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コジキジゲン

提灯!?・・・「お猿のかごや」

2018-07-31 23:45:49 | 古事記字源

 ・・・「音」か、「意」か?・・・「音」も、「意」もか?・・・闇夜に提灯・・・猿田彦は「邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来た」、「猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ=猿女君・自分を送り届けるように頼んだ」・・・「猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神(古事記)、猿田彦命(日本書紀)と表記」・・・猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざかの海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂(底度久=テイトク・御魂)」、猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂(都夫多都御魂)」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂(阿和佐久御魂)」という三柱の神が生まれた。この時に海中で溺れた際に生じた泡の三柱の神は阿射加神社(あざかじんじゃ)に鎮座・・・
 猿田彦神の3つの御魂
 底度久御魂(テイトク-オンコン)・・・・提督・貞徳・帝徳・禎徳
 都夫多都御魂(トフタト-オンコン)・・・「塗布・土風・問ふ」他訳
 阿和佐久御魂(アワサク-オンコン)・・・「阿波・安房」裂く
ーーーーー
 明治十年=1877年・・・千捌百漆拾漆・・・十八(おはこ)・喜寿(キジュ)
 火星(Mars・マールス・マーズ・Άρης=アレース)



 ・・・提灯!?・・・「お猿のかごや」は「山上武夫(大正6年=1917年2月8日~1987年11月2日)作詞、海沼實(明治42年=1909年1月31日~1971年6月13日)作曲による昭和13年=1939年12月にビクターレコード、歌手、尾村まさこの童謡として発売」・・・
ーーーーー
 「提=扌+是」督の「音今」
    提供(貞鏡・貞享)・提督(底度久)
 ↓↑
 「貞享」=江戸前期、霊元天皇・東山天皇の時の年号
      1684年2月21日~1688年9月30日
      天和の後、元禄の前
     「永貞吉、王用享于帝、吉
     (永貞なれば吉、王用って帝に享す、吉)」
      貞享暦(じょうきょうれき)は
      唐代の
      長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)
      天安三年(859年)に
      渤海使がもたらし、それまでの
      大衍暦・五紀暦に代わり用いられた
      暦博士
      大春日真野麻呂の強い推挙による
      長慶宣明暦
      に変えて
      渋川 春海が
      貞享暦を作成
      日本初の国産暦
      和暦として改元
      幼名は六蔵
      諱は都翁(つつち)
      字は春海、順正
      通称は助左衛門
      号は新蘆
      姓は安井から保井、渋川と改姓
      将軍は
      第五代
      徳川綱吉=犬公方=「能狂」
 「貞鏡」=初代
      双龍斎 貞鏡
     (そうりゅうさい ていきょう)
      講談師
      本名は中村貞之助
      寛政十一年(1799年)
      ~
      安政二年九月二日(1855年10月12日)
      享年57
      初代錦城斎典山の門下
      隻眼だったために同じ隻眼の
      伊達政宗の法名の
     「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」
      に因んで貞山と号した
      得意演目は「伊達評定」
 ↓↑
 那須 与一=系図上は那須氏二代当主
       一般的に宗隆
       家督を相続した後は
       資隆と名乗った
 ↓↑
 追大壹の・・・追(おい・ツイ)の大(おほ)の壹(ひとつ・イチ)
       「追大壹=685年に施行された官位制にあるもの」
       「辺境地方の長官の官位」
 笠石神社=那須国造碑(なすのくにのみやっこのひ)
      下野那須国造の那須直韋提(なすあたいいで)が
      評督(こうりのかみ)
      に任命
      石碑が
      西暦700年に建てられ
      栃木県の
      大田原市の
      碑は
      那須直韋提の子
      意斯麻呂(おしまろ)
      が建てた
 ↓↑
 700年(文武四年)に没した
  那須直韋提(なすのあたいいで) の頌徳碑
 ↓↑
  那須  直   韋提
  (なす の あたい いで)
  は
  評督
  を賜はれり
 ↓↑
  意斯麻呂
 (おしまろ)
  ら
  碑銘を立て
 ↓↑
 提=扌+是(日疋)・・・疋=乛(オウ)+ト+人
   さげる・ひっさげる
   テイ・ダイ・チョウ・・・提灯(チョウチン)
   手にさげて持つ・提琴・提携
   差し出す・持ち出す
   提案・提起・提供・提言・提示・提出・提唱・前提
   先に立って引き連れる
   提督(テイトク)
   梵語の音訳字(ダイ)
 ↓↑
   さげる・ひっさげる・持つ・手にさげて持つ
   かかげる・かかげて示す・差し出す
   ひきいる・ひきつれる
 ↓↑
 地名
 提(ひさげ)・菩提(ぼだい)・千提寺(せんだいじ)
 提興屋(ひさげこうや)・求菩提(くぼて)
   ↓↑
   招提 (しょうだい) ・菩提 (ぼだい)
   提灯 (ちょうちん) ・提子 (ひさげ) 
   招提・前提・提案・提起・提議・提供・提琴
   提携・提言・提示・提出・提唱・提訴・提題
   提灯・提督・提婆・提瓶・提要・提論・提喩
   提撕・提腕・菩提・孩提・闡提・提子・提ぐ
   ↓↑
 後生菩提(ごしょうぼだい)
 耳提面命(じていめんめい)
 上求菩提(じょうぐぼだい)
 提綱挈領(ていこうけつりょう)
 提耳面命(ていじめんめい)
 発菩提心(ほつぼだいしん)
 煩悩菩提(ぼんのうぼだい)
 無上菩提(むじょうぼだい)
 ↓↑
 傘と提灯は戻らぬつもりで貸せ
 (かさとちょうちんはもどらぬつもりでかせ)
 暮れぬ先の提灯(くれぬさきのちょうちん)
 提灯に釣り鐘(ちょうちんにつりがね)
   釣り合わないこと、比較にならないことのたとえ
   提灯と釣り鐘は形は似ているが重さがまるで違う
 提灯持ち(ちょうちんもち)
 提灯持ち川へはまる(ちょうちんもちかわへはまる)
   人を導くべき人が、先に失敗してしまうことのたとえ
   提灯を持って先導する人が、
   自分の足元が暗いため川に落ちてしまう
 提灯持ちは先に立て(ちょうちんもちはさきにたて)
 月夜に提灯(つきよにちょうちん)
   不必要なことのたとえ
   月夜に提灯は必要ないことから
  「月夜に提灯夏火鉢」
 月夜に提灯も外聞(つきよにちょうちんもがいぶん)
   実際は不必要なことでも、
   世間体のためにしなければならないたとえ
   月夜に提灯をともすような無駄なことも、
   世間体のために必要なこともある
 手鍋提げても(てなべさげても)
   好きな男と夫婦になれるなら、
   どんな苦労もいとわないということ
 盗人の提灯持ち(ぬすびとのちょうちんもち)
   悪人の手先となって、手助けをすること
   「提灯持ち」は、
   人の手先になって、その人をほめ従う者
 闇夜の提灯(やみよのちょうちん)
   ひどく困っている時に、
   頼りになるものに出会うことのたとえ
   「闇夜の灯火」
ーーーーー
 淡路(タンジ)→種子(タネジ)→丹児(タンジ)
 ↓↑         ↓↑
 海南島は       ↓↑
 前漢時代から「儋耳(タンジ)・珠崖(シュガイ)」
 ↓↑
 儋耳や
 儋=儋=亻+袪=擔・担
   になう・にたい・こがめ(小甕⇔小亀?)・タン・セン・ゼン
   異体字は擔・担
   担(儋、擔)
   担ぐ、担う
   担(擔) - 東アジアの荷物や重さの単位
   延喜式では人ひとりが担ぐ荷物の量
   中国語圏の尺貫法では100斤
   袪=厃+儿+言
     ヂァン・しつこくものを言う様子
 ↓↑
 筋の通らない無責任な言葉・うわごとを譫語(センゴ)といいます。
 譫(セン)=たわごと
       筋の通らない無責任な言葉
       うわごと・譫語(センゴ)
   鼈甲=ベッコウ=別項・別稿
 ↓↑
 古代中国で
 夷洲(イシュウ)=「台湾」
 海南島=「儋耳(タンジ)・珠崖(シュガイ)」
 秦の始皇帝時代の地域=象郡・・・?
 『漢書・地理志』
 合甫郡
 徐聞県
 大きい島=海南島
 『後漢書・郡国志』
 徐聞県
 ↓↑
 呉の孫権が
 赤烏五年(242)
 将軍-聶友
 校尉-陸凱
 を遣はし兵三萬を率いて
 朱崖・儋耳(海南島)を討っ
 ↓↑
 隋統一王朝
 海南島に
 珠崖(シュガイ)郡
 十県・12670戸(『隋書・地理志』)
 ↓↑
 南朝-梁
 崖州(ガイシュウ)
 『旧唐書』
 崖州
 四県、1110戸・・・1110・壱千壱百壱拾
ーーーーー
 ・・・拾壱&壱拾・壱足・・・

 ↓↑
 土偶
 霧ヶ峰
 八ヶ岳
 中信高原
 長野県
 茅野市
 諏訪市
 諏訪郡
 下諏訪町
 小県郡
 長和町
 にまたがる火山
 ↓↑
 八ヶ岳縄文道
 棚畑遺跡
 八ヶ岳縄文王国の
 国宝土偶
 「縄文のビーナス」
 の出土地
 『棚畑遺跡』
 ↓↑
 「仮面の女神」
 の出土地
 『中ッ原遺跡』
 ↓↑
 茅野市米沢埴原田
 棚畑遺跡
 縄文時代中期(約5,000年前)~後期前半(4,000年前)
 縄文時代の住居址が149箇所発掘
 ↓↑
 「黒曜石」流通の交易・交流の拠点
 環状集落が南北2箇所にある
 双環状の遺跡
ーーーーー
 ・・・

