見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

仙台観光:東北歴史博物館、宮城県美術館

2023-06-11 19:10:21 | 行ったもの(美術館・見仏)

東北歴史博物館 特別展『東日本大震災復興祈念 悠久の絆 奈良・東北のみほとけ展』(2023年4月15日~6月11日)

 FaOI(ファンタジー・オン・アイス)宮城の金曜公演のチケットが取れたときから、翌日は少し観光して帰ろうと計画していた。土曜は、まず多賀城碑を訪ねてから、同館を参観。本展は奈良と東北の寺宝60件(展示替えあり)を展示するもの。見どころのひとつ、唐招提寺の鑑真和上坐像の展示が終わっていたので、その旨、注意の貼り紙がしてあった。

 冒頭には、厳しい顔つきで逞しい肉体を持つ薬師如来立像(唐招提寺)。「奈良のみほとけ」は唐招提寺からの出陳がいちばん多かったように思う。唐招提寺の持国天立像・増長天立像と福島・勝常寺の持国天立像・増長天立像が並んだところは嬉しかった。どちらも丸っこくてかわいい(勝常寺の四天王像はときどき東博でも見るもので、昨日6/10に行ったら広目天立像が出ていた)。あと、鑑真和上は御身代わり像が出ていた。墨画の柳の襖を背景にめぐらせたしつらえもとてもよかった。西大寺からは、興正菩薩(叡尊)坐像とその納入品。忍性菩薩坐像は、神奈川・極楽寺のものがいらしていた。よく見慣れた、称名寺の絵画『忍性菩薩像』もあり。中宮寺の『天寿国繍帳』が出ていたの予想外で、ちょっと得をした気分になった。

 しかし、やはり私の喜びは「東北のみほとけ」をまとめて見ることができたこと。福島・勝常寺の薬師三尊像は、脇侍も含め、視線を下に落として風雪に耐えるような、沈鬱で厳粛な表情に惹かれる。一度だけ現地で拝観したのはいつだったか。2015年に東博の『みちのくの仏像』で拝見しているようだ。福島・新宮熊野神社の文殊菩薩騎獅像(鎌倉時代)は初めて見た。「会津十三観音」に含まれるが、喜多方市に属する。獅子も含めた高さは3メートル近い。古い口コミでは、拝観者は獅子のお腹の下をくぐることができたそうだ。ピンと尻尾をはね上げた獅子がうれしそうで、愛嬌と躍動感がある。そういえば、文殊騎獅像の獅子には、尻尾を上げているタイプと垂らしているタイプがあることに気づいた。あと、宮城・龍宝寺(仙台市内、伊達家の祈願寺)に清凉寺式の釈迦如来立像(鎌倉時代)が伝わっているのも興味深く思った。

 このほか、回廊や別の展示室で「奈良大和路」の歴代仏像ポスターの展示や、土門拳の仏像写真の展示も行なわれている。また、映像展示室では、唐招提寺の如来形立像(いわゆる唐招提寺のトルソー)を中央に据え、その背後と左右の壁面に東日本大震災から今日までの歩みの映像を投影する試みがされていた。

■東北歴史博物館 総合展示室

 旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を紹介する総合展示も興味深く参観した。縄文時代のコーナーにいた縄文犬。前頭部から鼻先に段がなく(オオカミと同程度)精悍な顔つきをしているとのこと。

 やがて起源前3世紀に稲作の技術が伝わり、弥生時代に移行するわけだが、北海道の歴史に多少なじんだ私としては、どうして東北地方は弥生時代に移行したんだろう?というのが疑問である。小さなパネルには「この時代に関して、南部はともかく、北部は冷涼な気候のため米作りは長く継続しなかったとする意見もあります。しかし、縄文時代は確実に終わり、東北地方全体は農耕生活を基礎とする弥生時代になったのです」という、とりあえず事実に即した説明が書かれていた。

 そして古代、中世、近世、それぞれ面白かったが、テンションが爆上がりしたのは、近現代(昭和40年代)の雑貨屋の復元展示。私は東京東部の生まれだが、こういうお店、あったあった!お菓子(量り売り)や菓子パンは、お店の人に紙袋に入れてもらって買う時代だった。

