放浪のページ別冊ブログ

キャンプ・ツーリングに林道ツーリング。スキーや食べ歩きも。ホームページや巡礼と芸術の別ブログもあります。左下のリンクで。

2022只見キャンプツーリング2

2022年09月29日 17時32分32秒 | ツーリング東北


只見町の中心部を通り越して河井継之助記念館にやってきた。



河井継之助は長岡藩の家老で、戊辰戦争で薩摩藩とたたかった人物である。



長岡藩は善戦したが敗れ、河井は越後から只見にのがれてきて没した。ここが終焉の地だそうだ。



この記念館を以前からたずねたいとおもっていたが、内容は期待よりもうすいかな。入館料は350円。



只見駅方向にもどってゆくと、只見川をわたる只見線の橋がある。素人目にはたよりないほど細いつくりだとかんじられた。



只見町の名物はマトンなのだと最近になって知った。ぜひたべてみたくて只見駅ちかくのヤマザキショップにゆく(駅前ストアかも)。店頭には只見名物・味付きマトンの看板がある。しかしマトンは500グラムでしか売っていないので、280グラムのラムにした。



2018年2020年にも利用したことのある、奥会津ただみの森キャンプ場に到着した。テントをはってエアマットやシュラフをひろげる。バイクのソロ・キャンプは900円と格安だ。



キャンプ場は混雑していなくて、ほどよい距離でテントがちらばっていた。



キャンプ場からバイクで5分ほどの只見保養センターに入浴しにゆく。内湯とサウナのある温泉だ。料金は500円。



風呂の後はちかくにあるスーパーのブイチューンにゆく。ここで食材と酒を手に入れた。



5時半にキャンプ場にもどってきた。



今夜のひとり宴会のメニューはラム・ジンギスカンともやしにエリンギ。それにタコときゅうりの酢の物である。酒はビールに地酒の男山、焼酎の水割りだ。



むかいのキャンパーはむこうむきにすわっているが、目隠しにバイクをおいた。



ラムと野菜をやきながらビールをのみだす。ラムはわずかに羊臭がするがうまい。熱々の肉と野菜でビールをあおった。



日が暮れると冷えてきたので長袖シャツをはおる。飲んでいると蚊にさされたので蚊取り線香をつけた。まわりのキャンパーはバイク・ソロがほとんどだ。みなさん焚き火をしている。この日は中秋の名月だったが月はみえない。みなさんのキャンプのようすをツマミにして呑み、ほどよきところでテントにはいった。



2日目。奥会津ただみの森キャンプ場の朝。



朝食はカップめんだ。



食後は早朝のキャンプ場をあるく。セローのソロ・キャンパー。奥のランクルはファミキャン。



バイクのグループ。



Dサイトを入口からみる。私のテントは左の森の中にある。



宿泊できる古民家。



管理棟の横のBサイト。



管理棟。ここにはシャワー室も用意されている。



テントを撤収して8時に出発した。
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2022只見キャンプツーリング1

2022年09月24日 09時09分45秒 | ツーリング東北


9月10日と11日。福島県の奥会津、只見にキャンプツーリングにでかけた。天候は薄曇り。メッシュジャケットでは肌寒いスタートだ。キャンプ道具があるので、今回の相棒は積載力のあるDR650RSである。気温は徐々に上昇し、バイクで走っているとすずしくて快適になった。信号待ちをしていると、1990年製の愛車からオイルの焼けるにおいがする。老兵をいたわってすすみ、群馬県の道の駅こもちで休憩した。



道の駅ににとまっていたのはカワサキSS400だろうか。サイドカバーは400・マッハⅢとちぐはぐなことが書かれているが、カラーリングはSSだ。マッハにエスエスの外装をつけたのか、それとも400だがマッハⅢといれたのだろうか。



綾戸ダムでお天気雨にふられたがすぐにやんでくれた。国道17号線を北上し新三国トンネルに到着する。標高があがって寒い。新しく開通したトンネルはひろくなってはしりやすいが、気温が低くてふるえてしまう。トンネルをぬけるとそこは雪国だ。雪国の舞台となった新潟県湯沢町である。



1000メートルにあるトンネルからくだってゆくと寒さはやわらいでゆく。すすむと春スキーにかよっている『かぐらスキー場』がある。この季節なのにサマースキーにきている熱心な人たちの車が多くとまっていた。キャンプツーリングは2020年以来だから2年ぶりだ。コロナで外出をひかえていたのと、千葉でキャンプをしたときにあまりに混雑していたので、ブームが去るのをまっていたのである。キャンプ人気はつづいているが、夏休みがおわって、3連休の前のタイミングなので、空いているだろうとかんがえてやってきたのだ。



