散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

高度経済成長による「時間の稀少化」~成長から“成熟”への軌跡(10)

2014年07月01日 | 永井陽之助
永井陽之助の論文「経済秩序における成熟時間」(中央公論1974/12号)は、永井の論文の発表の流れ方からすると、唐突の様にも思える内容であった。大学紛争から過激派テロ集団の活動が始まる70年代初頭あたりまでは、現代政治社会論と国際政治を織り交ぜて論文を発表していた。73年のニクソンショック以降は、日中関係を含めて国際政治に軸足を移した感があった。

しかし、高度経済成長のなかで、柔構造社会へと変わっていった先進諸国社会の変化の内実が如何なるものなのか、問題意識があるのは当然だ。
その一端は4年前の「解体するアメリカ」(中央公論1970/8月号)のモチーフとして、「現代の超技術社会の最先端をいく、アメリカにおいて何が起こっているのかを冷徹に認識してみようという気持ち…」(「柔構造社会と暴力」あとがき(中央公論))があったことで表されている。
 『偶発革命としての高度経済成長20140603』

氏は先の論文が収められた「時間の政治学」(中央公論1979)の「あとがき」に次の様にそのモチーフを述べている。
「…われわれ先進工業国が、その“生活スタイルになんらかの革命的変化をもたらさない限り、地球社会は一種のグローバル無政府状態におちいらざるを得ないことは眼に見えている」。

「われわれの経済生活や経済秩序のなかに、技術進歩による高度成長というニュートン力学的な線型時間が全面的に介入してくるとき、どのような帰結がもたらされるか、このかなり理論的問題について考察した」。

更に氏は当時35年ぶりに、隠れていた山から現れた米国の元脱走兵が最も驚いたことを紹介し、その印象は正確だと述べる。それは、以下の二点だ。
1)世の中もスピードがめまぐるしくなっていること
2)女性のモラルの変化

「子殺し、離婚、性意識の変化、ウーマンリブの台頭、サービスの悪化、育児・教育の全面崩壊、老人問題、身障者・恍惚老人・植物人間の看護問題からゴミ処理、環境汚染、単純労働者の士気喪失の問題に至るまで、現代社会における多くの難問題の根底には、“時間の稀少性”増大とサービス供給の貧困の問題が実は潜むのである。」
「われわれの社会が“生産システム”中心の社会から“サービス”中心のヒューマンな社会へ質的な構造変化を遂げない限り、恐らく明日はないということを、この論文で理論的に明らかにしようと試みた」。

時間の稀少性は本文の中で、先ず次の様に述べる。
「戦後25年、日本経済が、絶え間ない高度成長を続け…労働者ひとり当たり投入される資本量、すなわち、資本装備率が急速に上昇し、それが労働生産性上昇の加速化を生み出してきた。だが、その結果、自由に亭受しえた自然環境、大気、エネルギー等のみならず、豊かな時間さえも、稀少性を帯びるに至った」。

続けて、先に引用した様に、鋭い先駆性を示す。
「生産性の向上によって、労働時間が短縮され、節約された時間がすべて自由な文化的時間になるだろうというケインズの予見とは逆に、節約された時間は、時間当たりの産出価値が均等するかたちで、各部門に配分されるという経済法則が、生活時間の中に貫徹してくることになった。」

「…個人の生活時間すら、効率と経済合理性の視点から…眺めるようになった。われわれの社会は…同質的な時間単位で価値を配分し、「貨幣価値で時間を測る」ことが当然となった」。
 『『成長から成熟へ』の先駆け、1975年頃140321』

しかし、この発想のおおもとには、ハンナ・アーレントの思想がある。永井によれば以下だ。
「近代社会になって、マルクスが他のブルジョワ思想家と同様に、労働を不当に尊重し、社会問題の解決のみが人間生活のすべてであるかのような錯覚に陥った。」
 『「人間の条件」への永井陽之助のコメント131124』

「永遠と不死の観念に導かれた一大記念碑を打ち立てる政治、芸術の活動領域の重要性が忘却された。」「女史は、この点こそ近代社会の、真の疎外状況の源泉を見出すのである。」

「現代の工業社会の技術的発展が、労働を不要にし、余暇と仕事の新しい可能性を生み出しているとき、実用と効率のみで人生の価値を測ろうとする不毛な便宜主義の風潮がいまだに消えない」。

「人間の条件」は1958年出版、永井の上記の議論は1968年、日本での翻訳出版は遅れて1973年、そして、現在2014年で改めて問題提起だ。

      

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