ばばの日記

団塊世代 仲良し夫婦の暮らし
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切るべきか、切らざるべきか、それが問題だ。

2007年11月30日 21時57分23秒 | Weblog
11月30日 (金)

去年の今頃、ばばは、危うく親指の付け根あたりに

メスを入れられるところだったが、ばばの臆病さが幸いして、

メスを入れられることなく今日に至っている。

そもそもの発端は去年の9月半ば頃から、親指の関節が「カックン・カックン」と

ばばの意志に反して曲がるようになってしまったからだ。

あれっ、とは思ったものの、小学生の頃、

友達が指の関節をカックン、カックン鳴らすのに

ばばはできずに、友達をうらやましいと思っていた。

それが、よりにもよって、仕事を辞める前になって、一番大将の

親指の関節が鳴るようになったものだから、

ばばは、同級生より50年遅れの「関節カックン」かあ・・・

なんて勝手に思っていた。

しばらくは気にも留めなかったが、

そのうち一度曲がると痛くて元に戻らなくなったばかりか、

元に戻そうとすれば飛び上がるほど痛みを伴うようになった。

3週間くらい経っても治らないばかりか痛みはひどくなる一方なので、

のんびり屋のばばもさすがに心配になってきた。


思い切って日頃からお世話になっている診療所に行ってみた。

先生の触診やレントゲン撮影の結果、

先生から「骨折です」と言われた。

大げさに金属の副え木と包帯でぐるぐる巻きに・・・

えーっ信じられないと言うのが本心だった。

自覚しなくて親指を骨折?ばばって鈍感!

右手の親指だけに、日常生活でも職場でも、いろいろな支障が出てきた。

翌日は運動会で、先頭に立って「ワイド節」を踊らなければならなかったのに、

それもできなくなって後輩にピンチヒッターを頼んだ。



たかが指1本と思っていたが・・・

骨折という事がどうしても信じられず、他の病院へも行ったが、

専門の先生が2日後いらっしゃるということで、出直すことにした。

運動会の翌日、病院へも行ってみた。

すると、そこで下された診断は「バネ指です」と

初めて聞く病名にばば、キョトーン。

骨折と言われたことも告げてあったので、

もう一回レントゲンも撮ったが、「骨折はしていません」と改めて言われた。

原因とかは分からないが、一種の老化でしょうと・・・ガアァァァン。

どうして、わずか2日の間に「骨折」と「バネ指」と全く違う診断が下されるの?

同じようにレントゲンも撮ったのによ。


親指をいたわって、いたわって、なるべく動かさないように、

刺激を与えないように勤めていたのに・・骨折でなくひとまず安心。
(でも、この診断は信じていいのかなあ?)

痛みが去ったわけでもなく、症状は依然として変わらない。

「骨折ではないけれど、なるべく急激な刺激を与えず安静にして下さい」

と言われ、又、指は副え木と共にぐるぐる巻きに。

さらに「そのままでは完治はしないが、

手の平の筋をちょっと切れば治ります」とのこと。

「手術自体15分もあれば終わります。」と言うが、

ばばは「期末整理もあるし、とても手術は・・・」と固辞した。
(本当は自分の体にメスを入れるのが怖くて、とても手術なんて・・)

すると先生はばばの心を見透かしたかのように

「手術と言っても、今すぐとか、

1週間後とか言うことではありません。早くてもひと月後くらいですよ」

と言われた。

(どうしても、ばばの手の平を傷つけたいのかあ?)と

内心ぶつぶつ言っていると、

「今日は痛み止めの注射をしておきましょう、

でも、痛いですよ。覚悟して下さいね」と怖いことをのたまう。

その後も「痛いですよ、痛いですよ」と呪文のように言う。

(何で、この先生は・・・?普通、お医者さんは患者さんに

不安を与えないような言葉遣いをするもんじゃない?)と思いつつも

注射を拒否するわけにいかず右手を差し出すと、

親指と人差し指の間に「グッ」と注射針を入れられた。

こんな場所への注射なんてもちろん初めてのばば、目をしっかり閉じて耐えた。

注射しながらも、先生は「痛いですよ、痛いですよ」と繰り返す。

痛いのは充分感じていますから!分かっていますって。

ばばのメン玉飛び出しそうですう。

なるほど、その痛みは先生が何回も「痛い」と言われた意味が

納得できるほどの痛みであった。

数日間、その注射の痕が痛かった。

「2週間後くらいに来て下さい。又もう一回注射をして、

その時、手術の日程などについて話し合いましょうね」

と先生からは言われたが、誰が行くもんですか!

