天王=天皇?
   石弘は天王立太子
   9月
   石勒が帝位に即く
   石弘は立皇太子
   石勒は側近の
   徐光へ
  「大雅(石弘)は穏やかな性格で
   将家の子でないかのようだ」
   と言うと
   徐光は
  「漢祖(劉邦)は馬上で天下を取り
   孝文(劉恒)は静守した
   聖人の後
   必ずや世に粗暴な者は不要となる
   これこそ
   天の道なのです」
   と答えた
   徐光は再び
  「皇太子は仁孝温恭ですが
   中山王(石虎)は雄暴多詐で
   もし一旦陛下に不慮のことがあれば
   社稷の危機を招くと憂慮しております
   中山の威権を少しずつ奪い
   太子を
   早く朝政に参画させられますように」
   と進言すると
   石勒は内心同意したが従わなかった
   これ以降も
   徐光・程遐は
   石勒へ
   強大な権力を有する
   石虎を除き
   石弘の地位安定を幾度も進言したが
   石勒は聞き入れなかった
   332年
   石勒は石弘に
   尚書の奏事の決済を命じると
   中常侍
   厳震にはこれを監督させ
   その可否を確認させた
   厳震は実質的に
   征伐・刑断の大事を預かるようになり
   威権は宰相をも凌ぐ程となっ
   石虎は一時の権勢を失って不満を募らせた
   ・・・「天武天皇(大海人皇子)」・・・?
   333年5月
   石勒は病に倒れる
   石虎・石弘・厳震
   を呼び出して禁中に控えさせた
   石虎は石勒の命と偽って
   石弘・厳震、内外の群臣や親戚を退け
   誰にも石勒の病状を伏せ
  「大雅(石弘の字)」
      石弘=弘文(大友皇子)?
    雅=鴉=烏=卯(兎・鵜=鸕)・・・?
   はまだ幼いので
   恐らく朕の志を継ぐにはまだ早い
   中山(石虎)以下
   各々の群臣は
   朕の命に違う事の無きよう努めよ
   大雅(石弘の字)は
   斌(石斌)
   と共に協力し
   司馬氏の内訌を汝らの戒めとし
   穏やかに慎み深く振舞うのだ
   中山王は深く
   周霍(周公旦と霍光)を三思せよ
   これに乗じる事の無い様に」
   と遺命を告げた・・・
   7月
   石勒が崩御
   石虎は
   石弘の身柄を抑え、朝廷に臨び
   程遐・徐光の逮捕を
   廷尉に下し
   子の
   石邃を呼び寄せ
   兵を与えて宿衛に侵入させた
   文武百官はこれに服従
   石弘は大いに恐れ
   石虎へ位を譲ろうとしたが
   石虎は
  「君(君主)が薨じたならば
   世子が立つものです
   これは礼の常であり
   臣はどうしてこれを乱せましょうか」
   と応じなかった
   石弘
   は涙を流して頑なに位を譲ろうとしたが
   石虎は怒って
  「もしその任に堪えられなかったならば
   自ずと天下で大議が起こりましょう
   どうして
   今その論を預かるに足りましょうか」
   と言い放ち
   石弘
   は強制的に皇帝に即位させられた
   延熙と改元
   嫡母の
   劉皇后は皇太后に立てられ
   文武百官は位を一等進められ
   程遐・徐光
   は誅殺された
   石勒は
   明帝と諡し、廟号を高祖とした
 ↓↑ ↓↑
   後趙の将軍
   石聡
   譙郡太守
   彭彪
   は各々
   東晋へ使者を派遣し、帰順を要請
   東晋朝廷は督護
   喬球に将兵を与えて救援させたが
   到着する前に
   石虎は兵を派遣して石聡らを誅殺した
   8月
   石弘は
   石虎を
   丞相・魏王・大単于として九錫を下賜
   魏郡を始め13郡を封国とし
   百揆を全て取り仕切るよう命じた
   石虎
   は形式的に辞退したがその命を受けた
   領内の死刑以下に大赦
   石虎の妻
   鄭桜桃を魏王后
   子の
   石邃を
   魏太子に立てた
   石邃を
   使持節・侍中・大都督
   中外諸軍事・大将軍・録尚書事に任じ
   石宣を
   使持節・車騎大将軍・冀州刺史に任じて
   河間王に封じ
   石韜を
   前鋒将軍・司隷校尉に任じて
   楽安王に封じ
   石遵を
   斉王に封じ
   石鑑を
   代王に封じ
   石苞を
   楽平王に封じ
   太原王
   石斌を
   章武王に改封した
 ↓↑ ↓↑
   石勒の文武旧臣は
   左右丞相府の閑職に追いやられ
   代わって
   石虎の府に仕えていた側近が重職を独占
   石虎は
   太子宮を
   崇訓宮
   と改称
   劉皇太后以下をみな移住させた
   鎮軍将軍
   夔安を
   左僕射に
   尚書
   郭殷を
   右僕射に任じた
 ↓↑ ↓↑
   劉皇太后は
   彭城王
   石堪と共に密かに
   石虎討伐を目論み
   石堪が
   兗州に出奔して
   南陽王
   石恢を盟主として担ぎ
   劉皇太后が詔をもって
   各地の諸将を集めて
   石虎を討伐しようとした
   9月
   石堪は
   襄国を出
   軽騎兵を率いて
   兗州を強襲したが
   落とす事が出来なく
   南へ逃走して
   譙城に入った
   石虎は
   将軍
   郭太
   らを派遣して追撃を命じた
   郭太らは
   石堪を
   城父において捕らえ
   襄国へ送還
   石虎はこれを
   火炙りで処刑
   劉皇太后を誅殺
   石恢を
   襄国に召還
   石弘の母
   程夫人を皇太后に立てた
   10月
   関中を統治の
   石生
   洛陽を統治の
   石朗
   は各々
   石虎討伐の兵を挙げ
   石生は
   秦州刺史を自称
   東晋に使者を派遣して帰順を請うた
   氐族酋長
   蒲洪は
   この混乱に乗じて
   後趙から離反し
   雍州刺史・北平将軍を自称し
   西進して
   前涼君主
   張駿に帰順した
   石虎は子の
   石邃に襄国の守備を任せ
   自ら歩兵騎兵7万を率いて出撃
   金墉(洛陽城の一角)へ進んで
   石朗軍を潰滅させ
   石朗は生け捕られ
   足を切断されてから
   殺された
   石虎は進軍し
   長安に到達
   子の
   石挺を
   前鋒大都督に任じた
   石生は将軍
   郭権に
   鮮卑の渉璝部の兵2万を与え
   石虎を迎え撃たせ
   石生自らも大軍を統率して後続し