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対+「象・照・称」・大+「賞・将・笑・小・証・商」・代+「償」

2018-07-30 16:23:31 | 古事記字源

 ・・・「大輝丸事件」・・・「火星(Mars )の時代」・・・Red Planet(レッド・プラネット・赤い惑星)・・・「マーウォルス(マウォルス、Māvors)・マーメルス(マメルス、Māmers)」・・・「グラディーウゥス(グラディウス、Gradīvus、進軍する者という異称)」・・・「アレース=アーレース(ΑΡΗΣ、Arēs、Ἄρης, Ārēs)」・・・聖樹は「トネリコ(梣)=木+山+今?」・・・「和名の由来は、本種の樹皮に付着しているイボタロウムシ(イボタ蝋=虫白蝋・水蝋蝋)が分泌する蝋物質(イボタロウ:いぼた蝋)にあり、動きの悪くなった敷居の溝にこの白蝋を塗って滑りを良くすることから「戸に塗る木(ト-ニ-ヌル-キ)」とされたのが、やがて転訛して「トネリコ」と発音・樹皮は民間薬で止瀉薬や結膜炎時の洗浄剤」・・・???・・・舎人子?・・・「イボタロウカイガラムシ、イボタロウカタカイガラムシ」・・・疣・肬・・・異母太郎・揖保太郎・・・
 揖=ゆずる・あつまる・へりくだる・あつまる・あつめる・ユウ・シュウ・会釈・胸の前に両手を組み合わせて行う礼法・一揖・揖譲・揖揖・・・
 揖=扌+咠=手+口+耳=ユウ(イフ)・笏(しゃく)を持ち、上体をやや前に傾けてする礼・中国の昔の礼の一・両手を胸の前で組み、これを上下したり前にすすめたりする礼・・・葺(ふき)・茸(きのこ)・・・
 「儋耳(タンジ)・珠厓(シュガイ)」=海南島
 「夷洲(イシュウ)」=台湾
  ↓↑  ↓↑
 「粤(エツ)の地は
  牽牛・婺女(ブジョ)の分野
  今の
  蒼梧・鬱林・合甫・交阯・九真・南海・日南
  の諸郡は、みなその分野として粤(エツ)の地
  ・・・
    粤=ノ+囗+米+丂
      異体字は𠿋・𦉿
      粵ここに・ああ・エツ・オチ・発語の語・嘆息の声
  合甫郡の
  徐聞県より
  南方海上に出れば
  大きい島があり
  東西南北千里四方で
  武帝の元封元年(前110)
  これを略取して
  儋耳(タンジ)・珠厓(シュガイ)
  の二郡を置いた
  民はみな布を服ているが
  ひとえの夜着のようであり
  真ん中に穴を穿って頭を出していた
  男子は農耕し
  禾稲(イネ)・紵麻(チョマ)を種え
  女子は桑蚕・機織・紡績をした
  馬と虎がおらず
  民に牛・羊・豕(ブタ)・鶏・犬の五畜あり
  山に麈(シュ)・麖(ケイ)が多くいた
      シュもケイも大鹿
  武器は矛・盾・刀・木弓弩・竹矢、骨鏃があった
  郡県となった当初より
  吏卒の中国人に
  侵害されることが多かったため
  その民はおおむね数年に一度叛乱した
  元帝(前48~前33)
  この地を放棄した
  (『漢書』地理志下粤)」
  ↓↑
 咠=ささやく(囁く)・そしる(謗る・誹る)・シュウ・ユウ
  ↓↑
 「カイガラムシ(介殻虫・Coccoidea)
  カメムシ目ヨコバイ亜目腹吻群カイガラムシ上科に
  分類される昆虫の総称
  果樹や鑑賞樹木の重要な害虫
  いくつかの種で
  分泌する体被覆物質や
  体内に蓄積される色素が重要な
  経済資源ともなっている分類群」・・・
 「ルビーロウ-カイ-ガラムシ」・・・?
 ルビー=紅玉 (birthstone)・真紅色・・・ルビ(ruby)
 カイ=甲斐(X)・回・解・海・歌意・・・?

 「1945年、九州大学の
  安松京三は、
  九州大学農学部植物園で
  月桂樹(ゲッケイジュ)の枝に寄生した
  ルビーロウカイガラムシを採集し
  ガラス管に入れておいたところ
  トビコバチ科の新種の
  寄生バチが出てきたのを発見
  1954年
  石井悌と連名の論文で新種記載
  ルビーアカヤドリコバチ・・・紅玉赤宿小蜂?
  (Anicetus beneficus Ishii & Yasumatsu)
  と命名された」・・・
  ↓↑
 安松京三(Yasumatsu・アンショウ キョウゾウ)
         ・・・安=宀+女
            松=十+八+八+ム
            京=亠+口+亅+八
            三=参
 と
 石井 悌(Ishii)・・・「磐井・岩井」の「悌=忄+弟」
    悌=したがう・やわらぐ・やすらか・テイ・ダイ
      年長者に従順なこと・孝悌
      兄弟の仲がよいこと・悌友
      兄や目上の者に素直につかえること
      やわらぎ楽しむこと・豈悌(ガイテイ)
  ↓↑
 ルビーアカ-ヤドリ-コバチ

 2018/7/29/22:30
 「アレース=マルス=戦いの神・・・阿(蛙)例重素(諏)
  神なのに
  人間のディオメーデースに敗北・・・神に勝ったのは
                ヤコブ=イスラエル(旧約聖書)
           イスラエル(神と戦う者という意味)
  (アテーナー女神がディオメーデースを支援)
       ・・・芦名・葦名・蘆名・蘆品・足名?
  ヘーラクレースからは半殺し
  巨人の兄弟アローアダイ(オートスとエピアルテース)
  により
  青銅の壺の中に
  13か月間幽閉された
  アレースの好戦的な神格が
  ギリシア人には不評・・・
  主にギリシアの蛮地であるトラーキアで崇拝・・・」
  ・・・「トラキア」・・・虎起(来)鴉・・・虎は香良洲から来る?
 「神々の中では嫌われ
  愛人のアプロディーテー(ヴィーナス)や従者と子供達
  そして彼が引き起こした
  戦争が冥界の住人(死者)を増やすことから
  冥界の王・ハーデースとは関係が深い」・・・
 「アンタレス(Antares)
  さそり座α星・火星に似たもの(ギリシア語)」を意味する
 「"Άντάρης"」に由来・・・

ーーーーー
 1922年(大正11年)・・・弐拾弐・拾壱
 ↓↑・・・1922年=千九百弐拾弐=千玖珀念仁
      大正11年=タイショウ十一ネン
          =対象・対照・対称・大賞・大将・大笑
        ・・・大小・代償・大証・代将・大商
           十一念・撚
 ↓↑
 大輝丸事件(だいきまるじけん)・・・一の人の光の軍
 日本の「海賊」による・・・「海賊」?
 外国人殺害事件
 「尼港(ニコライエフスク )事件の復讐」
 ↓↑ ・・・シベリア出兵中の
    日本軍隊と
    ソビエト・パルチザンとの間の紛争事件
    1920年2月
    アムール川河口の
    ニコライエフスク (尼港) を
    占領中の日本軍は
 ↓↑ ソビエト・パルチザンの攻撃を受け降伏