ばばは、2週間経っても、3週間経っても2度と病院へ行かなかった。

相変わらず金具で親指を支え、

包帯でふだんの3倍ぐらいの太さになるくらい巻いていた。

1日で真っ黒に包帯は汚れ、手を洗うたびに濡れるので

1日何回も包帯を替えなくてはならない。

面倒くさいったらありゃしない。


ばばが行きつけの美容室でこのことを話すとオーナーが、

「ファインテンのチタン#*$*テープを巻けばいいんじゃない?」

と言うので、確か長女が腰が痛かった時、

同じ会社のネックレスの長いのを腰に巻いてたら良くなった」と

聞いた記憶があったので、値段も聞かず即購入。

値段は4000円余。わおーーーーっ。最初値段を聞くべきだった。

でも、これで治るなら、安いもんだわ。

このテープは使い終わっても捨てずに、木の幹などに巻き付けると

その木が元気になるんですって。チタンの力ってすごいんだなあ。

・・・・と感心しつつ、毎日せっせとテープを巻き付けて仕事をしていた。


11月、たまたま加計呂麻からばばの知人20名くらいが

観光で徳之島にいらした。

その中に、お医者さんの奥様がおられ、その方は

「私はね、薬指がバネ指になって、手術したら良くなったんですよ」

と話された。やっぱり・・・完治には手術しかないのかあ。

ばばの気は重くなる一方。

しかし、絶対手術はしないもんねえ。

ばばは改めて誓い、いっそう真面目にチタンテープを巻き続けた。



指の異常を感じたのが、9月。

時間は流れ、お正月が終わる頃、ばばは気づいた。

「あれっ、指が正常に動く!!!!!!}やったあ!!!!!」

なあんだあ、治ったじゃない!

手術しなくても良かったじゃない!

よくぞ、手術を拒否して良かったあ。



と喜んでいたら、何と退職後の5月頃のある日、又同じ指に同じ症状が!

ショックだった。泣きたかった。叫びたかった。

今度こそもう手術しか治る道はないのかと思った。

しかし、頑固な迄に恐がり屋のばばは、じいーっつと痛みに耐えた。

すると、3ヶ月くらい経ってまたしぜんに治った。



この「バネ指」とは手術しない限り、

ずっと、つきあっていかなければならないのかなあ。

考えてみると、痛み出しても3ヶ月か4ヶ月我慢すれば治るふりをする。

そして忘れた頃、又またひょこっつと頭をもたげ、

ばばを苦しめ、痛めつけるサイレント、デビルだ。

切るべきか、切らざるべきか、ばばは今後も悩み続けるであろう。


粘土は川から?山から?

2007年11月29日 22時27分11秒 | Weblog
11月29日(木)

数年前から、ばばの住む地域にも100円均一ショップができた。

日用品はまず、百均見てから・・・・と思うが、

買って反省することも多い。

まあ、学用品などは、まず間に合う。

便利な世の中になったものだと思う。

ばばが小学校の頃は、本当に何もない・・・時代だった。

教科書は有償。隣村の書店まで買いに行かなければならなかった。

ノートは、学校近くの小さなお店で買っていた。

ある日、先生が「いつ、いつは、粘土を使います。準備して下さい」

と言われた。

と言われても・・・今のような油粘土などない。亀津まで遠出すれば

入手できたかもしれないが1日がかりだし、バス賃もない。

地元の文具店にはない。

では、どうするか?


そこは野生児のばば。

下校後、すぐ友達を誘い川へ。ばばは、田植えや稲刈りの手伝いの時、

よく近くの川で泳いだり、潜ったりしていた。

その時、川底に粘土があるのを知っていた。

だから、友達とその川へ行き、

手には竹べらのようなものを持って川底へ潜り粘土を掻き取っては集めた。

ある量溜まると、あとは思い切り泳ぎ、土手から川へ飛び込み、

貝や川エビを捕り、夕方まで遊んだ。



粘土は川底だけでなく別の場所にもあった。

それは、山へ行く途中の、地層がむき出しの場所。

地層には粘土層があったので、そこから欲しいだけ粘土を取るのだ。

そのついでに、ヤマモモや野いちごなどを取って食べることも・・・

自分で使う教材を自分で調達していた時代。

楽しかったなあ。



消しゴムも自分で作っていた。

文字が消えたかどうかは定かではないが・・・

今思うと、絶対消えなかったと思うなあ・・・

手製消しゴムの作り方は、まず、ススキの穂が開ききらないうちに

その柔らかい部分だけを適量ちぎって、石で叩いて柔らかくし、

その後は集落中を走り回って、他人様のお宅のガジュマルの木の幹を

尖った石で叩き、出てきた白く粘りのある樹液を

ススキの穂を叩いたものにまぶす。

何回も何回も樹液をまぶして乾かして完成。


意気揚々と家に帰り、学校へも持って行った。

字が消せたかどうかは憶えていないが、

自分で何かを作るということはとても楽しかったなあ。


ばばは不死身

2007年11月27日 21時47分03秒 | Weblog
11月28日(水)

じじが、よく言う。

「ばばは、人のしないようなことを、よくするね」って。

というのも、じじのオートバイの後ろに乗ったかと思うと、

マフラーと車輪の間に足を挟んで怪我をするし、

じじのキャリーバッグに歯をぶつけて2本も抜かしてしまうし、

割れたコップを洗って手のひらを切ってしまうし、

川に洗濯に行って(30年ほど前、加計呂麻では、おむつは川で洗っていた)

