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喜多圭介のブログ

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樋口季一郎を巡る時代状況

2006-04-04 11:58:32 | 樋口季一郎

歴史を正確に把握するにはまず平凡社「世界大百科事典」などを調べましょう。扶桑社文庫『教科書が教えない歴史』などでは、真実の歴史を知ることはできません。以下は小学館「大日本百科全書」より引用。
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■東条英機(1884―1948)
 陸軍軍人、政治家。明治17年12月30日、陸軍中将東条英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929年(昭和4)永田鉄山(てつざん)らと一夕(いつせき)会を結成して革新派の中堅将校として頭角を現した。満蒙(まんもう)の支配を主張し、「満州国」創設後の35年、関東憲兵司令官となり、37年には関東軍参謀長となった。蘆溝橋(ろこうきよう)事件が起こると、国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者となった。38年板垣征四郎(せいしろう)陸相のもとで陸軍次官となり、40年7月第2次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣の陸相に就任した。松岡洋右(ようすけ)外相と組んで日独伊三国同盟の締結に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めた。41年10月、第三次近衛内閣の陸相当時、米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、陸軍を背景にこれに強硬に反対し、対英米開戦を主張して内閣を倒壊に導いた。10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼ね、また陸軍大将に昇格した。12月8日、太平洋戦争を開始し、国内の統制を極端に強め、独裁体制を固める一方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、43年11月大東亜会議を主催した。戦局が悪化すると、参謀総長も兼ねて軍・政を一手に掌握して局面の打開を図ったが、反東条機運に抗しえず、44年7月18日辞職した。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、昭和23年12月23日、絞首刑に処せられた。


■東条英機内閣 (1941.10.18~1944.7・22 昭和16~19)
 第三次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣が対英米開戦方針をめぐる閣内不統一のため総辞職したあと、木戸幸一内大臣の推挙で東条英機が組織した内閣。木戸は、主戦論者の東条でなければ陸軍を抑えて戦争を回避することができないと判断したと日記に記しているが、東条内閣は逆に欧州大戦の好機に乗じて太平洋地域の制圧を目ざす内閣となった。東条は現役軍人のまま陸相、内相を兼ねて独裁的権力をもち、外相東郷茂徳(とうごうしげのり)、蔵相賀屋興宣(かやおきのり)、海相嶋田繁太郎(しまだしげたろう)、法相岩村通世(みちよ)、農相井野碩哉(ひろや)、商工相岸信介(のぶすけ)らを任命した。41年11月5日の御前会議で対米英蘭(らん)開戦を12月初旬とすることを決定、他方で来栖(くるす)三郎を特派大使として米国との交渉を続けた。しかし米側がハル・ノートを提出して、日本の中国、仏印からの無条件即時撤退、多角的不可侵条約などを要求すると、12月8日ハワイの真珠湾に奇襲をかけて開戦に踏み切った。緒戦の勝利で戦争を太平洋全域に拡大、そのため戦争指導体制と国民統制の強化が必要となった。42年4月翼賛総選挙を実施し、5月には翼賛政治会を結成して政党の御用化を図るとともに、大政翼賛会、大日本翼賛壮年団などによって院内外の政治活動を統制した。41年12月には「言論出版集会結社等臨時取締法」を公布して国民の自由を極端に制限し、42年8月には町内会、部落会、隣組に大政翼賛会の世話役を置き、翌年9月には大政翼賛会町内会部落会指導委員の設置を義務づけ、国民を完全に掌握、動員する体制をつくった。42年11月には大東亜省を設置、東郷外相はこれに反対して辞職した。43年11月、商工省、企画院などを統合し、軍需省を新設して航空機生産の急増を図った。他方、42年12月中国の汪兆銘(おうちようめい)政権を参戦させたのをはじめ、占領地の政権を戦争に協力させるため「独立」を約束し、43年11月、「戦争完遂と大東亜共栄圏確立との牢固(ろうこ)たる決意を闡明(せんめい)」(5月31日御前会議での東条の説明)するため、大東亜会議を開催した。戦局の悪化、とくに44年7月のサイパン陥落とともに重臣層の反東条機運が高まり、海軍部内の嶋田海相排撃の空気を利用して倒閣運動が展開され、7月18日総辞職し、22日小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立した。


■大政翼賛会(たいせいよくさんかい)
 日中戦争および太平洋戦争期の官製国民統合団体。近衛文麿(このえふみまろ)を中心とする新体制運動の結果、1940年(昭和15)10月12日に結成された。翼賛会は経済新体制(統制会)、勤労新体制(大日本産業報国会)と並ぶ「高度国防国家体制」の政治的中心組織であり、大政翼賛運動の推進組織として位置づけられた。「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンを掲げ、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ナチスの指導者原理をまねた「衆議統裁」方式を運営原則とし、総裁は首相が兼任(歴代総裁は近衛、東条英機、小磯国昭(こいそくにあき)、鈴木貫太郎)し、事務総長有馬頼寧(ありまよりやす)以下の全役員はすべて総裁の指名によって任命され、中央本部に総務、組織、政策、企画、議会の五局と23部が置かれた。地方行政区域に対応して支部が設置され、各支部長の多くは知事および市町村長が任命され、中央と地方組織のそれぞれに協力会議が付置された。しかし、軍部、内務官僚、財界、既成政党など支配層各グループはそれぞれ異なる思惑をもっており、呉越同舟的組織であった。そのため翼賛会は、結成直後から主導権争いが絶えず、1941年2月には公事結社と認定されて政治活動を禁止され、さらに4月までの間に有馬らの近衛側近グループが退陣させられ、内務官僚と警察が主導権を握る行政補助機関となっていった。
 東条内閣は太平洋戦争の初戦の勝利の圧力を利用し、1942年4月翼賛選挙を実施して翼賛政治体制の確立を図るとともに、6月大日本産業報国会、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会の官製国民運動六団体を翼賛会の傘下に収め、8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定した。しかも町内会などの末端組織は生活必需品などの配給機構を兼ねており、全国民は日常生活まで内務官僚と警察の支配を受けることになった。ここに翼賛会体制=日本ファシズムの国民支配組織が確立し、憲兵支配の強化と相まって、治安対策的にはほとんど完璧(かんぺき)な権力支配が実現した。しかし本土決戦体制への移行に伴い、翼賛会は45年6月13日に解散し、国民義勇隊へ発展的解消を遂げた。