 ↓↑ 将兵および居留民は捕虜
    パルチザン側は
    351名の日本将兵、副領事を含む
    383名の日本居留民を殺害
    市内を焼払って逃亡
    ソビエト政府は
    事件責任者を死刑に処し
    事件には無関係との態度をとった
    日本政府は交渉すべき
    相手方政府が存在しないことを理由に
    北樺太・サガレン州の主要地点を保障占領
    日本軍は
    1922年10月まで
    4年2ヵ月とどまり
    北サハリン占領は
    1925年5月まで続き
    日ソ基本条約附属公文において
 ↓↑ ↓↑
    ソビエト政府が
    日本政府に遺憾の意を表明
    6月24日
    シベリアから日本が撤兵を声明
    日本側も保障占領を解除し解決・・・
    10月25日
    シベリアからの樺太北部を除いて日本軍が撤兵を完了
    12月27日
    鳳翔(ホウシヤウ)
    日本海軍初の航空母艦・世界初の新造空母
    12月30日
    ソビエト連邦成立
 ↓↑
 大正11年(1922年)
 大正 9年(1920年)の
 「尼港(ニコライエフスク )事件の復讐」
 の名のもとに
 江連(えづれ)力一郎
 らが
 ロシア船を次々と拿捕して
 積み荷を略奪
 ロシア人12人、中国人4人、朝鮮人1人を殺害
 ↓↑
 2年前の
 大正9年(1920年)
 ロシア沿海州の都市
 ニコライエフスク (尼港)が
 パルチザン(ロシア赤軍?)の襲撃を受け
 多数の市民が虐殺
 多数の婦女子を含む
 在留
 日本人700人が巻き込まれて全滅
 女性への残虐な殺害
 日本社会は反露感情に沸き立った
 ↓↑
 1922年(大正11年)10月9日~10月22日、23日
 大輝丸事件(だいきまるじけん)
 事件の経過
 ↓↑
 首謀者
 江連(えづれ)力一郎(当時34歳)は・・・江連力一郎?
 茨城県
 結城町出身
 海城中学卒
 明治大学中退
 のちに
 陸軍に入隊し軍曹
 彼は柔道、剣道、合気道など各武術をきわめ
 段位は合計で30段
 ↓↑
 尼港での
 惨劇に悲憤慷慨し
 復讐を決意
 軍部や実業家から
 潤沢な資金を回収し
 決行の機会をうかがった
 神戸西之宮の
 相沢汽船会社所有の
 船・大輝丸740トンを用意し
 「オホーツク海に砂金採取に行く」
 と称して乗組員を募集
 呼びかけに
 人夫、失業者、学生など
 60人が集まった
 9月26日
 北海道・小樽を出航
 10月1日
 樺太北部の
 アレクサンドロフスク・サハリンスキーに入港
 江連は乗組員全員を船の甲板に整列させ
 ピストルを誇示しつつ檄を飛ばす
 ↓↑
 「オホーツクでの砂金回収60貫は
  流氷による航海不能により見送ることにする。
  そこで我らは進路を変え、
  アムール川河口の
  ニコライエフスク (尼港)に向かう。
  諸君らもよく知るはずの尼港だ!」
 ↓↑
 10月9日
 ニコライエフスク (尼港)に入港
 沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪
 北樺太の
 ポコピー、デスカストリー付近で
 帆船1隻および多量の海産物や油類を略奪
 同時にロシア人船長以下12人
 および先の発動機船の乗組員4人を
 大輝丸の船員室に監禁
 ↓↑
 10月22日、23日
 捕虜17人全員を甲板に引き出すや
 命乞いを聞き入れることもなく
 ピストルと日本刀を使い分けて殺害
 小樽に帰港し
 略奪品を荷揚げし、
 各乗組員に150円ずつの分配をし
 厳重な口止めを約束させて解散
 ↓↑
 事件後、乗組員だった
 田中三木蔵
 菊池種松
 が、自首し事件が発覚
 「兵站」として使用していた
 稚内の倉庫から
 大量の武器弾薬が発見
 江連は直ちに全国に指名手配
 江連は
 情婦の「生首お梅」
 参謀格の
 石川房吉を引き連れ
 札幌郡下手稲村の
 温泉旅館・光風館に逗留
 同年12月13日
 警官隊の急襲を受け
 抵抗することもなく縛についた
 江連は取調べの席でも法廷においても
 「ニコライエフスク (尼港)事件で
  殺害された日本人の霊をなぐさめるため
  天にかわって正義の剣をとり
  懲罰をこころみた」
 旨弁明
 3年間、未決であったが
 大正14年(1925年)2月27日
 懲役12年の刑に処せられた
 他の乗組員34人には
 懲役12年から
 罰金500円までの有罪判決が下った
 ↓↑
 江連はのちに数度にわたる特赦
 昭和8年(1933年)に出獄
 翌9年
 マリー・ローザンヌ号
 金塊引揚事件に関与し再び捕らえられるが無罪
 後に満蒙開拓団に加わった・・・
 消息は不明
 心形刀流杖術・・・心形(シンケイ)⇔神経・唇形
          刀流(トウリュウ)⇔逗留・東流・当流
          杖術(ジョウジュツ)⇔上述
 を学んでいた江連は獄中で
 ステッキ術の指南書を著し
 現在でも復刻版が刊行
 未決のままであった二人の乗組員のうち、
 一人は戦後見つかって
 執行猶予つきの有罪判決
 他は
 事件発生から
 45年後の1967年2月28日
 東京地裁は時効完成による免訴の判決
 ↓↑
 日露戦争中に
 北海道国後島海岸にて
 沈んだロシア軍用船
 「アンナ・ローザンヌ号」
 から金貨2500万ドルを引き上げると騙って
 1万6千人あまりから
 36万円(当時)を集めた詐欺事件
 資金集めのため設立された後援会には
 会長・有馬聡頼子爵
 理事長・三輪光儀陸軍少将
 をはじめ名士が多数名を連ねていた・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・「拉致誘拐被害者」を「救済・救出」出来るか・・・「救済・救出」出来なかったとしたら・・・

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笠=竹の立つ・石=いし・いわ=医師・遺志・磐・違和

2018-07-27 22:47:22 | 古事記字源

 ・・・TVの「ひるおび」で「サギ被害」を見た・・・???・・・「人間」って都合がイイ・・・
 2018/7/26/21:00~2018/7/27/1:16~
 月の左側に4点の光源、光っている物体はナニ?!・・・

 7月28日の明け方
 西の空に沈む満月の皆既月食
 15年ぶりに大接近中の火星・・・アレって・・・「火星」・・・UFO・・・?
ーーーーーー
 鷺(さぎ)・・・詐欺・詐偽
 大田原市(栃木県北東部に位置
      旧那須郡・松尾芭蕉「奥の細道」と縁が深い
      琵琶池石器遺跡
      長者ヶ平縄文遺跡
      那須国造碑=永昌元年己丑四月
     「永昌」は唐の年号・・・?
      日本元号は
      日本の元号は
      686年に天武天皇の崩御により
      701年の
      大宝まで停止されていた・・・?
      大宝以前
      大化(645年 - 650年)
      白雉(650年 - 654年)
      1年だけ
      朱鳥(686年)
      などの年号が存在
      686年→687年→688年→689年→690年
      →691年~701年・・・十一年間
      元号制度は断絶状態
     「大宝(大寶)元年=701年」
      の改元により元号使用は再開
      大寶元年=701年~大寶四年=704年
      ~慶雲(ケイウン・キョウウン)
      和銅元年前の704年~708年
      天皇は文武天皇、元明天皇
     「慶雲」=夕空に現れ瑞兆の雲、蚊柱
      大宝二年(702年)
      持統天皇崩御、葬儀後の
      大宝四年(704年)
      藤原京において瑞兆
      改元
      ↓↑
      永昌元年(唐年号?・689年?)
      持統天皇三年
      永昌元年=天授元年(689)十一月を
      載初元年正月
      十二月・正月を
      それぞれ臘月・一月とした
      12月=臘月(ロウゲツ)の由来
      臘=肉巤=ロウ=腊=肉昔・月昔
      巤=鼡=ねずみ=鼠=巤
      獵蠟
      邋=「邋邋」は、旗が揺れるさま
      ひるがえるさま
      折る・くじく・進んで行く
      臘月=冬至の後
      第三の戌(いぬ)の日に行う祭り
      猟の獲物を先祖百神に供える祭り
      臘祭の意
      大晦日
      僧の修行の年数
     「戒臘・夏臘 (げろう) ・法臘」
      年功による地位や身分
      魚、豚肉、鳥肉等の干物や薫製
      ・・・蜜蝋・・・
     「蝋」は「蠟」の略字
      文武四 (700) 年に建立された
      石碑 (那須国造碑 )
     「延宝四年(1676年)」に
      水戸領内で
      僧  円順・・・・・つぶらの川の頁
      庄屋 大金重貞・・・大の金の重さを貞める
      らによって発見
      1683年(天和三)
      徳川光圀に知られ
      これを御神体として
     「元禄四年 (1691年)」
      笠石神社を
      徳川光圀が創建
      ↓↑
      那須直葦提 (なすのあたいいで)
      の事績を息子の
      意志麻呂
  ・・・「イシ(おし)まろ」?
         意冨(おほ)
         意斯麻呂
         (おしまろ)
         らが顕彰
         それを御神石とし
         笠石神社の神体とした
         笠=竹の立つ
         石=いし・いわ=医師・遺志・磐・違和
         頤使=人をあごで使う
ーーーーー
 那須国造碑・・・那須国造碑 拓本
 原文は

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%9B%BD%E9%80%A0%E7%A2%91


 ()内は欠字の当字・・・?
 永昌元年(己)丑四月
 飛鳥浄御(原宮那須国)造
 追大壹
 (那)(須)(直)  韋提
  (な  すの あたい いで)
 評(督)被賜
 (歳)次(庚)子年
 (正)月
 二壬子日
 辰(節殄)
 故
 意斯麻(呂等)
 立(碑)銘偲云尓
 仰惟(殞)公廣
 (氏尊胤国)
 家棟(梁)
 一世之中重
 被(貳)(照)
 一命之期連見再甦
 (砕)骨挑髄
 (豈)報前恩是以
 曾子之家
 无有(嬌)子
 仲(尼)之門
 无有罵者行孝之子
 不改其語銘
 夏尭心澄神(照乾)
 六月
 童子
 意香助(坤)
 作(徒)之大合言(喩)
 字故無翼長飛无根更固
ーー↓↑ーー
  八行十九字詰め、全文一五二文字
ーー↓↑ーー
 永昌元年己丑四月
 飛鳥浄御原大宮に
 那須国造で
 追大壹の・・・追(おい・ツイ)の大(おほ)の壹(ひとつ・イチ)
       「追大壹=685年に施行された官位制にあるもの」
       「辺境地方の長官の官位」
 那須直韋提は
 評督を賜はれり。
 歳は
 庚子に次る年の
 正月
 二壬子の日
 辰節に殄れり
 故に
 意斯麻呂ら、
 碑銘を立て、
 偲びて尓か云ふ。
 仰ぎ惟るに
 殞公は、
 廣氏の尊胤にして
 国家の棟梁なり。
 一世之中に重ねて貳照せられ
 一命之期に連ねて再甦せらる。
 砕骨挑髄するも、
 豈に前恩に報いん。
 是を以て
 曾子の家に
 嬌子有ること无く、
 仲尼の門に
 罵者有ること无し。
 行孝の子は
 其の語を改めず
 銘夏尭心、澄神照乾。
 六月童子、意香助坤。
 作徒之大、合言喩字。
 故に、
 翼無くして長飛し
 根无くして更に固まんと。
ーーーーー
 鷺(さぎ)・・・詐欺・詐偽
 大田原市
 の
 八年ぐらい前から
 棲み着き、定住したサギ、およそ300羽・・・