結婚指輪を流してしまうし、

数えたら後から後から出てくるが中でも一大事は・・・・

次女が生まれて1年ちょっとたった頃、ばばが破傷風になったこと。

それは、加計呂麻時代であったが、ばばは船で古仁屋の歯科もある病院で

抜歯してもらった。

抜歯後、血がなかなか止まらないなとは思っていたが・・・・・

数日後、熱が出た。風邪か何かの発熱だろうと思っていた。

ところが、数日経っても熱が下がらない。

ついに仕事も休んで寝込んでしまった。

じじとばばは同じ職場であったが、熱の下がらぬばばを心配して

じじは休み時間や昼休みにばばの様子を見に帰ってきてくれた。

抜歯から1週間ぐらい経っても熱が下がらないばばの症状に、

上司が「敗血症ではないか?」とアドバイス。

しかし、病院に行くにはバスに乗り、

船に乗って古仁屋に渡らなければならない。往復すると、半日がかりだ。

寝ていれば治るとばばは思っていた。

熱は39度以上が続いた。

同僚も連日心配して見に来てくれた。

ある夜、たまたま手元にあった「バファリン」という薬を飲んだ。

すると、汗をびっしょりかいて安眠できた。

治ったかなと思ったのに、翌日、又熱は上がり、

今度は口が開かなくなり、首も回らなくなってきた。

運がよかったことに、その日は町の診療船が回ってきた。

じじがばばを船まで連れて行った。

ばばを診察し、じじの話を聞いたお医者さんが言った。

「すぐ、古仁屋の病院に行って下さい」と。

すぐ船を貸し切ってじじはばばを病院に連れて行ってくれた。

ばばの抜歯をした歯科の先生と、あと一人、内科か外科の先生がおられたが、

抜歯で熱が出ただろうとの診断だった。

ばばは、熱を下げる処置を受け、即入院し、じじだけが帰ることに。

ところが、神の采配というか・・・・

じじは定期船に乗り遅れてしまい、また、病院に戻ってきた。

時を同じくして、出張中だった病院の院長先生が帰っていらした。

今までの経緯をじじや医師から聞いた院長先生は、「破傷風です」と診断。

発症から時間が経ち過ぎていて、一刻を争うとのことで、

すぐ血清を・・と手配したが古仁屋には血清がない。

すぐに名瀬の薬局・病院に連絡をしありったけの血清を・・と要請。

ばばの命の綱となる血清は、名瀬からタクシーで数時間かかって運ばれた。

そのころばばは大部屋で、熱と(何処が痛いかは分からないけれど)痛さで

「うんうん」うなりながら、泣いていた。

すると近くにいたおばあちゃんや他の患者さんが、

「若いのにこらえ性がない、あんな大声出して泣いて」・・

とばばのことを非難している声が聞こえるが、それを気にする余裕もない。

血清が到着したらしい。

ばばは、カーテンを引いた真っ暗な部屋に入れられた。

普通の、数百倍の血清を投与すると言うことだけは聞いたが、

その後パタッと意識がなくなった。

どのくらい時間が経ったか分からなかったが、ばばが目を開けると

じじと、徳之島から駆けつけた、ばば父とばば姉の3人が

心配そうにばばをのぞき込んでいた。

なんと、ばばは3日3晩、意識がなかったそうだ。

ばばが意識を失っていた頃、周囲は大変だったそうだ。

集落では多くの方が

「亡くなる奥さん(ばばのこと)は仕方ないけど、

残されるご主人(じじ)とMちゃん(当時1才ちょっとの次女)が可愛そう」

と泣いていたそうだ。

ばばの勤務地は戸数百軒足らずの小さな集落。

ばばの容態は集落の方みんなが案じて下さっていたそうだ。



普通の数百倍もの血清を打たれた後、「今晩がヤマです」と医師から告げられ、

じじは、もし、ばばがこのまま 死ぬようなことがあれば、

最初、誤診した医師を許さないと決意したそうだ。


周囲の心配も知らず、意識のなかったばばは・・というと

実は、意識が戻ってから周囲の人に話したのだが、

ばばは、夢かうつつか分からない体験をしていた。

大きな四角い布の真ん中にばばが乗せられ、布の四隅を黒い大きな人?が持って

振って上方へばばを放り投げようとしているのだ。

ばばは不安定な布の上でなすすべもない。

すると、ばばの遙か上の方にばばの父の妹(すでに故人だった)が現れ、

ばばに向かって、手で「来るな、来るな、あっち行け」

というような動作をするのだ。

叔母のいる、上の方には両側に花の咲き乱れる道が

ずっと続いているのも見えた。

布を揺すり続けられながら・・・・おばの声を聞きながら・・・・

ふっと、ばばは現実に引き戻された。(意識が戻ったらしい)

じじはじめ、周囲の方々の喜びようと言ったら・・・・

こうして、ばばは死の淵から又現世に戻った。


普通の数百倍もの血清を打たれたばばは、

その後、後遺症が出ないか心配したが、そういうこともなく3週間の入院で

又普通の生活に戻ることができた。

ばばが生還できたのは偶然が生んだ奇跡だと思っている。

もし、あの日、町の診療船がまわってこなかったら・・・

もし、あの日、じじが定期船に乗り遅れず自宅に帰っていたら・・・

もし、じじが、院長先生にばばの症状と、午前中までの病院の処置を

直訴してくれなかったら・・・・・

もし、出張していた院長先生が、あの日帰って

「破傷風です」と正確な診断をして下さらなかったら・・・

もし、血清が間に合わなかったら・・・

もし職場の同僚が、じじに的確なアドバイスをしてくれなかったら・・・



ばばが現在こうして幸せに日々暮らせるのは、

すべてあの時の幸運があったればこそ。

周囲のたくさんの方々に感謝。


ばばは、死後の世界とかについて深く考えたこともなかったが、

ばばが、黒い物達に空に放り投げられようとした時に、

「来るな、来るな」とばばを現世に送り返してくれた、

ばばが、だあい好きだった父方の叔母が出てきたり、ずっと続く花の道などを

見て、もしかして来世はあるのかも・・と思うようになった。


その後、ばばは大きな病気はしたことがないが、

今でもあの時のことは時々じじとばばの話題に上る。

当時、徳之島でも、ばばの親戚の叔父さんと、ばばの教え子(当時中学生)が

破傷風で亡くなった。

ばばは、運がよかったとしか言いようがない。

じじは、言う。

「ばばは、あの世の入り口から生還したんだから、100才までも

200才までも生きるよ」って。

人間、健康あってこそ。

だから、自分の、そして家族の健康を日々祈るばばである。

じじ両親・娘達へ

2007年11月27日 13時03分47秒 | Weblog
11月27日(火)

