ばばの日記

団塊世代 仲良し夫婦の暮らし
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いかにも・・

2008年03月31日 14時41分18秒 | Weblog
ばばの家の軒下には数種類の名も知らぬ花がある。

ばばの住まいは2階で、庭はない。花園も作れない。

この家が出来た30数年前、じじがブロックを使って、

小さな花園擬きを作ってくれ、今まで何十種類もの雑草や、

小花を育ててきたと言うより、勝手に生えさせてきた。

現在も、超迷惑な雑草「ヤハタ草」とそっくりな花と、ハーブと、

百合と雑草とその他諸々の小花が雑居している。

その中で、ばばが最近気になっている花がある。

その花の名は知らない。なぜ、軒下に芽を出し、花開いたのかも分からない。

葉っぱは三つ葉で、白い花が咲く。



黄色やピンクの花色のもある。

ばばがおもしろいと言うか気になるのはこの花、

ばばが水掛を忘れると、

「喉渇きましたあ~~~}と体全体で訴える姿だ。茎も葉っぱも花も

ヘニャ~~~ンという表現で表したらぴったりかな?

と思うほど哀れっぽく体全体を地面にへばりつかせて、

哀れげな、恨めしげな、せつなげな表情でばばに直訴するのだ。

「水をくださああああい」と。

現金なもので、水をたっぷりあげると見る間に元気回復。

こんなに鮮やかに変身を見せる花って・・・・名前を知らないのが残念だ。


余談
ばばのおおざっぱな管理でほぼ全滅かと諦めていたハーブは見事復活。
今夜、じじのお刺身のつまに出してみた。
こぼれ種から芽を出し成長したシソの葉と一緒に。
美味しかったと言うじじの言葉に、これから毎日少しずつ食卓に乗せようと思う。


帰省中の娘は、ちょっと頭が痛い時、ハーブの匂いをかげば良いって言う。
ばばの頭は痛くなることもないけれど、いつか試してみたいとは思っている。
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鎮魂

2008年03月30日 23時52分02秒 | Weblog
3月30日(日)

今日も転勤される方を見送るために朝の10時家を出て空港に向かった。

今朝は目覚めた時から雨だった。

空はどんよりと暗く、雲も厚かった。

母間集落にさしかかる、目の前に天城岳が見えた。

山頂付近は雲に覆われて、空の暗さと相まって

山全体が重苦しくもの悲しく見える。

雨は小降りになっていたが、立ちこめる霧?(靄?)で、

道路の見通しも悪くなってきたなか慎重に車を進めた。

1年前の今日、急患搬送の命を受けた自衛隊の大型ヘリコプターが、

天城岳の山頂に墜落炎上し、乗員4名の尊い命が失われた。

この悲劇は全島民の涙を誘ったが、あれから1年、

島内では慰霊碑建立事業も発足し、募金も行われている。

1年前も今日のように霧が立ちこめていて、見通しが悪かったと聞く。

山が近づくにつれ、亡くなられた隊員4名の無念の声なき声が

迫ってくるような気がした。

今日は飛行機の発着時はかろうじて雲の切れ間から青空が見えたが、

1日を通して曇りそして時々涙雨のような雨が降る天候であった。

たくさんの自衛隊が来島し遭難現場の近くの集落で慰霊祭も行われた。

陸上自衛隊第一混成団第101飛行隊は

南3島の救急患者の搬送時間を少しでも短縮すべく

沖縄の病院へ運ぶ役目を担っており、

年平均54回の出動を誇る離島医療には欠かせない存在であったそうだ。

ばばは恥ずかしながら事故が起こるまでこの事実すら知らなかった。

今23時40分。ちょうど悲劇が起こった時刻だ。

改めて亡くなられた4名の隊員のご冥福をお祈りしたい。
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異動時期