 こちらは昭和30年代の電気製品。右側のジューサー、同じタイプのものが家にあった気がする(父親が家電メーカーの社員だったので、わりと新しい製品が家にあった)。

 テーマ展示の「村におけるワラの神々」から、虫送り行事に使われるムシ。埼玉県鶴ヶ島市の「脚折雨乞(すねおりあまごい)」の龍蛇(りゅうだ)を思い出した。大きさは全然違うけれど、造形はつながっているように思う。

宮城県美術館 第40回全国都市緑化仙台フェア開催記念『伊達政宗と杜の都・仙台-仙台市博物館の名品』(2023年4月26日~6月18日)

 仙台へ戻って同館へ。大規模改修工事で閉館中の仙台市博物館が収蔵する名品から、伊達政宗と仙台城の歴史に関わる資料を展示し、あわせて、江戸時代の絵図などに描かれた「杜の都」のルーツとなる景観についても紹介する。仙台市博物館は、2008年に一度だけ来たことがあり、充実したコレクションが印象に残っていた。冒頭には伊達政宗所用の『黒漆五枚胴具足』。と思ったら、重文のホンモノは前期展示のみで、同型の別物だった(2008年に来たときもこっちを見ている)。

 「慶長遣欧使節団」を紹介するコーナーには、キリスト磔刑図に手を合わせる上半身の『支倉常長像』(1615年頃)が出ていた。画面の剥落や横皺は、枠から外して巻いた状態で隠匿されていたためだという。前期に出ていた『ローマ教皇パウロ五世像』(支倉常長一行が謁見した教皇像、常長が帰国後に伊達家に献納)も見たかった。あと、高田力蔵模写の小さな『支倉常長像』も出ていた。このひとは1972年、仙台市の依嘱でイタリアへ渡り、ローマ・ボルゲーゼ宮殿にある『支倉常長像』を模写したのだな(原品は大きい)。

 この日は前日と打って変わった好天で、どんどん気温が上がっていた。羽生くんファンの間で大盛り上がりだった「シーラカンスモナカ」は姿を拝むことも叶わず、定番の「飲むずんだ」(喜久水庵)で糖分を補給し、帰京の途に着いた。

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アイスショー"Fantasy on Ice 2023 宮城"

2023-06-10 20:49:52 | 行ったもの2(講演・公演)

Fantasy on Ice 2023 in 宮城、初日(2023年6月2日 17:00~)

 今年もアイスショーFaOI(ファンタジー・オン・アイス)の季節が巡ってきた。昨年のチケット争奪戦には泣かされたが、プロ転向を表明した羽生くんが、矢継ぎ早に新たなアイスショーを立ち上げたこともあって、FaOIへの注目は、少しクールダウンしたように思う。それでも、やっぱり土日のチケットは入手困難。宮城公演は金曜しか当たらなかった。私は在宅で12:00まで仕事をしたあと、東京駅から新幹線で仙台に向かった。新幹線の車中でもPCを開いて仕事の続きをしていた。

 この日は台風2号の接近で、線状降水帯が発生し、山陽新幹線や東海道新幹線の運転見合わせが発生する大雨になった。まあ神戸や静岡の公演に当たらなくて幸いだったかもしれない。仙台駅からシャトルバスで、利府町のセキスイハイムスーパーアリーナに到着。FaOI 2019公演で来たときは、真夏のような青空で、お祭りみたいな露店の列をのぞいてまわるのが楽しかった思い出がある。今回は、サブアリーナに駆け込んで雨宿り。そのあと、少し開場を早めてくれたので、アリーナに移動した。座席は東側スタンドA席で、いちばんショートサイド寄り(ステージから遠い)のブロック。