   蒲坂まで進んだ
   郭権は
   潼関において
   石挺軍と激突し大勝
   石挺
   丞相左長史
   劉隗らは戦死
   石虎は
   澠池まで軍を退いた
   郭権配下の鮮卑は密かに
   石虎と通じ
   石生を裏切って攻撃に転じた
   石生は蒲坂に軍を留めており
   石挺が戦死した事を知らなかったので
   これに恐れ慄き
   単騎で長安へ逃走
   郭権は離散した兵3千を再び集め
   越騎校尉
   石広と
   渭汭において対峙
   石生は長安からも撤退し
   鶏頭山(鄠県の東にある)
   へと潜伏し
   将軍
   蒋英に長安を守らせた
   石虎は
   石生が逃亡したと知ると
   軍を進めて入関
   長安へ侵攻
   10日余りで陥落させ
   蒋英らを処断
   石生の部下は
   鶏頭山で
   石生を殺害し
   石虎に降伏
   郭権は
   隴西へと逃亡
   石虎は
   諸将を分けて
   汧・隴に駐屯させ
   雍州・秦州の
   漢人胡人10万戸余りを
   関東に移住させた
   将軍
   麻秋を派遣し
   蒲洪討伐を命じると
   蒲洪は2万戸を伴って
   再び石虎へ降伏
   石虎はこれを許し
   光烈将軍・護氐校尉に任じた
   秦州・雍州の民と氐族
   羌族の10万戸余りを関東へ移住させ
   蒲洪を
   龍驤将軍・流民都督に任じ
   枋頭(河南省鶴壁市浚県)に駐屯
   羌族酋長の
   姚弋仲を
   奮武将軍・西羌大都督に任じ
   兵数万を率いさせて
   清河の
   灄頭
   に移らせた
 ↓↑ ↓↑
   石虎は
   襄国に帰還し
   大赦を下した
   石弘には自らに
   魏台の建設を命じるよう促し
   魏が漢を輔けた故事に倣った・・・
   12月
   郭権は
   上邽に拠ると
   東晋へ使者を派遣し帰順を請うた
   京兆・新平・扶風・馮翊・北地
   はこれに呼応した
   334年1月
   延熙と改元
   鎮西将軍
   石広は
   郭権討伐に向かったが返り討ちに遭った
   3月
   石虎は将軍
   郭敖
   章武王
   石斌
   に歩兵騎兵4万を与え
   郭権討伐を命じ
   郭敖らは出撃
   華陰まで進んだ
   4月
   上邽の豪族は
   郭権を殺害し
   後趙に降伏
   石虎は
   秦州の3万戸余りを
   青州・并州の諸郡に移住させた
   仇池の南氐
   楊毅
   は後趙へ人質を送り、修好を求めた
   長安出身の
   陳良夫は
   黒羌へ逃走
   北羌王
   薄句大らと結託し
   北地・馮翊を侵犯し
   石斌・郭敖と対峙
   楽安王
   石韜
   らは騎兵を率いて
   薄句大の背後を突き
   石斌らと挟撃して破り
   薄句大を
   馬蘭山へ敗走させた
   郭敖は勝ちに乗じて深追いしたが
   反撃に遭って大敗
   7・8割の兵を失ったので
   石斌らは軍を収めて
   三城に帰還
   石虎は使者を派遣して
   郭敖を誅殺
   秦王
   石宏が怨み言を言ったとして
   石虎は彼を幽閉
   10月
   石弘は自ら
   璽綬(天子の印と組紐)を携えて
   魏宮を詣でると
   石虎へ帝位を譲る意を伝えた
   石虎は
  「帝王の大業というものは
   天下が自ずと議をなすものです
   どうしてこれを自ら論じましょうか」
   と拒絶
   石弘は涙を流し宮殿に戻り
   母の
   程皇太后へ
  「先帝の後裔は真に無くなりましょう」
   と語った
   尚書は
  「魏台(石虎)が
   唐・虞の禅譲の故事に依る事を求めます」
   と奏じたが
   石虎は
  「弘は暗愚である
   喪中にありながら
   このような礼なき振る舞いを行うとは
   万国の君となるべき存在ではない
   これは廃するべきであり
   どうして禅譲など受けようか」
   と述べた。
   11月
   石虎は
   丞相
   郭殷に節を持たせて入宮させ
   石弘を廃して
   海陽王に封じた
   石弘は群臣へ向けて
  「庸昧(愚鈍)であったため
   大統を纂承するに堪えられなかった
   群臣を顧りみれば
   慚愧するばかりである
   これもまた天命が去ったと言う事であろう
   これ以上何を言おうか」
  と言い残した
  石弘は
  程皇太后
  秦王
  石宏
  南陽王
  石恢
  と共に幽閉され
  殺害された
 ↓↑ ↓↑
 宗室
 父
 石勒
 母
 程氏
 兄
 石興(最初の世子、早世)
 弟
 石宏(秦王)
 石恢(南陽王)
 石斌(石虎の子、石勒の養子となる、太原王)
 石堪(旧姓は田、石勒の養子となる、彭城王)
 石生(石勒の養子となる、河東王)
 ↓↑ ↓↑
 楊難敵、前仇池の第2代君主
 李雄、成漢の初代皇帝(274年~)
 李班、成漢の第2代君主(288年~)
 ↓↑ ↓↑
 338年
 干支=戊戌
 日本 :
 仁徳天皇二十六年
 皇紀998年・・・339年→999年
 中国
 東晋=咸康四年
 後趙=建武四年
 成漢=玉恒四年、漢興元年
 前涼=建興二十六年
   (西晋の元号を継続使用)
 前燕=太祖文明帝(慕容皝)五年
 代 =建国元年
 朝鮮
 高句麗=故国原王 八年
 百済 =比流王三十五年
 新羅 =訖解王二十九年
ーーーーー
 卑弥呼(生年不明~242年~248年)
 臺與(とよ・いよ・生没年不詳)
 『三国志 (魏書東夷傳倭人之条)』
 卑弥呼の宗女
 卑弥呼の跡を十三歳で継いだ
 『魏志倭人伝』・・・「壹與」
 『梁書倭国伝』・・・「臺與
 『北史倭国伝』・・・「臺與」
 張政が倭に渡った
 正始八年(247年)
 ~
 卑弥呼は
 『梁書』の記録
 正始十年(249年)・・・四月に嘉平改元
 までに逝去・・・
 ↓↑ ↓↑
 泰始元年(265年)十二月
 曹操の魏
 司馬懿の晋
 へ禅譲革命
 ↓↑ ↓↑
 壹與の女王継承と継承後・・・
 倭の五王(互応)・・・
 150年後
 ↓↑ ↓↑
 413年 義熙九年
     倭王讃の朝貢・・・
 ↓↑   ↓↑
 421年 安東将軍?(倭讃)
 438年 安東将軍 (倭珍)
 443年 安東将軍 (倭済)
 451年 安東大将軍(倭済)
 462年 安東将軍 (倭興)
 478年 安東大将軍(倭武)・・・雄略天皇
             (大泊瀬幼武・大泊瀬幼武尊)?