2008年03月29日 16時50分53秒 | Weblog
3月29日(土今にも降りそう・・・

3月は別れと出会いの季節と言われるが。

転勤される先生方の荷積みや見送りで、ばばも大忙し。

この時期は港・空港と走り回り、空港など日に2往復することも。

船舶会社も、航空会社もお盆・お正月の時期・人事異動時期が

一番のかき入れ時。

空港も、港も駐車場が少なくて大変だ。

道路の両側駐車、違法駐車も多く事故が起きないか心配なくらいだ。

送る方は、荷物の積み込みの手伝い・空港や港での見送りだが、

出発する方々は何ヶ月も前から片づけ始めないと大変だと思う。

段ボール百個以上に、数十個の衣裳ケース・タンス・冷蔵庫・テレビ

布団・ピアノ・洗濯機・書籍類他、細々した物が家の中に山積み。

毎年のことながらこんなにたくさんの物が、

この家の中に良く入っていたものだと感心する。

じじ&ばばは引っ越しを伴う転勤は2回だけだったが、

最初の転勤から帰る時は交通手段が発達していなくて、

集落民ほぼ全員で小さな船に荷物を積み込み、

中継地点まで運び、そこで定期航路の船に積み換えて徳之島に帰ってきた。



2回目はばばの加計呂麻への身赴任だったが、

その時も定期航路で徳之島から中継地点まで荷物を運び

そこでトラックを借りて荷物を積み込み、

さらにトラックを乗せる貨物船を貸し切り加計呂麻の港まで行き、

港でトラックを降ろし、さらにトラックは山道を走ること約30分、

しかし途中山崩れがあり引き返して遠回りしてやっと集落に到着した。



荷ほどきをしても段ボールはきちんと折りたたんで保管しておき、

3年後に又荷物を詰め込んで帰ってきた。

帰る時は冷蔵庫や洗濯機等かさばる物は全部友人にあげて来たが、

それでも段ボール58個ひとりで荷造り帰ってきた。

夏が終わったところで、夏物は次々箱詰めして島へ送り、2月ごろには

ほぼ8割方洋服や書物は島へ送った。

幸い郵便局まで近かったので、一輪車(ネコ車とも言う)で

何回も荷物を運んだ。

今考える。小包料金どのくらいかかったんだろう?

つい7年前のことだが思い出せない。

3月、辞任式をして帰る時は、布団一式を車に積んで帰ってきた。

たったひとりで、全荷物を荷造り、送り出し帰ってきた。

ばばもやる時はやるもんだ、やれば出来るじゃないと少しだけ自信を持ったっけ。


ばばなんかたった2回の転勤ですんだけれど、

教員でも何回も引っ越しを伴う転勤をする人もいる。

金融関係や、警察署などは1年、2年で転勤することもあり、

子どもたちは何回も転校をしなくてはならず・・・と言うこともある。

ばばも「転勤であちこちへ行けていいでしょう」と言われたこともあるが、

どうだろう?ばばは一長一短だと思う。



あと数日、徳之島の空港も港も別れと出会いのドラマがたくさんある。

港の送りは辛い。

蛍の光の曲が流れ、一本の細い紙テープが送る人と送られる人を結び、

そのテープが切れると、船の後を追って走り出す人・・・

大きく両手を振る人・・・旗を振る人・・・

そして別れの涙・・

毎年この時期繰り返される別れのドラマだ。


ばばは明日は空港での見送りと迎えがある。

飛行機での別れはあっけない。

明日の空港も満員だろうなあ・・・
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なつかしの・・

2008年03月28日 19時34分40秒 | Weblog
3月28日(金)

水曜日の夜テレビで懐メロ番組をしていた。

その中で学校給食の歴史が出ていた。

ばばの小学生時代と言えば昭和30年代初期。

学校給食ももちろん無かった。

ただ、幼稚園の時なぜか分からないが、

時々ミルクを飲んでいたような気がする。

ミルクを飲む日は家から湯飲みを持って行かなければならなかったが、

ばばは丼を持って行ったことがあった。

大きな丼にたっぷりミルクを入れてくれるかと密かに期待したが、

当然ながら先生はほかの湯飲みを持って来た友達のも

丼持参のばばにも平等に注ぎ分けてくれた。

小学生になると、ユニセフから届けられた脱脂粉乳を

用務員室の大きな鍋で煮溶かして牛乳様な飲み物を作り飲まされた。

飲まされたと言う表現は適切ではないが、

ばばは脱脂粉乳を溶かした物は嫌いだった。

幼稚園の時、たくさん飲みたくて大きな丼持参までしたのに。

一月1回だったか脱脂粉乳牛乳を炊くための薪を

各家庭から持って行かなければ無かった。

ひとり2,3本ずつの薪を抱いて登校したのも今となっては懐かしい。

用務員室では二人のおばさんが真っ白い割烹着を着て

白い手ぬぐいで「姉さんかぶり」をして

大きな鍋に脱脂粉乳牛乳を作っていた。

鍋の一杯の脱脂粉乳牛乳を薪で炊き、ひしゃくでかき混ぜていたような気がする。

(もしかして、大きな櫂のような物を使っていたかも知れないが)

今となっては定かではない)。



ばばが教員になりたての頃、

校務分掌で給食の係というのがあり、ばばがメニューを決めるのから

材料の購入の指示までしなければならなかった。

前任者の作った献立表を見ながらではあったが、

自分の好きなカレーとか、ミートスパゲッティー等は毎月献立に組み込んでいた。

今から考えたら職権乱用になるのかも・・・。

4年後、加計呂麻に赴任した時は二人の給食婦さんが

学校の給食室でで給食を作っていた。自校給食だった。

パンは古仁屋から毎日定期船で運ばれてきていた。

でも、定期船の配船時刻の関係などから

前日に焼いたパンが運ばれてくるので固くて美味しいとは言えなかった。



さらに4年後、徳之島に帰ったがその時は、

各町に給食センターが出来ていて給食はセンター方式になっていた。

牛乳だけは特定の業者さんが3町に配達していた。

でも、ロングライフ牛乳で、1Lのパックをクラスに何個か配り、

担任がアルミのカップに注ぎ分けていた。

ロングライフ牛乳の時代はなぜか牛乳パックを開けると

ドロッとなっている物があったり、紙パックに発ガン性云々ということで、

こういう物を子どもたちに飲ませてはいけないと言う教員もいて

管理職と対立した時期もあった。

ばばも反対派で、子どもたちに注ぎ分けないで牛乳なしの給食を食べていたら、

管理職が回ってきて無理矢理子どもたちのカップに

ロングライフ牛乳を注ぎ分けたことが数回あった。

ロングライフ牛乳のの前後は定かではないが、

三角のテトラポットの形をした固めのビニルパックに入った牛乳もあった。

これも中身はロングライフ牛乳だった。

ばばは、どういう訳か牛乳は昔から?