■大東亜会議
 太平洋戦争中、占領地域の協力体制を強化するため東条英機内閣が開催した会議。日本の敗色が濃厚となった1943年(昭和18)11月5日から6日にかけて東京で開かれた。参加者は、東条首相のほか、「満州国」の張景恵(ちようけいけい)国務総理、南京(ナンキン)政府の汪兆銘(おうちようめい)行政院長、タイのワン・ワイタヤコン首相名代、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モー首相といった占領地区の政権の代表で、このほかオブザーバーとしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班が加わっていた。会議は、各国代表の演説のあと、共存共栄、独立尊重、互恵提携などの五原則を内容とした「大東亜共同宣言」を採択した。しかし、タイが正式代表を送らなかったことに象徴されるように、各国の対日批判の姿勢は強く、「独立尊重」はスローガンの域を出ず、この「大東亜会議」自体も、内実を伴わぬ日本の宣伝の枠を越えるものではなかった。


■大東亜共栄圏
 中国や東南アジア諸国を欧米帝国主義国の支配から解放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという主張。太平洋戦争期に日本の対アジア侵略戦争を合理化するために唱えられたスローガンである。太平洋戦争勃発直前の第二次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣時の外務大臣松岡洋右(ようすけ)が最初に使ったことばだといわれるが、日本を盟主に東アジアに共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという発想は古くから主張されていた。満州事変期の「日満一体」は、日中戦争期には「東亜新秩序」とその名を変え、東南アジア諸国を侵略対象とする1940年代初頭には「大東亜共栄圏」が主張されるに至った。しかし、このスローガンも、太平洋戦争が日本の敗色濃厚になり、日本からの物資供給がとだえ、逆に諸国からの日本への物資収奪が強行されるなかで色あせ、「共栄圏」は「共貧圏」へとその姿を変えていったのである。


■大東亜省
 太平洋戦争による占領地域の拡大に伴い、「大東亜諸地域」の総力を戦争に動員することを目的に、1942年(昭和17)11月1日東条英機内閣のもとで設置された行政機関。拓務省の対満事務局、興亜院、興亜院連絡部、外務省の東亜局・南洋局などを廃止、統合して創設され、満州・中国、東南アジア占領地における一元的行政を目ざした。部局には大臣官房のほか、総務局、満州事務局、支那(しな)事務局、南方事務局の四局が置かれ、南方事務局の管轄には、タイ、インドシナも含まれた。「大東亜共栄圏」内における大公使館などの現地機関は大東亜省直轄官庁となった。所属官署に興亜錬成所、興亜錬成院があり、関係各官庁間の連絡機関として大東亜省連絡委員会が置かれた。東郷茂徳(とうごうしげのり)外相は、外務省の権限が縮小されることもあり、その新設に反対して辞任したが、軍の圧力で設置が強行された。青木一男が初代大東亜相となる。45年8月25日、東久邇(ひがしくに)稔彦(なるひこ)内閣のときに廃止された。


■大東亜戦争
 太平洋戦争に対する当時の日本指導者層による呼称。太平洋戦争開始直後の1941年(昭和16)12月12日、政府が「今次の対米英戦は、支那(しな)事変をも含め大東亜戦争と呼称す」としたことから生まれた。太平洋戦争という呼称がアメリカ側からみた呼称であるのに対し、中国を中心とする東アジアを主戦場とする日本の戦争目的により合致してはいるが、「大東亜」解放の「聖戦」とした日本側の宣伝臭が含まれているため、戦後はあまり使用されていない。


■石原莞爾(かんじ)(1889―1949)
 陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(ちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱(こくちゆう)会に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。22年陸大教官中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、28年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。35年参謀本部作戦課長となり、翌年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発して実現は阻まれた。その後東条英機と対立して41年3月第16師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体東亜連盟を指導した。昭和24年8月15日没。


 