             (大長谷若建命・大長谷王)?
 479年 南斉建国
     鎮東大将軍(倭武)
 502年 梁建国
     征東将軍 (倭武)
   (征東大将軍?)
ーーーーー
 天豊姫命説
 尾張氏、海部氏の祖
 彦火明、七世孫
 建諸隅命の子
 天豊姫を
 臺與とする
 二世代前に
 日女命(宇那比姫・卑弥呼?)
 ↓↑ ↓↑
 豊玉姫命説
 梁書倭国伝・北史倭国伝
 『正始年間(240~249年)
  卑弥呼死亡
  男王が立つが国中が服さず
  更に互いに誅殺しあう
  卑弥呼の宗女である
  台与が立ち王となる
  その後
  また男王が立つ』
 豊玉姫命
 天照大御神の
 曾孫の
 山幸彦と結婚
  鸕鶿草-葺不合尊
 (うがやふきあえずのみこと)
 ↓↑ ↓↑
  天津-日高-日子-波限佐建
       鵜草-葺不合-命
 (あまつひこ ひこ なぎさたけ
       うがやふきあえず の みこと)
 ↓↑ ↓↑
  彦- 波瀲-武-鸕鶿草-葺不合
 (ひこなぎさたけうがやふきあえず)
 ↓↑ ↓↑
  盧茲草葺不合尊
 (うがやふきあえず)
 を出産した後、山幸彦のもとを去っている。
 ↓↑ ↓↑
 豊鍬入姫命説
 崇神天皇の皇女
 豊鍬入姫命
 天皇の命で
 天照大神を祭った
 初代
 斎宮が臺與
 卑弥呼を
 倭迹迹日百襲媛命・・・百済を襲った女の爰の命?
 (ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)
 卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=箸墓古墳
 ↓↑ ↓↑
 豊姫説
 神功皇后の妹
 豊姫
 肥前国風土記の神名帳頭注
 「人皇卅代欽明天皇の
  廾五年(564年)甲申
  肥前國
  佐嘉郡
  與止姫神鎭座
  一名豐姫」
 與止日女神社の祭神
 ↓↑ ↓↑
 「卑弥呼+台与」説
 「二人の天照大神」説
 「天の岩戸伝説の
  前後の
  天照大神(アマテラス)は別人物
  卑弥呼と台与である」
 卑弥呼没年前後1月の
 皆既日食
 「岩戸隠れ」を説明
 ↓↑ ↓↑
 「二人の神功皇后」説
 『日本書紀』は
 神功皇后の在位期間を
 卑弥呼
 と
 台与
 の両方を含む年代に設定
 卑弥呼+台与=神功皇后
ーーーーー
 ・・・ボクに「記化」されたモノの「史料の資料」は
 以上も過去も「原文」の殆どは
 ・・・by 「ウィキペディア(Wikipedia)」・・・
 多分、これからもデス・・・仮の説で妄想が30%以上・・・
 ↓↑ ↓↑
 「日本書紀」
  大友即位の事実を抹殺
  壬申の乱で死んだ皇族は
  大友皇子
  と
  山部王の二人だけ
 ↓↑ ↓↑
 『扶桑略記』
 「天智天皇十年十月
  大友太政大臣が皇太子に立った
  十二月三日
  天皇が崩じ
  同五日
  大友皇太子が帝位についた」
 ↓↑ ↓↑
 天智天皇の死後の
 大友皇子即位説
 皇后
 倭姫王 即位
 倭姫王称制説
 ↓↑ ↓↑
 𠭊. 譚長說:叚如此。
 清代段玉裁《說文解字注》. 借也。
 人部假云非眞也。此叚云借也。
 然則凡云假借當作此字。
 古多借瑕爲叚。
 晉士文伯名匈字伯瑕。
 楚陽匈、鄭駟乞皆字子瑕。
 古名字相應。則瑕卽叚也。
 禮記公肩假、古今人表作公肩瑕・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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ジィ(G) =字彙・ソォ(SO)=蘇緖・ミ(MI)=診・ア(A)=蛙・雅・鴉

2019-11-21 22:19:06 | 古事記字源
 「GSOMIA(ジーソミア)」
    ・・・爺、初診鴉・・・?
  ↓↑
 「GSOMIA」の「END」・・・?
     11・・・十一・拾壱・足壹・Ⅺ
 21⇒22⇒23・・・弐拾参・字を拾う纂
 ↓↑       念 簒・兩 足 張
              貳 王 産
 ↓↑  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↑ ↑
     邇 足 讃=倭国の五王
 ↓↑   ↓↑   讃⇒珍⇒済⇒興⇒武・・・?
         讃岐・讃良
         珍=王+㐱
          ・・・㐱=シン・毛髪が多
           王+人+彡
           ・・・彡=サン・飾り・模様
                髪の毛が長い
              彡=爪痕・刷毛跡
                引っ掻き痕
           王+𠆢+彡
           チン
           めずらしい
           めったにない・珍事
           たやすく手に入れられない・稀
           貴重な・思いがけない
           大事なもの・貴重なもの
           たから・珍宝
           きちんとする
           めずらしがる
           大切にする

 ↓↑   ↓         ↓↑
 東晋317年~420年
  南朝の宋(420年~479年)朝貢記録
     宋 の史書『宋 書』
        夷蛮伝倭国の条(宋書倭国伝)
        永初二年(421年)
        宋の武帝は詔し
        倭讃が万里から貢物を修めて
        除授を賜う(爵号)
        元嘉二年(425年)
        讃は
        司馬曹達を宋に遣わし
        文帝に上表文を奉り
        方物(産物)を献じた
        讃が死んだ後
        弟の
        珍が王に立った

 ↓↑  ↓ ↓↓  ↑ ↑
 421年 安東将軍?(倭讃)
 438年 安東将軍 (倭珍)
 443年 安東将軍 (倭済)
 451年 安東大将軍(倭済)
 462年 安東将軍 (倭興)
 478年 安東大将軍(倭武)・・・雄略天皇
               (大泊瀬幼武・大泊瀬幼武尊)?
