少し風が冷たいが天気も上々、本日はかなり以前から気になっていた釜石市の館跡、狐崎館跡を探訪して参りました。
釜石湾から
遠野の歴史はおろか、大槌、南部氏、伊達氏にも関連ある歴史伝承がある狐崎館、その中でも遠野との関わりが強く、かなり興味が湧き上がる館の存在でもありますが、その場所の特定も事績も早くから知っていたにも関らず、未だ現地探訪は実施していなかったこと、また先月、小友の鮎貝館探訪で偶然に出会った同好の士、盛岡のT氏がこの夏から何度となく探訪調査を繰り返しているとかで、その内容を聞くと早期に小生もまずは探訪しなければ・・・・と思っておりました。
狐崎館跡概要
午前10時前、自宅を出発、現地には10時30分頃に到着。
館の大手は海側の浜町とのことらしいが、駐車スペース等を考慮して国道45号脇の元釜石税務署(現市役所分庁舎)に駐車し、寶樹寺の鐘楼、山の急傾斜に張り付く墓地を通って、搦手側となると思いますが、急斜面を登って行く・・・。
墓地南端、上部の帯郭
墓地の南端斜面には4段程の帯郭が飛び飛びに配置されていたが、さらに上部にはみえず、そのまま急斜面を登っていくと、山頂部に続く尾根に出た。
東斜面には小さめの帯郭も確認できるが、その先は峰が海側に大きく突き出した形状があって、どうやら浜町や最近釣りに興じた新浜町のT字防波堤からみえる崖崩れ防止の処置が施された斜面の上方らしい・・・・。
眼下には浜町や釜石湾がきれいに見渡せる。
一度、戻ってさらに上方に進むと本丸と思われる平場に行き着いた。
遠野では標準サイズの2~3段の帯郭が配置されており、さらに高い位置には、テレビか電気か、何かの中継塔らしき工作物があった。
主郭部分(山頂)
北側である背部は一重の堀切で尾根を断ち切っている、遠野型であれば、2重、3重の堀切がみられますが、尾根沿いを次ぎの山頂まで行くも確認できず、どうやら一重の堀のみらしい。
堀切
主郭部の東側にも峰が延びており、こちらも南斜面には4段程度の帯郭が配置されているが、平場も小さめである。
西側(国道沿い)は急傾斜地で帯郭が所々に2~3段程度配置されているのが確認できる。
全体的には北から南へ傾斜する平場、東西に数段の帯郭を配置、西、南、東は急斜面といった山城で、東側に少しせり出た2箇所の小さな郭を持つ形状とみました。
西側斜面の帯郭
その昔、激戦が繰り広げられた館跡でもあり、魔除けの瓢箪と共に菩提寺の御守を身につけて探訪いたしました・・・汗
考えてみると、館跡山野の下にトンネル(国道45)が通っているんですよね。
○狐崎館の歴史・・・阿鼻叫喚、権力者に葬られた歴史
館主を阿曾沼家臣、狐崎玄蕃と伝えられ、後に附馬牛に移されたとあるも、狐崎氏に関る内容は不明である。
さて、狐崎館のもうひとつの伝承には、大きな戦いで館は落城したと語られるも南部氏側では館主を新谷肥後(荒谷)と伝えるのみで、その事績に関する記述はない。
伊達氏関連で確認できるその事績とは・・・・。
慶長6年(1601)7月、釜石狐崎館の新谷肥後は、葛西旧臣の鹿折信濃(本吉郡鹿折村忍城主・現気仙沼市浪枝)とその配下、金堀衆、その他葛西氏に縁ある武士達を狐崎館に集め、伊達政宗に対して武装蜂起をしたというものであった。
伊達政宗は気仙郡代官、中島大蔵信貞に狐崎館攻めを命じ、その旗下には磐井郡東山の大肝入、白石豊後、大原の大肝入熊谷元重、気仙の大肝入臼井因獄他野武士、足軽、総勢3百人余をかき集め、さらに政宗の旗本たる岩出山の直臣達も加わって、海路と陸路にて釜石へ進撃したと伝えられる。
対する狐崎篭城軍は160名余といわれ、壮絶な戦いが繰り広げられるも、海路から上陸した伊達勢が攻撃に加わると、狐崎館側は敗色濃厚となり、160名余のほとんどが討ち取られたり、捕縛されて首を刎ねられたと伝えられる。
館跡の東側には首切沢という地名が残され、さらになんとか逃れた葛西氏の旧臣葛西六郎は水海海岸辺りまで逃げたが、共に逃れた自らの郎党によって毒殺されたと伝えられる。
伊達勢の敗者に対する措置は凄惨を極め、打首はもとより全員の鼻を削いで塩漬けにして江戸表へ移送したとか・・・・。
(貞山公尊伝・巻21・慶長6年條)一部参照
