ぼくが樋口季一郎に興味を持ったのは以下の一文である。この一文は樋口の孫に当たる樋口隆一氏(明治学院大学芸術学科教授、のちに文学部長)が、――『樋口季一郎回想録』再刊に寄せて――として、本書の初めに書かれたものである。
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晩年の祖父の日常は散歩に読書、祖母を相手の将棋、野球や相撲のテレビ観戦といったごく一般の老人のそれだった。多少風変わりなのは『アンナ・カレーニナ』を初めとするトルストイの小説をロシア語で読んでいたことだ。長い外国生活を通じてロシア人の友人も多く、個人としてのロシア人をこよなく愛していたが、国家としてのロシアの複雑さもまた誰よりも熟知していた。戦争の話は一切といってよいほどしなかったが、アッツ島の風景を描いた小さな水彩画を掲げ、日毎に慰霊の祈りを捧げていた後ろ姿は忘れられない。 ユダヤ難民救出についても祖父はほとんど語らなかったが、ただひとつ祖父が明言していたことがある。「当時のヨーロッパではユダヤ人に対してだけではなく、アジア人への偏見も存在した。だからドイツやポーランドに行った若い日本人を下宿させてくれたのははとんどがユダヤ人の家庭だった。つまり日本人はずいぶんユダヤ人の世話になっている。そのユダヤ人の難民が困っていたら、助けてあげるのが当然じゃないか。いろいろ言う人がいるけれど、真相はあんがい単純なことなんだ」というのである。後になって「イスラエル建国の恩人」とか「人類愛の将軍」とか、たいそうな称号を頂いて、祖父は実に面はゆい思いをしていたにちがいない。彼にとっては「小さな隣人愛」の自然な実践に過ぎなかったと思う。親友石原莞爾の影響で日蓮宗の熱心な信者であった祖父だが、仏典と並んで聖書もまた実に良く読んでいた。とはいえ国際政治の錯綜した状況の中で、緊迫した事態を自分の心中では隣人愛の次元まで単純化し、その上で満州国を動かし、満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させたという披の問題整理能力には、一人の人間として敬服せざるをえない。 難民救済に関する祖父の独走は、当然ながらナチス・ドイツを激怒させたのみならず、日本の外務省、陸軍省、関東軍をも憂慮せしめた。しかし披は、「日満両国は非人道的なドイツ国策に協力すべきでない」という理由で自分の行動の正当性を主張した。関東軍参謀長東条英機もそれを良しとして、披の意見をそのまま陸軍省に申し送ったという。祖父はそのことに関して、「あの頃は東条もまだそんなにバカではなかったよ」などと言って笑っていた。 外国生活が良く、また読書家であった祖父は話題豊富な座談の名手でもあった。「ヨーロッパでは旅行するたびに情報収集のために必ずオペラを見た。プッチーニの《トスカ》はすばらしい」などという話を何度聴かされたことだろう。私は長じてドイツに留学し、今も仕事と楽しみを兼ねてヨーロッパ各地でオペラを見ることが多いが、考えてみるとどこかに祖父の影響があるのかもしれない。ショパンのマズルカを母や妹に弾かせて悦に入っていた祖父は、おそらくワルシャワの社交界を回想していたのだろう。若い女性の来客があると、別れ際にうやうやしく宮廷風のハントクス(手への接吻)をして女性達を有頂天にさせる術も心得ていた。
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文学をやってきたぼくとしては、実に魅力的な人物である。そしてこの人物が明治22年八月に阿万上町の奥浜家で生まれる。季一郎は奥浜久八、まつ夫婦の五人(九人?)きょうだいの長男。明治33年父母は協議離婚し、母方阿萬家に引き取られた。明治34年三月に三原高等小学校(官立の高等小学校で1886年6月、三原郡市村の正新小学校の校舎の一部を利用して開校。翌年4月に新校地(のち、三原郡公会堂用地)に移転した(『三原郡史』三原郡町村会、1979)。この場所は現国道28号線市青木
の交差点の北東角である。文部省が定めた必修科目のほかに英語を課していた。)第二学年を終了、その後篠山にあった兵庫県中学鳳鳴義塾に入学。
鳳鳴義塾は明和3年( 1766)篠山藩主青山忠高が藩校「振徳堂」を創建したのが源である。明治17年青山忠誠が基金を募り、私財をも投じて「私立鳳鳴義塾」と改称し中学教育を維持する。明治32年文部大臣の許可により、「私立尋常中学鳳鳴義塾」と改称。大正9年県立に移管、「兵庫県立鳳鳴中学校」。そして昭和23年、新制高等学校制度発足に伴い、「兵庫県立鳳鳴高等学校」と校名を変更する。
樋口は14歳の明治35(1902)年、大阪陸軍地方幼年学校に中途入学した。よほどの秀才でなかったか。このことが彼を陸軍のエリートコースの歩み始めとなった。
幼年学校とは明治20年(1887)陸軍士官学校官制、陸軍幼年学校官制が制定され、設立された。その後、軍備増強政策による人材育成を図るために明治30年(1897)陸軍幼年学校官制が廃止され、代わって陸軍中央幼年学校条例及び陸軍地方幼年学校条例が制定された。東京に陸軍中央幼年学校、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に陸軍地方幼年学校が設立された。主な生徒数は各校約50名ずつで、中央学校は14歳から2年間、地方学校は13歳から3年間である。学費は陸海軍の士官子息は半額であり、戦死者遺児は免除とされていた。軍事学及び普通学を学び、出身者による陸軍将校に占める割合も三分の一になった。
2006年四月二日、阿万にて樋口季一郎の遠縁のかたにお会いすることが出来た。奥浜家は廻船問屋の仕事をしていたとのこと。しかし樋口が子供の頃に家業は傾きだした。回想録年譜は奥沢と記載されているが、これは出版元の編集ミスであろう。
その後18歳で岐阜県大垣市歩行町樋口家の養子になったが、この辺の事情は回想録にも出てこない。樋口家は氏族の家柄でなかったかと想像している。奥浜久八の弟勇次が樋口家に入り、季一郎は勇次夫婦の子になったようである。
ここに出てくる石原完爾については、「平成太郎の館」
http://fss.hp.infoseek.co.jp/meisaku.htm
にある。東条英機と並ぶ大物軍人である。