昼食をとるために越後湯沢駅前のそば店、中野屋にゆくと行列している。



待つのはいやなのでべつの店をみつけることにした。



国道17号線を北上してゆくと中野屋の塩沢店がある。いつもは行列しているが、それがないので入ってみると、すぐに席につくことができた。



新潟といえばへぎそばである。へぎという板にのったそばなのだが、へぎそばの1人前はないとのこと。しかしざるそばとへぎそばのそばは同じとのことで、天ざるそばの大盛りを注文した。



そばは硬めで喉越しがよい。



天ぷらもいい。とくに舞茸天の香りがたっていた。つゆが平凡なのがおしいかな。1430円+大盛り165円で1595円。お値打ちだ。



食事をおえるて店をでると行列ができていた。そこへ放し飼いのニワトリがやってきた。雪国はいい味をだしている。



昼食に満足していい気分である。気温は暑いほどになっていた。



小出から国道225号線で福島県只見にむかう。給油をすると燃費は26、3K/Lだ。途中にある道の駅いりひろせで休憩した。この先は六十里越えの峠道だ。老兵のDRを気づかって60キロから70キロで山道をゆくと、後続車がおいついてくる。以前なら自動車を引き離しにかかるところだが、昨年DRのエンジンがかからなくなり、イグニッション・コイルとCDIを交換してから、アクセルををあけるのをひかえるようになった。30年選手のDRに無理はさせられない。それに私も年をとったから、以前のように車を引き離さないと気がすまないなどとは、思はなくなったのだ。



ヘアピンカーブがつづき、スノーシェッドのかかる道をのぼって六十里越えトンネルをぬけた。県境の峠をこえたのだ。眼下には田子倉湖がみえてくる。何度もみているが、いつ目にしても衝撃的なほどの、空の色を反映した湖のブルーに、山のダイナミックさだ。空から湖までのブルーのグラデーションと山のみどりである。



雲とすすきもいい。こんな天気の日のツーリングは気分がいいにきまっている。



スノーシェッドと交互通行の山道をくだってゆく。時間待ちは最大で6分もあるが、気持ちが高揚しているので、まつのは気にならなかった。



只見沢橋だろうか。駅と休憩所があり、只見線の線路がみえていた。



鉄路は山の中をトンネルでぬけてきて、先でまたトンネルに入るようだが、古い設備だ。只野線は災害でながらく不通だったが10月1日から再開される。それにさそわれるようにして只見をたずねたくなったのだ。



田子倉ダムまで山をおりてきた。



湖畔に人工物はほとんどない。



ダムの下には電力施設と只見川がみえている。



六十里越えトンネルではさむかったが、ダムサイトまでくだると気温はあがり、ほどよき気温になっていた。
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ロードレーサーの紹介

2022年09月15日 17時34分56秒 | サイクリング


長年のってきたロードレーサーの紹介をしたいとおもう。この自転車を組んだのは1986年か1987年だ。バブルの最中で、ゴルフの会員権を買うのか、ロードレーサーを手に入れるかでまよい、自転車をとったのだ。当時安いゴルフ場の会員権は50万から80万していた。会員権を買えば儲かったかもしれないが(損をしたかもしれない)、ゴルフはやめてしまったから正解である。



フレームはトーエイのスタンダード・ロードである。オーダーではなく、シートパイプのサイズと色の指定だけができたもので、サイズは520mだ。シートポストとステムのつきだしを長くしたいので、小さ目のサイズにした。色は華やかなブルーをたのんだのだが、窓口のショップのオヤジさんのミスで落ち着いた青になった。1988年8月号のニューサイクリングの広告をみてみると価格は76500円だ。このころは消費税はない。東叡社の住所も当時は埼玉県である。念のために書くとフレームはクロモリ鋼をつかった鉄フレームである。この当時にカーボンのフレームはない。アルミはあったが非常に高価だった。クロモリのフレームが趣味やレース用の自転車につかわれるのが一般的な時代だったのである。



当時社会人だったが、株などに資金をまわしていて、一気に組み上げることはできなかった。部品は順次かいそろえてゆき、組みあがるまでに半年はかかったと記憶する。



まずはフレーム。つぎにハンドルとステムを手にいれた。ハンドルはチネリのジロ・デ・イタリア。ステムもチネリでレコードである。ステムは前述のようにつきだし量を考慮して、サイズは80mmほどだったとおもう。ハンドルとステムはこれと決めていた。



つづいてホイールを買った。フレームだけでは押し引きができずに不便だからである。リムは当時の人気の品、スーパーチャンピオンのアルカンシェール。スポークはステンレスの段つき。タイヤは当時のレーサーの必需品、チューブラー・タイヤである。



そしてハブはケチった。カンパなどにしたいところだが、金の重さがわかるサラリーマンになっていた私は、目立たないハブはサンツアーの廉価品にしたのだ。この組み合わせにするとショップで依頼すると、若いアルバイトは、こんな部品をつかうの? フレームがもったいないよ、と言ったが、オヤジさんは、それでいいんだよ、と世間知らず君をさとしてくれた。