今朝、じじが「夕べ、寝る前に婆のブログ読んで感動したよ。

ばばも苦労したんだね」って言った。

「えーっ、苦労なんてしてないよ」と答えると、

「学芸の黄色いセーターが買えず・・・・」と言った。

ばばにとって、ほろ苦い思い出ではあるが、

決して自分が苦労したとは思っていなかった。

周囲みんな同じだったし、今から思えば、本当にいい時代だったと思う。

ただ思うのは、ばばの両親が、2期作で作るお米の代金と、

1年間育てたサトウキビの代金と、飼い牛に生ませた子牛の代金と、

子豚から育てた豚を売ったお金と、母が織る大島紬の現金収入だけで、

家計をやりくりしていた事に関する驚嘆と感謝の気持だけだ。


集落では一番早く鉄筋コンクリートの家を建てたり、

兄を鹿児島の高校、大学に入れたり・・・・

母は、いったいどんなやりくりをしたのだろう。

ばばの家では、一時ばば母の弟の子達3名も一緒に生活していて、

当時は10人家族だった。

大変だったろう生活の中でも両親の愚痴を一度も聞いたことがない。

そんな両親には感謝の気持ちだけだ。

誠実で温厚で働き者の両親の子であったことを幸せに思う。


感謝の気持ちをはっきりと口に出して表現できないままに

両親とは永遠の別れをしてしまった。それが心残りだ。



自分が親になった時、自分の両親のような親になりたいと思った。

ばばの両親は農業をしていたが、子どもにはサラリ-マンになって欲しいと

思っていたようだ。だから、兄を教員にし、

私にも「先生っていい仕事だよ」と言い聞かせ洗脳してしまったのだろう。

ばばは、両親の言うことを信じて疑わなかったから、

小学校から「将来の夢は教師になること」と決めていた。

だから、教員になれた時はばばも本当に嬉しかった。

初めての職場が町の中心校だったことも、

大規模校の苦労が分からなかった両親にとっては嬉しかったらしい。

あれから38年の月日が流れ、ばばは、後2年残して退職した。


ばばが勤め始めた時の卒業式で女子職員は、全員袴を着る事になった。

しかし、ばばは持ってない、母に頼むと

「定年まで勤めるなら」という条件ですぐに手配し、

ばば姉が手縫いで作ってくれた。ばばの世界で一つしかない宝物だ。

しかし、38年間で、10回も着けたかどうか・・・・

母に嘘をついたみたいで後ろめたさを感じる。

今回の退職に関しても心残りは「定年まで勤める」との

母との約束が守れなかったことだけだ。

しかし、天国の両親はきっと許してくれると思う。

だって、じじが体調を崩し、じじ両親も年老いて、

ばばが退職していつも身近にいることが、じじと、

じじ両親にとっても最高の恩返しだと思うから。



結婚以来34年。じじの両親に対してもじじに対しても

ばばは感謝しきれないくらい大事にしてもらっている。

両親は、ばばを実の娘のようにかわいがって下さったし、

それ以上にうちの3姉妹の育ての親になってくれた。


ばばは、結婚した時すぐに仕事は辞めるつもりだった。

でも、じじ父が「これからは女性も働く世の中になるから、

あなたがきつい。もうできないと思うまでは仕事をしてみたら?