(ばばは、昔人間)飲めなかった。

今でも飲めない。



時代の移り変わりと共に給食も様変わりしてきた。

今の給食はどうだろう?

週3回は米飯給食。

週に何回かはデザートも付く。

旬の食材を使って、メニュー数も多い。

しかし、味が濃いとか見た目が綺麗でないとか

いろいろ批判があるのも事実であった。

でも、ばばは給食賛成派だ。

自分が仕事をしていたせいかもしれないが、

毎日主人・3姉妹・そして自分の分とお弁当を作るとなると大変だったと思うし、

早朝出勤して仕事をすることも出来なかったと思う。

それにどうしても偏ったメニやューや食材になってしまうだろう、ばばの場合。



最近は飽食の時代と言われ、

飢餓でたくさんの尊く幼い命が毎日のように失われている国もあるのに、

日本では給食を初め、たくさんの残食が捨てられている事実。

ばばは、給食をありがたいと思う理由に

給食がなかった自分の中学時代の悲しい思い出がある。

当時はほとんどの家庭が貧しく、

白飯のご飯を弁当に入れることの出来ない子もいた。

ある日、固めのお粥をお弁当箱に入れてきた子がいて、

いざ食べる時に間違えてお弁当を落とし、お粥がこぼれてしまった。

こぼした本人はもちろん、見ていたばば達も一瞬固まってしまった。

そして見てはならない物を見たような

苦しく胸が締め付けられるような気持になった。


40年以上経っても忘れられない切ない思い出である。

また、ばば自身辛い思いをしたこともある。

中学校の家庭科の栄養調べの学習で

1週間分の各家庭の献立や食材を書くのだが、

昼のお弁当の欄のメニューには毎日

「油豆味噌・野菜炒め・漬け物」と書いていた。

おみそ汁の具をすくっておかずにする日もあった。

連日同じような食材とメニュー・・・。

それを授業で順番に発表しなければならず、

ばばはそれが嫌でたまらなかった。

ばばは小学校1年生の時から教師になりたいと思っていたが、

この家庭科の授業の時、

子どもを悲しい思いにさせるような宿題を出したり

みんなの前で発表させたりは絶対すまいと固く心に誓ったものだ。

当時はクラスの9割以上の子はばばと同じようなメニューだったと思う。

みんな同じように貧しかった。


クラスでひとりだけソーセージの焼いたのや、

卵焼きを毎日おかずに持ってくる子がいた。

その子のお父さんは当時保険会社に勤めていたが、

ばば達はその友達を陰で密かに「お嬢様」とよんでいて憧れたものだ。

このような切ない思い出のあるばばにとっては

今の給食はとてもありがたくこそあれ、

文句などつけては罰が当たると思っている。
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ネギの根性

2008年03月27日 10時46分48秒 | Weblog
3月27日(木)

女性なら多くの方が経験していることだと思う。

家庭菜園。

ばばも、名ばかりのプランター菜園がある。

植えてあるのはばばの実家の方の方言では「センモト」

と言っていた細ネギの一種とニラと生姜。

生姜なんかもう3~4年もプランターで冬を越し春を迎えている。

ネギはお店から根っこ付きのを買ってきて、先の方の青い部分を食べ

根っこは植えておいたのが、食べ頃迄に成長している。

先日、おつゆの青みにとネギを一株、根っこ近くから切った。

あれから2週間近く経ったかなあ・・

プランターを覗くたびに、ネギは切られたままの姿で

日に日に成長してくる。

先っぽは切った時の傷?がそのままで少し黄色くなっているが

下から新しい青い葉?がどんどん傷口を上に押し上げる形で成長している。

ばばは、小さい頃もネギが切っても切っても伸びてくるのが不思議で

毎日覗いていたことがある。

するとやはり新しい葉が出てくるのではなく、

切った物の下部がどんどん伸びてきていてびっくりしたものだが、

半世紀以上経って、まだ同じ実験?をし、同じく感動している。

ネギって、人間の爪の伸び方と似ているんだなあと言うか、

全く同じかな?とばばは思うが・・・・どうだろう。


先日はばばが刺身を買いに行く途中の家のコンクリート塀?の上にも

プランターに植えられたネギがあった。

ばばはその植え方に興味を持った。

根っこの方を青いビニルテープでぐるっと巻いたまま

植えてあったのだ。(店から買ってきて、先の方の青い部分だけ切って)

ばばは、テープは外し、一株ずつばらして植えるのだが、

珍しい植え方だなあと気になり、通る度にそのプランターを覗いていたら

何日か経って根っこを束ねられたままの姿でネギは伸びてきていた。

何だかばばは嬉しくなった。


あと一つ、ばばが実験的にしてみたことがある。

それは、ネギの種を一つのプランターは土を入れて植え、

もう一つのプランターにはコーヒー滓だけ入れて植えたのだ。

毎朝、そしてティータイムにもコーヒーを飲むことが多いばばの家では

コーヒー滓が良く溜まる。

それを捨てずに集めておいて

プランターや花木の根っこに入れたりするのだ。

たくさん溜まったコーヒー滓を有効に使えるか、

実験的に土の代わりに使ってみたのだ。

ネギを植えてしばらくの間は、土入りプランターの方が

成長が良かったが、コーヒー滓も大健闘し、

今は二つのプランター甲乙つけがたいほどに

青々と丈夫そうなネギが生長している。

ばばの予想では、コーヒー滓が強すぎてネギは育たないのではと

思っていたが、それは杞憂だった。

コーヒー滓万歳!

