ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸・備前堀にかかる2つの常陸山橋

2023-11-24 20:56:06 | 水戸

 常陸山橋と橋柱に書かれている橋が2つあります。どういうことなのか考えてみました。

 

旧常陸山橋

 

常陸山橋

 

 現在の、常陸山(ひたちやま)の絵が描かれている、市中から酒門墓地方面に向かう道に架かる橋(写真上)は、かつて万才橋(明治35年地図)といわれていたようです。角聖といわれた19代横綱だった常陸山が、大正の初めに、自家の墓のある、徳川光圀がつくった酒門共有墓地へお参りに行ったときに、古くなっていた万才橋を建て替えると周囲に語ったようです。しかし、忙しい常陸山はそこのとを忘れてしまったようです。

 

 地元の人たちは、常陸山が約束を破ったとして、万才橋を、「常陸山小便橋」ともいったそうです。「小便する」という俗語は、約束を破ることをいうようです。

 

 一方、備前堀・万才橋少し下流にあり、現在の県道179号線に架かる橋(写真下)が掛け替え時期になり、上のことが知られていたからなのでしょうか、行政は建築のときに、常陸山を顕彰するために、その新しい橋を常陸山橋と名づけたようです。この時点では、まだ、もう一方の橋は、万才橋といっていたのでしょう。

 

 常陸山は大正11年に亡くなったそうですが、その後、遺族は、「小便橋」ということがいわれていることを知ったようで、常陸山が寄贈したということにして、立派なコンクリート製の橋を地元に寄贈したようです。(常陽藝文)

 

 寄贈された橋も常陸山橋といわれたのでしょう、結果的に2つの常陸山橋ができたようです。行政は現在、寄贈された橋を旧常陸山橋(写真上)、県道の橋を常陸山橋(写真下)と区別しているようです。

 

 現在の橋は、どちらも建て替えられているようで、現在の旧常陸山橋は平成13年に、常陸山橋は昭和30年に竣工したようです。以上の話は、細かいところのしっかりした裏づけはないのですが、今後資料を見つけていきたいと思っています。

 

 面白いと思うのは、才蔵橋が近くにあったという話(明治大正の水戸を歩く)があることです。もしそうなら、昔、正月の万歳をおこなうにあたり、太夫が相手の才蔵というコンビをさがす才蔵市が、このあたりでおこなわれていたのかもしれないということです。

備前堀 初めの八つ橋

水戸にある19代横綱常陸山のゆかり(2)

コメント
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