 Aツアー(幕張、宮城)の出演者を書き留めておく。男子は、羽生結弦、織田信成、田中刑事、友野一希、山本草太、ステファン・ランビエル、ハビエル・フェルナンデス、ジョニー・ウィア。女子は、荒川静香、三原舞依。アイスダンスはパパシゼ(パパダキス&シゼロン)、ライラ・フィア―&ウィル・ギブソン。それにエアリアル(フライング・オン・アイス)のメアリー・アゼベド&アルフォンソ・キャンパと、AiRY JAPAN with BLUE TOKYOのチーム。アーティストはDA PUMPのISSAとKIMI、夏川りみ、福原みほ、バイオリンのNAOTO、そして音楽監督は鳥山雄司。

 私が長年、FaOIをお気に入りにしてきたのは、海外スケーター(特に男子)の演技を見ることが目的だった。それでいうと、今年の布陣はちょっと寂しい。もちろん、久しぶりのフェルナンデスは品よくドラマチックでカッコよかった。ランビエルは前半がマーラー交響曲第5番、後半が「Simple Song」(韓国のソプラノ歌手スミ・ジョーの歌唱)の2プロ。どちらも拍手さえためらわれる至高の演技だった。ゆっくりした一蹴りから、滑らかな軌跡が氷上に生まれ、それが永遠に続いていく。美しい夢を見ているようだった。

 今年でプロ引退を表明しているジョニーは前半がなつかしい「Creep」、孔雀のような虹色の衣装だった。後半は、これもなつかしいレディーガガの楽曲で始まり、しっとり終わる「clair de lune」、白鳥をイメージした純白の衣裳。全盛期に比べれば、体型も変わり、動作もモタつき気味だけど、やっぱりオンリーワンの魅力がある。フィギュアスケートって、少なくともアイスショーでは、こういう男女を超越した表現がありなんだ、ということを教えてもらった。本当にありがとう。

 あとはパパシゼ。前半のトリでは、福原みほさんの生歌「I Will Always Love You」(ホイットニー・ヒューストンの名曲)とコラボの王道プロ。後半の「In Line」は「机プロ」が代名詞になっているみたい。会議室にあるような長机(に見えた)を氷上に持ち出し、これを挟んで二人が演劇的な演技を繰り広げる。机を叩いて言い争ったり、座ったり、寝そべったり。もちろんダンスの見せ場も十分にある。

 荒川静香さんは、年々凄みと深みを増している気がしている。特に後半の「I’d Give My Life for You」(ミス・サイゴンから)は、戦場を思わせるヘリコプターの音、赤い照明から始まる。昨年の「ひまわり」もそうだったが、大きく感情が揺さぶられるプロだった。

 大トリの羽生くんはDA PUMPとコラボの「if…」。大きく身体を使って、激しく動く動く。最後は両足を前後に開脚した決めポーズ。ちょっとおばさんはついていけてないかもしれないが、若い子たちが大喜びだったので何より。そのあと、群舞の「USA」は分かりやすくノリノリで可愛かった。

 今回、ステージの一部がリンクの中央に移動する仕掛けを使っていて、賛否はあったけど面白かった。あと「AiRY JAPAN with BLUE TOKYO」のエアリアルも私は楽しめた。これから出演者も観客も代替わりしていくと思うので、いろいろ試してみていいと思う。でも、会場アナウンスが、いつもの声の方(蒲田さん)から変わっていたのは、ちょっと寂しかった。終演後は雨も小降りに。仙台駅前で遅い夕食を食べ、1泊した。

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「私たち」はなにものか/宮本常一(畑中章宏)

2023-06-08 22:22:06 | 読んだもの(書籍)

〇畑中章宏『今を生きる思想:宮本常一:歴史は庶民がつくる』(講談社現代新書) 講談社 2023.5

 はじめに「民俗学」という学問について、著者は次のように解説する。人文科学は「私たちはどこから来たのか」「私たちはなにものか」「私たちはどこへ行くのか」という命題を追究するものだ。「私たち」の範囲は学問領域によって異なるが、柳田国男は、20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」と措定して「日本民俗学」を立ち上げ、「私たち」の起源・定義・未来を追究した。このとき柳田は「心」を手がかりにしたが、「もの」を民俗学の入り口にしたのが宮本常一(みやもと つねいち、1907-1981)である。