樋口季一郎と北一輝の出会い

2006-04-03 19:48:44 | 樋口季一郎

先ず北一輝の人物紹介を。小学館「大日本百科全書」より引用する。
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北一輝(1883―1937)戦前右翼の理論的最高指導者。明治16年4月3日、新潟県佐渡島で酒造業を営む旧家の長男として生まれた。本名輝次郎(てるじろう)。中学4年で中退後多くの書籍を読破、18歳ごろから『佐渡新聞』を舞台とする地方論客となり、「咄(ああ)、非開戦を云ふ者」など、帝国主義と社会主義を合一する論陣を張った。1904年(明治37)秋上京、早稲田大学の聴講生となり、06年1000ページもの大著『国体論及び純正社会主義』を自費出版した。天皇の万世一系を否定し、天皇は国の最高機関の一構成員にすぎないとした国体論は、世に衝撃を与えた。この本は発禁となったが、彼を中国同盟会へ入党させる機縁をつくった。同盟会で北は孫文(そんぶん)と対立、国粋主義の宗教仁(そうきようじん)と結んだ。11年辛亥(しんがい)革命が起こると、中国に渡って革命に参加、帰国後『支那(しな)革命外史』を書き、日本の外交を論じた。16年(大正5)に第三革命が起こるとふたたび中国に渡り3年余活動したが、19年に勃発した五・四運動を正しく理解できず、とまどいのなか上海(シヤンハイ)で『国家改造案原理大綱』(1923年に『日本改造法案大綱』と改題して刊行)を一気に書き上げた。天皇大権による戒厳令、国家機構改造、アジア大帝国の建設を論じたこの本は、その後長く右翼のバイブルになった。同19年大川周明や満川亀太郎(みつかわかめたろう)と猶存社(ゆうぞんしや)を創立したが、北と大川の対立で23年解散。その後は右翼団体をつくらず黒幕的存在となり、西田税(みつぎ)を通じて青年将校を組織しながら軍隊内部の右翼運動の情報集めなどを行った。一方では「安田共済生命事件」などで「事件屋」として暗躍し、「朴烈(ぼくれつ)・文子(あやこ)怪写真事件」などの怪文書をばらまいた。牧野伸顕(のぶあき)らに汚職があるとした「宮内省怪文書事件」では、懲役5か月の実刑を受けた。なお、31年(昭和6)以降三井財閥から年額2~3万円の情報料を支給されている。以後、十月事件、五・一五事件などのクーデター計画やロンドン軍縮条約反対運動などに関与。36年の二・二六事件では、青年将校らの決起を事前に知ったものの、これを押さえることができないと知るや、助言、激励を与えた。これは叛乱幇助(ほうじよ)にすぎなかったが、『日本改造法案大綱』を危険思想とみなした軍部により、特設軍法会議で叛乱首魁(しゆかい)として死刑判決を受け、昭和12年8月19日、西田税とともに銃殺された。
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北一輝との出合いの項は相沢事件や桜会への読者の理解にも通じる内容であるから、樋口の回想録から丁寧に引用しておく。ただしこの内容はどこまでも樋口の見解である。


最初に当時青年将校らが騒ぎ始めた要因はどこにあるか、このことを樋口は書いているので、そこを見ておこう。
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私が新聞班、警備司令部在任中の四年間において、日本の国内情勢は平穏でなく一歩を誤れば容易ならぎる事態に追い込まれんとする様相を示していた。それは政治の腐敗が庶因であるが、陸海軍上層部が政界、財界の意思に翻弄せられ、自己の本領を喪失し、その結果として軍隊内部の結束が弛緩したことに原因する。しかしてその主なる原因は、海軍軍縮会議にあることは言うまでもない。
 さきにも述べたように、海軍軍縮会議がやむを得なかったとしても、もし直接それに関与した人物が、道義的事態はかくまでも悪化しなかったであろう。ところが無責任なる政治家連は、「外政」において「以夷制夷」の政策を持つごとく、この軍縮なる極めて危険なる政策遂行においても、やはりこれと同一の思想に基づいて処置したものであり、加藤大将をワシントン会議首席全権たらしめて問題を解決し、その後彼をして国政全般を処理せしめたことは、一見はなはだ賢明なるに似て、実は軍隊破壊の要因を作ったものであり実に嘆かわしき極みであった。
 その結果として、比較的外界の作用を受け嫌い安全地帯であるべき船上生活の海軍将校問においてすでに、上層部に対する信頼の念を喪失せしめたばかりでなく、陸軍においてもこれに近き事態が発生し、やがて陸軍上層部に対する信頼感を喪失せしめるに到ったのであった。かてて加えて、陸軍は地上生活であり、外界との接触容易なる結果として、一旦そのような萌芽が生れるとすれば海軍以上の危険が急速に発達するのである。いわんや陸軍においては、志願兵制度は制度上一部存在するとしても、実質的にはほとんどが強制的徴兵制度であり、しかも強健なる壮丁が富民より供給されず、貧民層より出づるとすれば、いよいよ以て若き青年将校の思想が危険性を帯びて来ることはやむなしとはいえ、悲しむべき現象であった。私の今の立論は、私の現在の老人としての所見に基づくものである。
 私自身としても当時齢すでに四十歳を越えていたにもかかわらず、日本の政界、財界、上層軍部に対し批判なきを得なかったのであり、この分では「日本よ、何処へ行く」と憤慨に堪えなかったのであった。もしこの際言論界、特にジャーナリズムが健全であり、我らを含む一般国民に何らか将来に対する希望を抱かしむる公正不偏の論陣を張ってくれたとすれば、また不平、不満も癒されたであろうが、当時のジャーナリズムは「軍縮の必要
と軍人侮辱」とを混同して扱い、それをもって言論の自由となし、ジャーナリズムの黄金時代と謳歌し、「政、財、言の一致」を楽しんだのであるから、言論の自由もなく政治参与を絶対に封殺された血の気の多い青年軍人は、何処に向ってその鬱積を晴らすべきであったか。
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海軍軍縮会議とはどういうものであったか。ここを見ておかないことには、樋口の憤慨を理解できない。小学館「大日本百科全書」より引用する。
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1922年2月6日にアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアが調印したワシントン海軍軍備制限条約である。この条約では、五大海軍国の主力艦保有量の比率を、アメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.67、イタリア1.67とすることなどを決めた。アメリカ、イギリスは、第一次大戦後、アジア・太平洋の海軍国として台頭してきた日本の軍備増強に歯止めをかける必要を感じていたし、他方日本は、新興の海軍国として、大規模海軍の建設に乗り出してはみたものの、財政への圧迫、物資の不足などの困難を抱えており、不平等な内容ながらとりあえずこの条約を受け入れざるをえなかった。この条約が、同時に結ばれた数多くの条約、協定、議定書からなるいわゆる「ワシントン体制」の一部として成立したことも付け加えておく必要がある。
 その後、ワシントン会議で合意できなかった巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の制限につき話し合いが行われた。まず、アメリカ大統領の提案で、1927年6月からジュネーブで、参加を拒否したフランス、イタリアを除く、アメリカ、イギリス、日本の三国会議が開催された。しかし、このときには米英対立が解けず、合意に至らなかった。ついで30年1月からロンドンで、今度はフランス、イタリアも参加して五国会議を開き、30年4月22日、ロンドン海軍軍備制限条約に調印した。ただし、フランスとイタリアは話し合いがつかず条約に加わらなかった。この条約は、日本の補助艦艇保有量を、小型巡洋艦は米英の7割、潜水艦は均等、これらを条件として大型巡洋艦を米英の6割にすることなどを決めた。
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この思いは軍人樋口のみならず若手将校のあいだに、日本はこれで持つのかという憤りを拡大していった。こういう次期に北一輝が『日本改造法案大綱』を提げて登場したものだから、若手将校の多くが北の考えに共鳴していった。