 『手にすくう水もなし』の飢饉災害の荒地
 ↓↑
 医者・医師
 本草・・・・本草書、薬物についての学問
       薬物についての知識をまとめた書
       薬物についての研究は本草書を中心にして行われ
       その成果はこれらの書のなかに蓄積された
       (神農本草書)
       「神農本草経」、「本草綱目」
 医=匚(匸)+矢(𠂉一人)
 醫者
 醫=医+殳(几又)+酉
   函+矢+机+右手+樽
    鏃=矢尻=メス(mes)=執刀小刀(短刀)
    匚+矢=醫の略字
     ↓↑
    「医=悪霊を祓う矢を置く匸(隠された場所)を表す」
       はこがまえ(匚)+矢
 医=いやす・くすし(薬師)・イ
   醫
   軍医(グンイ)・侍医(ジイ)・獣医( ジュウイ)
   主治医(シュジイ)・女医(ジョイ)・典医(テンイ)
   巫医(フイ)・名医(メイイ)
    ↓↑
   メス(mes)=外科手術や解剖に用いられる鋭利な刃物
          オランダ語の mes(ナイフの意)
          スカルペル (scalpel)
          ランセット (lancet)
ーーーーー
 翹岐(ギョウキ)・・・翹=堯+羽
 ↓↑ 尭=堯(たかい・ギョウ)
    尭=十+艹+兀
    堯=土+土+土+兀
    翹=あげる・つまだてる・のびあがる
    すぐれる・抜きん出る
    翹企・翹首・翹翹・翹材
    連翹・翹首・翹楚・翹望・翹揺
 ↓↑ 岐=山+支
    ちまた・わかれる
    本道から枝分かれの道
    幾筋にも分かれ道
    岐路・多岐・分岐
    みち
    隠岐・岐阜
    岐の神(クナド・くなど、くなと -のかみ)
    古より牛馬守護の神、豊穣の神
    禊、魔除け、厄除け、道中安全の神
    疫病・災害などの悪神・悪霊が
 ↓↑ 聚落に入るのを防ぐ神
 百済(くだら・朝鮮)の王族
 義慈王の甥(おい)、
 または子
 ↓↑
 642年
 義慈王は
 異母弟の
 翹岐と
 その母妹女子4人を含んだ
 高名人士40人を島に放逐
 ↓↑
 皇極天皇元年(642)
 義慈王の母の死にともない
 島流し
 ↓↑

 同年来日し
 大使として参内
 蘇我蝦夷
   ・・・「豊浦大臣(とゆらのおおおみ)」
   蝦夷の父   
   蘇我馬子の別名は「島大臣」
   家が飛鳥川のほとりにあり
   庭中の小池に小島があった
   ことから
  「島大臣 (しまのおおおみ)」 ともいわれた
   牡丹の『島大臣』?
   蘇我蝦夷は
  『上宮聖徳法王帝説』では
  「蘇我豊浦毛人」
   蘇我入鹿は「鞍作太郎」
 の邸宅にまねかれた
 百済大井
 (大阪府河内
 長野市?)に移住
  ・・・長野市⇔長野県・善光寺?
  百済王善光?
  名は禅広王・余禅広
  百済の第31代国王・義慈王の子
  天武天皇四年(675年)
  元旦の儀で
  新羅の
  仕丁らと並んで
  薬・珍物を献上
 ↓↑
 大和王朝は
 翹岐(ギョウキ)
 と
 百済の
 大佐平
 智積(チシャク)
 ↓↑・・・智積院=京都市東山区
   真言宗智山派総本山の寺院
   山号を五百佛山(いおぶさん)
   寺号を根来寺(ねごろじ)
   本尊は金剛界大日如来
   開基は
  「玄宥(げんゆう)」
   享禄二年(1529年)
   ~
   慶長十年十月四日(1605年11月14日)
   真言宗の僧
   下野国吹上城主
   膝付又太郎の子
   十八歳
   根来山で修学、南都・園城寺・比叡山で
 ↓↑諸宗の教学を学んだ・・・
 ら百済族に乗っ取られた・・・?
 ↓↑
 舒明と百済武王の崩御年が同じ・・・舒明=百済武王?
 ↓↑
 武 王=舒 明
 武王妃=宝皇女(皇極、斉明)
 義慈王=軽皇子(孝徳)
 翹 岐=中大兄
 智 積=中臣鎌足
 ↓↑ 
 641年、舒明崩御。武王の死没
 642年、皇后(皇極天皇)の
     天 豊 財  重日  足  姫即位
    (あめとよたからいかしひたらしひめ)
     蘇我蝦夷大臣
     蘇我入鹿が国政
     ↓↑
     百済の使者が来倭
    「大佐平
     智積
     と
     国王(百済武王)の母が亡くなり
     弟王子に当たる子の
     翹岐
     や
     同母妹の女子4人など
     40人あまりが島流しになった」
     と伝えた
     ↓↑
     高句麗の使者がやってきて
    「去年(641)の6月、弟王子が亡くなり
     秋9月
     大臣
     伊梨柯須弥(いりかすみ)が
           入里化諏実
        ・・・伊の梨の柯の須の弥
           イ尹禾刀十八 木可彡頁弓爾
           医員退当拾葉知帰化跡頁旧備
     大王(武王)を殺し
     弟王子の子(義慈王⇔擬似王)を王とした」
     と伝えた。
     ↓↑
     蘇我蝦夷は
     高句麗と
     百済の客(翹岐を含む)を
     難波で饗応
     翹岐は従者をつれて
     帝に拝謁したり
     蘇我蝦夷の自宅に招かれ
     騎射を見物し、
     馬や鉄などをもらう
     ↓↑
     天皇が
     百済の使者
     大佐平
     智積
     を饗応
     智積は
     翹岐とともに
     相撲を見物
     宴会のあと
     翹岐の家に行き
     門前で拝礼
 643年、筑紫の太宰府から早馬で
    「百済国王の子
     翹岐弟王子が
     調使と共に到着」
     という知らせ
     ↓↑
     中大兄の父親が
    「田村皇子=舒明天皇」とされているのは・・・?
     ↓↑
     斉明天皇・・・「差異名」天皇?・・・皇極
      と
     舒明天皇・・・「鋤名・汝名・助命」天皇?・・・除名
     の
     子供=天智・間人・天武の父親
     ↓↑
     「田村=デンソン=伝噂」?・・・鶏鳴狗(犬句)盗
         ・・・田文=靖郭君田嬰者、宣王之庶弟也
               封於薛。有子曰文。
              =号為、孟嘗君
     中大兄が
    「耽羅(タムラ、済州島)」からやって来た・・・?
        虎視眈々・耽溺
     ↓↑
 583年、百済より招いた
    「達率日羅」
     達率(率いて達する)日羅(日本)=???
     ↓↑
 義慈王=上宮法王
        厩戸皇子(聖徳太子)=用明天皇の皇子
        聖徳太子伝記の写本の一
       「上宮聖徳法王帝説」=記紀以前の古い史料
     の後継者争いで
     山背大兄王・・・皇極天皇二年十一月十一日死没
     ↓↑     (643年12月30日)
           厩戸豊聰耳聖徳法王、聖王の児
           厩戸皇子(聖徳太子)の子
           母は蘇我馬子の娘
           刀自古郎女(とじこ の いらつめ)
           大臣・蘇我入鹿と従兄弟
          (上宮聖徳法王帝説)
           山背大兄王死後死後
           6日後 辛卯辰時
           大狛法師=大化元年(645年)8月8日
      ↓↑   ↓↑   孝徳天皇の「大化僧尼の詔」により
                十師に選ばれたうちの1人
                (とたりののりのし
           ↓↑    仏教界の最高指導層)
           が
           斑鳩寺にいた
           山背大兄王の息子
          「弓削王」を殺した
      ↓↑   ↓↑
           道鏡
           文武天皇四年(700年)
           ~
           宝亀三年四月七日(772年5月13日)
           俗姓は弓削氏(弓削連)
           弓削櫛麻呂の子
           義淵の弟子
           本貫は河内国志紀郡弓削(大阪府八尾市)
     ↓↑    女帝・称徳天皇の法王
     に敗れ
     百済に渡った
     もと
     高句麗王子=軽皇子・・・???・・・
 ↓↑
 応神天皇時代
 七姓の
 漢人が帰化
 高向村主(すぐり)
 高向史(ふびと)
 が挙げられている
 (新撰姓氏録)
 応神は
 高向村主
 を
 阿智王
 と名のらせ
 高市郡檜隈・・・・・・・檜隈寺=奈良県高市郡明日香村
 (たけちぐんひのくま) にあった渡来系氏族、東漢氏の氏寺
 に居住地を与えた    中世には道興寺とも称した
 ↓↑          檜隈寺跡=於美阿志(おみあし)神社
             十三重石塔
             阿智使主神=応神天皇時代の漢人系渡来人
             東漢氏の祖・阿智使主、阿知王、阿知吉師
             機織を伝えた
        「朱鳥元年(686年)八月条
         檜隈寺、軽寺、大窪寺・・・軽寺?
 ↓↑      に各百戸を封ず。三十年を限る(日本書紀)」
 「阿智王」は後漢帝の子孫(大蔵系図)
 後漢
 献帝〜石秋王〜○〜阿智王〜阿多部王・・・
 阿多部王=高貴王と号
      来日し
      茅渟王の娘と結婚
      坂上、大蔵、蔵内
      の三子をなした・・・
 「高貴王」・・・阿多部王=高貴王=高尊王は、霊帝の子孫
         代々、医博士、鍼博士、典薬頭
         など医家を数多く輩出
 は大臣に任じられ
  妻は
 「斉明天皇」だった・・・?
 ↓↑
 「斉明天皇」の最初の夫は
 「高向王⇔高貴王」・・・?
 孝徳朝の国博士=「高向玄理」・・・
 「高向玄理」=「高向史玄理」
 「高貴王=高向王=高向玄理」・・・???
 ↓↑
 玄理=後漢「献帝」の子孫・・・「献=南の犬」
                「玄理=くろいコトわり」
    天武天皇の母親も中国人・・・?
    天武天皇=「漢皇子」・・・?
 ↓↑
 西-突厥-可汗・達頭
   ・・・トルコ系の遊牧民
      552年に突厥帝国を建設?・・・552年(仏教伝来)
      583年に?・・・・・・・・・・538年(仏教伝来)
           ・・・・・・・・・・583年
       日羅(にちら)?~583年12月
       6世紀朝鮮半島の百済王に仕えた日本人(?)
       父は
       火(肥後国)葦北(葦北郡と八代市)国造
       刑部-靭部-阿利斯登(ゆげいべのありしと)
       阿利斯登(ありしと)は
       宣化天皇の代に
       朝鮮半島に渡海した
       大伴金村に仕えた九州出身の武人
       日羅は
       百済王の
       威徳王から
       二位達率(ダッソツ)の官位を与えられ
       倭系百済官僚となった
       敏達天皇の要請により
       583年日本に帰国
       阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた
       朝鮮半島に対する政策を奏上
       人民を安んじ富ましめ国力を充実し
       船を連ねて威を示す
       百済が九州に領土拡大を謀っているので
       防御を固め欺かれぬようにすべきこと
       等の
       百済に不利な内容で
       同年12月
       百済人によって難波で暗殺された
       物部贄子
       と
       大伴糠手子により
       小郡の西畔丘に埋葬
       後に
       葦北に移葬された・・・
 ↓↑   ↓↑
      隋の分断策で東西に分裂
      東突厥は唐の支配下
 ↓↑   ↓↑
      682年自立し第二帝国を築く・・・682年(天武天皇十一年)
      東突厥は
 ↓↑   744年東トルキスタン(イリ地方)を根拠地とする
      ウイグルに滅ぼされた・・・744年(天平十六年)
 ↓↑   ウイグル=回鶻=廻紇=畏兀児=維吾爾
 西-突厥-可汗・達頭は
 隋と敵対する
 高句麗と連合・・・
 妻と娘を
 高句麗の
 嬰陽王に差し出した・・・
 その
 「娘」=宝皇女(斉明天皇)?・・・差異名天皇?
 「妻」は
 嬰陽王との間に男の子を儲けた
 これが
 「軽皇子(孝徳)」・・・???
 ↓↑
 百済「武王」は
 前百済王の
 「法王(達頭、上宮法王)」
     ・・・上宮法王≠厩戸皇子(聖徳太子)?
 から譲位された人物
 ↓↑
 玄理は
 632年に
 倭国で
 高表仁
 の接待
 630年
 漢皇子は九歳
 641年
 淵蓋蘇文=20歳時の「漢皇子」・・・?
 淵(エン・ふち)
 蓋(ガイ・かさ)
 蘇(ソ・よみがえる)
 文(ブン・あや・ふみ)
 は
 栄留王を殺し
 宝蔵王を立てた
 ↓↑ ・・・宝蔵王は高句麗最後の王
    高句麗の第28代・最後の王(在位:642年~668年)
    姓は高、諱は臧、または寶臧
    先代の栄留王の弟の
    大陽王の子
    642年に
    栄留王を弑逆した
    淵蓋蘇文によって
    王位に即けられた
 ↓↑
 淵蓋蘇文
 中国の史書で
 唐の高祖
 「李淵」と同じ
 「淵」の字を用いるのをはばかり
 「泉蓋蘇文(せんがいそぶん)」
  or
 「蓋金(こうきん)」
 と記録
 ↓↑
 「淵蓋蘇文」は
 高句麗では
 「イリ・ガ・ス・ム」と発音・・・イリ=淵=ふち
 「伊梨・柯・須・弥
 (イリ・カ・ス・ミ)」
 と記録・・・
 ↓↑
 淵蓋蘇文は、「淵」が姓で「蓋蘇文」が名
 ↓↑     淵(ふち・エン)=河川の流水が緩やかで
        深みのある場所
        川の深み、淀み
        対語は瀬(せ)・渕は俗字
        水を深くたたえている所・海淵・深淵
        物事の出てくる根源・淵源
 ↓↑     物の多く集まる所・淵藪(エンソウ)
 孝徳天皇(軽皇子)は
 大化元年
 中大兄を皇太子
 阿倍内麻呂を左大臣
 蘇我倉山田麻呂を右大臣
 中臣鎌足を内臣
 僧旻
 と
 高向玄理
 を国博士
 舒明の娘
 間人皇女を皇后
 ↓↑
 義慈王=孝徳の・・・?
 蘇我氏への復讐・・・?
 ↓↑
 孝徳天皇=軽皇子は
 上宮法王(聖徳太子)
 によって
 次期倭王候補とされながら
 蘇我馬子が上宮法王(聖徳太子)を暗殺・・・???
 蘇我馬子の子・・・馬子=島大臣
 山背大兄王・・・?
 に王位を横取りされた・・・
 ↓↑
 645年12月
 孝徳天皇の都
 難波
 長柄・・・「柄長」の上下(左右)の配置が逆字
 豊碕    ↓↑