 なるほど、この整理は分かりやすい。しかし宮本の民俗学というと、私は「もの」(民具研究)よりも、旅、聞き書き、座談、フィールドワークの人というイメージが強い。本書も代表作『忘れられた日本人』を読むことから、宮本へのアプローチを始めている。この本は読んだかなあ。私が民俗学に強い関心を持っていたのは学生時代の80年代なので、よく覚えていない。都会育ちだった私には、宮本の本に描かれる、漁村や農村、さらには村落共同体の外側で生きる人々の姿は、あまりにも遠すぎて、共感できなかった。

 今の年齢になってようやく、日本列島に生きる人々には多様な暮らしぶりがあること、多様性を前提としつつも、がむしゃらに働き、いたわりあいながら、つつましく健全な暮らしを営む「庶民」というカテゴリーに括ることができることが、私にも理解できるようになった。宮本は、庶民の立場から庶民の歴史を書くことを志していたという。

 前近代の日本人は、稲作に携わってきた人口が多数を占めることから、移動が少なかったように思われがちだが、宮本は移動する庶民の姿を多数記録している。飢饉や自然災害や、両親の死去などの個人的な理由で食いつめた人々は、食いつなげる場所を求めて移動し、「乞食」になって流浪したり、別の土地に住み着いたりした。共同体の側から見れば、外側から来るものの刺激を絶えず受け、刺激を取り入れていた。つまり「共同体」(人々が価値を共有する世界)と「公共性」(異質な価値観を抱く人々が共存する、オープンな空間)の絶え間ない往来の歴史があったのだ。現在の日本では、国外からの移民・難民の受入れが大きな課題になっているが、著者の言うとおり、私たちの多くが「移動する人々」(あるいはそれを受け入れた人々)の子孫であることに思いをめぐらせてほしいと思う。

 宮本の記録した「庶民」の世界は、もはや消え去って跡形もないだろう、と感じるところもある。祖先から受け継いだ知識(伝承)は「公」のものだから、私見や粉飾を加えることをしてはならない。維新以前に生まれた老人には、まだ古い伝承形式が保たれていたというが、令和の現代では、無字社会での伝承の意味を想像するのも困難である。また、これは都会(大阪)の話だが、宮本が18歳の頃というから1920年代、文字を知らない女性たちに恋文の代筆を頼まれたとか、大きな橋の下には「乞食」の集落があったというのも興味深かった。

 また宮本は、東日本は同族集団が基本で、縦の主従関係による家父長的な上下の結びつきを特徴とするが、西日本は、フラットな横の平等な関係を特徴とするという。寄合いや一揆のような横の組織は西日本で発達し、若者組・娘組のような年齢階梯制(これはフラットな組織の例なのか?)は東日本では非常に希薄だという。これは実感がなくて、是非を判断できないが、覚えておこう。

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「唐の中華」の誕生/中華を生んだ遊牧民(松下憲一)

2023-06-06 22:42:17 | 読んだもの(書籍)

〇松下憲一『中華を生んだ遊牧民:鮮卑拓跋の歴史』(講談社選書メチエ) 講談社 2023.5

 このところ、遊牧民に注目した中国史の本(私にも読めるような一般向けの教養書)が次々に出ていて、どれも面白い。本書は鮮卑拓跋部と呼ばれる遊牧集団の歴史を概観する。

 鮮卑は1世紀頃、モンゴル高原にした匈奴が衰えたあとに登場する。2世紀頃、檀石塊という英雄が現れ、一大国家を形成するが、やがて各地に部族長が自立する。伝承では、黄帝の孫が「大鮮卑山」に封健され、その子孫が拓跋氏を称したと言われている。北魏の世祖太武帝が使者を派遣して(拓跋氏の)先祖を祀らせたという記事が『魏書』にあり、1980年、内モンゴル自治区の嘎仙洞(かっせんどう)で史書と一致する碑文が見つかっている。しかし、黄帝の子孫という伝承が中華とのつながりを演出するためであるのと同様、鮮卑を強調するのも、遊牧世界の正統性を主張し、慕容に対抗するためではないかと著者は推測する。

