おはようございます。アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
昨晩(5月27日)の21:00過ぎに金沢から東京中野区の家に帰ってきました。
今月は、日帰りも含めて11日も出張していました。
列車の中で半分以上は眠っていました。
だから出張疲れはありません。
さて、「蜷川幸雄は、勇気くじきの演出家だったか?:山田さんのご質問に」シリーズの7回目です。
今までの6回のシリーズは、以下のとおりです。
第1回目 5月20日
第2回目 5月21日
第3回目 5月23日
第4回目 5月25日
第5回目 5月26日
第6回目 5月27日
風呂敷を広げ過ぎた感があるので、そろそろまとめに入りますね。
勇気づけのコミュニケーションの成立要件としての
1.発信者
2.受信者
3.相互関係
4.記号
の4つのうちの1.の発信者としての蜷川についてかなり紙面を費やしてきました。
今回は、2.の受信者について簡単に触れておきます。
前回の最後に
最初は蜷川のダメ出しの連発によって奮起し、彼の指導を受け続けている間に長期的には「勇気づけられた」と蜷川をしのぶ人もいるのです。
このことは、蜷川のライフスタイルを棚上げしておいて、勇気づけ/勇気くじきの効力がそのコミュニケーションの受信者の熱意や資質や習熟度によって違っていることの格好の例かもしれません。
と私は書きました。
第2回目 5月21日 に書いた寺島しのぶがその一例です。
俳優を「バカ!」「マヌケ!」と激しく怒鳴りまくる、灰皿を投げつける――。
稽古場での厳しい演出指導は有名で、19歳の時にその“洗礼”を浴びた寺島しのぶはかつて本紙のインタビューで「もうスリッパは飛んでくるわ、イスは飛んでくるわ、目の前で胃薬をボリボリ食べられ、“久しぶりだよ、女優の前でこんなに胃薬食うのは”とも言われました」「稽古中は“公開SM”のようでした」と語っていたこともあるほど。
しかし、その激しい演出の裏には舞台と役者に対する深い愛情があり、寺島が「感謝しかないです。思いっきり本音が言い合える人がまたいなくなってしまった。でも頂いた言葉は私の細胞に植え込んであります。書いている間も涙で字が見えません」と偲んでいるのが印象深い。
*日刊 ゲンダイ(2016年5月13日)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/9a/ceb8c19324bc212c6b0b29b6c86be8f0.jpg)
父は歌舞伎役者の七代目尾上菊五郎、母は女優の富司純子、弟は歌舞伎役者の五代目尾上菊之助という演劇・俳優一家に生を受け、大学在学中より舞台、テレビドラマを中心に活躍し、父親の親友であった太地喜和子の勧めで女優を志し、大学在学中だった1992年(平成4年)に文学座に入団した、という本格女優です。
このような熱意や資質の高い人だったからこそ蜷川の厳しい演劇指導にも耐えられ、深い愛情を感じ、感謝の涙で蜷川を見送ったのかもしれません。
となると、指導者(勇気づけ/勇気くじきのメッセージの発信者)のライフスタイルや指導法いかんにかかわらず、また、指導の際に発せられるコミュニケーション媒体としての記号 ―「バカ!」「マヌケ!」と激しく怒鳴りまくる、灰皿を投げつける、スリッパは飛んでくる、イスは飛んでくる ― がどうあれ、長期的には「勇気づけ」と捉える人がいることは理解しておかなければなりません。
<お目休めコーナー>5月の花(28)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/71/ceecd22acdb61ccf9bf051c0b60def47.jpg)