       ↓↑ 
   エナガ(柄長、学名:Aegithalos caudatus)
   スズメ目エナガ科エナガ属の鳥類の一種
   エナガ科は世界で七種類が知られる・・・
   カラ類=四十雀(シジュウカラ)を
       始めとする山野の小鳥類の総称
   長い尾をもつカラ類で
   和名は
   極端に長い尾(全長14 cmに対して尾の長さが7-8 cm)を
   柄の長い柄杓に例えた
   江戸時代
  「柄長柄杓(えながひしゃく)」
  「柄柄杓(えびしゃく)」
  「尾長柄杓(おながひしゃく)」
  「柄長鳥(えながどり)」
   などとも
  「コウライ-シマ-エナガ(高麗-島-柄長)」
   高 麗 -島 -柄長
   ・・・???・・・ナゼ?・・・高麗-島-柄長
 ↓↑
 660年
 唐の
 蘇定方が・・・蘇の定の方・・・蘇我を定める方法?
 百済を滅ぼしたとき立てた
 『唐平百済碑(660年)』に
 「其の
  王義慈、及び、太子隆、
  外王と自称する
  孝などを捕獲した」・・・「孝」?・・・孝徳天皇?
 と記録
 「其の王義慈」=「百済・義慈王」・・・「擬似・疑似・擬餌」王?
 「太子隆」=「武王の子」・・・伝承
 「翹岐(中大兄)」の異母兄・・・?
 「武王の子」でありながら
 「義慈王」に従っていたのは
 「武王」の後継者は
 「宝皇女の子・翹岐」・・・?
 「外王と自称する孝」は
 「軽皇子が百済において儲けた子供」・・・
 「631年
  日本に送った
  豊璋の弟」
 中国の史料『冊府元亀(さっぷげんき)』には
 「孝」は「小王孝」とある・・・
 ↓↑
 「隆」
 「孝」
 唐に捕獲されたとき
 「孝」が自称した
 「外王」とは
 「倭王」・・・
 650年
 百済に帰国した
 義慈王と入れ替わりに
 「孝」が来倭し
 白雉年間の
 孝徳天皇として即位した・・・?
 『新唐書』には
 「650年に孝徳天皇が即位して
  白雉に改元した」・・・白雉=しろきじ・ハクチ=白記事・白地
 とある
 ↓↑
 大化年間の孝徳=義慈王・・・?
 白雉年間の孝徳=小王孝・・・?
 ↓↑
 孝徳天皇=義慈王・・・?
 息子の
 宝蔵王=高句麗王は
 自ら百済と倭王を兼任・・・?
 ↓↑
 難波長柄
 に孤立させられた
 孝徳天皇は
 息子の
 「孝」だった・・・??
 ↓↑
 義慈王が百済に帰国し
 唐の太宗が亡くなり
 百済への侵攻が一時停止
 「孝」は
 その直後に
 倭国に送り込まれ
 巨勢徳陀が彼を補佐・・・
 巨勢徳陀は
 651年
 新羅からの使者が
 唐風の衣装を着てきたことに
 激怒、追い返してしまい
 (唐・新羅)VS(高句麗・百済・日本)
 ↓↑
 孝徳天皇の歌
 ↓↑
 鉗着け・・・
 我が飼う駒は・・・駒=馬+句
 引き出せず
 我が飼う駒を
 人見つらむか・・・誰かがみているカモ
          ているだろう・たであろう
 ↓↑
 鉗(かなき)=金+甘(あまい⇔阿毎)
     ・・・金柑=キンカン・ミカン科キンカン属
           の常緑低木の総称
           別名キンキツ(金橘)
          ・・・金の橘(たちばな)
 鉗(かなき)=馬が逃げないように首にはめておく木
 「馬」=「間人皇后」
 「人見つらむか」の「人」=「中大兄」?
 「孝徳天皇」は息子の「孝」・・・
 ↓↑
 孝、泰、隆、演、豊璋、勇(百済王善光)
 の6人の王子
 ほか、庶子41人
 孝=孝徳天皇
 ↓↑
 654年
 孝徳崩御
 「孝」の百済への撤退・・・
 唐の高宗が極東への政治介入を再開
 孝徳の「臨終」の際に
 中大兄、斉明上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿
 らが見舞った
 藤原鎌足が
 紫冠と封戸を授けられた
 鎌足は
 義慈王の家臣であると同時に
 大海人
 ら倭国側との仲介役となって
 「孝」の撤退決議への
 大海人からの恩賞・・・
 ↓↑
 654年
 新羅
 武烈王(金春秋)が即位
 ↓↑
 豊璋
 は
 662年
 鬼室福信に百済王として帰国を要請
 倭国で養蜂に失敗
 ↓↑
 豊璋
 義慈王=軽皇子だった頃に
 倭国で生まれ
 母の身分もあまり高くなく
 鬼室福信に百済に呼び戻され・・・
 百済、再(差異?)滅亡・・・?
ーーーーー
 ・・・以上は全部、「高句麗」の説がボクが調べてきた
 色々なモノ(文字)と重なって面白かったので
 「草原から来た天皇3」の
http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/index.html
 「実は古代史ほど、
  論理と想像の力で、
  誰でも「新説」を唱えることができる
  ジャンルはない・・・「ジャンルではない」・・・?
  ということだけでも
  感じ取っていただければ
  サイワイである。(2009年8月)」
 の原文を参考、参照にして部分添付・・・
 ボクの妄想もチョッと「?」と添付・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「ジャンルはない(無い)」のか?
 「ジャンルはアル(有る)」のか?・・・