 3世紀後半、神元帝は、各地の部族を吸収して拓跋部を中心とする部族連合体(拓跋国家)を築き、盛楽に拠点を移した。本書には、著者が2010年に訪問したという盛楽博物館が紹介されており、写真を見て、あっと思った。私も同じ2010年にここを訪ねたことがあるのだ。著者のいう「余談」も懐かしく思い出した。さて、神元帝の死後、拓跋国家は分裂し、華北は雑多な異民族が興亡を繰り返す五胡十六国時代に突入する。拓跋部は「五胡」に数えられているが、北魏の前身である拓跋国家の代国は「十六国」に含まないのが通例であるという。代国は西晋に封健されることで、中華世界の一員となった。

 代国は前秦の攻撃を受けて瓦解するが、代王の世孫・拓跋珪は部族長たちに推されて即位し、国号を魏に改める。独孤部、賀蘭部、鉄弗部を従え、慕容部の後燕を平定した拓跋珪は皇帝(道武帝)となった。平城(大同)を首都に定め、宮殿を建設し、儀礼や制度を整備した。当初はさまざまな点で遊牧民的な要素を残していたが(西郊祭天、子貴母死、金人鋳造!?)次第に中華王朝の体面を整えていく。そのターニングポイントである「部族解散」の評価には議論があり、現在は部族の再編と見る説が有力だという。あらためて五胡十六国から北魏の歴史を読んで、この時代は、中華ファンタジー(特に冒険アクション系)の時代設定に取り込まれているように思った。

 5世紀前半、北魏太武帝は華北を統一し、五胡十六国時代は終焉する。北魏の胡漢二重体制、廃仏と復仏、大好きな雲崗石窟に関する記述も興味深いがここでは省略する。5世紀後半、文明太后(馮太后だね)の改革を引き継いだ孝文帝は、胡漢二重体制を改め、皇帝を頂点として、胡族と漢族をあわせた社会の構築を目指す。また、平城から洛陽に遷都し、真の中華王朝であることを示そうとした。

 本書の第6章「胡漢融合への模索」では、北魏洛陽の繁栄を体験するため、いきなり「転生したら洛陽だった件」が始まって、笑ってしまった。内容は『洛陽伽藍記』という書物に基づいており、ライトノベルと呼ぶには固い文体であるが、嫌いじゃない。だが、むしろ私は、漢化政策に反対して乱を起こした北辺の民の居住地「六鎮」のほうが気にかかる。引用されていたのは「勅勒の歌」。私はこの漢詩、たぶん小学生のときに読んで、以来ずっと好きなのだ。六鎮のひとつ、懐朔鎮(内モンゴル自治区)の風景を歌ったものだという。六鎮の乱のあとには、爾朱栄とか高歓とか侯景とか、会田大輔氏の『南北朝時代』や吉川忠夫『侯景の乱始末記』で見覚えのある名前が次々に登場し、新たな時代に入ったことを感じさせる。

 北魏を経て隋唐に至る過程で、遊牧民の胡俗が中華世界に定着し、「漢の中華」とは異なる中華が形成されていく。遣唐使を通じて日本が取り入れた「唐の中華」には、胡床・胡坐(足を垂らして腰掛に座る)・餅(粉食)・ペットの犬など、胡俗に由来するものが多い。中華文明が滅びないのは、胡俗と漢俗が融合を繰り返し、新たな中華を生み出していくためである。うん、この結論はとても好き。単に古いものが生きているだけの歴史よりずっと魅力的だと思う。

 もうひとつ、本書でとても印象的だった記述をメモしておく。鮮卑(あるいは突厥、匈奴)とは、支配集団の名前であると同時に、そこに所属する人々全ての連合体の名前である。したがって鮮卑がモンゴル系かトルコ系か、という問いは意味を持たないという。民族というより、むしろ国家に近いことを覚えておこう。

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多賀城碑(壺の碑)を訪ねる

2023-06-03 23:50:38 | 行ったもの(美術館・見仏)