それまでは、私達ができるだけ協力するから」と言ってくれた。

それは言葉だけではなかった。

結婚してすぐ、じじとばばは加計呂麻に転勤になった。

2年目に長女が生まれたが、加計呂麻では、

だれも長女を預かって下さる方がいなかった。

すると、両親は「徳之島にやりなさい。自分たちが育てるから」

と言ってくれた。じじ父は教員、じじ母は専業主婦で50代後半だった。

ばばは、母親として悩みに悩んだが、

それが娘にとっても最良の方法だと決断、

長女は3ヶ月で親元を離れ徳之島のじじ両親の元へ・・。

まだ授乳中だったばばは、長女を手放した後も長女のことを思うと

胸が痛くなり乳が張るので、しばらく胸にさらしを巻いて通勤した。

娘も不憫だが、ばばもやりきれなかった。


次の年次女誕生。

今回は次女を預かって下さる方が身近におられたので

次女はその方に預けて仕事をした。

その時点で長女を引き取ることも考えたが、次女を見ている方に

いろいろな状況下「長女も見て下さいませんか」とは言えなかった。

じじ両親が責任を持って育てるとのことで、長女は徳之島で、

次女は手元での子育てとなった。

しかし、幸せだったのもつかの間。

ばばが破傷風で3週間も入院して生死に境をさまよったり、

次女を預かって下さる方が都会へ引き上げたり・・・・

その後も何名かの方に次女を預かって下さらないかお願いはしたが、

数ヶ月おきに預かって下さる方が替わったりした。


ある日、仕事を終えたじじが次女を預かって下さってる方の家に迎えに行くと、

娘は胴体に紐を付けられ、柱にくくられて、行動半径が制限されていたそうだ。

現金収入の少ない加計呂麻では、紬織りなども貴重な現金収入で、

預かってる方からしたら、娘に怪我をさせないための安全配慮からのことだった

とは思うが、我が子が紐でつながれている現実にショックを受けたじじとばばは

相談。次女もじじ両親に預けることにした。

幸い、あと1年半もすれば、じじとばばも徳之島に帰れることになっていたから。


この日以来じじ両親は年子の孫ふたり中心の生活になってしまった。

じじは隣町で教職にあったが、休みの日などは孫を背負い

オートバイに乗って走り回っていたようだ。

昔、教職員がストライキとか教育長交渉とかやる時も

父は孫を背負って参加したそうだ。すっかり名物じいちゃんになっていた。


理解あるじじ両親の元で娘達はすくすく大きくなったが、

たまにじじとばばが島に帰っても、

長女は顔を背けじじ父の胸にしがみつき

じじとばばの胸に抱かれることはなかった。

次女はすぐに飛び付いてきたけれど・・・

この時ほど、母親として寂しく悲しかったことはない。

「生みの親より、育ての親」とはこのことだなあと実感した。


又ある時、長女の頭に大きなこぶ状のできものができたそうだ。

その時、悩み、考えあぐねたじじ父は

「イボコロリ」という軟膏を塗ったら奇跡的にできものはなおったそうだ。

4年の任期を終え徳之島に帰って2年目に3女誕生。

半年間育児休暇を取ったが、すぐに職場復帰。

娘達のことは90%両親任せだった。

孫3人が40度近い熱を出してオロオロしたことも一度や二度ではなく、

ひきつけを起こしたり、入院したり・・・・

とじじ両親は気の休まることはなかったろう。


娘達3人と暮らしながらも、入学式・運動会・学習発表会・参観日・

卒業式その他諸々、じじがいくつかは参加してくれたが、

ばばは仕事優先で、ほとんど参加できなかった。

娘達が不憫だった。

でも仕事を続けた。だから、ばばは、

(自分の家族を犠牲にして仕事をさせてもらっているんだから、

いい加減な仕事はできない。いい仕事をすることで恩返しをしよう)と

いつも自分に言い聞かせてきた。


今年3月退職の時、ああ、これで家族の元に帰れると思った。

しかし、時間は黙々と、でも途切れることなく過ぎ、

娘達はすでに親元を離れ、若かったじじ両親も85才を超えた。

ばばはどうして今までの償い?恩返しをしたらいいのだろう。

今、ばばができることと言えば、じじ両親には時々おいしいおかずや

おやつを差し入れたり、話を聞いてあげたり、

病院や買い物に連れて行ったり・・・くらいかな。

じじとふたりが仲良く、健康で、

ふたりのすぐ近くにいることが1番の親孝行かと思っている。

娘達には・・・ううぅぅーーん、何でも話せる母親でいることかな?

はな・みす・ぴかさん、それでいいですか?



ありがとう

2007年11月25日 21時15分15秒 | Weblog
11月26日(月)

今日は、ばばの誕生日。

ばばが子どもの頃50才ぐらいの方を見ると

「おばあちゃん」だと思った。

しかし今、自分がその年を越えても

「自分がおばあちゃんになった」ということを否定したい自分がいる。

孫もできたし、完全におばあちゃんなのだが、

自分では「おばさん」ぐらいの気持である。



ばばは数え切れないほど多くの方々の善意の中で今日の日を迎えることができた。

ばばを生み育ててくれた今は亡き両親に感謝。

末っ子ばばの世話をしてくれた兄姉に感謝。

隣近所の方に、職場の方に、地域の方に・・・

じじ両親・じじ・娘達・娘婿・そのご両親・・・・

何と多くの方々に支えられていることか・・・


天国のばばの両親へ

お父さん、お母さん、幸せなばばが見えますか?