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コマをマワス・・・唐獅子牡丹・・・牛にひかれて善光寺

2018-07-25 22:16:13 | 古事記字源

 ・・・「狛犬(こまいぬ)」・・・「高句麗・高麗」・・・高句麗、高麗からの帰化人・・・「狛犬」の起源、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いた。古代エジプトやメソポタミア、ギリシャでの神域を守るライオンの像・・・スフィンクス・・・
 「胡摩犬(こまいぬ)」
 狛=貊
   貊=ツングース系民族
   貊や高句麗の訓読み「こま」は
  「蓋馬国」の転化・・・
   中国の古書注に
  「東海駒驪、扶餘、馯貊之屬」
   云々とあり
  『集韻』には「駒驪、國名」とあり
  「駒」=子馬・・・
 犬について
 隼人の狗吠
 隼人は熊襲と同族
 熊襲の国が狗奴国であった・・・
 「こま(駒)=子馬」
 日向隼人の駒は評判
 「狛」=狼の如く善く駆ける羊
     土狛



ーーーーー
 高句麗
 別名を貊(はく)
 日本語で
 「高麗」=こま=「貊(狛)」
 百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高麗(こま)
 高句麗(句驪)
 『漢書(地理誌)』
 「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)
  みな朝鮮・濊貊・句驪の蛮夷の地である」
 玄菟郡の首県
 高句驪、上殷台、西蓋馬
 驪は麗と同音で
 漢人の蔑視による表現・・・?
 白鳥庫吉は
 「高」と「句麗」に分解し
 「句麗はコル(城)」、「高はコ(大きい)」
 原義は「大城」
 李丙蝱は
 「高はスリ(神聖な・首位の)」で
 「首邑」、「上邑」の意味とした・・・
 高句麗=貊族
 8世紀
 突厥で造られたオルホン碑文には
 「ボクリ(bökli)」という東方の国
 ボクリが高句麗
 「貊句麗」・・・
 「貊の国」・・・
 「貊」という種族は
 周代から中国の史料に登場
 なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に
 「高麗」という国名で表記
 隋唐代の史書でも「高麗」と表記
 520年
 正式名が「高句麗王」から「高麗王」となった
 梁の冊封が最初
 高句麗が意識的に高麗へと改名
 国号の字数を二字に揃えた・・・
ーーーーー
 「鶏鳴狗盗(ケイメイクトウ)」
 「狐白裘(コハクキュウ)」=裘は動物の毛を外側にした毛皮の衣
               狐白裘は狐のワキの下の毛を
               集めて作られた裘
               狐裘は黄色であるが
               狐白裘は白色の珍品
  と
 「孟嘗君(モウショウクン)」・・・望史和得の訓?
  孟(子皿・たける)は
    君(尹口・インコウ)を
   嘗(なめる)・・・?・・・臥薪嘗胆・・・
  田文(デンブン)・・・氏=田、諱(忌み名)=文
  伝聞           田=狩猟地域
 ↓↑
 「アヌビス(Anubis・エジプト語ラテン文字転写=inpu・古代ギリシア語=Ἄνουβις (Ánūbis)」・・・
 ↓↑
  阿之美州(美作)・阿之尾州(尾張)・阿之備州(吉備)
 ↓↑
 「エジプト神話の冥界の神・リコポリスの守護神」
 「聖地の主人(nb-ta- djsr)」
 「自らの山に居る者(tpi-dju=f)」
 「ミイラを布で包む者(imiut)」
 などの異名、別名・・・
 ミイラ作りの監督官
 医学の神
 瞬足な足で魂魄(霊魂)を冥界に運ぶ
 天秤で死者の罪を量る
 犬またはジャッカルが
 墓場の死者を守っている神・・・
 ジャッカル・ジャコール
 胡狼・Jackal・犴(カン)、野犴(ヤカン)

 アヌビス⇔ジャッカル⇔フォックス
 きつね・狐・キツネ・・・
 木常=キツネ=記通音⇔フォックス(fox)
    「ずる賢い(sly)」
    「鶏が好物・雄ギツネは dog fox
          雌ギツネは vixen,bitch fox
          子ギツネは cub  



    「ひどく変色している=be badly foxed」?
 20世紀フォックス(20th Century Fox)
 20世紀フォックス映画(Twentieth Century Fox Film Corporation)
 (William Fox・出生名=Fried Vilmos)・・・フックス(Fuchs)
 ハンガリー系アメリカ人
 1879年1月1日~   1952年5月2日?   1952年5月8日?
 戊寅(己・丙・甲)⇔壬辰(乙・癸・戊)
 甲子(壬・ ・癸)⇔乙巳(戊・庚・丙)
 甲申(己・壬・庚)⇔戊申(己・壬・庚)⇔甲寅(己・丙・甲)
  午未=空亡
 フックス(Fuchs、Fucks、Fuks、Fux、Hooks)
 ヨーロッパ系の姓・Fuchs はドイツ語でキツネを意味
 装甲兵員輸送車=軍用運搬車両
 ↓↑
 ハイエナ(Hyenas)