 金曜はアイスショーFaOI(ファンタジー・オン・アイス)2023宮城公演の初日を見るために仙台に行ってきた。そのレポートは後で書くことにして、さきに今日の観光の話を書いておく。金曜は夜公演だったので1泊して、朝から多賀城市の東北歴史博物館に出かけた。開館時間より少し早く着いたので、駅から徒歩10分ほどの距離にある多賀城碑(壺の碑)を見ておくことにした。

 東北歴史博物館が移転・整備されたのは1999年だという。私はたぶんその頃に一度来ていて、多賀城碑も「見た」という記憶はあるのだが、それ以上のことは何も覚えていない。駅前の住宅地を抜け、田園風景の中を歩いていくと、小高い丘の上に立派な楼門が見えてきてびっくりした。まだ建築途中らしく、周囲は「立入禁止」の柵で囲われている。白い塀には「令和6年度完成予定」と書かれていた。多賀城創建から1300年を迎える2024年の完成を目指しているそうだ。※多賀城創建1300年記念特設サイト

 立入禁止じゃ多賀城碑も見られないんだろうか?と不安に思いながら、丘の裾野をぐるりと回り込む。北側には「政庁跡入口」の札があり、こちらも何やら復元が進んでいるようだった。なんだか中国の田舎の史跡を思い出す。ちょうど、政庁跡のほうから、揃いのベストを着たボランティア(?)ガイドのおじさんとおばさんが出勤してくるのに出会った。

 幸い、丘の上の多賀城碑には近づくことができた。覆い屋に収められている。

 ガイドのおじさんから、碑文のコピーを貰い、解説を聞いた。「どこから来たの?」と聞かれたので「東京の江東区です。芭蕉庵のあるところ」と答えたら「おお!」と嬉しそうだった。「奥の細道」ゆかりの名所だものね。あとで、おじさんが芭蕉に扮した写真を見せてもらった。

 碑文は「西」と書かれた西面にある。冒頭は多賀城の位置を説明して「去京一千五百里/去蝦夷國界一百廿里/去常陸國界四百十二里/去下野國界二百七十四里/去靺鞨國界三千里」という。古代の1里は540mと言っていたかな。そうすると蝦夷国までは65kmくらいで、かなり近い(宮城県北部の栗原市あたり?)。大和朝廷の支配域の最果ての地だったことをあらためて思う。

 靺鞨国というのは渤海国のことで、高句麗の遺民が建国したものだが、新羅と連合する唐は渤海国をよく思っていなかった。そのため唐に追随する大和朝廷の官人も靺鞨国と書いた、というのは、ガイドのおじさんの説明。うーん、ちょっと疑いながら聞いたが、渤海国でなく靺鞨国の名称を用いているのはおかしい、という指摘は古くからあるようだ。関連で「渤海」は「靺鞨」の近変音であるという説も見つけてしまった。あと「新靺鞨(しんまか)」という雅楽の曲名があるのだな。日本、伝統的に近隣国の名前はわりと適当だと思う。

 この碑は多賀城の修築を記念し、多賀城の入口に藤原恵美朝臣朝獦(朝狩、あさかり)が建てたものである。碑の建立が天平宝字6年(762)12月。そして天平宝字8年9月、彼の父親である藤原仲麻呂が反乱に失敗し、朝獦も戦死したと伝える。人間って、どんな仕事が後世に残るか、分からないものだな。

 その後、碑は地中に埋められ、江戸時代に発見された。そのことが碑文の保存には幸いし、現在でも文字がよく読める。当初は野ざらしだったが、水戸光圀が仙台藩主の伊達綱村に勧めて、保護のための覆い屋を造らせたという話も面白かった。楼門・政庁の復元が完成したら、また来てみたい。ガイドのおじさんが「ようやくここまで来たけど、金がなくて」と嘆いていらしたけど、成功をお祈りします。

 去年は、ファンタジー・オン・アイス2022静岡公演のついでに初めて登呂遺跡を訪ねたのだった。地方遠征、こういう楽しみかたもいいんじゃないかと思う。

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