ネギ万歳!

二人はえらい!!!

ネギって、先をちょん切られても、根本を縛られたままでも、

土が無くてもちゃんと成長・再生できるんだね。

えらいねえ。

ばばも見習うべし、ネギの根性を。




余談
昨夕もじじと散歩していたら、4~50羽のツバメが

地上近くまで飛び回っている現場に行き会った。

ばばは子どもの頃ツバメが低く飛ぶ時は台風が近いと言い聞かされていたが、

じじは「飛びながら小さい虫を食べているんだよ」と言う。

どちらも本当かも。


ツバメたちと分かれて歩いているとじじの友人に出会った。

友人はトラックに乗っていたがじじの近くまで来ると車を止め、

助手席からビニル袋1杯のタンカンをくれた。

ばばは先日の巨大大根を思い出しながら

「じじ、今日も枯れ木でも拾って二人で持とうか?」と提案するも、

じじは黙ってばばに押しつける。

ばばひとりで持てってことか?

しばらく手に提げて歩いていたが、袋の底が破れかけたので、

今日はばばの帽子に入れて抱いて歩くことに。

歩いているうちに行き会う人がなんて思うかな?と思ったので、

上からハンカチをかぶせて抱えた。

ミカンに目のないばばだからタンカン約3㎏を持ってずっと歩いたが、

これがミカンじゃなければ絶対じじに押しつけていたと思う。

これからはビニル袋だけでなく、エコバッグも持って歩こうかなあ・・・。

ちなみに歩数計の数字は6800余歩を示していた。

ミカンなら5kgでも、10kgでも、文句言わずに持つかも。

自分勝手なばばだなあ・・・。
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じじのお願いにご用心!

2008年03月26日 13時05分42秒 | Weblog
3月26日(水)

じじのお願いにご用心!!

「ねえ、ばば、ちょっと、おねがぁ~~~い」

とじじが呼ぶ時は要注意。

必ずこう言う。

「お願い、ブログの文書いたんだけど、ちょっと見てくれる?」と。

気が向いた時は見るんだけど、

じじのパソコンの位置がばばにとってとても使いにくい位置にある。

体を90度ひねったような形でパソコンに向かわなければならない、

パソコンの位置が低いし、その上暗いと最悪なパソコン設置位置で、

じじは毎日奮闘している。

ばばは、10分以上じじのパソコンを使うと、目も、頭も、

腰までも痛くなる。

だからなるべく関わり合いたくはないのだが・・・・・

先日は、夕方、例の調子で、呼ばれたので

内心「やれ、やれ」と思いながら、じじのパソコンを覗いた。

文は完成しているし、何処と言って問題はない。

ちょっとだけ気になるところがあったので、

修正して「はい、OK」とバトンタッチ。

ところがところが、数分後じじったら

「あちゃぁ~~~。んん~~~」と、世にも哀れな声でうめいて?いる。

「どうした?」というばばの問いかけにも答えず

「ばっかだなあ・・コピーしておけば良かった」とぶつぶつ。

なんと、アップしようとした文を全て消してしまったらしい。

ばばも時々する間違いだ。

じじもやっちゃった!

せっかくの苦労が水泡と帰したじじは、

自分に悪態をつきながら立ち上がった。

しばらく気持ちを静めたじじ、再チャレンジするが、

さっきの文を忘れてしまったと、ばばに「ヘルプ、ミー」コール。

「ばばが分かるはず無いでしょう、じじの文だもん」と言いながらも、

不思議とばばはじじのさっきの文を覚えてはいた。

なぜか、じじの文がばばの頭にインプットされていたのだ。

じじは、「お願い、お願い、さっきの文書いてくれたら百万あげる!」

と太っ腹なことを言う。

ばばが、「あと一声!」と叫ぶと

「じゃあ、一千万!」ときた。

よくもまあ、心にもないことを平然と言えるものだなあじじ。

ペテン師じじ。

ばばの口から、なぜかすらすらと出てくる、じじのさっきの文。

ばばが暗唱しだすと、じじも思い出してきたらしい。

いやいやながらも再入力開始。

やれ、やれ。

せっかくだから、ばばがじじのさっきの文を入力して百万、いや、一千万

じじから、もらえば良かったなあ。

もしも、じじが宝くじでも当たっていれば・・・の話。

妄想癖のあるじじ!!!いつ、高額宝くじ当たったの?
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ばば完敗!