ーーーーー
 642年
 百済国内で政変・・・?
 「百済義慈王(武王の嫡男)」により
 「百済武王(王妃は沙宅王后)」が潰され・・・?・・・
 その息子である
 「翹岐王」が島流しになり
 日本亡命・・・
 ↓↑
 百済 武王
 武王(580年?~641年)
 百済の
 第30代の王(在位は600年~641年)
 第29代法王の子
 諱は璋
 『三国遺事』王暦に
 武康、献丙の別名
 『隋書』に
 余璋の名
 武王=璋=武康=献丙=余璋
 ↓↑
 義慈王(599年~660年)
 百済の第31代
 最後の王(在位は641年~660年)
 諱は義慈
 『旧唐書』などには「扶余義慈」
 第30代の武王の嫡男
 母は不詳
 (新羅の真平王の娘=善花公主
  百済貴族出身=沙宅王后)という説・・・
 ↓↑
 百済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう)
 ?~持統天皇七年(693年)正月
 百済王族
 名は
 禅広王=余禅広
 百済の
 第31代国王
 義慈王の子
 冠位は
 正広肆、贈正広参
 「本田善光(ほんだよしみつ、本多善光とも)」
 が
 善光寺如来を
 信濃国に持ってきた・・・?
 科野国(信濃国)伊那郡若麻績里に住んだ
 「伊呂波字類抄」では
 若麻績東人(わかをみ の あずまんど)とも称される
 子に本田善佐
 ↓↑
 欽明天皇十三年(552年、一説に538年)
 百済の聖王(聖明王)が献上した
 天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が
 疫病流行のために
 物部氏によって
 難波の堀江(大阪or奈良県明日香村)に捨てられた
 推古天皇八年(600年)
 本田善光がそこを通りかかると
 阿弥陀如来像が水中から出現して背に乗った・・・
 信濃国に戻り家に安置し
 後に
 信濃国
 水内郡
 芋井郷(長野市)
 に移座し、如来堂を建立して祀った・・・
 ↓↑
 王子の豊璋王
 と
 禅広王(善光王)
 は
 人質として倭国に滞在
ーーーーー
 ひなもり・・・卑奴母離・夷守・・・防人(さきもり)
        雛 母離?・・・
        隋書俀国伝
        夷人(倭人)
     ・・・夷人 不知 里數 但計以日
     ・・・倭奴=俀奴
     隋書俀国伝=倭国伝
     俀⇔イ+妥(爫+女)
     イは妥(おだやか・やすらか・ダ・タ)
     妥協・妥結・妥当
     妥=ダ・タ
     拿・多・太・他・田・足・手
     拿=合+手=拏(本字・女又手)
     手を合わせ
     つかむ・つかまえる
     ナ・ダ・ナア
     とらえる・つかむ・ひく
     拿獲(ダカク)・拿捕(ダホ)
     ↓↑
    都於 邪靡堆 則魏志 所謂 邪馬臺者也
    古云去 樂浪郡境 及 帶方郡
    並 一萬二千里 在 會稽之東 與 儋耳相近
     ↓↑
    開皇二十年
    俀王
    姓
    阿毎
   (あまい)
    字
    多利思北孤
   (たりしほこ)
    號
    阿輩雞彌・・・闘鶏国造
   (あわけいみ)(つげのくにのみやつこ)
      雞     鶏=鷄=雞=にわとり・ケイ
    ↓↑        ↓↑
           大和国北東部を支配した国造
           都祁国造・都下国造とも
           祖先は神八井耳命で神武天皇の皇子
           綏靖天皇の兄
           弟に皇位を譲り
           神祇の奉斎者
      ↓↑  「闘鶏」氏
           姓は直(あたい)
           允恭朝に
           忍坂大中姫皇后に不敬があったため
      ↓↑   稲置姓に落とされた
           大和国山辺郡都祁
          (奈良県奈良市の旧都祁村近辺)
           本拠は坐摩神社(大阪市中央区)
           都祁水分神社
           祭神は
           速秋津比古命・大国御魂命
           天之水分神・国之水分神
           子孫
          「闘鶏大山主(仁徳朝の国造)」
           氷室の氷を初めて御所に献上し
           氷室の管理者となった 
           闘鶏御田=猪名部御田?
             ・・・猪名部⇔「犭(犬・獣)の者」
                   の「名の部」?
           雄略朝の大工・とび(鳶)の達人
           楼閣上を飛行するがごとく走った
     ↓↑    伊尼翼(冀?)=いなき=稲置?
    遣使詣闕
    上令所司訪其風俗 使者言
    俀王
    以天為兄
    以日為弟
    天未明時
    出
    聽
    政跏趺坐
    日
    出便停理務
    云
    委
    我弟
    高祖曰 此 大 無義理 於是 訓令 改之
    ↓↑
    王妻
    號
    雞彌(けいび)
    後宮有女六七百人
    名
    太子
    為
    利歌彌(りかみ)・・・カガうたび・・・足利
    多弗利(たふり)・・・おほブリ・・・・夷振り
    無
    城郭・・・
    有
    軍尼一百二十人・・・・イクサのアマ(海人・海部)
    猶 中国 牧宰(ボクサイ)古代官職・国司の別称
    八十戸置
    一伊尼翼(イニヨク・イニョク)
    如今里長也
    十伊尼翼
    屬一軍尼(クニ)
    ・・・
    無文字 唯刻木 結繩
    ・・・木に何を刻んだのか?
    ・・・
    又東
    至
    秦王國
    其人 同 於華夏 以為 夷洲
    疑不能明也
     ↓↑ ↓↑
        また東の秦王国に至る
        その人は華夏(中国)の
        夷洲と同じだが
        はっきりしたことはわからない
     ↓↑ ↓↑
        また東して秦王国に至る
        その華夏に同じ
        以て夷洲となすも疑うらくは
        明らかにする能わざるなり
     ↓↑ ↓↑
        疑不能明也
        疑=匕+矢+龴+疋
          匕+矢+龴+乛+ト+人
          うたがう・あやしむ・ためらう・しりごみする
          迷う・とまどう
        不能明也=明らかに出来ず(不可能)
        華夏≠夷州=台湾(タイワン・臺灣・台灣)?
        文明国≠夷州=未開で夷国・・・攘夷の対象
                 蝦夷  尊王攘夷
        「礼記」王制篇に
        「東方のことを夷という。夷とは根本の意である」
        大業四年(608)中国から裴世清が派遣
        林郎裴清=裴世清の見聞録・・・?
    ↓↑ ↓↑
    俀王
    遣小徳
    阿輩臺(あわたい)
    従數百人設儀仗鳴皷角來迎
    後十日又遣大禮
    哥多毗(うたび)
    従二百餘騎郊勞 既至彼都
ーーーーー
 魏志倭人伝
 『三国志』中の「魏書」第30巻
 「烏丸 鮮卑 東夷伝 倭人条」の略称
 …始度一海千餘里、至對馬國、
  其大官曰 卑狗・・・・・彦=比古・毘古?
  副曰   卑奴母離・・・夷守・防人?
       ひぬもり
       雛 守
ーーーーー
 鵯=卑+鳥・「鵯越(ひよどりごえ)」、「鵯崎(ときざき)」
   異体字、鹎・𨿵・𪂃
   簡体字、鹎
 鵯=ひよ・ひよどり・ヒ・ヒツ
   鵯鶋(ヒッキョ)」は、鳥の名
   カラス科の鳥
   ひよどり・ひよ・ヒヨドリ科の鳥
ーーーーー 
 ひなまつり・・・・鶵・卑の奴(女又)からの母離れ
 雛祭り・雛祭・・・鶏の雛
 旧暦の三月三日
 「桃の節句」
 江戸時代
 九月九日
 「重陽の節句」
 雛人形をもう一度飾る
 「後(のち)の節供」
 香川県
 三豊市
 仁尾町では、雛祭りは行わず、八朔に雛人形を飾る
 戦国時代に仁尾城が落城したのが
 旧暦3月3日
 兵庫県
 たの市
 御津町
 室津地区
 ひな祭りを旧暦8月1日
 戦国時代の永禄九年一月十一日(1566年2月1日)
 室山城主
 浦上政宗の次男
 清宗
 と
 小寺職隆の娘との間で挙げた祝言(結婚式)の夜
 龍野城主
 赤松政秀の急襲を受けて
 政宗は清宗もろとも戦死し、花嫁も亡くなり
 室山城は落城
 室津の人々は非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために
 3月3日ではなく、半年遅れの
 八朔に雛祭りを延期し
 町おこしの一環の「八朔のひな祭り」として復活
 ↓↑ ↓↑
 「雛祭り」
 雛祭り=「ひなあそび」
     平安時代
     川へ紙で作った人形を流す
    「流し雛=上巳の節句(穢れ払い)」
     として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」
     江戸時代
     女子の「人形遊び」と
     節物の「節句の儀式」が合体
     3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは
     安土桃山時代の
     天正年間以降・・・
     ↓↑
     江戸時代初期
     「立雛」
     「坐り雛(寛永雛)」が作られ
      男女一対の内裏雛を飾るだけの物
      人形に身代りさせるという
      祭礼的意味合いが強くなり
      武家子女など
      身分の高い女性の嫁入り道具の家財になった
      時代が下ると人形は精巧さを増し
      十二単の装束を着せた「元禄雛」
      大型の「享保雛」などが作られた
      金箔張りの屏風の前に
      内裏の人形を並べた
      享保年間から
      江戸幕府が倹約政策のとり
      大型の雛人形が一時禁止
      『御触書宝暦集成』十五では大きさも制限
      規制を逆手に取り
     「芥子雛」と呼ばれる精巧な
      小さな雛人形が流行した
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「羈縻(キビ)政策が適用された地域を羈縻州
  羈縻州の長官は
  唐に対しては一地方官吏で
  部族内部から見れば
  王または首長
  一般に冊封と対比されているが
  歴史的には
  冊封と対立しておこなわれたのではない・・・平行、同時
  羈縻の羈は馬の手綱
     縻は牛の鼻綱のことをさす」
 ・・・羈縻=キビ=吉備・驥尾・紀尾・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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高木の神を兼寛・・・脚気(かっけ・beriberi)の撲滅で海防