以下の事柄は樋口が桜会に参加した経緯と桜会における彼の態度を表している。
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 この時、参謀本部ロシア班長に橋本欣五郎がいた。ロシア革命を研究し、トルコ革新の実際をも見た彼は、血の気の多いことも百パーセントを越していた。福岡県人であって、血の気の多い多数の民間人の同郷者とも往復し、大川周明博士とも深く交わっていた。
 一日、彼の首唱で大川博士の国家学に関する講演に百名ばかりの青年将校連が参会した。私もその席に連なった。それを契撥として、その年偕行社で若い者の会合が行なわれた。それが「桜会」である。その首唱者は橋本であり、私が最も古参青年将校であり、年から見れば立派な中年将校でもあった。数回会合して悲憤慷慨(こうがい)するうち誰ともなく、ただこのような無価値な慷慨的会合を反覆することは無意味であると叫ぶものがあり、何かそれに結論を与えよと要求するのであった。いかなる結論を出すべきであるか。ある者は一種の直接行動に出づべきであり、それ以外に結論があるべきではないと極論するのであった。私は「諸君の内のある者の主張が、もし直接行動を意味するならば反対する」と述べた。「それでは、あなたはこのままで可なりとするか」と詰め寄られた。私は「それで充分だと考える。もし現在の政治の運営、軍上層部の態度に対する我々の不満が、軍上層部に反映しそれが更に直接政治家を反省せしむるならば、それは大した効果であり、またそれで充分ではないか」と論じ更に、「もしそれ以上の行動を必要と考えるならば須く軍を去って自由の立場において何でもなすべきである」と極論したのであった。私の主張は大部分の共鳴を得たと信じている。
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樋口は改革派ではあったが、急進派ではなかった。ここに樋口の円熟した人格が表れている。次の箇所も彼のこうした態度を補強しうる箇所である。
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 いわゆる皇道派に属する人物で、しばしば私を訪問したものに香田、栗原、大倉、村中、磯部らの現役青年将校、その他西田、渋川等の旧軍人があった。大岸頼好も一、二度顔を見せたかと思う。
【中略】
 私はいつも彼らの所論を聴くに止め、彼らの企画に関し何ら深く立ち入らないことを方針とした。それは彼らの思想が私以上に深刻であり、少々な反駁、反論では彼らを翻意せしむることは無理であることを自覚したからである。ただ私は彼らに対し、「君たちの希望が合法的に達成される方法が見出されず、どうしても非合法に出る外、道がないとの信念に到達するならば、ぜひとも現役軍人たる立場を離脱すべきであり間違っても下士官兵を含む軍隊を使用してはならない。もしこの点に間違いを生じては、単に国体の本義を逸脱するのみならず、天皇の軍隊を崩壊せしむるであろう。さような場合は僕は僕の立場上当然諸君と対決するであろう」と、説得することを忘れなかった。彼らは大体においてそれを当然の説として聴取していたと信じている。私の説得に対抗し、青年将校を反対に使嗾するものに、北一輝があった。
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 樋口と北を会わせたのは相沢事件の相沢であった。次の下りはオウム真理教の麻原とその弟子の関係を重ねられる様子である。
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 元に戻るが、皇道派の青年将校が何故私の宅に出入したかについて更に思い当ることは、相沢と私との関係であった。彼は、中央幼年時代同中隊の一年後輩の男である。それ以後二十数年問何ら密接なる関係はなかった。彼はどの面で私を評価したかは知らない。ところが多分昭和六、七年の頃の秋と思うが、秋季演習地より大岸相好と一緒に上京して私を訪ねて来たのである。私は愕然としてその不届きをなじり、速かに帰隊して自分の処置を上司に仰ぐべきを説得したのであり、彼は私の忠言に従ったのであった。彼は感救居士であるから、なる程とわかればそれを直ちに実行するが、また他のよりよきまたは彼の見解に近き言に遭遇すれば、またそれに追随する。それを純なり粋なりと自認しており、それが禅の妙味なりと信じているのであった。私の言うロシア式ソーウェスチである。
 ある日、伐は私を田園調布の自宅に訪ねて来た。私は彼が許可なく上京したかと怖れたが、堂々許可を得ての上京の由であった.そのようなことに彼は虚偽を言わないのである。いな虚偽を持ち得ない程の子供のごとき純粋さが披の欠点であり危険性を持つゆえんであった。いずれにせよ、彼の革新熱は既に沸騰点に近かったのであり、特に軍隊の力、今で言えば問題の「戦力」を革新実行に利用するも、あえて不可なしと彼は主張するのであった。私は当時、懐疑的に北一輝の「日本改造法案」を研究して一個の結論に到達していた時であったから、彼に対し「それは北の革命学説による君の信念であろう。改造法案は日本の国体精神を尊重する”天皇中心の革命”のごとく見られるが、彼は革命の手段として単に”天皇の権威”を利用するものであり、建軍の本旨において我らは断じて北の原理と闘うべきてある」と説いたのである。これに対し彼は「あなたは北先生を誤解している。一度お目にかかれば北先生の真意が明瞭となる。先生は法華経の信者であり、毎日毎時法華経を読誦しておられ、常時、楠正成、西郷南洲、海舟先生などの霊との交渉があり、先生は事実生ける神であり生ける仏であり、断じて私心を内に蔵しない国士であり大哲学者である」と賞揚するのであった。私は「彼が法華経の行者であることには一応敬意を表すとするも、正成、南洲、海舟等の霊と談ずるなどということには無限の疑いを抱かざるを得ない。霊の交渉ということは、宗教的信念の高潮する時発する現象であり、本人はそれを自己の精神力のなすところと信じているとしても、職業的宗教家ならぎる限り、断じて他人に口外すべきではない。もしそれを君らに口外するとすれば、私は彼に私心ありと断ぜぎるを得ない」と駁したのであった。
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そして北一輝との出会いは次のようなものであった。
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 翌日の夕刻、相沢は何らの予告もなく北一輝を伴って再び私を訪ねて来たのである。北は相沢の紹介の後、「突然訪問したことをお許し騒いたい。私はあらかじめ貴殿のご都合を伺った上お訪ねするの礼儀は承知していますが、相沢が近く帰隊するにつき、ぜひ貴殿と私と一度会って置いてもらいたいとのことで、かく突然来訪した次第です。国家の現状を憂える心において貴殿も私も別に差異ありとは考えられませぬにつけ、今後共よろしくご交際願います」というのであった。私は「高名なる貴殿にお目にかかり欣快に堪えず云々」というような平凡な応答をなし、この日は二十分位の会見で、別に立ち入った話もせず彼は紅茶でも飲んで帰ったかと思う。
 翌日私は彼の都合を質し、答礼の意味で彼を大久保の屋敷に訪問したのであった。総檜の四、五年も経ったかと思われる、まずは広壮なる邸宅であった。私は国家改造に関する彼の思想につき一、二質問せる後、「天皇の軍隊を革命の道具に使用せざること。もしそれが誤用せらるる場合は、仮に北イズムに基づく国家改造が達成せられるとするも、必ずや第二、第三のクーデターが発生し永久に日本の国内平和は期待されないであろう」と私の信念を吐露して引き揚げたのであった。
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樋口季一郎と桜会