 
つぎに手に入れたのは自転車の顔といわれるチェーンホイールだ。当時自転車趣味の部品としてはカンパニョロが絶大な人気があった。カンパのコンポーネントでフルセットにする、オール・カンパということばがあったほどだ。しかし私はレースでつかうのではなく、サイクリングに使用するから、より凝った部品構成にしたくてストロングライト49Dをえらんだ。50×40である。アウターとインナーのバランスをみてこの歯数にした。このときはリヤのフリーホイールをワイド・レシオにするつもりだったのだが、そうすることはできなくなってしまい、いまとなっては48×38にしておけばよかったとかんじている。



フロント・ディレイラーはカンパ・レコードである。変速機はカンパにしたかった。レバーもカンパ・レコードだ。



フリー・ホイールはサンツアー・ウィナーである。当初は14から24までの6段としたが、リヤの変速機にカンパ・ラリーを組み合わせると、キャパシティーがオーバーして、フロント・ディレイラーがうまく変速してくれなかった。前後の変速機のキャパシティーをしらべてえらんだのにである。そこでフリー・ホイールを13から21までのレーサー仕様にかえ、リヤ・ディレイラーもカンパ・ラリーからカンパ・レコードに変更した。14から24のフリー・ホイールとカンパ・ラリーは、オヤジさんが買った値段でひきとってくれたのでたすかった。



シート・ポストはシマノ・デュラエース。カンパにしたかったがショップに在庫がなかった。オヤジさんがだしてくれた品のなかからこれをえらんだのだ。

サドルはユニカにしたかった。ロードのサドルはユニカのバックスキンといつの間にか頭にすりこまれていたのだ。オヤジさんは、あなたの頭の中は10年前のままになっている、といったが、倉庫のなかをさがして、ひとつだけのこっていたユニカのサドルをみつけてくれた。デッドストックだ。ユニカなのだが製品名はわからない。プリントされた文字が当時から判読できなかったからである。このロードは私の10代から20代前半までのあこがれを形にした。したがって当時としても時代おくれの部品で組んだのである。



ブレーキはカンパ・レコード。カンパニュロの50周年を記念するモデルのようだ。



ブレーキ・レバーもカンパ・レコードでブレーキとセットだ。これもユニカのように、長いこと店頭に展示されていたパーツだった。何年も買い手がつかなかったのだ。これがほしいとオヤジさんにいうと、あなたこれを買うの! とおどろいて、そしてよろこんでくれた。レバーのパッドは生ゴム色のものがついていたが、劣化してしまい、白いものにかえている。元のカラーにしたかったが、手にはいったのは白色だけだったのだ。



ペダルはランドナーとレオタード・プラットフォームを共用していたが、後になってヤフオクでみつけた三ヶ島のユニーク・ロードにした。三ヶ島の軽合のトゥクリップに皮のストラップだ。



40年前の1980年代はランドナーの全盛期だった。自転車が100台あつまれば95台がランドナーだった時代だ。MTBはまだ存在していない。そして金のない学生は1台しか自転車を手に入れられなくて、2台目のロード・レーサーがほしいが、買えるのはこごく一部の人間か社会人だったのである。



当時自転車雑誌はサイクルスポーツとニューサイクリングの2誌があった。そのなかでもニューサイクリングの発信力と影響力は絶大だった。ニューサイクリングに書かれていることはすべてただしいとされたのである。そのニューサイクリングの影響を私もうけていて、ロードレーサーのアッセンブリーに反映されている。ランドナーもだ。



1979年5月のニューサイクリング臨時増刊号。スペシャルメイドサイクル総覧のトーエイの広告である。当時ニューサイクリングは趣味性のたかいロードレーサーをクルスルートとよんでいた。それにならった広告だ。レーサーをクルスルートとしている。



フランスのルネルセというフルオーダー・メーカーの自転車がもてはやされていた。そこの女主人の愛車はクルスルートと紹介されている。女性は元全仏チャンピオンで、現役当時にのっていたがこのレーサーだ。



当時コレクター兼マニアとしてよくニューサイクリングに登場されていた、大阪の花田尊文氏のクルスルート。ストロングライトにレオタード・プラットフォーム。

オールカンパや国産のデュラエース、シュパーブなどのレース用部品でかためた勝つためののレーサーではなく、趣味性のかたい部品で装飾したのがクルスルートだろうか。私もロードレーサーではなく、クルスルートをイメージしてこの自転車をくんだのだ。
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2022佐久田口峠ぶどう峠ツーリング

2022年09月05日 17時16分43秒 | ツーリング甲信越


8月20日。土曜日。狭い県道で長野県佐久市を往復するツーリングにでかけた。クネクネの峠道をはしってみたいとおもったのだ。群馬県南牧村の道の駅、オアシスなんもく、で休憩する。