               (大長谷若建命・大長谷王)?
 479年 南斉建国
     鎮東大将軍(倭武)
 502年 梁建国
     征東将軍 (倭武)
   (征東大将軍?)
 ↓↑   ↓   ↓
 527年 丁未 継体天皇の崩御
 ↓↑   ↓   ↓
 ???年    安閑天皇 在位531年2月7日~535年12月17日
        勾大兄皇子(諱)
        広国押武金日天皇(日本書紀)
        広国押建金日命(古事記)
        ↓↑
        宣化天皇 在位536年1月 ?~539年3月15日?
        檜隈高田皇子(諱)
        武小広国押盾天皇(日本書紀)
        建小広国押楯命(古事記)
 ↓↑   ↓   ↓
 531年 辛亥 継体・欽明朝の内乱
        欽明天皇の即位
 535年 乙卯 安閑天皇の崩御
 ↓↑   ↓   ↓
 538年 戊午 百済から仏教伝来「元興寺縁起」?
 552年 壬申 百済から仏教伝来?
     欽明天皇十三年(壬申)十月
     百済の聖明王(聖王)が日本に使者
 ↓↑  ↓ ↓
     日本書紀
 ↓↑  ↓ ↓
     「呉国=中国南東部地域=南朝の宋」
      (応神天皇紀
       三十七年二月条
      「遣
       阿知使主
       都加使主
       於
       呉
       令
       求
       縫工女」
       四十一年二月条
      「阿知使主
       等
       自
       呉
       至
       筑紫」
       仁徳天皇紀
       五十八年十月条
      「呉国
       高麗国
       並
       朝貢」
       雄略天皇紀五年条
      「呉国
       遣使
       貢献」
          八年二月条
      「遣
       身狭
       村主
       青檜隈民
       使
       博徳
       使
       於呉国」
          十年九月条
      「身狭
       村主
       青等
       将
       呉所
       献
       二鵝」)
      「倭 隋(ワ ズイ)
       5世紀前半の
       倭王「珍」の臣」
      「司馬曹達(シバソウタツ)
       倭王「讃」の臣」

 ↓↑  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
     南斉の史書『南斉書』
     梁 の史書『梁 書』
 ↓↑  ↓ ↓
    『梁塵秘抄』
     平安時代末期の
     歌謡集
     今様歌謡の集成
     編者は
     後白河法皇
     治承年間(1180年前後)の作
     ↓↑
    『梁塵秘抄』
     1911年(明治44年)・・・19+11
     佐佐木信綱
     らによって
     巻第二
     巻第一
     口伝集巻第一の断片
     口伝集の巻第十一~第十四・・・壱拾壱~壱拾肆
     が発見
     佐佐木の校訂で
     明治書院と岩波書店から刊行
    『梁塵秘抄』
     の中の歌が一般に知られたのは
     比較的新しい・・・
  ・・・「佐佐木信綱」・・・
     なんか、胡散臭い・・・人物カナ?

 ↓↑  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
    『梁塵秘抄』
  ・・・梁塵=猟人・領地理・漁訊?
     梁=氵+刅+木・・・樑
       氵+刃+丶+木
       氵+刀+丶+丶+木
       リョウ
       うつばり
       はし=橋
       はり
       やな
       板などをかけ渡した橋
       屋根を支える横木
       やな
       川の瀬で水をせきとめ
       魚をとるしかけ
     塵=鹿+土
       鹿+十+一・・・鹿+壱拾壱(壹・臺)
              壱⇔売・賣⇔比賣・比売?
 ↓↑   ↓
     鹿苑寺(ろくおんじ)
 ↓↑       ↓ ↓ ↓
      ・・・録音事・六音字?・・・六音音階
         ・・・二六詩
            二六音字から成る
            「どどいつ(都都逸)」の異称
     京都市北区にある
     臨済宗相国寺派の寺
     建物の内外に金箔を貼った
     3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)
     舎利殿を含めた寺院全体は
     金閣寺(きんかくじ)
     相国寺の
     山外塔頭寺院
     寺名は開基(創設者)
 ↓↑   ↓  ↓ ↓
     塵=鹿+土・・・土=十+一=壱+拾+壱
       王の土地・・・鹿児島=王の児の領土?
      =芥・塵芥
       ジン・・・訊(たずねる)・塵灰
            盡=⺻+灬+皿
              肀+一+灬+皿
              ジン
              つかす
              つきる
              つくす
              ことごとく
              すがれる
              すべて出しきる
                 費やす、無くなる
              おわる
              すべて・みな・全部
            盡=尽=尽くす=尽くし
             =つくし=筑紫
 ↓↑  ↓   ↓      ↓
       ちり
       ごみ
       塵芥・・・埃及(エジプト)=砂漠・捌く
      「地理・知里・地利」
       が及ぶ
 ↓↑  ↓ ↓ ↓
     鹿=广+コ+11+比
       广+コ+11+上+匕
       广+コ+11+ト+一+匕
       眞垂(广)の角(コ+11)の上の七
 ↓↑  ↓ ↓ ↓
       广=崖の上の館(ピラミッド)
         コ+11=角(つの・かど・カク)
         上の女(七・牝・占(ト)う初め(一)
         占(ト)う初め(一)の女(ヒ・牝・匕)
         占(ト)う初め(一)を比べる
 ↓↑  ↓ ↓ ↓
     鹿=しか
       ロク
       鯨偶蹄目シカ科の哺乳動物の総称
       鹿角(ろっかく)・鹿砦(ろくさい)
       鹿鳴(ろくめい)・赤鹿(あかしか)
       箆鹿(へらじか)・馴鹿(じゅんろく)
       王・王位・帝位・政権・地位
       逐鹿(ちくろく)
 ↓↑  ↓ ↓ ↓
     麀=鹿+七=雌鹿
 ↓↑  ↓ ↓ ↓
     麁=⺈+广+コ+11+ト+一+匕
       ソ
      あらい
      おおきい
      くろごめ・・・玄米
      ほぼ
      あらい・うとい
      きめが荒い・粗末である・質がよくない
      荒々しい・はげしい・大雑把である
      玄米・精白されていない米
      ほぼ・あらまし・大体・おおよそ
      離れる・ばらばらになる・遠ざかる
 ↓↑   ↓↑
    「梁書」
 ↓↑   ↓↑
    『梁塵秘抄』
     遊びをせんとや生れけむ
     戯れせんとや生れけん
     遊ぶ子供の声きけば
     我が身さえこそ
     動がるれ
 ↓↑   ↓↑
     舞え舞え蝸牛
     舞はぬものならば
     馬の子や
     牛の子に
     蹴させてん
     踏破せてん
     真に美しく舞うたらば
     華の園まで遊ばせん
 ↓↑   ↓↑
    東屋 (あづまや ) の
    妻(つま)とも
    終 (つゐ・対?) に
    ならざりけるもの故に
    なにとて
    胸(むね・宗・旨・棟・ムネ?)
