喜多圭介のブログ

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樋口季一郎とアッツ島玉砕とキスカ撤退

2006-03-01 02:33:40 | 樋口季一郎

虎の尾を踏む男たち 太平洋奇跡の作戦 キスカ


樋口季一郎にとって、痛恨の戦記、アッツ島玉砕、キスカ撤退について概観を書くことにする。



アッツ島玉砕については以下に概要が書かれてある。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-attu.htm


キスカ撤退については以下に概要が書かれてある。
http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm


『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』の前身は1971年10月に芙蓉書房から出版された『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』であるが、不思議なことに本文中にアッツ島玉砕、キスカ撤退についての記載はない。その理由について『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』の編者(おそらく孫の樋口隆一氏と思われる)が述べている。


『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』は第八部 アッツ、キスカ作戦を指導、となっているが、第九師団長に親補、で本文を終わっている。つまり肝心な作戦指導のところが執筆されていない。このことについて編集註として二つの理由を記している。一つは高齢の故の執筆能力の衰え、二つは難戰の指揮を執ったことが筆を鈍らせた。このために樋口はいったん休養を必要としてペンを置いたが、そのまま八十二才の生涯を閉じてしまったということである。


ならば芙蓉書房編集部は『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』としたのか、疑問の残るところである。


アッツ島玉砕、キスカ撤退の本文記載がないものをあえて『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』としたか、芙蓉書房の体質を窺(うかが)わせしうるものがある。


したがって『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』に依るかぎり、樋口がどのように指揮を執ったかは本文から読み取ることはできない。ただ「戦史室への書翰」がいくつか掲載されているので、断片的な事柄は知ることは出来る。まず次の写真を紹介する。


北千島巡視中に現地陸海軍首脳部と撮影したもの。前列中央が樋口、その右が久保九次海軍中将。
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/higuti4.gif


アッツ島玉砕について樋口は、「戦史室への書翰」に次のように書いている。
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 二月二十三、四日であったか、参謀次長薬中将来礼。中央部の意思を私に伝達した。それは「軍の計画は至当とは存ずるが、此計画は海軍の協力なくしては絶対に不能である。中央としては海軍と協議、要求したが、目下の海軍には其余力がない。随って北方軍としては寔(まこと)に苦しいこととは信ずるが、此企図は捨てて貰いたい」と云うのである。彼は懐中に大命を携行していた。
 私はそこで一個の条件を出した。それは「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を約束するならば」と云うにあった。
 次長は長距離電話で中央部と協議の末、私の条件を受理した。そこで私は山崎支隊を見殺しにすることを了承せぎるを得なかったのであった。
 此日であったか、或は又数日後であったか、私は電報的通話の方式を以て山崎と交話した。私は海軍及び陸軍中央部の実情延いては私の反攻企図の実行不能を述べ、山崎部隊が独力無援最後迄善戦し、日本武士道の精華を拭現せられたき旨要望したのであったが、山崎は「国家国軍の苦しき実情は了承した。我等は最後迄善戦奮闘、武士道の精華を発揮するであろう」と云う様な返電を送致し来ったのであった。
  二十九日の夕刻であった、山崎大佐より最後の電報が来た。「アッツ全戦線を通じ、戦闘し得る者僅々一五〇名となったから、本夜、夜暗に乗じ全員敵中に突入する考えてある。私共は国家民族の不滅を信じ散華するであろう。閣下(これは私を指す)の武運長久を祈る。各位によろしく伝達ありたし。天皇陛下万歳。これと共に通信機を破壊する」と云うのが彼の最後の通信であり、虎山(?)方面より敵に向い突撃し全員完全なる散華を遂げたのであった。
 一昨年であったか、日本アッツ遺骨受領員の報告が大体其真相を伝えて居た。重傷者六、七名が捕虜となって居たことが戦後知られた。
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樋口が大本営の戦略をどう見ていたかは、次の一文でわかる。
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 前述の如く、昭和十七年八月、私が札幌に到着する迄、大本営も北海支隊も共に極めて楽観的であったと信ぜらる。それは陸軍作戦の必要から該方面に陸軍兵力を派遣したものでなく、海軍的眼を其方面に置くと云う、謂うなれば「一種の海軍的展望」にすぎなかったからである。私が着任した当時、私の考えは部下の「半棄状態」を改めんとするにあった。処が真剣に我が方のアリューシャン防備強化が始まると敵も亦アラスカ方面よりの活動が活溌となり来ったのであった。そして山崎部隊がアッツを占拠する頃には、米勢力圏内に著しく部隊が増力されだし、飛行基地も西漸を見るに至った。キスカ東方の一、二の島々は我が方の飛行基地建設開始に後れること数カ月にして早くも飛行可能となる。それは整地が機械力、滑走路は網による舗装の方式を採用したからである。
 斯くて敵の飛行が開始される頃となりては、ポヤポヤすればアッツの飛行場完成前敵から攻撃されるかも知れないと私も実は戦々兢々、来攻判断と云うが、それは「我」自身の熱意の問題である。自ら責任感強ければ敵近く来攻すべしと考えられ、呑気なれば之に反する。北方軍として迅速にアッツ、キスカの防備完成を希望した。それは敵の反攻近からんと判断したからであった。峯木、山崎も同様であったと信ずる。
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 札幌護国神社に建立された碑。
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/higuti5.gif