2008年03月24日 18時59分06秒 | Weblog
3月25日(火)

昨夕は本当に、ひっさしぶりに夕方の散歩に出た。

家を出てすぐ桃の花を見つけて「じじ写真写して」と言ったが、

「時間が遅いから逆光になるから、写さない」とじじ。

しばらく歩いて花と実が一緒に付いているミカンの木を見つけたので

「じじ写真写して」と言うと、カメラを構えてはいたが

、風は強いし薄暗いので期待は出来ず。

そのまま前進前進。

坂を登り切ると働き者のおじいちゃんの畑がある。

大きなキビ畑の端っこでは牛も飼っている。

近くにあるじじの畑で、牛の餌の牧草を育てている。

その縁で年に何回か野菜を下さる。

その野菜はじじ&ばばが散歩をする道路脇にある荒れ地を耕して

作った畑で育てている。

畑の広さは畳を2枚縦に並べたくらいの大きさで、

肥料には牛糞を入れているのだそうだ。

年間通して、とても言い野菜が出来る。

夏の頃は冬瓜やスイカがたくさん出来ていたし

冬はニンニクや人参・大根・キャベツ等が元気に育っていた。

おじいちゃんのやり方は、まず、サトウキビを作る、

その畑の隅で牛を飼う、その近くで牧草を作る、

牛糞は、道ばたの小さな畑にたっぷり入れて美味しい野菜を作り、

キビの刈り取り時期にはキビの葉っぱも牛の餌になる・・・

効率の良い方法だとばばは感心する。

いつも挨拶や短い言葉を交わし、たまに、ばばが

おやつなどを差し入れしたこともある。

だが、今日はおじいちゃんの方から話しかけてこられた。

「大根持って行きませんか?」と。

そしてわざわざ下の方の畑から道ばたの野菜畑に上がってこられた。

大根と人参の葉が青々としげり、とても元気そうだ。

おじいちゃんは「とても美味しいですよ」と言いながら

まず1本の大根を引き抜いた。

地表に見えていた部分はそんなに大きくはなかったが

抜いてみると長さも4~50㎝、胴回りなんか30㎝近くありそうな

見事な大根が顔を出して、じじ&ばば、びっくりびっくり。

「凄いですねえ」を連発&感心する。

おじいちゃんは、もう1本挽き抜いた。

2本目も1本目に勝るとも劣らない見事さだ。

「もう結構です」と言うと、おじいちゃんは

持っていたビニール袋に入れて下さった。

御礼を言ってじじは大根を持ち歩き始めたが、

おじいちゃんのいるところから遠ざかってからじじが、

「これを持って散歩は無理だなあ。重すぎる。最短距離を行こう」と言う。

ばばにも異存はない。

しかし、大根はいかにも重そうでじじの持つビニール袋が今にも破れそうだ。

抱けば少し楽かも知れないが赤土が付いているし、

ばばは白いウインドブレーカーを着ているので、持つ気はさらさらない。

ふだんは通らない石ころだらけの近道を下りながらじじは

「棒を見つけて二人で担いでいこう」と言う。

折良くキビ畑の端に角材があったのでそれで担ごうと言うが、

1メートル以上もある角材で大根を担いだじじ&ばばなんて

想像しただけで笑いたくなる。

じじの提案に「嫌だ」ばばはと一言で却下。

しばらく行くと今度は枯れ枝がキビ畑の隅にあった。

「あれが良いんじゃないか」とじじ。

重い大根を片手で持ってるじじとしては

一刻も早くばばにも持たせたい魂胆見え見え。

ばばは仕方なく枯れ枝を拾い上げる。

長さは1メートルくらいだがじじが足で踏み折って60㎝ぐらいにする。

ビニール袋をその棒に下げてじじとばばで片方ずつ持って歩いた。

でも、誰か見られたら何と思われるだろうと内心ヒヤヒヤしながら歩いていると、

会いたくない時に限って犬を連れて散歩中の顔見知りに会う。

ばばは作り笑いをして会釈しながら、その人の横を通る。

じじ曰く、

「二人のこの姿見た人は、きっと二人が何処かの畑から大根盗んで

運んでいると思うだろうな」と。

しばらく行くと、又前方からおばさんがひとり来て、出会った。

ばばは又作り笑いで会釈をする。

おばさんをやり過ごした後、じじ&ばばは大根のあまりの重さに

道ばたに大根を降ろし、一休み。

また歩き出す。石ころの上り坂は応える。

ばばは「ヤッセ、ヤッセ」と心の中で号令をかけながら

なるべくじじと歩調を合わせる。

じじの方が20㎝近く背が高いので、

重さは背の低いばばに多くかかるような気がするのは、ばばだけ?

やっと坂を登り切り、下り坂になったは良いが、車は通る、人通りも多い。

おまけに大根の重みでビニール袋が破れてしまった。

一大事!!