さながら大軍相手に砦と命運を共にしたアラモ砦みたいな雰囲気ですが、この後、遠野奪還の戦いを挑んだ阿曾沼広長(慶長5年、遠野を追放された遠野領主、伊達政宗の後援のもと、気仙勢を借受けて3度遠野へ迫る)は、三度の遠野奪還戦を挑むも遂に夢は叶わず、この戦いに与力するため遠野へ進駐していた南部勢によって狐崎館は、奪還される。
南部氏支配の釜石へ他領の伊達氏が一揆鎮撫に軍勢を動かすのも何処か不自然でもあり、これを伊達政宗による関ヶ原の戦いの混乱に乗じた北侵の野望によるものとの見解や、実は一揆を扇動していたのは政宗その人で対南部氏の為に利用されたのは新谷肥後や鹿折信濃だった、味方であった伊達勢に突如攻められ、口封じをされたとの見解も存在する。
いずれ釜石狐崎館の戦いは史実であったろうと思いますし、常道として考えれば、狐崎館は南部利直、遠野謀反軍の鱒沢広勝等によって派遣され守っていたものと思います。
伊達政宗による北侵の野望といったことだったのではないでしょうかね。
結局、釜石は南部氏の支配地として確定し、後に謀反側で名を残した平清水駿河の知行地となっている。
館主である新谷氏は本姓を菊池氏と伝えられ、新谷氏は平清水氏と同族、或いは平清水駿河の近親者といった見解も存在しますが、確定には至らず・・・。
いずれ、鉄の歴史を伝えてきた釜石、鉄の町釜石、これが一番でもありますが、その昔、中世の頃は遠野郷の一部とも語られ、阿曾沼氏や大槌氏が大きく関っていた時代があったものと考えております。
釜石湾から
遠野の歴史はおろか、大槌、南部氏、伊達氏にも関連ある歴史伝承がある狐崎館、その中でも遠野との関わりが強く、かなり興味が湧き上がる館の存在でもありますが、その場所の特定も事績も早くから知っていたにも関らず、未だ現地探訪は実施していなかったこと、また先月、小友の鮎貝館探訪で偶然に出会った同好の士、盛岡のT氏がこの夏から何度となく探訪調査を繰り返しているとかで、その内容を聞くと早期に小生もまずは探訪しなければ・・・・と思っておりました。
狐崎館跡概要
午前10時前、自宅を出発、現地には10時30分頃に到着。
館の大手は海側の浜町とのことらしいが、駐車スペース等を考慮して国道45号脇の元釜石税務署(現市役所分庁舎)に駐車し、寶樹寺の鐘楼、山の急傾斜に張り付く墓地を通って、搦手側となると思いますが、急斜面を登って行く・・・。
墓地南端、上部の帯郭
墓地の南端斜面には4段程の帯郭が飛び飛びに配置されていたが、さらに上部にはみえず、そのまま急斜面を登っていくと、山頂部に続く尾根に出た。
東斜面には小さめの帯郭も確認できるが、その先は峰が海側に大きく突き出した形状があって、どうやら浜町や最近釣りに興じた新浜町のT字防波堤からみえる崖崩れ防止の処置が施された斜面の上方らしい・・・・。
眼下には浜町や釜石湾がきれいに見渡せる。
一度、戻ってさらに上方に進むと本丸と思われる平場に行き着いた。
遠野では標準サイズの2~3段の帯郭が配置されており、さらに高い位置には、テレビか電気か、何かの中継塔らしき工作物があった。
主郭部分(山頂)
北側である背部は一重の堀切で尾根を断ち切っている、遠野型であれば、2重、3重の堀切がみられますが、尾根沿いを次ぎの山頂まで行くも確認できず、どうやら一重の堀のみらしい。
堀切
主郭部の東側にも峰が延びており、こちらも南斜面には4段程度の帯郭が配置されているが、平場も小さめである。
西側(国道沿い)は急傾斜地で帯郭が所々に2~3段程度配置されているのが確認できる。
全体的には北から南へ傾斜する平場、東西に数段の帯郭を配置、西、南、東は急斜面といった山城で、東側に少しせり出た2箇所の小さな郭を持つ形状とみました。
西側斜面の帯郭
その昔、激戦が繰り広げられた館跡でもあり、魔除けの瓢箪と共に菩提寺の御守を身につけて探訪いたしました・・・汗
考えてみると、館跡山野の下にトンネル(国道45)が通っているんですよね。
○狐崎館の歴史・・・阿鼻叫喚、権力者に葬られた歴史
館主を阿曾沼家臣、狐崎玄蕃と伝えられ、後に附馬牛に移されたとあるも、狐崎氏に関る内容は不明である。
さて、狐崎館のもうひとつの伝承には、大きな戦いで館は落城したと語られるも南部氏側では館主を新谷肥後(荒谷)と伝えるのみで、その事績に関する記述はない。
伊達氏関連で確認できるその事績とは・・・・。
慶長6年(1601)7月、釜石狐崎館の新谷肥後は、葛西旧臣の鹿折信濃(本吉郡鹿折村忍城主・現気仙沼市浪枝)とその配下、金堀衆、その他葛西氏に縁ある武士達を狐崎館に集め、伊達政宗に対して武装蜂起をしたというものであった。