2018-07-25 01:09:29 | 古事記字源

 ・・・「日本史上の名前の変?」・・・「稗田阿礼(退きの卑の伝・蛙例、鴉令?)」、「太安萬侶」、「都怒我阿羅斯等=つぬがあらしと=都怒賀阿羅斯止」、「現人神=あらひとがみ=荒人神」、「磐鹿六鴈=いわかむつかり・磐史化睦掛理?」、「本牟智和気命=ほむちわけのみこと=品牟都和気命=ホムツワケノミコト=誉津別命(ホムツワケノミコト)」、「誉田別尊=ほむたわけのみこと=誉田別命=大鞆和気命(おおともわけのみこと)=応神天皇」、「筑紫磐井=つくしのいわい=竺紫君石井(つくしのきみいわい)」、「豊聡耳=上宮之厩戸豊聡耳命=法主王=豊聡耳聖=徳豊聡耳法大王=上宮太子聖徳皇=厩戸豊聰耳聖徳法王=上宮厩戸=厩戸皇太子」、「小野妹子=蘇因高」、「筑紫君薩夜麻(さやま・さちやま・さつやま)」、「土師富杼(はじのほど・恥の程)」、「鬼室福信」、「守 大石(もり の おおいわ)」、「阿部(布施)御主人」、「答本 忠節(トウホンチュウセツ)」、「阿部仲麻呂=朝衡=チョウコウ=晁衡」、「佐伯真魚」、「源順」、「紀貫之」、天皇の「大倭根子(ねこ)」、「多利思北(比)孤」、「阿輩雞彌」、「闘鶏国造」・・・ひよっこ・・・にわとり・・・ひよどり・・・復活の卵・・・
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」
 「鶏頭牛尾」・・・日本語熟語に替えたモノ?・・・「竜頭蛇尾」
 「寧為鶏口無為牛後(寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ)」
  (史記・蘇秦伝)
 戦国時代、秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙
 蘇秦が
 秦王に他の六国と同盟を結ぶ連衡策
 不採用され
 燕王らに合従策(六国が連合して秦と対決する策)を説いた
ーーーーー
 「祝詞(のりと・シュクシ)」
  及び
 「寿詞(よごと・ジュシ)」・・・
 「大倭根子天皇」・・・
 「根子」は、山城根子・浪速根子の類から、大田々根子
  に到るまで、ある地方の、
  神人の最高位に居る者の意味・・・
 「祝詞(のりと)
  と
  寿詞(よごと)とは、相互関係にある・・・
  根本は神よりのりくだすことばである・・・
  よごとは、臣従を誓ふ者が
  其氏族の守護霊を捧げて
  長者の齢を祝福する意味の詞であつた
  だから、
  寿詞ヨゴトは、
  実は
  齢詞ヨゴトである」・・・
 ↓↑
 「あきつみかみ
  あめのしたしろしめす
     大倭根 子(ネコ)天皇」
       コンシ=懇志・今史・今詞
       コンス=公司・艮州
       コンス=艮州・坤州
       コンズ=混亠(音)
       ね こ=猫・根っ子
       根=十一艮
         子=一了(始終)・了一(終始)
 「持統天皇の和風諡号
  高天原   廣 野姫  天皇
 (たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
  大 倭  根子-天之 廣野 日女尊
 (おほやまとネコあめのひろのひめのみこと)」
 「十二月二十六日
  大内山陵(天武天皇陵)に
  太上天皇合葬」
 ↓↑
 七  代 孝霊天皇 大日本根子(ネコ)彦-太瓊尊
 八  代 孝元天皇 大日本根子(ネコ)彦-国牽尊
 九  代 開化天皇 稚日本根子(ネコ)彦-大日日尊
 二十二代 清寧天皇 白髪武広国押
           -稚日本根子(ネコ)天皇
ーーーーー
 ・・・
 「先づ
  彦五瀬命を生みたまふ。
  次に稲飯命。
  次に三毛入野命。
  次に狭野尊
   (サノノミコト)。
  亦は神日本磐余彦尊
   (カムヤマトイワレヒコノミコト)
  と号す。
  狭野と所称すは、是、年少なくまします時の号なり。
  後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有す。
  故、復号を加へて、
    神 日本  磐 余 彦  尊
   (カムヤマト イワレ ヒコノミコト)
 と曰す」 
 ↓↑
 狭野神社
 第五代
 孝昭天皇の時代
 神武天皇が誕生した地
 (高千穂峰の麓の皇子原)に創建
 数度の霧島山の噴火により社殿焼失
 遷座の繰り返し
 慶長十五年(1610年)
 現在地に遷座
 薩摩藩主島津氏の崇敬で
 社殿改築・社領の寄進
 明治六年
 県社に列格
 大正四年
 官幣大社宮崎神宮の別宮に指定
 ↓↑ ↓↑
 1898年からは
 高木兼寛・・・高木 兼寛(たかき かねひろ)
 ↓↑     嘉永二年九月十五日(1849年10月30日)
        ~
        大正九年(1920年)4月13日
        海軍軍人
        最終階級は海軍軍医総監(少将相当)
        医学博士・「ビタミンの父」
        男爵
        東京慈恵会医科大学の創設者
 ↓↑    「脚気(かっけ・beriberi)」の撲滅に尽力
           脚気=ビタミンB1不足で発症
           本症は多発神経炎、浮腫(むくみ)
           心不全(脚気心、脚気衝心)を三徴とする
       「江戸患い」=脚気での病状
 ↓↑    高木神=『日本書紀』で「高皇産霊尊」
           『古事記』で「高御産巣日神
                 (たかみむすびのかみ)」
            と記録
       葦原中津国平定・天孫降臨の際には
       高木神(たかぎのかみ)という名で登場・・・
 ↓↑   「高木兼寛」は「高木神」になった・・・???・・・
 が宮崎神宮の大造営と同時に
 神武天皇ゆかりの
 狭野神社の社殿の改修
 第二次大戦後
 独立神社
 昭和51年(1976年)
 神社本庁の別表神社に列格
 霧島六社権現
 霧島神宮、東霧島神社
 狭野神社
 霧島東神社、霧島岑神社
 夷守神社は
 霧島岑神社へ合祀・・・夷守?
 ↓↑
 夷守=ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)
 3世紀~4世紀頃の
 邪馬台国の国境を守備する軍事的
 長の名称
 後に地名、駅名、神社名等
 ヒナモリの「モリ (守)」はカバネ・・・
 ↓↑
 夷守=ヒナモリ・北九州や東北にあって
    朝鮮や蝦夷の防衛に当たる者
     ↓↑
    標高300m内外の
    シラスや礫(れき)層の台地
    南部は霧島火山群
    北部は九州山地
    東と西は丘陵性の山地が
    都城盆地、加久藤(かくとう)盆地との境界
    古くは
    夷守(ひなもり)といわれた辺境守備の地
    延喜式に
    夷守駅の名が記録
    近世は薩摩藩に属し
    島津氏は地頭を置いて管轄
 ↓↑
 『魏志倭人伝』に
 邪馬台国に属する北九州の
 対馬国、一支国、奴国、
 不弥国の
 副官に
 「卑奴母離(ヒナモリ)」と記録
 ↓↑
 日守(ひもり)神社
 ↓↑
 『和名抄』
 越後国頸城郡に
 「夷守郷」を収め
 現在は
 新潟県妙高市に「美守(ひだもり)」
 新潟県上越市には
 美守村が存在・・・
 美濃国厚見郡(現在の岐阜県岐阜市茜部本郷)に
 比奈守(ひなもり)神社
 3~4世紀頃
 飛騨(ひだ)人に対する守備隊が駐屯した・・・
 卑奴母離
 は役職名
ーーーーー
 狭=狹
 狭=犭+夹=犭+夾=狭
   せまい・せばめる・せばまる・キョウ(ケフ)
   間隔や範囲がせまい
   狭隘 (キョウアイ)・狭軌・狭義
   狭窄 (キョウサク) ・狭小
   心にゆとりがない
   狭量・偏狭
   狭霧(さぎり)・狭山 (さやま)・狭間 (はざま) 
 ↓↑
 狭=犭+夹=犭+夾=狭
 狭域・広狭・狭隘・狭量・狭霧・手狭・狭小
 狭間・狭窄・狭軌・狭義・狭視野・狭帯域
 狭端体・狭心症・狭鼻猿類・血管狭窄・視野狭窄
 狭軌鉄道
 cramped・narrow・contract・tight
 窮屈な・狭い・契約
 ↓↑
 夾(キョウ)=人が両脇に人をかかえている形
       ものを挟む
 ↓↑
 「挟=旧字体は挾」
    夾=はさむ・ さしはさむ・キョウ
      さしはさむ
      夾撃
      挟=はさまる・まじる・夾雑
        たすける・夾輔(キョウホ)
        夾撃(キョウゲキ)・夾纈(キョウケチ)

 えなが=柄長=巧み鳥
     エナガ(柄長、学名:Aegithalos caudatus)
     スズメ目エナガ科エナガ属
     エナガ科は世界で7種類
     コウライシマエナガ(高麗島柄長)
     島柄長は北海道、サハリンに分布
ーーーーー
 狭
 犭+夹
 犭+二+丷+人
 犭+一+一+丷+人
 犬=犭(いぬ・けものへん)
ーーーーー
 狭筵(さむしろ)
 源氏物語関係の文献にしばしば現れる
 源氏物語の「巻名」
 「狭筵・狭席」など
 仮名表記の場合も多い
 宇治十帖に含まれる巻の異名、並びの巻・・・
 巣守や桜人等と同様に
 現行の54帖に含まれない・・・
 外伝的な巻の一つ・・・
ーーーーー
 「狭・峡・挟」は印刷文字で
 「狹・峽・挾」
 「狭・峡・挟」の字体で書いた・・・書体文字
 ↓↑
 峡=峽
 挟=挾
 狭=狹
ーーーーー
 アジサイ
 『万葉集』では
 「味狭藍(あじさい)」
 「安治佐為(あじさい)」
 「阿豆佐為(あじさい・和名類聚抄)」
 「七変化」、「八仙花」とも
 ↓↑
 漢字表記の
 「紫陽花」は
 詩人白居易が
 別の花に付けた名・・・
 源順がかん違いでこの漢字をあてた・・・?
 「紫陽花の
  八重咲く如
  やつ代・・・・八代・八津城・奴白?
  にをいませ・・匂いませ・丹負いませ・尼追いませ
         荷負いませ・尼甥ませ・弐追いませ
  わが背子・・・背子は背反の子?・・・橘奈良麻呂の変?
                    橘諸兄の子の乱?
  見つつ思はむ(しのはむ)
 (橘諸兄 万葉集巻20 4448)」
 橘諸兄
 初名は葛城王(葛木王)
 臣籍降下して
 橘宿禰
 のち
 橘朝臣姓
 敏達天皇の後裔
 大宰帥・美努王の子
 母は
 県犬養・橘三千代・・・・後に藤原不比等と結婚
 光明子(光明皇后)は
 異父妹
ーーーーー
 答本 忠節(とうほん ちゅうせつ)?・・・虎の巻き・あんちょこ
 ↓↑              「安直(アンチョク)」が変化
 ?~天平勝宝九年七月4日?(757年7月24日)
 医師・位階は外従五位下
 ↓↑
 天平勝宝九年(757年)六月
 忠節は
 紫微内相
 藤原仲麻呂
 に対する謀反計画へ
 大伴古麻呂が加担し
 小野東人を勧誘したことを知り
 忠節はこの計画について
 右大臣
 藤原豊成に報告
 豊成からは
 謀反加担者に教戒を加えて
 仲麻呂を殺害したりしない旨の回答を得た
 この経緯を薬の処方を訪ねるために
 忠節の元を訪れた
 巨勢堺麻呂に話したところ
 堺麻呂から
 藤原仲麻呂に密告
 謀反の動きを知りながら
 通告しなかったとして
 橘奈良麻呂らによる謀反の一味とみなされ
 7月2日に
 仲麻呂の命令を受けた
 高麗福信
 に追われて
 小野東人とともに追捕され
 左衛士府に拘禁
 ・・・獄死・・・(橘奈良麻呂の乱)
ーーーーー
 ・・・???・・・

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