    を合はせ
    初 (そ・染?) めけむ
        ・・・初=はつ・書=捌・緒=肇
   (どうして
    わが胸を
    合わせ
    抱きあって
    しまったのか)
   「妻にするコトも出来なかったのに
    どうして
    体を合わせ
    ソメてしまったのだろう」
ーー↓↑ーー
  夏・殷・周→
  春秋戦国時代(宋)→
  秦
  前漢
  新
  後漢
  三国 魏呉蜀
  晋
  西晋
  東晋
  十六国
  南北朝
  宋
  北魏
  斉
  梁 西魏 東魏
  陳 北周 北斉
  隋
  唐
  周
  ↓↑
  五代十国
  宋
  北宋 遼 西夏
  南宋 金
  元
  明  北元
  後金
  清
  満洲 中華民国
 ↓↑
 倭王達は
 宋・・・宋=宋=宀+木
 ↓↑    殷周→春秋戦国時代(宋)→
      →秦→漢→魏→
      →晋→
 ・・・・・→南北朝(宋)→
 ↓↑     ↓↑
 ↓↑   →隋→唐→宋・契丹・金→元→明→清→
 ↓↑   →中華民国→
     →共産主義は
      「ム国家・ム国花・ム国歌・夢酷化」?
 ↓↑     ↓↑
       宋
       960年~1279年
       南北朝時代の南朝の一つ
       趙匡胤(チョウキョウイン)
       が建てた王朝
       宋=宀+木
        =宀+ 十+  八
         宇宙の天体を
            拾った葉の知(捌・さばく)
       趙匡胤が
       五代最後の
       後周から禅譲され建国
      「春秋時代の宋」
      「南北朝時代の宋」・・・倭の五王時代
      などと区別するため
      帝室の姓から
      「趙宋」とも呼ばれる
      国号の宋は
      趙匡胤が
      宋州(河南省商丘県)の
      帰徳軍節度使
      であったことによる
     「金」に
      華北を奪われ
      南遷した
      1127年以前を
      北宋
      以後を
      南宋と呼ぶ
      首都は
      開封・・・手紙、通信文の開封?
      南遷後
      臨安
      宋⇔金・遼・元
      1279年
      広州湾の崖山で
     「元軍」に撃滅され
      宋滅亡
     「崖山の戦い」
 ↓↑     ↓↑
      1279年
      干支 己卯
      日本
      弘安二年
      中国
      南宋
      祥興二年(2月6日まで)
      元
      至元十六年
      朝鮮
      高麗
      忠烈王五年
 ↓↑     ↓↑
      無学祖元が
      北条時宗の招請を受け
      寧波から
      博多を経て
      鎌倉に入る
 ↓↑
 倭王達は
 宋に
 半島南部の
 軍事的支配権の承認を繰り返し上申
 「使持節 都督
  倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
  六国諸軍事
  安東大将軍 倭王」
 に任ぜられ
 「新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」
 についての公認を得たものの
 「百済」
 に関しては認められなかった・・・?
 ・・・「倭=百済」・・・?
ーーーーー???ーーーーー
 ↓↑  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↑ ↑
 ジィ(G) =字彙・事彙・辞彙・示威・自慰・辞意
 ソォ(SO)=蘇緖・曽於・曾於・壮夫・素生・祖緖
 ミ (MI)=見・観・診・視・巳・未・実・身・味
 ア (A) =有・在・蛙・雅・鴉・亜・阿・丫
 ↓↑
 「GSOMIA
 (軍事情報包括保護協定
  ジーソミア)」
 2019年11月23日午前零時に失効・・・
 ↓↑
 「General
  Security
   of
  Military
  Information
  Agreement,
  GSOMIA=ジーソミア」
 ↓↑
 (Agreement Between
   the Government of Japan
   and
   the Government
   of
   the Republic of Korea
   on
   the Protection
   of
   Classified Military Information)
 ↓↑
 2016年11月23日署名
 1年毎に自動更新
 協定破棄には
 更新3ヶ月前の通告必要
 2019年8月23日
 韓国が
 日韓GSOMIA
 を延長せず
 破棄を決定
 2019年11月23日午前0時
 失効
 ↓↑
 「日韓軍事情報包括保護協定」
 2国あるいは複数国間で
 秘密軍事情報を提供し合う際
 第三国への漏洩を防ぐために結ぶ協定
 日本はアメリカ合衆国
    NATOなど7カ国と
 アメリカ合衆国は60カ国以上
 韓国は21カ国と
 この協定を締結
 軍事技術だけではなく
 戦術データ
 暗号情報
 高度のシステム統合技術
 など
 有事の際の
 共同作戦に必要な
 情報が網羅的に対象となる
 秘密情報活動で得られた情報も含まれる
 ↓↑
 2007年8月10日
 日本とアメリカがGSOMIAに署名
 「秘密軍事情報の
  保護のための
  秘密保持の措置に関する
  日本政府
  と
  アメリカ政府
  との間の協定」
 (Agreement between
   the Government
   of
   Japan
   and
   the Government
   of
   the United States
   of
   America concerning
   Security Measures
   for
   the Protection
   of
   Classified Military Information)
 ↓↑
 ???・・・

コメント
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耳+α=聚・聳・聶・聖・聞・聾・・・「聖徳太子の聞耳」・・・一の人のマダレのキキ?