伊達政宗は気仙郡代官、中島大蔵信貞に狐崎館攻めを命じ、その旗下には磐井郡東山の大肝入、白石豊後、大原の大肝入熊谷元重、気仙の大肝入臼井因獄他野武士、足軽、総勢3百人余をかき集め、さらに政宗の旗本たる岩出山の直臣達も加わって、海路と陸路にて釜石へ進撃したと伝えられる。
対する狐崎篭城軍は160名余といわれ、壮絶な戦いが繰り広げられるも、海路から上陸した伊達勢が攻撃に加わると、狐崎館側は敗色濃厚となり、160名余のほとんどが討ち取られたり、捕縛されて首を刎ねられたと伝えられる。
館跡の東側には首切沢という地名が残され、さらになんとか逃れた葛西氏の旧臣葛西六郎は水海海岸辺りまで逃げたが、共に逃れた自らの郎党によって毒殺されたと伝えられる。
伊達勢の敗者に対する措置は凄惨を極め、打首はもとより全員の鼻を削いで塩漬けにして江戸表へ移送したとか・・・・。
(貞山公尊伝・巻21・慶長6年條)一部参照
さながら大軍相手に砦と命運を共にしたアラモ砦みたいな雰囲気ですが、この後、遠野奪還の戦いを挑んだ阿曾沼広長(慶長5年、遠野を追放された遠野領主、伊達政宗の後援のもと、気仙勢を借受けて3度遠野へ迫る)は、三度の遠野奪還戦を挑むも遂に夢は叶わず、この戦いに与力するため遠野へ進駐していた南部勢によって狐崎館は、奪還される。
南部氏支配の釜石へ他領の伊達氏が一揆鎮撫に軍勢を動かすのも何処か不自然でもあり、これを伊達政宗による関ヶ原の戦いの混乱に乗じた北侵の野望によるものとの見解や、実は一揆を扇動していたのは政宗その人で対南部氏の為に利用されたのは新谷肥後や鹿折信濃だった、味方であった伊達勢に突如攻められ、口封じをされたとの見解も存在する。
いずれ釜石狐崎館の戦いは史実であったろうと思いますし、常道として考えれば、狐崎館は南部利直、遠野謀反軍の鱒沢広勝等によって派遣され守っていたものと思います。
伊達政宗による北侵の野望といったことだったのではないでしょうかね。
結局、釜石は南部氏の支配地として確定し、後に謀反側で名を残した平清水駿河の知行地となっている。
館主である新谷氏は本姓を菊池氏と伝えられ、新谷氏は平清水氏と同族、或いは平清水駿河の近親者といった見解も存在しますが、確定には至らず・・・。
いずれ、鉄の歴史を伝えてきた釜石、鉄の町釜石、これが一番でもありますが、その昔、中世の頃は遠野郷の一部とも語られ、阿曾沼氏や大槌氏が大きく関っていた時代があったものと考えております。
何とか復活して帰ってきました。
この館も今回見ることができたら見てみたいですね。
遠野入りの細部は後程メールにて・・・。
ご苦労様でした。
それと病み上がりのようですが、無理せずまずは体調を整えられてくださいね。
さて、狐崎館、遠野の館の標準といった雰囲気ですが、結構きつい斜面でもあります。
遠野が積雪が多い場合は三陸沿岸方面の館を考えております。
只今検討中につき、藤九郎さんのメール到着次第、返信にてお伝えいたします。
狐崎館、なかなか難易度も高そうですね。
三陸方面というのも今まであまり見たことがないので魅力的ですね。
いつもの如く斜面を斜めにジグザグに登れば楽勝でもありますが、割と急斜面なんですよね。
でも専門に通って調べられている方もおりますから、未発見の郭の存在も明らかになるかもしれません。
好感度は良いのですが、やはり斜面が・・・汗
いずれにしてもこんな孤塁で蜂起された方々の思いが逡巡します。政宗公(渡辺謙さんのイメージ)にほだされた?生活のためか?耳を斬られた面々は何を思ったか?
狐崎館は遠野では標準サイズといったところですが、海抜0メートルからみた場合は標高120メートルを越える山野、やはり高く見えますね。
配役は味のある名優で揃えてますね・・・笑
伊達政宗の策謀に翻弄されるも冷静に立ち振舞う南部利直(村上弘明)、対する遠野奪還に燃える阿曾沼広長(東山紀之)、婿殿を献身的に支える義父世田米広久(藤岡弘)・・・・笑
仙台の帰り際仙台市史伊達政宗文書№4を購入。400年以上前の人物なのに手紙だけで4000通以上も残るとは
いかに愛され筆まめな人物だったか察します。
おそらく広長公や孫八郎どんのところにも手紙はきたのかも?
時折、我々にしかわからない配役設定、面白いですからまたお願いします・・・笑