2006-04-01 21:38:13 | 樋口季一郎

樋口季一郎は桜会にも関係したが、回想録にはこの事柄は書かれていない。おそらく当時の役職が東京警備司令部参謀であったこと、樋口の風貌、年齢から橋本欣五郎らに強く加盟を勧められたものと思う。回想録を読むと樋口は文学青年の一面が見られるので、この面からラジカルな思想の持ち主と解されたのかもしれないが、橋本らとは肌合いが違ったのではないか。それに年譜によると樋口が東京警備司令部参謀に就任していたのは、昭和六年から七年の二年間で、翌年八月には福山に転任している。樋口の本意とは異なる名前貸しに終わったので、だから回想録で桜会にも触れなかったのでないか。



以下は小学館「日本大百科全書」より引用。
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陸軍省、参謀本部の中堅将校を中心に、国家改造を目的として結成された団体。1930年(昭和5)夏、橋本欣五郎(きんごろう)中佐(参謀本部ロシア班長)を中心に、坂田義朗(よしろう)中佐(陸軍省調査班長)、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)中佐(東京警備司令部参謀)ら二十数名の発起人により結成された。ロンドン軍縮条約に対する不満と政党政治への反感をもとに、「本会は国家改造を以(もつ)て終局の目的とし之(これ)が為(た)め要すれば武力を行使するも辞せず」との目的を掲げ、また満州侵略を不可欠と考えていた。31年5月ごろには会員150名に達し、同年7月には尉官級を中心とした小桜会も結成され、国家改造をめぐる将校の横断的組織となった。桜会内部には国家改造と対外侵略の方式に関する意見対立が存在したが、橋本らは満州侵略のためにも、まず国家改造が必要であると主張していた。橋本らは31年の三月事件および十月事件というクーデター計画で国家改造を実行しようとしたが、いずれも未遂に終わり、その後桜会は自然消滅した。 天皇制国家機構の中枢機関である陸軍内部に、初めて国家改造を指向する組織が結成されたことは、日本ファシズム形成過程に重要な意味をもった。
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橋本欣五郎(きんごろう)(1890―1957)陸軍軍人。福岡県出身。陸軍士官学校23期。陸軍大学校卒業。参謀本部や関東軍司令部に籍を置いた。1927年(昭和2)トルコ公使館付武官となり、ケマル・パシャの革命思想の影響を受ける。30年参謀本部ロシア班長となり、陸軍中堅将校を中心に桜会を結成する。31年、三月事件・一〇月事件を企て、軍の政治的進出を促した。36年、二・二六事件後の粛軍により砲兵大佐で予備役となるが、大日本青年党を組織し積極的にファシズム運動を展開する。37年日中戦争に召集され、同年12月、揚子江(ようすこう)上のイギリス砲艦レディバード号を砲撃拿捕(だほ)した事件により退役となる。40年大日本赤誠会を結成。42年衆議院議員初当選、翼賛政治会総務となる。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑となり、55年仮釈放。56年参議院全国区に出馬したが落選。