今回は朝から晩までハードにはしる予定なので相棒はセローだ。



道の駅の先には景勝地の蝉の渓谷があった。峡谷だ。



庚申塔もたっている。田口峠にいたるこの県道は、昔から長野と群馬をつなぐ大事な街道だったのだろう。



群馬の最終集落の観能につくと、県道108号線は通行止めとある。元よりこちらにゆくつもりはなかったが、林道大上線が長野県側とつながっているようだ。土砂崩れが復旧したら走ってみたいものである。



県道94号線をゆく。狭い舗装林道で砂がういている。



路面もあれていた。



峠が群馬と長野の県境なのかとおもっていたらそうではなかった。県境から峠まで距離がある。その間の山奥にポツン、ポツンと民家があるのにおどろく。そしてこの山奥でチェアリング(気にいった場所で椅子にすわってすごす)をしている人がふたりいた。私は気がみじかいからこんなことはできないな。



ヘアピンカーブが連続する最終部分をぬけて田口峠に到着した。ここに来たのははじめてである。この道は難路で、北をはしる国道254号線をゆくよりも倍の時間がかかったとおもう。



峠の標柱のさきにトンネルがあり、



そのさきにピークがあった。ここで雨がふりだした。予報では晴れのはずだし、空は明るいのでカッパをつけずに佐久にくだった。



中込駅ちかくの三河屋食堂にやってきた。佐久名物の鯉をたべにきたのである。



12時すぎについたが満席で20分まって席に案内された。たのんだのは洗いと甘煮の定食2500円である。



鯉の洗い。淡白で繊細。ほんのりと甘い後味。わさびしょう油がよくて、酢味噌は香りが独特で口にあわなかった。



鯉の甘煮。煮付けである。鯉を筒切り(輪切り)にした部分と腹の剥き身(あばらの部分・骨付き)、内臓がもられている。他の魚で見ないY字形の小骨がおおいが、脂がのっていてトロトロ。金目鯛よりもやわらかいとかんじた。



はやの開きの唐揚げ。これは天然物なのだろう。野趣がほんのりとにおった。養殖の鯉はそんなことはまったくなかった。



本場の鯉はちがう。また来たいとおもった。



三河屋のむかいは鯉屋さんである。臼田鯉店。



店をでると雨がつよくなっていた。ただ空は明るいから、中込駅を見にいったり、



商店街をあるいたりするが、雨降りはやまない。いつまでも待っていられないから、カッパのズボンとブーツカバーだけをつけて走りだすことにする。このときはそのうちに降雨はやむだろうとおもっていたのだ。



弱い雨の中をやってきたのは八千穂の奥村土牛記念美術館である。



奥村土牛は明治にうまれて平成になくなった日本画家だ。戦時中にこの地に疎開していたのが縁で美術館がつくられたとのこと。



私が入館しようとすると、都内ナンバーのスクーターの男性と入れちがいとなった。



奥村土牛の作風はシンプルなものだった。少ない線で絵はかかれている。人物や風景よりも静物がよかった。ほかに見学者はいなくて、私がでようとするとまた年配の男がやってきた。入館料は500円。



美術館をでると雨はさらにつよくなっているので、カッパをフル装備して、ザックにもザックカバーをかけた。これから帰りのクネクネ道のはじまりである。



山小屋のような小海駅のまえをとおり、県道124号線で県境にむかう。長野県側はカーブはすくない。やがてぶどう峠に到着した。



峠には見覚えがある。前にきたことがあった。



峠からの風景はかすんでいた。ぶどう峠は長いあいだ通行止めだったようだ。それが最近通行できるようになったようで、タイミングがよかった。



群馬県側の下りは雨の上にガスもでて、しかも暗くなって視界がわるい。なんだか魔物がでてきそうな雰囲気だ。



望んだとおりの急坂、急カーブの連続を慎重にくだってゆく。浜平温泉しおじの湯までくだると、以前はなかった御巣鷹の尾根の案内がある。以前はちかづくことも、口にすることもはばかられた航空機の事故現場だが、時がすぎて案内板も必要になったのだろう。



雨の山道をひたすら下る。神流湖がみえるパーキングで休憩した。



天気予報は完全にはずれだ。半日雨の中をはしることになった。雨中走行したのはひさしぶりである。最近は天気をみてでかけているし、トランポ・ツーリングがおおいので、雨にあたることがなかったのだ。



帰宅してから確認すると、ブーツカバーとザックカバーが水漏れをおこしていた。ひさしぶりに雨にうたれてみると、交換しなければならない道具もわかるというわけだ。しかし雨天走行はきらいである。燃費は52、1K/Lと驚異的な数字をマークした。
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