日々雑感

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柳原白蓮の生き方

2012年09月11日 | Weblog
柳原白蓮の生き方

どんなに高位高官の家に生まれても、心の居場所がなければ、
表面はともかくも、心の中は複雑だろう。そしてそれが幼いときであれば有るほど
生育歴に禍根を残し、生涯心は穏やかでないだろう、と思われる。

美貌の歌人白蓮25才は、最初の結婚は離縁になり、実家暮らしをした後、25才年上の炭鉱主の主人、1911年飯塚で、 伊藤伝右衛門50歳と結婚した。
年齢の差もさることながら、彼は金こそ持っているが、いわゆる成り上がり者で、おそらく教養の面では、二人はおおきくずれていたことだろう。
負けん気、勝ち気の強い(と言うよりそうしなくては身の置き所がなかっただろうと思われる)彼女は正妻として、妾が同居という事実には何としても耐え難いものを感じていたに違いない。

10年の結婚生活に、活路を見いだせなかった彼女は、大胆にも主人伊藤伝右衛門に絶縁状をたたきつけて、それを朝日新聞紙上に発表した。いくら大正デモクラシーの風が吹いていようとも、おそらく世間はこの前代未聞の絶縁状に驚いたことだろう。
「私は今あなたの妻として、最後の手紙をさしあげます。金の力をもって女性の人格的尊厳を無視する。あなたに永久の決別を告げます。」ハチの一刺しである。
「同棲(結婚生活)10年の主人を、捨てて白蓮女史は情人のもとに走る」
.朝日新聞が紙上に載せた。

白蓮は大正天皇のいとこに当たる華族で、才色兼備で筑紫の女王と呼ばれ
文壇のアイドルになっていた。その彼女が、富豪のー夫人の座を捨てて、1学生のもとに走ればスキャンダルになり、兄は貴族院議員を引責辞職。私は華族から除籍になったと彼女は言う。

時代は大正デモクラシー。
社会改革を目指す宮崎龍介の情熱に、また彼は白蓮の境遇にそれぞれ思いを募らせて、やがて男女の中になる。
文壇に顔を出す、宮崎龍介は東京帝国大学新人会のメンバーで、孫文を援した大陸浪人宮崎とうてんの息子である。

彼女は後に相思相愛の関係を結婚に持ち込んで成就させて子供にも恵まれ、四人で平和に暮らした。推量するに彼女の生涯でこれほど安らいだ時期は無かったのではないか。愛する人と一緒になれるなら、富も名声もいらない。
おそらく彼女はこう叫んだ事であろう。そしてこの思いを結婚という形で結実させたのである。

宮崎龍介27歳で彼女よりは七つ年下。情熱的な東京帝国大学の学生。学生の下に走った白蓮を、伊藤はどう振る舞ったか。
伊藤伝右衛門は天皇に連なる妻を姦通罪にはといいづらく、白蓮を許し、喝采を浴びた。だが柳原家は怒り、彼女を尼寺や他の家に幽閉同然。龍介とは2年間離ればなれになる。ところが1923年関東大震災が運命の扉を開けた。
白蓮を預かっていた家は、被災したのに、柳原家からは何の便りもないが、宮崎家からは見舞いが来るのに感心し、彼女を宮崎に渡した。

白蓮は戦後平和運動に身を投じる。晩年は緑内障で失明し、隆介の介抱で、
1967年に81歳で世を去った。
辞世の句
いつしかに 80とせ生きて つかの間の 露の命の理をしる。

いくにあらず 帰るにあらず もどりにあらず
生けるこの身 死せるかこの身。

う~ん。彼女は単に美貌の女性だけではない。人間として非常にに強い信念を持って生きた人だ。それだけに人生は波風が立ったことだろう。
余計なことだが、彼の息子は戦死したそうな。彼女の胸中はどんなものであっただろうか。
京都で催された、柳原白蓮展を見たとき時の僕の感想である










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