家の手前150メートルくらいなのに・・

じじが、「ビニール袋持ってるよ」とウエストポーチから取り出す。

散歩途中、山菜や野いちごやヨモギの若芽など思わぬ収穫があるので、

ビニル袋は必需品でじじはいつも持ち歩いている。

最初出した袋は小さすぎる。

2回目出したのは「これは東京のビニル袋だよ」なんて説明するが、

ばばとしては道ばたでそういうことをするより、

破れた袋のままでもいいから、

何とかして一刻も早く家にたどり着きたいと言うのが本音。

でも、じじは

取り出した「東京のビニール袋」にどうしても大根を移したいらしい。

「僕が大きいの持つからね」と優しいことを言いながら、

ばばに「東京のビニール袋」に1本の大根を入れて手渡す。

受け取ったばばは、早足でどんどん歩き、家の前に来ると

「ばばは、刺身買ってくる」と言って、やっとの事でじじに大根を手放し、

身軽になってルンルンで「秘密の小道」を通っておなじみの魚屋さんへ向かう。

刺身を買って帰ってくると、じじが大根を表玄関に置いてある。

ばばは、まず写真に撮った。

その後体重計を持ち出して重さを量ってみた。

長い方が3.4㎏。短い方は軽いだろうと思ったが、あに図らんや、3.3㎏。

たった100㌘しか違わない。不思議だなあ。

人は見かけによらないと言うけれど、

大根も見かけだけで判断してはいけないんだなあ等と

脈絡もないことを真面目に考えるばば。

次ぎにばばは、自分の足を出して大根と比べてみた。

色の白さ、大根の勝ち!

皮膚の美しさ大根の勝ち!

太さ、これまた大根の勝ち!

ばば完敗!!!

大根あっぱれ、あっぱれ!!!!

さて、この大きな大根どのように料理しようか、ばば、思案のしどころだ。

所で、今日はこの見事な大根を下げてじじと二人散歩コースの最短コースを

歩いたにもかかわらず、ばばの腰に付けた歩数計は

5000歩以上の数字になっていた。

おい、おい信じていいのかよ、この数字。


余談
このブログを読んだじじが「一つだけ大根よりばばが勝っている!」

としつこく言う。

「ばば、嘘ついちゃあいかんぜよ」と。

「なに?なに?」と、しれーっつと聞き返すばばに

「足の太さだけはばばの方が勝っていると思うなあ」だって。

ばばは、わざと細い足を出して言ってやった。

「どこが?この足の細さが目に入らぬか!

ここにおわすお方をどなたと心得る!

その名も高きトーマグの(ばばの実家)ばばであらせられるぞ。

じじ!頭が高い!!!ひかえおろぉぉぉぉぉぉぉ」っと。

ああ、すっとした。

そして、その後実際に大根を抱えてきて自分の足の横に立てて

「どっちが細い?」と問う。じじ、にやけて答えず。

そして、返すトドメが

「ばば、自分の足を白く見せるために

わざと泥付きの大根の写真を写したのか?」だって。

キィ~~~~~~ィ、悔しいぃぃぃぃぃ~~~

三姉妹、ばばを援護してくれぇぇぇぇぇ!!!!!!
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卒業式

