散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

生かされなかった旅順の戦訓~ロシア革命後100年”を考える前に(2)

2017年06月09日 | 永井陽之助
一昨日に確認した、二十世紀「戦争と革命」の時代はロシア1905年革命と日露戦争に始まった、との認識からは表題の事項も的外れではない。ただ、その認識をやや唐突に書いたので先ずは補足しておく。
 http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/e6958206d041fbc2337e9f7cd1f0ee0f
林達夫は、「ヨーロッパ全体の植民政策が受けている報い」との世界史的見方を日露戦争への視点とし、その戦争が進歩的ブルジョアと旧体制国家との戦いとしたレーニン説に注目する。ブルジョアをも?み込んだレーニン革命は1905年革命を契機とするのであれば、WWⅡ・中国革命に至る過程の出発点は明らかである。

そこで疑問がでるのは二十世紀という区切りだ。永井陽之助は冷戦研究プロジェクト(成果は叢書・国際環境全10巻(中央公論社))のなかで親交を深めた英国・ワット教授の世界大戦の著作から次の指摘に目から鱗が落ちる思いをしたと述べる(『攻撃と防御』「現代と戦略」所収、文芸春秋社1985)。

1870年代以降、めざましいテクノロジーの発達度は、それに追いつく軍部の能力をはるかに超えて加速された。WWⅠの西部戦線で多くの死傷者を出したその理由は、重砲の弾幕、鉄条網、機関銃の新たな出現であって、それらは日露戦争で最初に登場したものだ。即ち、日露戦争こそは最初の近代戦争だった。
WWⅠが世界で最初の近代戦争との思い込みを覆されたことが「目から鱗」なのだ。

続けて永井は他にも航空機、タンク、毒ガスの登場を挙げるが、陸戦の兵学上、攻撃と防御の戦略理論に決定的な影響を与えたのは、特に機関銃の登場であったと述べる。そして何よりも問題なのは「重砲の弾幕、鉄条網、機関銃の出現がこれまでの戦略的通念を覆すものであることをほとんどの参謀本部は気づかなかった」ことだと述べる。

更にそれは単に気が付かなかっただけではなく、西欧の没落の根源をつくったとする。引用はジョージ・スタイナーからだ。
「第一次世界大戦の死傷者は単にその数が多かっただけではなく、彼らの死が選り抜かれた人たちの惨死だったことだ。…激戦地でイギリスの精神的、知的才能の一世代は皆殺しにされたのであり、選良中の選良であった多くの人材がヨーロッパの未来から抹殺されてしまった」(「青髭の城にて」みすず書房1972)。

なお、引用した永井の文献の副題は「乃木将軍は愚将か」である。ご存知の方も多いと思うが、“愚将説”は司馬遼太郎が著作で述べた処であり、これを永井は「後知恵」としてすでに「冷戦の起源」でも反論している。
この文献では、更に広い見地に立って、戦略論を展開すると共に乃木将軍に関する文献も含めてその横顔も心温まる表現でデッサンしている。