2019-11-20 20:05:18 | 古事記字源
鳥栖・鳥巣・賭す⇔「トトス=止止主=鳥取=止止利」

 『日本書紀(景行十八年七月四日条)』
       傾向 拾捌(葉知)捻 漆解通 肆比帖
       景行 18     年 7月   4日条
 筑紫後国の三池(福岡県三池)に
 倒れた巨樹があり
 長さは970丈(2910メートル前後)
 橋代わりにされていた
 「朝霜の 御木(みけ)のさお橋
  まえつきみ
   ・・・(公卿・卿・大夫=まえつきみ)
      「前つ君=天皇の御前に仕える人」
  い渡らすも
  御木の
  さお橋」
 「老人がいうに
  この椚(クヌギ)が倒れる前は
  朝日の影で
  杵島山を隠し
  夕日の影で
  阿蘇山を隠すほどだったと語り
  天皇はこの
  倒木を神木とし
  この国を
  「御木(みけ)の国」
  と呼ぶことにした・・・
 ↓↑
 『播磨国風土記(逸文)』
 仁徳天皇の治世(5世紀前半)に
 楠があり・・・「楠正成」?
 朝日には
 淡路島を隠し
 夕日には
 大倭(やまと)島根を
 その大樹による影で隠した
 と記述
 その大樹を伐(き)り
 舟を造ったが
 その速き事、飛ぶが如く
 一楫(かじ)に
 七波を去(ゆ)き越えた
 よって
 「速鳥(はやとり)」
 と号(なづ)けられた
 ある日
 一度だけ目的に間に合わなかった為
 和歌で
 「何が速鳥か」とその名を揶揄
 この速鳥という船名は
 『続日本紀(天平宝字二年三月条)』
 にも
 播磨の船として見ることができる
 ↓↑
 『今昔物語集(巻第三十一)』
 近江国
 栗太郡に
 柞(ははそ・サク)の
 ↓↑・・・柞=木+乍
       =十+八+乍
        拾 捌 乍(𠂉ㅑ
             𠂉丨=)
        𠂉=神挿し・櫛
         丨=棒・ぼう・コン
       「=」=「二(弐・仁)」 
        ㅑ=ya(ヤ・ハングル文字)
         「ㅕ(yo・ョ)の左~右反転字」
        ㅑ=「丬(爿・𤕪・ショウ・ソウ)
          の左~右反転字(片・かた・ヘン)」
        片=ヘン・かた・きれ・ひら・ペンス・片月
          きれ・きれはし・かけら・片雲・破片
          わずか・すこし・片言・片鱗(ヘンリン)
          イギリスの貨幣単位「ペンス」の音訳字
        阿片・紙片・断片
        破片(ハヘン)・欠片(かけら)・木片(モクヘン)
        片仮名・片言
        片(かた・ひら・ヘン)・一片(ひとひら)
        片意地
        片田舎
        片腕
        片方(かたえ)
        片靨(かたえくぼ・かた笑窪)
        片陰(かたかげ)
        片才(かたかど)
        片口(かたくち)・片口鰯(いわし)
        片栗粉(かたくりこ)
        片食(かたけ)・片隅(かたすみ)
        片岨(かたソ)・片付く(かたづく)
        片手で錐は揉めぬ
        片時
        片肌=片膚(かたはだ)
        片腹痛い(かたはらいたい)
        片庇(かたびさし)=片廂
        片肘
        片棒
        片辺(かたほとり)
        片身(かたみ)
        片割れ
        片木(ヘぎ)
        片羅(ペラ)=紙幣・札びら・薄い一枚の紙
              200字詰め原稿用紙
        片雲(ヘンウン)
        片影
        片言(かたこと・ヘンゲン)
        片言隻句(ヘンゲンセキク)
        片言折獄(ヘンゲンセツゴク)
       「折=断じる・獄=訴訟」
        片頭痛(ヘンヅツウ)
        片務・片片(ヘンペン)・片鱗(ヘンリン)
 ↓↑      ↓↑
        片利共生(Commensalism)=偏利共生
        共生する生物の片方が
        その共生により
        宿主に害を与えることなく
        利益を得ている状態
        樹木の皮と地衣類
        ジンベイ鮫とコバン鮫
        フジ海鼠とカクレ魚
        相利共生(Mutualism)
        二つの互いに異なる生物の
        種類同士の共生関係
        アリとアブラムシ
        ヤドカリとイソギンチャク
        虫媒花と昆虫
 ↓↑     人間と腸内細菌
 柞(ははそ・サク)
   葉々楚(祖・素・曾・蘇・措)
   母 祖       拾捌乍
   乍=ながら・サク=長柄・長良・名賀羅・名雅羅?
     名化等?
 柞=ブナ科コナラ属の総称
   きる・草木を切る
 ↓↑
 「巨樹」伝説・・・
 幹回りは500尋(900メートル前後)
 朝日の影は
 丹波国をさし
 夕陽の影は
 伊勢国にさした
 その木はあまりに大きく
 栗太郡・志賀・甲賀
 三郡の百姓は
 田畑を作ることができなかった
 天皇に訴え、願いが聞き入れられ
 遣いにより
 巨樹は切り倒され
 田畑を耕すことができるようになり
 豊穣を得た
 今(物語集成立時代)でも
 その郡にはその時の子孫がいる
 伝説は後世でも類型派生し
 室町時代成立の『三国伝記』で
 ハハソから栗の木へと変わり
 郡名由来譚となって切り倒された
 ↓↑
 フヨウ(芙蓉、Hibiscus mutabilis)
 アオイ科フヨウ属の落葉低木
 種小名 mutabilis=「変化しやすい(mutable)」
 「芙蓉」は「ハス(蓮)の美称で
 区別する際には「木芙蓉(もくふよう)」
 朝咲いて夕方にはしぼむ1日花

 ムクゲと同時期に良く似た花をつける
 直線的な枝を上方に伸ばすムクゲの樹形に対し
 フヨウは多く枝分かれして
 横にこんもりと広がる
 葉がムクゲより大きい
 めしべの先端が曲がっている
 フヨウとムクゲは近縁で接木も可・・・?・・・無理かも・・・
ーー↓↑ーー
 鳥栖(とす)市
 姫方
 姫古曽神社の由来
 小郡市
 七夕神社(媛社神社)

 ↓↑
 まつられている女神
 「市杵島姫命」
 「織女神」
 小郡市の七夕神社(媛社神社)は同じ
 ↓↑
 「鳥取=止止利=ととり」
 『和名抄』
 「因幡国
  邑美郡
  鳥取郷」
 由来は
 水鳥を捕らえる
 「職業部」の
 「鳥取部(ととりべ)」
 住んでいたことにちなむ

 ↓↑
 「しつ(織物の一種)おり」
 が変化した
 「しとり(倭文)=湯梨浜町・伯耆国一宮の社名」
 ↓↑
 「耳(みみ・~のみ・~だけ・ジ・ニ)」・・・聴診器
  耳学・耳目・牛耳
  外耳(ガイジ)・牛耳(ギュウジ)・洗耳(センジ)
  空耳(そらみみ)・中耳(チュウジ)・内耳(ナイジ)
  寝耳(ねみみ)・馬耳(バジ)・早耳(はやみみ)
  耳+α=聚・聳・聶・聖・聞・聾
 ↓↑
 「耳」
 鳥取県・・・取=耳+又
 倉吉市・・・倉の吉の誌(史・詞)・・・?