2008年03月24日 14時25分27秒 | Weblog
3月24日(月)暖かい

卒業式に行って来た。

たった14名の卒業式だったけどいい式だった。

1年前までは職員席にいて自分が、保護者席に座って子どもたちを見守る

というのはちょっと不思議な気持だった。

式が始まる30分ほど前に学校には到着したが、

車を止めたとたん、かつての教え子数名に見つかった。

「ばばちゃん先生!」「ばばちゃん先生!」と走り寄ってきた子どもたち。

花徳小の2年生から6年生までは1年生の時、

ばばが担任させてもらった子どもたちだ。

最初駆け寄ってきたのは4・5年生だったが、

11月の学習発表会の時に会って、5ヶ月ぶりの再会だった。

1年生の時は自分から話すことがなかったWちゃんが、

いろいろなことを自分から話してくれた。

いくらでも話を聞きたかったが、今日はを大事な卒業式

又後でお話聞かせてね」と別れ用務員室へ向かう。

その廊下を通りかかる去年の教え子(現在2年生)が

「あっつ、ばばちゃん先生だあ」と駆け寄ってきた。

入学時は7名だったが途中転出が2名あり、たった5名になってしまっている。

4月からは複式学級になると言う。

5名まとめて抱きかかえながら

「ばばちゃんは、一番後ろでみんなを見ているから、

呼びかけの時はばばちゃんの所まで聞こえるように大きな声言うんだよ」と約束。

式は10時から始まり粛々と進んでいった。

一番感動したのは、やはり卒業生と在校生の呼びかけだった。

聞いているうちに卒業生が入学したての頃のことが次々と浮かんできた。

朝登校したら体操着に着替えるのだが、

体操ズボンを前後ろ反対に着る子なんてザラ。

体育でゲームをして、自分のチームが負けると

怒ってワアーッと叫んで飛び出す子がいたり、給食に一時間ぐらいもかかったり。

でも、純真無垢な子どもたちでばばに「先生、年、何歳?」と聞く子どもたちに

「百才」と応えると子どもたちは「エェェ~~うそ」と言いながら、

「私のばあちゃんはねえ、63才だけ先生よりずっと年取ってるよ」と言ったり、

「何で先生は百才なのにそんなに早く走れるの」とか、

「なんで、逆上がりが出来るの?」とか質問攻めにしたかと思うと、

各教科教えるばばに「先生って頭いいね、天才だね」とほめてくれたり・・・

ばばが百才というのは半信半疑ながらしばらくは信じていたようだ。

でも、学年が進むにつれて「何で、先生は百才を過ぎても学校やめないの?」と

問いかけたりもしたなあ。

その時ばばは、

「ばばちゃんはね、花徳の人だから、花徳の学校にいたいだけいても良いんだっ

て」なんて答えたけど、これまた何名かは信じて家に帰って両親にも真剣な顔で

話したらしい。純真無垢な子どもたちの言動はばばの心まで癒し

浄化してくれた。

オッチョコチョイなばばが給食時間に出た「柳葉魚(シシャモ)」のいわれの元、

柳の葉の実物を教えようと

窓から顔を出したつもりが、窓は閉まっていておでこでガラスを割ってしまい、

子どもたちに笑われたり心配かけたりしたのも

この子どもたちと一緒の時だったなあ。

しばらくは「ドジばばちゃん」って1年生がおもしろがって言っていたなあ。

高学年になったこの子達のなかの何名かに

「先生、おでこでガラス割ったの覚えていますか?」って聞かれ苦笑したなあ・・

幼くて小さかった子どもたちが今はばばより背も伸び、

ばばを見下ろすように大きくなった子もいる。

いろいろなことを思い出しているうちに呼びかけも終わり、

校歌斉唱で卒業生は退場する。

ばばは、前もって準備したメッセージカードをひとりひとりに渡すべく、

出口で待っていた。

保護者が我が子に花束を渡し、ばばはメッセージカードと

心ばかりの記念品を渡すはずだった。

開式前に教頭先生に許可もいただいてあった。

養護の先生が気を利かせて、記念品の入った箱を置く椅子まで準備して下さった。

しかし、卒業証書授与の順番と、退場してくる時の子どもたちの

並ぶ順番が違っていてばばは焦りまくった。

何回も何回もメッセージカードの名前と順番を確認していたにもかかわらず・・・

ばばのせいで大事な式の締めくくりを台無しにしてしまっては大変だ。

慌てると、カードを落としてしまったり・・・もう冷や汗ものだった。

結局、場外できちんとひとりひとり名前を呼びかけて

記念品も渡すことが出来た。

感動で顔をくしゃくしゃにして出て来た子どもたちを見ていると

ばばも涙が出てくる。

学年が進むにつれ、反抗的な態度や行動をする子もいたけれど、

卒業式となると全員がキリッと引き締まった立派な態度だ。

今日のこの気持を持ち続けることが出来たらなあ・・

今までは上級生だったこの子達も四月からは中学校の新入生。

中学生から横道にそれたり、問題行動を起こす子も出てくると聞く。

今日の卒業生14名が、今日の感動を忘れず、

このまま素直に伸びていって欲しいと願うばばであった。
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去年の今頃は

2008年03月23日 13時48分28秒 | Weblog
3月23日(日)

去年の今頃は・・・・・

ばばは、「あと1週間で仕事を辞めるんだ・・・」

嬉しいような、心残りがあるような、寂しいような日々を過ごしていた。

思えば小学1年生の時「大きくなったら、先生になりたい」と

決心し、夢が叶い、定年までしっかり働こうと思っていた。

教師という仕事は、喜びも多い反面、気苦労も多い。

でも、ばばは教職こそ自分の天職だと信じていたので、

途中何回か「もうやめよう、もうやめよう」と思った時期も何とか切り抜けた。

「もう、やめよう」と思った時はいつもばば母との約束を思い出した。

教員採用試験に合格して働きだした時、

ばば両親と「定年まで働くからね」と約束したからだ。

苦しい経済状態の中でばばを大学まで行かせてくれ、

ばばの夢を叶えてくれた両親への恩返しとしても

絶対立派な教師になり、定年まで働くと言うのが若き日のばばの決意であった。


あの日から、約40年近くが過ぎ、子どもたちは自立し、

数年前にじじが大病を患った。

じじの大病は全く想定外の出来事で、もしじじが健康だったら

二人とも定年まで働いていたかも知れない。



じじはばばより1年早く退職し、ばばも1年遅れて退職した。

そして、あっという間に1年が過ぎた。

去年の今頃はこんな平穏な時間の流れを予想だにしなかった。

好きな時に好きなことが出来る・・・なんて幸せなことだろう。



去年の今頃、毎日自分が仕事をした教室や廊下を隅々まで綺麗にしようと

朝、夕誰もいない時間を見計らっては磨いていた。

自分の母校、校舎も新築され、教え子達には、ばばの同級生のお孫さんという

子も数名いた。

過ぎ去った年月を振り返りつつ、自分が6年間学び、

また教える立場になって5年間お世話になった学校を去ると言うことは、

今までの転勤とは違う深い感慨があった。


明日は、ばばが花徳小で最初に担任した子どもたちの卒業式だ。

ばばも式に参加し、教え子達の新しい門出を祝福してこようと思っている。

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無事帰っておいでよ~~~

2008年03月22日 14時11分39秒 | Weblog
3月22日(土)風強し

「夜の8時までに連絡がない時は、警察に捜索願出すからね」

と、上司・同僚に見送られ、ばばのひとり旅のスタート。

これは、20年くらい前の話。

ばばは方向音痴で、旅に出たとたん小心者になる。

数十年の現職時代でもひとりで鹿児島より北には行ったことがなかった。

そんなばばに「岐阜県のT小学校研究公開に行ってきなさい」という

上司の鶴の一声。寝耳に水の突然の職務命令。

「えええぇーーっ」と絶句のばば。なぜ????