ばばのすぐ下の弟が亡くなってばばは末っ子として成長しましたね。

明治生まれのあなた方は、暖かく厳しくばばを育ててくれました。

お母さんは礼儀作法に厳しく、私が悪いことをすると叩いたり、つねったり、

時には縄でくくられたこともありましたね。

そんなお母さんに反抗しながらも言うとおりに行動してきました。

お父さんと一緒に朝から晩まで一生懸命働き、

工夫した料理を作り、夜なべをし子どもたちを育ててくれたお母さん、

厳しかったけれど大好きでした。

昔の教科書から引用した言葉や諺を良く教えてくれましたね。

私が算数が苦手だというと、「鶴亀算」と言って

鶴の足の数と亀の足の数を使って連立方程式を教えてくれたり・・・

それから、あの時きっとふたりは70才は超えていたと思うけど、

小学校時代の国語の教科書に載っていた

「街角のバイオリン弾き」という物語文をお父さんとお母さんで

朗々と暗唱して聞かせたのにはびっくりしました。

私も国語を好きになったのは、

きっとお父さんとお母さんの影響があったからだと思います。

こんな事もありましたね。

学芸会で私が主役になって

黄色いセーターを着なければならなくなった時、

すぐにセーターが買えず私は、すっかり諦めていたのに、

本番直前、舞台裏に黄色いセーターを届けてくれたお母さん。

どれほど節約し、あのセーターを買ってくれたのでしょう。

あの時は嬉しかったけれど、成長するにつれ、

お母さんのあの行動を思い出すたびに涙があふれそうになります。

厳しかったけれど、優しいお母さんでした。



お父さんは、亡くなるまで一度も声を荒げるのを聞いたことがありませんし、

私に手を挙げたことも一度もありませんでしたね。

温厚で、自分の親でありながら

「まるで神様のような人だ」と思い尊敬もしていました。

手先が器用で、畳も作っていましたね。

何でもできるお父さんが自慢でした。

海岸で漂着物や、浮き玉などを拾ってきたり、

家にある廃材などを利用したりして見事な鶴や亀、

干支など作っていましたね。

読書が好きで80才を過ぎても月に2冊の月刊誌を読み、

日記を書き・・・何事もコツコツ頑張ていたお父さん。

本に書いたあったことや、史話や昔からの言い伝えなども

ポツリポツリと話してくれました。

お父さんは、私に言葉ではなく

行動でたくさんのことを教えてくれたような気がします。



時代が時代だったからでしょうが、ふたりから「勉強しなさい」

と言われたことはありませんでしたね。

でも、ふたりが「先生はいい仕事だよ」とずっと言っていた言葉が

私の脳裏に刷り込まれていったのでしょうか。

私が教師になり何より喜んでくれたふたり。

少しは恩返しができたでしょうか?

きよしのズンドコ節から千の風になってまで

2007年11月25日 18時52分38秒 | Weblog
11月25日(日) 

今朝は5時過ぎから目が覚めた。夕べ目覚ましをセットしていたが、

不要だった。しかし、早すぎて起きあがる気はない。

6時を回ってから起きあがった。

さあ、今日は8時にばば姉と一緒に叔母を迎え、9時までに

天城町の体育館に着かなければならない。

3町のレクダンスの親睦会?にスタート。

ばばと、ばば姉は3回しか練習に出会してないのに、

真っ赤なTシャツに

黒地に赤いラインとキラキララインストーンがついたジャージ、

真っ赤な靴という正装?で参加。

ふだんと全く正反対の派手派手さにびびってしまうが、

会場に行くと、ばばより高齢の方がほとんどで、80才を超えた方も数名。

ばば達と同じような格好で参加されている。若々しい。


本当は沖永良部や与論からも参加予定だったそうだが、

行事が重なったり天候不良もあり徳之島3町と

名瀬から2名の参加があって120~130名の参加であった。


8時半から受け付け、9時から開会行事。

その後、ミニバレーや、ニュースポーツ、レクダンス。

ばばは、ミニバレーでは点数めくりをかってでた。

11時からレクダンス。

懐メロの「丘を越えていこう」とか、「きよしのズンドコ節」などは

曲も分かるが、あとは曲名も分からない曲に合わせ

必死に周囲の方の真似をする。

10曲くらい踊って、昼食。


その後アトラクションの予定が、参加者の都合がつかず

参加者の中から町別に出し物をした。

全部ダンス。

ばばは見学オンリー。



また、レクダンス再開。みんな一生懸命踊っている中、

ばばとばば姉は見学、拍手係。

何とも古めかしい曲が続くかと思うと、ラップもあるし

平成なんとかかんとかと言う曲もある。



休みつつ、時々ばばも踊るが、なんせ初めて踊る曲が多い上に

次から次へと曲が替わるので

真似るのでも精一杯。ふうーぅ、疲れる。



フォークダンスでは、男役、女役に分かれ、ペアを組み、

パートナーを替えながら踊るのだが、年配の方が多いので、

うまくパートナーチェンジができず、笑い笑い笑い。

いつの間にか女女、ペアになったり・・・



最後に去年から話題になっている「千の風になって」も踊ったが、

レクダンス用の振り付けなのであまり・・・・


最後の整理運動は、何と谷村新司さんの「昴」。

曲に合わせ体を動かせば、何でもダンスになり、体操になるんだ・・・


朝から何曲踊ったことだろう。

ばばの叔母は数えで御年90才?どんな曲でも踊っている。

脱帽。


3時過ぎ、日程すべて終了。



たくさんの人と一緒にこんなに長い時間踊るなんて、

ばばの人生で初めての体験であった。


家にいたらダラリーーーーンと過ごしたであろう1日、

体を動かしいい汗をかき、伊仙町・天城町の懐かしい方々とも再会できたし、

いい1日だったかな?

来年も参加?うぅぅぅぅぅぅぅーーーーーーん、考えちゃうなあ。

忘れるが勝ち

2007年11月23日 21時43分46秒 | Weblog
11月24日(土)

仕事を辞めて家の中にいる時間が増えるにつれて、緊張感がなくなるのか

じじとばば、物忘れが激しい。

そこでお互いに時々チェックし合う。

昨夕は、ばばが試しに「じじ、今日のお昼何食べた?」と聞いてみた。

じじは、「チャーハンとおつゆ」と即答した。

「ノ、ノ、ノ、ノ、ノオー」とばば。

じじはしきりに考えている。

「カレーは昨日だったし・・」としばし沈思黙考。

「ああっ、思い出した、十穀米のご飯だあ」

「ブッブー、残念でした」

「えーっと、えーっっと」とじじの苦悩?は続く。

やっとのことで、「ライスバーガー」と答えた。

一個だけ残っていた焼き肉ライスバーガーと

いりこをカリカリに焼いてからだしを取り、

野菜や油揚げをたっぷり入れた香ばしいみそ汁を、

「おいしいね、おいしいね」って食べたこと、忘れてた?