 耳
 ・・・倉吉市中部地域の名前
 ↓↑
 耳取(みみどり・みみとり・ジシュ)
 耳ケ吠(みみがほい・ジヶボウ)
 耳切(みみきり・ジセツ)
 耳谷(みみがい・ジヤ)
 耳塚(みみづか・ジチョウ)
 耳成山(みみなしやま・ジセイザン)
 耳原(みのはら・ジゲン)
 耳ほげ=ほげる・ほがす (長崎の方言)
     穴があく・ 穴をあける
 耳鼻咽喉科・・・字備引行(韻行・印行)化?
 耳なし芳一 ・・・小泉八雲の『怪談』
          一夕散人(いっせきさんじん)著
         『臥遊奇談』第二巻
         「琵琶秘曲泣幽霊(1782年)」 
 ↓↑
 「耳」だけがつく・・・倉吉市耳
 ↓↑
 地名の由来・・・
 古事記の
 神沼河耳命
 神八井耳命
 手研耳命
 に由来・・・
 ↓↑
 京丹後市
 弥栄(やさか)町
 「鳥取」という地名
 藤原宮跡出土木簡に
 「旦波国竹野評-鳥取里-大贄布奈」
 『和名抄』に
 「因幡国邑美郡-鳥取郷」
 ↓↑
 郷名は
 垂仁天皇の王子
 本牟智和気御子(ほむちわけみこ)=誉津別命
 のために設置された
 鳥取部に由来
 ↓↑
 倉吉市・・・「蒼頡」⇔「艹+倉」+「吉+頁」
    ・・・「鶏の足跡」から文字を発明?
    「稲扱千刃(千歯)」・異な古記撰葉?
    「倉吉絣(かすり)」・総記通飛白?
               総紀通化素理?
     の生産地・・・
 ↓↑
 天女の産んだ子の名が
 お倉
 お吉
 で倉吉の地名になった・・・?
 鳥取県中部
 市内には
 打吹(うつぶき)
 玉川地区
 をはじめ土蔵が多く
 白壁土蔵の街
 ↓↑
 古代に
 伯耆国(ほうきのくに)の
     ・・・鳥取県西伯郡-伯耆-町
     成務天皇時代に波伯 (ははき) 国造設置
 国府・国分寺・国分尼寺
 がおかれていた
 ↓↑
 打吹山(うつぶきやま)
 鳥取県
 倉吉市にある山
 標高204m
 天女伝説の山
 残された天女の子どもが
 この山の頂で太鼓や笛を吹いて
 天に帰った母親を思い偲んだ・・・
 打吹山(うつぶきやま)の山体
 流紋岩(rhyolite・ライオライト)
 ↓↑・・・二酸化ケイ素の鉱物
    (石英、鱗ケイ石、クリストバライト)を含む
     白色~灰白色
     龍門願⇔登龍門・・・龍=リュウ=劉・隆・柳・流
     ・・・李 膺(リヨウ)
         膺=䧹+月・・・鷹・雁・應(応)
           广+倠+月
           广+亻+隹+月
           あたる・うつ・攻撃する・征伐する
 ↓↑         ↓↑
           廣=广+黄(黃・厶)=広
             黄
             オウ 黃=廿+一+由+ハ=ム(私)
             コウ 𡕛=夂+廿+火=黄・・・炎の外円色
             き
             こ
             きいろ
             きばむ
             東西の長さ・・・・黄河
 ↓↑           こども・幼いこども?
             卵黄・卵の黄身
             黄帝、土色、中央の色・黄泉
 ↓↑           黄ばむ、老人、幼児という意味・・・?
             令制で、三歳以下の称
 ↓↑          「令義解(りょうのぎげ)718)」
             養老令の官撰の注釈書・10巻30編、2編欠
             826年(天長三)
             明法博士
             額田今足(ぬかだのいまたり) の建議
             清原夏野・小野篁 らの撰
             天長十年(833)
            「新唐書‐食貨志」
             ↓↑・・・各王朝の
                財政記録編目
                食貨志の名称は
               『書経』洪範八政に
             ↓↑「一にいわく食、二にいわく貨」
             北宋
             仁宗の嘉祐六年(1060年)
 ↓↑           欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰225巻
 流紋岩は
 中生代白亜紀の
 火山活動によって形成
ーー↓↑ーー
 鳥栖(とす)の
 地名は
 熊本県である
 肥後国
 菊池郡
 鳥栖村が起源
 中臣鎌足が
 天智天皇より
 賜ったことに始まる
 氏(藤原氏)隆家流・菊池氏族
 ↓↑
 長野(チョウの)は
 佐賀県
 鳥栖市では
 長野(チョウの)と呼ぶ名字
 「長野(ながの)=信濃=長い傾斜地の盆地」
 ↓↑        和銅六年(713)年
          科野国(しなのノくに)
         「長野(ながの)県」
          の名前の起源
          室町時代(1570年)
          武田信玄朱印状に
         『長野之内 五貫文』
 ↓↑        の記録が初見
 と呼ぶよりも
 「長野(チョウの)」・・・
 長=チョウ=鳥
   ↓↑
  鳥栖(とす)
 奈良時代に書かれた
 「肥前風土記」
 ここに住人が
 「鳥小屋」を作り
 雑鳥(くさぐさのとり)を
 つかまえてかいならし
 朝廷に献上し
 「鳥屋の郷(とりやのさと)」
 「鳥樔(巣)郷(とすごう)」
 と呼ばれ
 「鳥栖」という地名になった・・・?
 ↓↑
 鳥栖=鳥の栖(すみか)
 ↓↑
 市内全域で多くの野鳥
 ↓↑
 市の鳥  「メジロ」
 佐賀県の鳥「カササギ」
 「ヤマガラ・モズ・カワセミ
  ヒバリ・ヒヨドリ」
 など、147種の鳥が確認・・・・
 ↓↑
 鳥栖市(とすシ)
 佐賀県の東端に位置
 筑紫平野(佐賀平野)に位置
 南の境を筑後川が流れる
 低地は水田
 その中に市街地
 北西部は
 脊振山地の東部
 「魏志倭人伝」
 の
 「對蘇(ツサ)」=「鳥栖(とす)」・・・?
