草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

田村智子委員長の就任は日共の幕引きだ

2024年01月20日 | 思想家
 日本共産党の委員長に田村智子が就任したが、笑止千万でしかない。人材が底をついてしまったのだろう。もともと日本共産党が誕生したのは大正22年のことであり、正式には「コミンテルン日本支部日本共産党」としてであった。『天皇制打倒』を主張したために、戦前においてはあくまでも少数派であった。
 敗戦後に合法化されたことで、徳田球一、宮本顕治、志賀義雄らの手で再建されたが、昭和25年にスターリンのコミンフォルムが野坂三らの「平和革命論」を批判した。これに対抗して徳田が所感を発表したため、党内はコミンフォルムを支持する国際派と、野坂を支持する所感派に分裂した。
 これによって、スターリンを絶対視する日本共産党は国際派の影響力が強まったが、その一方では、所感派が中国共産党の意を受けて昭和26年には第4回全国協議会で武装闘争に転じた。翌年には朝鮮戦争が起きる直前でもあり、路線を転換したのである。
 もともと平和革命に反対であったコミンフォルムは、国際派の宮本顕治らを自己批判させ党に復帰させた。しかし、そうした冒険主義は失敗したことで、昭和30年7月の第6回全国協議会で宮本顕治らの国際派が主導権を握り、毛沢東理論による武装闘争を放棄した。このため若者を扇動しながら、最終的には裏切ったのである。
 昭和33年からは名実ともに宮本顕治が実権を握った。その当「敵の出方論」を掲げるなぢ武装闘争そのものを放棄したわけではなかった。日本共産党の反対派を次々と排除して独裁体制を築いた。
 宮本以後は不破哲三がトップに立ったが、構造改革に近かったにもかわらず、従来の党の方針を踏襲しただけであった。その後継の志位和夫は24年間にわたって委員長の座にあったが、万年少数野党にとどまり、それで田村が選ばれたのだ。理論家でもなく、オピニオンリーダーでもない田村がなったというのは、スターリン主義の代々木の終わりを意味するのである。

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