碑除幕式に出席した樋口(昭和43年)、亡くなる二年前。
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/higuti6.gif


この写真を見ると、樋口は気息奄々(えんえん)、やっとの思いで除幕式に臨んだであろうことがわかる。そしてこの姿こそ、敗戦後の日本で表舞台に現れることなく、アッツ島玉砕の部下の慰霊にのみ思いをいたした、清廉潔白な一軍人の晩年であったということができるであろう。


キスカ島完全撤収について、樋口は「戦史室への書翰」に次のように記している。
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 本作戦は海軍の友軍愛及び犠牲的精神により達成された。(それは海軍の意思でアッツが占領されたことにもよる)
 本作戦の成功は、又海洋気象の作用にもよる。又特にアッツ部隊英霊の加護を無視すべきでない。
 終戦後、米軍CICの某中佐が私を調査する序を以て、談(質問)「キスカ撤収」に及び、「キスカ撤収後約一方月、米軍飛行部隊及び潜水艦は毎日の様にキスカ島を爆撃し、監視していたるが、遂に撤収企図及びそれが終了を察知し得なかった。如何にして斯かる巧妙なる作戦が可能であったか、其秘策を問う」と云う。
 私はそれに答えて秘策など何もなし。あるとするならば、濃霧を利用したと云うことに尽きる。それに海軍の友軍愛だ。なお神秘的の言辞を弄し得んとすれば、それはアッツ島の英霊の加護である。何となれば、アッツ部隊が余りに見事なる散華全滅を遂げたから、米軍はキスカ部隊も必ずやアッツの前例を追うならんと考え、撤収など考慮に入れざりしならん。若しキスカ部隊或は撤収すべしと考え、米軍がこの考えで査察したとせば、撤収半ばにして該企図をしたるなるべし。此意味に於て日本軍の企図を秘せしめたるは、アッツ島の英霊とも云い得る」と答えたのであった。私は今でもそれを詭弁と考えていないのである。
 私は自己弁解と考え、曾て他言せぎりしが、今回の質問中に兵器抛棄問題があるから附言するが。
 若しキスカを撤収し、千島防衛に貢献せることを可なりとすれば、キスカ撤収作戦の唯一の「キー・ポイント」は海軍の要求を容れ兵器等を同島に残置し、配備を外見上変更せぎりしことが相当与りて力があったと考えるのである。それは■に陸海兵力の撤退を容易にしたのみでない。さりとて私は、退却作戦(撤収作戦を含む)にはあらゆる軍需品を無条件放棄するのが文明的作戦であると云わぬであろう。勿論これは好ましきことではない。だが孤島作戦の特質として一歩を誤れば人も物も全部を失ったのであるから、時として物の損失は許すべきだと考えるのである。
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アリューシャン列島およびオホーツク海一帯での戦争は、阿川弘之著『私記キスカ撤退』にも詳細があるが、気象、濃霧、海霧を予想しての戦いであった。濃霧、海霧といっても一様ではない。場所、場所での特徴があって、発生を予測することははなはだ難しかった。キスカ撤収の折はこの濃霧が日本軍に味方したとしか言えないのである。