こりゃ大変だ、昼のことが、もう思い出せないなんて。

かく言うばばも、じじと五十歩百歩。

ばばも、花とかの名前もどんどん忘れているし、

先日なんか「ポカリスエット」という名前が出なくて

どんなに悩んだことか。

人名を忘れた時は、五十音順に「ああ・あい・あう・あえ・・・・・」

と何日かかっても思い出そうと頑張って、ひょいと思い出すこともある。

しかし、花の名前なんか全くダメ。思い出せないことの方が多い。



「物忘れ、ひどくなったねえ」とばばが言うと、

「忘れる事って大事だよ」とじじ。

ばばは、一瞬ハッとした。

そして考えた。



人間憶えることも大事だけど、忘れることも大事なんだって。

だって、人間何十年も生きていると、

辛い・苦しい・悲しいことも数限りなくある。

もしそれを全部忘れず引きずって生きていくとなると大変だ。

どんなに悲しいことがあっても、

時間の流れがその悲しみを幾分か和らげ、オブラートで包んでくれる。

そして、完全に忘れさせてくれることもある。

そのことによって、又新しいスタートを切れることもたくさんある。



じじの言葉でハッと気づかされた。そして思った。

忘れることを恐れてばかりいてはいけないんだ。

忘れることを恐れる以上に、いろいろなことに興味を持ち、

新たな挑戦をしたり、新しい情報を取り込んでいけばいいじゃない・・・と。

じじ、ありがとう。じじのおかげで、ばばは発想の転換ができたよ。

ちょっと見方を変えるだけで良いのに、

なんで小さな事にグジグジしてたんだろう。

明日は、ばばより先輩の方々たくさんに囲まれて、新しい世界を覗いてきます。

久しぶりに、早起きをするので、目覚ましをかけて眠ろう。おやすみなさい。

単身赴任

2007年11月23日 15時48分32秒 | Weblog
11月23日(金)

勤労感謝の日。

でも、仕事を辞めてからは、平日と休日の区別ができなくなったばば。

昨日、元同僚2人からそれぞれ「(徳之島へ)帰るからね」メールがあった。

別の一人からは「明日名瀬へ帰ります。海が荒れていて船が、

いつもの港に接岸できるか心配」とのメールが。

そこで、やっと今日から3連休ということに気づいた。


今朝は早起きして港まで迎えに行こうと思っていたのに、

夕べ寝るのが遅く、起きたのが7時過ぎ。

いろいろしているうちに、船の接岸の汽笛が聞こえた。

(ああ~ぁ迎えに行けなかった。ごめんねえ)と思っているうちに

「ごめんください」で玄関で人の声。

出てみると、迎えに行こうと思ってたHちゃん。

わざわざ、お土産持って立ち寄ってくれた。

本当にごめんね、そしてありがとうね。

上がってもらいたかったが、ご主人が車で待っておられて、

今日、明日と家庭の仕事を片づけ、

又、加計呂麻に帰らなければならないので

無理に引き止めることもできない。1時間も無駄にはできないのだ。



4月の定期異動で加計呂麻へ赴任して行ったHちゃんとYちゃん。

二人とも年はばばより下だけど、5年間同じ職場にいて

ばばが落ち込んでいる時いつも支えてくれた。

県の異動方針で、どうしても異動せざるを得ず、

二人ともご主人を島に残しての赴任になった。

ばばも3年間単身赴任をしたので二人の苦労がよく分かる。

二人は4年間の赴任になるが、夏休みや冬休みには

ばばのうちに招待して一緒においしいコーヒーを飲みながら

いろいろなことをおしゃべりしたいな。




ばばも単身赴任していた時は月に1~2回かではあったが

徳之島と加計呂麻を往復した。

朝7時過ぎに加計呂麻を出て、フェリーで古仁屋に渡り、

定期船に乗り替え徳之島へ。

しかも船はばばの家とはずっと離れた通称「裏航路」に入港。
(本当は裏航路という言い方はいけないと思う)

じじが迎えてくれるが家に帰り着くのはいつも昼の2時以後。

お昼を作って済ませ、夕ご飯の買い物をして、

夕食を作って食べると、もう明日の帰りの心配をする。

海が荒れたり、天気が悪いと船や飛行機が欠航することもあるのだ。



翌朝は朝9時頃家を出て、10時過ぎの飛行機で名瀬へ飛び、

バスを二つ乗り継ぎ、またフェリー、自分の車と乗り継ぎ

夕方4時過ぎ頃加計呂麻の家に着く。

家を出てから、じじの車・飛行機・バス・フェリー・自家用車

と乗り物に乗っている時間がほとんどで、加計呂麻に着くと

ぐったりしてダアァァ~ッと爆睡するのが常だった。



じじの待つ家に帰ると言っても、滞在時間は17時間くらい。

そのうち、7時間寝るとして動ける滞在時間は10時間。



いつも、あれもしたい、これもしたいと思いながら、後ろ髪引かれる思いで

我が家を後にしていた。


そんな不自由な3年間であったけれど、周囲の方々に支えられ

無事勤め上げることができた。

単身赴任したことで、じじのありがたさや家族の大切さも再認識した。

また、周囲の方々の善意が身にしみた。



たった一人の生活は本当に寂しく、赴任1年目は、夕方になると

無性に寂しくてひりでに涙があふれて止まらなかった。

鏡に映る自分の顔があまりにうつろで愕然とすることもあった。



辛い単身赴任の経験があるから、ばばはHちゃん・Yちゃんの大変さも

少しは分かる。

元気で4年間勤め上げて欲しい。


4年後、ばばは両手を広げて二人を迎えたい。

よみがえれ、ヘニャヘニャ君

2007年11月22日 22時47分01秒 | Weblog
11月22日(木) 