■三月事件 陸軍内部で企図され、未遂に終わったクーデター事件。1931年(昭和6)2月幣原喜重郎(しではらきじゆうろう)臨時首相代理は衆議院の答弁で、ロンドン海軍軍縮条約を天皇が承認したことを盾に批判を封じようとした。このいわゆる失言問題で議会は混乱した。それを背景に、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長)をリーダーとする桜会の幕僚将校は、民間右翼の大川周明(しゆうめい)の協力と軍首脳部の賛同を得て、陸相宇垣一成(うがきかずしげ)を首班とする軍部政府樹立を計画、国家改造の推進を目ざした。杉山元(はじめ)(陸軍次官)、二宮治重(にのみやはるしげ)(参謀次長)、小磯国昭(こいそくにあき)(陸軍省軍務局長)、建川美次(たてかわよしつぐ)(参謀本部第二部長)らがこの計画に賛成したといわれ、資金は徳川義親(よしちか)(貴族院議員)が援助した。計画は、大川が無産政党と連絡して3月20日ごろを期して民衆1万人動員による対議会デモを実行、軍隊が議会保護の名目で議会を包囲し、民政党内閣を総辞職させ、宇垣内閣を実現させるというものであった。宇垣がのちになって参加を拒否したため計画は挫折し、事件は闇(やみ)のなかに葬られたが、それは急進ファシズム運動の呼び水になり、同種の事件が頻発する契機をなした。




■十月事件 桜会の橋本欣五郎が首謀者となり計画、未遂に終わった本格的なファッショ的クーデター事件。錦旗(きんき)革命事件ともいう。1931年(昭和6)3月事件の失敗後、橋本らは関東軍の満州謀略計画と連携した国家改造クーデターを計画していたが、同年9月満州事変勃発後、それを具体化しようとした。計画には隊付青年将校らのグループも参加し、大川周明(しゆうめい)、北一輝(きたいつき)、西田税(みつぐ)、橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)らの右翼勢力も加わった。計画の内容は、10月21日を期して、桜会の将校が率いる十数個中隊の兵力を動員し、閣議の席などを襲撃して全閣僚、政党幹部、財界人を殺害、戒厳令を布告し、荒木貞夫中将(教育総監部本部長)を首班とする軍部政権を樹立しようとするものであった。しかし計画は事前に発覚し、10月17日、橋本ら13名前後が憲兵隊に検挙され、クーデターは未発に終わった。以後青年将校グループは、幕僚将校らの運動に不信感をもち、彼らから離脱して直接行動による国家改造運動を展開するようになっていった。
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桜会での樋口の姿については回想録末尾に──跋──として、稲葉正夫氏が次のようなことを書いている。

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 なおこの桜会に関係深く、唯一の政策参謀でもあった前記田中清少佐は昭和七年一月、有名な「所謂十月事件二関スル手記」をひそかに発表している。これによれば、発起人は橋本、坂田および樋口季一郎(21期-東京警備参謀)の三中佐で、発会当時は二十数名の会員であった。そしてその志すところは、国家改造を終局の目的とし、これがためには、要すれば武力行使も辞せずというのである。会員は、中佐以下の現役将校で私心なき者に眠られた。
 目的達成の準備行動としては、
 一切の手段をつくして国軍将校に国家改造の必要なる意識を注入
 二 会員の拡大強化(昭和六年五月ころには会員約一五〇名あり)
 三 国家改造のための具体案作成
などであったが、会員の目的を本質的に考察すれば建設当時から既に、(一) 破壊第一義、(二) 建設を主とする、(三) 中間浮動、にわかれていたという。
 樋口、坂田、橋本三中佐はいずれもロシア班に奉職した因縁あり、同憂同志であっても不思議ではない。当時、重厚な樋口中佐を発起人の筆頭に推戴したというのが本筋ではなかったか。土橋少佐手記にも結成時、樋口中佐の名はあがっていない。さらに田中少佐手記の三月事件および十月事件には、樋口中佐活動の記事は一切ないのみならず、かえって「十月十五日(全員逮捕は十七日)警備参謀樋口中佐ハ桜会ニ於ケル関係ヨリ個人的ニ橋本中佐ヲ説得セントシ遂二激論ヲ交へ終レリ」とある。
 要するに、トルコ武官から帰った橋本中佐は桜会を根城にして、トルコの例にならい最初からクーデターによる革新を狙ったもので、三月事件から十月事件まで終始、橋本中佐を中心にロシア班の小原重厚大尉、田中弥大尉およが支那班の長勇少佐等の少数過激派の盲動によるものであったようであるが、樋口中佐はじめ桜会多数の会員とは、根本において異なるものであった。ともあれ、桜会の少数過激派の行動が、のちの五・一五及び二・二六事件とあわせて軍部に武力革命の意図ありとして日本の朝野にショッタを与えたことは否めない事実であった。
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稲葉正夫氏については以下を参照されたし。
http://ww1.m78.com/topix-2/army%20officers.html


http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no72.htm




近年、故人樋口季一郎を冒涜するような形で担ぎ出してきたのは、桜会関係者ではないかといううがった見方もできるのである。必ずしも樋口季一郎にとっては好ましいことではない。


