日々雑感

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古賀邸の辯天さん

2011年09月19日 | Weblog
古賀邸の辯天さん : 11/09/14

日本演歌の大御所、古賀政男先生宅を30年以上も、前に、一度だけ訪問したことがある。お宅は小田急線代々木上原駅を降りて、すぐ近いところにある。
門から、玄関までは、少し坂になっていて、向かって左側には、先生がまつられていたであろう祠はが三つ四つあった。どの神仏をお祭りか。それは知らない。
玄関を入ると正面に、弁財天のふくよかな像を彫りこんだ額が、かかっている。この額の製作者は、有名な棟方志巧師である。

その弁天さんを彫るとき、棟方先生は、頭に締め縄をまいて、会話をしながら、時には、にこにこしながら完成された。彫刻されて行く弁天さんとの会話である。人の気配は無いところで、しゃべりながら彫り進めていく姿は、テレビで放映された。
僕はそれを見たので、今も鮮やかに、彫刻の様子を思い浮かべることができる。
耳に残っているその呟きは、口元と頬につける紅だった。現れた弁天さんは、おたふくのように、顔がふっくらとしてまん丸い。そのお姿のモデルは、弁天宗の
宗祖・智弁師らしい。生前にお二人は何回かあわれたようで、そのことは、後で聞いた。
片や宗祖とあおがれる宗教家。そしてもう一人は世界的に有名な彫刻芸術家である。
だから棟方先生は生き神様とあがめられた、「あの弁天さん」と会話を楽しみながら、口紅の色を赤く塗ってその色合いが弁天さんのお気に召しますか、いろいろと会話を重ねてこられたのだ。

僕がたずねた古賀邸は、現在JASRACが、使っているみたい。番地が同じである。古賀邸は、僕が見たもの姿で保存されているのだろうか。もしそうだとすれば、弁天さんの額は玄関の正面にかかっているはずである。

古賀先生が棟方先生に、依頼されたものかどうかは知らないが、信仰深いお二人のことだからおそらく茶飲み話にでも出たのだろう、
古賀先生は、僕が先ほど書いた弁天宗の学校。野球で有名な智弁学園の校歌の作曲をするという深い縁がある。

智弁学園は奈良校も和歌山校も、試合に勝つたびに古賀先生作曲の校歌がテレビ画面に流れる。

古賀政男 棟方志巧、智弁尊女 智弁学園。山田耕筰。松下幸之助。各々
それぞれが別個の存在だが、明らかにどこかでつながっている。それは、僕にはこの世の不思議を見せてもらっている感じがする。こういうのを不思議なご縁とでも言えば良いのだろうか。

ついでにいえば、生前の古賀先生は、直接お会いしたことは無いが、僕は学生時代に、山田耕筰先生に師事、して作曲を習ったことがある。
お二人は日本の音楽界を背負って立っていた人たちである。片やクラシック音楽界で、そして、片や、大衆音楽演歌の世界で。そしてお二人に共通していたのは、音楽だけではなく、お二人とも、神仏に心を捧げて名曲をこの世に、送り出されたことだ。

己の人生を見つめ、人の心を見つめながら音楽を作曲する奥義は神仏の世界に鳴っている音楽をつかみ取るということではないか。
また、不思議なご縁で、古賀先生が結婚されたときの、媒酌人は山田先生、ご夫妻である。そして、二人とも、音楽の神様弁財天を信仰されていたという事実がある。
こういうことを思うとき、人生とは目に見えない。縁で結ばれて、所どころで、その関係が顔を出す。それがおもしろい。松下さんは辯天宗境内にお茶室を建てておられる。
僕は目で眺め、この耳で話を聞いてきた。凡人には判らないところで一流の人々はつながっているのだ。







































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