 「建ち伝と」=「タチツテト」+「サ」
       =「ツ」+「サシスセソ」
       =「起ち伝と」?
 鳥栖=「鳥巣(とりのす)」・・・地名由来
 ↓↑
 「肥前国風土記」
 「応神天皇の御代、この地に
  鳥屋が置かれた」
 様々な鳥を飼育して献上し
 「鳥巣」と称し後に
 「鳥栖」に転化・・・
 ↓↑
 鳥屋が多かった=養鶏の盛んな土地・・・?
 ・・・「隋書俀人伝」・・・
 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」
 「開皇二十年
  俀王姓 阿毎・・・・・阿毎=阿部=安部
    字 多利思北孤
    號 阿輩雞彌・・・雞=ケイ・にわとり=鶏
    遣使
    詣闕
 ・・・「随処和人伝」・・・
 ↓↑
 江戸時代
 藩政
 市域東部は
 対馬府
 中藩の飛び地で
 「田代領」と呼ばれ
 長崎街道
 田代宿の宿場町
 鳥栖市街地に
 長崎街道
 轟木宿・・・とどろき=等々力・驫木
            鶏の鳴き声?
            コケコッコウ
            虚仮(鱗・扱)国交?
 の宿場が置かれた
 田代宿
 対馬府中藩の
 米倉や代官所が設置
 朝鮮通信使・・・鶏を盗んだ朝鮮兵?
 ↓↑ 朝鮮-聘礼使(ヘイレイシ)-淀城-着来図
    延享度(1748年)
    通信使船団が淀に着岸、淀城下の行進図
   『朝鮮通信使一行の一人が
    町人が飼っている
    ニワトリを盗んで逃げようとし
 ↓↑ 日本人と喧嘩になっている絵図」・・・
 の立ち寄る場所で
 応接施設も備えられた
 藩主の
 宗氏が
 朝鮮との貿易で朝鮮から輸入した
 漢方薬の実物と知識が豊富に供給され
 収入源を確保する目的から
 領民には
 薬の製造を副業とする者が増え
 次第に他領でも行商
 江戸時代後期
 日本四大売薬の一つ
 九州の薬商の大半を
 田代産の薬が占めた
 ↓↑
 明治期~第二次世界大戦
 佐賀の乱や西南戦争時に
 薬が不足し
 製薬業の拡大
 日清戦争期
 久光製薬などが
 「佐世保や広島といった軍都に近い」
 地の利を活かして販路を拡大
 江戸時代から続いた
 綿織物生産は
 生糸生産に代わり
 養蚕が盛んになった
 ↓↑
 鉄道網の整備
 大正~昭和初期
 製糸工場(養蚕業)
 製粉工場(裏作として小麦生産)
 第二次世界大戦時に
 戦況悪化による衰退・・・
 ↓↑
 鉄道網
 九州鉄道の最初の区間
 博多~筑後川北岸まで開通
 (鹿児島本線、1889年(明治22年))
  1891年(明治24年)
 佐賀、1898年(明治31年)
 長崎・佐世保方面
 (長崎本線・佐世保線・大村線)
 開業し
 1934年(昭和9年)
 久大本線全通をもって東西南北へと整備
 1948年(昭和23年)頃
 「鉄道の町」
 「煤煙の町」
 と称された
 ↓↑
 1874年(明治7年)
 佐賀の乱・・・江藤新平
 市内
 朝日山において
 政府軍と反乱軍の戦闘
 1889年(明治22年)4月1日
 町村制により
 各村が発足
 養父郡=轟木村・麓村・旭村
 基肄郡=田代村・基里村
 1896年(明治29年)3月26日
 郡制施行
 各村は全て
 三養基郡に属する
 1907年(明治40年)3月19日
 轟木村が町制を施行
 鳥栖町となる・・・轟木村→鳥栖町・・・?
 1936年(昭和11年)2月11日
 田代村が町制施行
 田代町となる
 ↓↑
 所属   柚比遺跡群
 所在地  佐賀県
      鳥栖市
      田代本町
 位置   北緯33度23分41.3秒⇔会稽東冶の東
      東経130度30分54.6秒
 形状   円墳
 規模   径約42m
 埋葬施設 横穴式石室
 出土品  玉類、鉄鏃片、馬具片
      須惠器片、土師器片、円筒埴輪片
 ↓↑
 築造時期 6世紀後半
 史跡   大正15年(1926年)国の史跡
      装飾古墳
 所在地  佐賀県
      吉野ヶ里町、神埼市
 座標   北緯33度19分25秒
      東経130度23分26.5秒
 面積   36ha
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「トトス=止止主」・・・「鳥取=止止利=ととり」
 「鳥取=止止利=ととり」・・・「鳥仏師=止利仏師」
 「鞍作 止利(くらつくり の とり)」
 「司馬達等の孫
  鞍部多須奈の子」・・・
  「司馬-鞍作-首-止利
  (しば-の-くらつくり-の-おびと-とり)
  南梁からの帰化人、「司馬達等」の孫・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・「蘇我入鹿」・・・
 「鞍作太郎」・・・「上宮聖徳法王帝説」・・・
 「蘇我林臣鞍作(そがの はやしのおみ くらつくり)」
   「 林太郎( はやし たいろう)」
   「蘇我太郎」
 ・・・「カント( 康徳)」・・・
 「鞍作」・・・「馬具職人の四男」
  イマヌエル・カント
  ・・・今(意眞)怒(奴・努)重留
 (Immanuel   Kant)     漢都
            (乾人・奸徒・巻訳)?
     大運1798年7月(74歳)~1808年
                丙子
 1724年4月22日~1804年2月12日 ↓↑
 甲辰(乙癸戊)傷官・正官 養⇔甲子
┏戊辰(乙癸戊)正官・正官 養⇔丙寅
┗癸卯(甲 乙)  ・食神長生⇔壬辰
┗戊午(丙 丁)正官・偏官 絶⇔丙午
  辰巳空亡
 「公的な法則が存在する状態に達する前には
  結合した人間や諸国民や諸国家は
  決して
  互いの暴力から
  安全ではありえず
  しかもこれは
  自分にとって
  正しく
  また
  良いと思われることをし
  他人の意見に左右されないという
  各人固有の権利から生じる」・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

コメント
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