樋口季一郎と相沢中佐

2006-03-30 15:14:54 | 樋口季一郎

樋口季一郎が日本史に関わったもう一つのエピソードがある。


樋口季一郎著『樋口季一郎回想録』に以下の記述がある。
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相沢中佐との別れ


 昭和十年八月十日前後のある日、私は当時ハルピンに本拠をもった第三師団司令部に赴任すべく福山を出発した。部下将兵知人多数の見送りを受けた。その中に軍刀を携えた相沢中佐もいた。私は彼に対しいつ赴任するかと訊ねたところ、間もなく立つ積りだと答えた。私の任地は満州であるから、家族は当分福山に残すこととなっていた。相沢が去ることでもあるから、その後で家族を移す考えであった。
 それから三日後の夕刻 (後で調べたところ八月十二日であった)、私は長春(後の新京)名古屋館の客であった。一風呂浴びて夕食の膳を前にせんとする頃、慌ただしく一人の新聞記者が飛びこんで来た。そして相沢中佐が大変なことをしましたという。何をしたかと聞くと、新聞記者は相沢が永田軍務局長を殺害したというのである。何たる馬鹿な又何たる大それたことをしてくれたのか.私はただ茫然たるばかりあった。まさかこのような直接行動の第一歩が数日前まで私の部下であった彼によって今実行されるとは考えなかった。それにしても、少なくとも彼はある場合その身を火中に投ずることは間違いないと思い、彼を最も安全なる地帯(私の案では台湾など)に置かんとしたものである。彼は家族同伴赴任する心組みてあり、そのため着々出発準備が整えられ荷物も今直ちに発送しうる態勢にあった。私は彼の台湾赴任を絶対に疑わなかったのであった。
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相沢中佐とは相沢事件、昭和十年八月十二日午前、東京三宅坂台上の陸軍省内の執務室で、軍務局長永田鉄山少将は、現役の陸軍中佐によって斬殺された。この陸軍中佐こそ相沢三郎中佐、四十六歳である。そしてこの事件が翌年二月二十六日の2.26の導火線ともなり、日本を大陸侵略の軍国化に走らせたのである。


樋口季一郎は部下であった相沢中佐が決起にはやり、何か事を起こすことを予感していたので、台湾に赴任させるつもりであったが相沢の行動の方が早くて止めることができなかった。


相沢事件に対して樋口はどのように身を処したかを見てみよう。潔い態度であった。
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 しかし何れにしても矢は既に弦を離れていた。賽は既に投ぜられていた。私の責任は重大である。私が第三師団参謀長であることは事実であり、彼相沢が台湾歩兵第九連隊附である.ことも間違いない事実である。それはそれとしても、二年間相沢の直属上官として指導すべき立場にあった私の責任は、相沢に次ぐ大なるものである。私は陸軍大臣に対し進退伺を捉出した。
 私の責任問題につき、第三、第五師団、陸軍省の三角関係において交渉があったようだが、結局私は最大限の重謹慎に処せられ、引続き業務を執るペく申し渡されたのであった。
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当時樋口は血気にはやる相沢らの動きをどう分析していたのか、樋口も彼らに共鳴していたのか、回想録から見ておこう。
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 「叛乱」によると相沢事件は、この八月定期異動が主なる原因となるようである。八月異動において真崎大将が教育総監を免ぜられ、いわゆる皇道派と見らるる連中が或いは左遷され、或いは引退した。これを永田を中心とする統制派の陰謀であると断じての事件とされている。
 そして彼ら直接行動派は、「他」の使嗾を受けたことは事実であるにしても、使嗾さるべく精神的に、はたまた思想的に準備されていたことに問題がある。準備とは何か。それは「天皇絶対」の思想であり、「現人神の信仰」である。昔はそれをおぼろげに意識していたにしても、それは主として教育勅語、軍人勅諭に基づくものであり、やや形式的性格を持っていたかと考えられるのである。ところが昭和六年八月、突如として満州事変が発生し、世界の包囲攻勢のさなかに立つと直感させられた国民、特に青壮年軍人層は「自由思想」による教育、政治ではこの苦難と危接を突破し得ずと感ずるに至り、絶対強固な政治の運営、しかしてその前提としての日本思想の確立を必要と感ずるに至ったのである。それは「誰か」にあらずして日本全体の本能的「思潮」でもあった。
 かかる思潮に重大影響を与えた人物に徳冨蘇峰、平泉澄、今泉定助の三先生があると私は信ずるのである。権藤正郷、安岡正篤、大川周明などの影響は微々たるものであったと思う。
 徳富蘇峰先生は、何もこの一、二年の思想、行動によるのではない。明治三十年頃、「静思余録」を書かれた時分から国家主義的進歩思想にどれだけ偉大なる感化をもたらしたものであろうか。彼の「日本国民史」のごときは余りにも宏大なる著述であるから比較的感化力に乏しいとしても、「世界大戦後の世界及日本」(第一次大戦)のごときは日本青壮年に偉大なる自覚を与えたと共に、アンチ・アングロサクソニズムを鼓舞している。平泉博士は、その日本歴史学において天皇の神性を唱道し国体の尊厳に対する理論的解明を与えていた。この両先生の思想を一歩前進せしめたのが今泉定助先生であり、彼は「三大神勅」を日本歴史と日本精神の基礎なりとなし、それが実践として「祓(みそぎ)」の必要をも唱道したのであった。
 かくして「日本思想」なるものは、その好むと好まざるとに拘わらず非常な勢いをもって燃え上り、僅かの水ではとても沈静消火せしめ得ざる程度に達したのであり、そこに最後的焦点として「天皇機関説」に対する国体明徴要求の議会論議ともなり、岡田内閣の命とりの問題と化したのである。
【中略】
 徳富、平泉両先生までは「天皇人間説」を捨てなかったであろうが、今泉先生に至っては「天皇即神」でなければその説は筋が通らなかったであろうし、それが又燃えさかる国体明敏論者の意に叶うのであった。
 これを逆に考えてみると、今泉あって徳富、平泉あり、徳富、平泉ありて国体明徴論あり、彼らにより国家改造論が強大なる世論となり、それを巧妙に操る好雄、鼻雄の存在によって相沢事件とも又二・二六事件ともなつたものと私は見るのである。【攻略】
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「叛乱」は立野信之著。