いつもぐうたらなばばだけど、

一週間おきの木曜日だけは、真面目に頑張る。

今日は大忙しの木曜日。

今、夜の11時前になってやっと日記を書き始めた。

朝からのことを思い出している。

特筆すべきは、やっとルビーネックレスを植え替えたこと。

買った時からヘニャヘニャだったので、心配はしていたんだけど、

全然生気がない。

仕方がないので思い切って、全部途中から切って

他の鉢で挿し木状態にして観察することに。

ここからが大事。

ばばは、すぐに水をタアップリあげてしまう悪い癖が。

この植物に関しては冬場は1ヶ月に一回程度でいいとか、

鉢の土が乾いたなと思っても3~4日待ってから水をあげた方がいいとか

インターネットには出ていた。

とても可愛そう1ヶ月に1回の給水なんて・・・

ばばは、少しくらいいいだろうと霧吹きでシュッとしてしまうかもしれない。

そのせいで、グリーンネックレスもルビーネックレスも

ダメにしてしまった過去を持つばばだ。

ばばは、植物に対して過保護だ。

自分の娘達に対してはどうだったか?

植物と我が子を比べるばばはちょっとおかしいかな?

小さな二鉢のルビーネックレスを切り刻んで8つもの鉢に挿し木した。

このうち、いくつ根付いてくれるだろう。

じじには、「お願いだから、ネックレスにだけは、水あげないでね」

とお願いした。

さあ、ばばがどれだけ8つの鉢に厳しくできるかで、

勝負は決まるぞ。

ばばと、ルビーネックレスの我慢比べが始まる。

お正月までには、1鉢でも、根付いて欲しい。

今は、ヘニャヘニャだけど、よみがえれ、ばばのルビーネックレス!





昼ちょっと過ぎには公民館講座の島料理教室へ。

今日で最終回。15回皆勤賞だ!

島料理なんて、ばば母がするのを中学校まではそばで見ていたし、

じじは、「今更習うほどのこともないだろう」と言っていた。

でも、料理にだけは興味津々のばばは講座に即入会申し込み。

やっぱり、料理も、見るのと実際作るのでは大違い。

その上、先生がレシピには書いてないコツを毎回チョコッと教えて下さる。

それが嬉しい。

習った事は家でもほぼ実践。

じじ両親にも作った料理やお菓子やジュースなど何回も届けた。

島料理を学ぶことで、親孝行もできた。

一石二鳥ならぬ一石五鳥くらいだ。

学びながら知り合った仲間とミカン狩りをしたり、

「忘年会でもしたいね」という話も出ているし・・・

今までとは違う人間関係ができたのもばばにとっては嬉しいことだ。

きょうは、最終回ということで、先週に引き続きおせち料理を作った。

伊達巻き・豚肉の角煮・鶏肉のなると・酢蛸・

花びらなます・昆布と野菜の煮物・ふくれ菓子、それに毎回のように

付く、大釜で10㎏近くも炊て握ったおむすび。

今日は、大サービスで大きな折り箱に詰めた。

買えば、1〇〇〇円以上の立派なお弁当だ。

試食の後、折り箱は手つかずで、じじ・じじ両親へのお土産。

さあ、冬休みは娘達も帰ってくる。

おせち料理なんて、もう何十年も作ってないけれど、

今年は、いっちょう頑張ってみようかな。




夜は、また8時から10時まで公民館講座で字を書いたり、

今日はなぜか音楽を聴かされたり。


長い1日だったなあ。

それにしてもこんな時間に日記を書くなんて、高校以来かなあ・・・

なぜ走る、中学生

2007年11月21日 22時03分29秒 | Weblog
11月21日 (水)時々

夕方スーパーへ行った。

スーパーは買い物客で混んでいた。

ばばが通路を歩いていると、突然後ろから誰かが走ってきて

ばばにぶつかった。

思わず「危ないっ」と声を出してしまったが、

ばばは危うく体勢を立て直すことができた。

ぶつかったのは制服を着た男子中学生だった。

彼は、そのまま走り続け、離れた所でカートを押して歩いていた

女の人にもぶつかった。

それでも走り、総菜コーナーのケース前で、

別の中学生と鉢合わせになった。

追いかけっこか、鬼ごっこでもしていたのか?

二人は細い海苔巻きが8個入ったお弁当を2個手に取り

レジへ向かった。

ばばも牛乳を手に二人の後ろに並んだ。

レジの方が二人に「これ、夕ご飯?」と聞くと

「はい」と答えていた。

ばばもレジを済ませ、入り口に向かうと、

さっきの中学生は店の入り口の自販機でジュースを買い、

ベンチに座り、そのまま食べ、飲み始めた。

本当にあれが夕ご飯?

ばばは家に帰りじじと夕ご飯を食べながら、

さっきの中学生二人のことを考えた。

人の多いスーパーを走り回り、簡単な弁当とジュースを買って、

スーパーで食べる。

あの子達は何時頃家に帰るのだろうか。

あの後、家でも家族と一緒に夕食を食べるのだろうか。

家族はこの子達の今夜の行動は知らないだろう・・・・