実は、その年の秋、ばばの職場も(当時の)文部省指定の研究公開を控えていて、

岐阜県の学校がばば達より1年早く研究に取り組んでいたので、

その先進校へ行っていろいろ見て・感じて来なさいと言うことだったのだ。

ばばは他の同僚に代わって欲しいと要望したが

「ぜひ、あなたが行ってきなさい」との上司の命令とあらば従わざるを得ない。

ばばは正直に鹿児島より上にひとりで行ったことがないことや、

その他諸々、いかにばばが旅になれてないか上司や同僚にも話した。

すると、心配した上司・同僚はチケットを入手し、ホテルの予約まですべて終えて

「これなら大丈夫、行っておいで」と言う。

ばばだって、チケット買えるよ。ホテルの予約も出来るよ。

ばばが心配しているのはそんなことじゃないの。

鹿児島から上の乗り物の乗り継ぎが時間通りうまくできるか、

その1点が心配なの!!!ばばは不安でいっぱい。

もし、乗り継ぎで遅れたら、違う方向の電車に乗ったら・・・

でも、こうなったら腹をくくるしかない。

目が二つあるじゃない。話せる口があるじゃない。

周囲の看板を見ながら、分からない時は近くにいる人に聞いて前進あるのみ。

さあ、ばば行くのだ!!


ついにばばの出発の日は来て、ばばは機上の人に。

徳之島から鹿児島まではスムーズに行け、鹿児島到着昼の1時過ぎ。

しかし、ここで思わぬハプニング。

鹿児島から岐阜への直行便はないので、

(何処までだったかも上すれてしまった)何処かの空港まで行き、

そこからは電車で岐阜へ向かうスケジュールだった。

ところが鹿児島発の飛行機が機体整備で2時間以上遅れてしまったのだ。

ばばは気が気ではない。同行者とてひとりもいない。

生まれて初めての長距離ひとり旅なのだ。

パニックになりながらも、まず職場の上司に現状を電話で報告した。

上司は「そりゃあ、大変だったねえ」と一応は同情してくれたものの

「大丈夫、今日中に岐阜に着けばいいんだが」とのんびりしたもの。

ついでに、今夜泊まるホテルへもチェックインが大部遅くなることを連絡した。

定時より遅れること約3時間。やっと飛行機は飛び立った。

次の空港についた時、客室乗務員さんが飛行機が遅れたことを謝りつつ

出口でキャンディーを持ってばば達を送ってくれたが、

キャンディーどころではない、先を急がねば。

予定より3時間も遅れてしまっている。

初めの計画では、夕方5時過ぎにはホテルへチェックイン出来るはずだった。

しかし3時間遅れてると言うことは9時前後しかホテルへは入れない。

ばばは、焦っても仕方がないものを、

近くの人たちに聞きつつ乗り換え乗り換えして、

何とT市に着いたのは9時を過ぎていた。

ばばはにぎやかで大きな駅を想像していたが、

迷う心配なんか何にもいらない規模の駅だった。

駅前の商店街は9時過ぎだというのに閉まっているし、

お弁当も、食料も買えない。もちろんホテルで夕食は出ない。

ばばは、田舎とほとんど変わらない町並みを10分ほど歩いてホテルへ。

ばばが予想していたのより大部こぢんまりしたホテルだった。

まず、部屋へ入り荷物を置いてフロントで

何処か食事が出来るところがないか聞いてみたが

「近くのスーパーで何か買えると思いますよ」との返事。

ばばの田舎より、もっとお店や食堂も少ないらしい。

仕方がないので、教えてもらったスーパーでパンとジュースを買って

夕食にしたが何とも切ない初長距離旅の初日であった。

あっ、そうだ、9時を過ぎて連絡がなければ捜索願を出すって

上司や同僚が言っていたっけ・・・

もしかして、ばばの捜索願が出されているかも・・・・

でも、もうそんなの関係ねえ~~~~

ばばは疲れてしまった。

職場を出て、9時間以上ハラハラドキドキの連続だったもの。



翌日研究会にも出会し、無事帰れたから、

今ばばはこうしてブログを書いていると言うこと・・・。

ばばの持っている食器の中に白い紙にくるまれた5個セットの箸置きがある。

これは、かの研究会へ出会したおり、お土産にいただいた物だ。

保護者の皆さんが、当日の出会者数百人分を手作りされた物だそうだ。

ひとりに5個ずつ、4~500人分の量となると??????

大変な労力だ。ありがたく大事に使わなくては。

この箸置きを見るたびに波瀾万丈だった??(大袈裟)ばばの初長旅を思い出す。


余談

「岐阜」と聞くと、ばばの頭には条件反射のように「飛騨高山」が浮かぶ。

行きたいなあ、行きたいなあ・・・

ずっとあこがれている。一昨年も近くまでは行ったのになあ。

いつか絶対に行こう。もちろんその時は、ひとり旅なんかじゃなくて

傍らにはじじがいると思うけど。
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