この文章を見る限りにおいては樋口は、冷静な分析をしており、相沢らを皇道派と見、そして連中呼ばわりしているところを見れば、その動きに同調している節は見られない。また統制派に属していたとも考えられない。樋口はこの二派に対しては傍観的立場であった。

樋口は軍人としてはなかなかの教養人である。相沢の項で次のようなことも書いている。
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 レフ・トルストイはその「戦争と平和」において、英雄と時勢(世論) の関係を論じているが、彼は英雄としてのナポレオンを極めて小さく扱っており、時勢、世論が彼を一種の傀儡として祭り上げ、彼をして対露遠征を決行せしめたるかに述べている。要するに彼においては一個人の力は非常に微々たるものであり、時勢、世論即ち衆の力の絶大を主張するのてある。
 およそ歴史の発展過程を大観すると、
 1 ある第一の個人が種子を蒔く
 2 大衆これに追随し、一つの世論が生れる
 3 ある第二個人が大衆の傀儡に担ぎ上げられる
 4 この個人が英雄(善、悪いずれかの) となる
 という四段の過程を持っている。第一の個人と、第二の個人との関係は何ら直接的でないにも拘わらず、第一の個人は第二の個人に対し、善悪いずれかの道義的責任を持たぎるを得ない立場に立つであろう。もし第一の個人の種子が仮に極めて「善」であったとしても、その種子より生れ繁茂するもの、必ずしも「善」であるとは眠らないことは人間界に免れ得ぎる現象であり、そこに悲劇が発生するのてある。
 そこで、右原則の第二の個人が歴史的に善の英雄となった場合、第一の個人は善の英雄を生んだ、第一の功労者として賞揚さるべきである。吉田松陰先生がその好例である。第二の個人が悪の英雄となった場合、第一の個人の立場は誠に泣くに泣かれぬ立場に立たされるてあろう。それが私の絶対尊敬する徳富先生の悲劇的立場である。
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ぼくは二派に対する樋口の態度を傍観的と表現したが、実際彼はどのような態度の軍人であったかそこを見ておきたい。回想録に──直属の部下、相沢中佐──という小見出しがある。
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 私が福山に着任して見ると、連隊の青年将校連は、歩一、歩三の若い者ほど思想的に尖鋭化していたとは考えられなかった。それでも東京方面からいろいろの連緒的文書が発送されて来る関係でもあろうか、いささか時世を論じ憤慨するの風があった。大尉以上は平静で静岡時代と変ったことはない。四十期以後の若者が少々ガタガタしていたにすぎない。相沢が来たというので、広島の歩二の若い者たちと一緒にぼつぼつ気勢を上げようという風がほの見えた。それでもその根本は極めて持弱であり、ただ日本改造法案を見たこと、読んだことがある位で、この頃の青年が「世界」、「改造」、「文藝春秋」を読んて知識人、文化人を装う程度にすぎなかった。
 相沢は自己の本務は忠実に行なうが、彼自身の生命は本務よりは遠ぎかっていたかに見えた。私は相沢が時折若い少尉あたりに天下の大勢を論じ、日本改造の必要を講釈する片鱗と、若い者が相沢を中心に動く気配を感じた。私はまず相沢を招致して「僕は今までは君の友人であったにすぎない。しかし今は違う。今君は僕の部下であり、僕は君の直属上司だ。僕は陛下の統帥権の一部を拝受している連隊長として、部下たる君を遇する決心だ。それが天皇に対する忠節絶対の真姿である。君は東北の連隊で相当広範な自由を得ていたようだが、今後はそれは許されないであろう。僕もこの頃の日本の政治は必ずしも良い状態で運営されているとは思わないが、それを改善せしむるのは、自ら他に方法がなければならぬ。彼ら政治家といえども馬鹿ばかりではない。非国民ばかりでもない。必ずや彼らの内部に革新運動が起り、政治の浄化作用が始まるであろう。また始まらねばならぬ。我
我軍人は自己の任務を忠実に実行すべきであり、それができぬ限り我々は政治家の仕事を批判する資格がないではないか。僕は君に要求するが、君は自己の任務を完遂すると共に、若い者たちにもし不心得のものがある時はよろしく私の今述べた精神に基づいて善導してもらいたい」と申し渡したのであった。彼は判ったような判らな
いような顔をしていた。
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ここに軍人樋口の姿を見ることが出来る。戦前の軍人である限り、〈天皇に対する忠節絶対の真姿〉であった。このことをもって彼を国粋主義、極右と見るのは間違っている。回想録を読了しても天皇そのものへのあつい忠誠心への口吻は伝わってこない。軍律が天皇への忠誠心をうたってあるから、その軍律に忠実な軍人であったと認識したほうがよい。


極右思想の持ち主は故人である良識的保守の軍人をすら我田引水に利用するのである。



 


樋口季一郎の遺影

2006-03-30 12:11:24 | 樋口季一郎

樋口季一郎(1888-1970)


最前列左から安岡正臣留守第三師団長、岩松義雄中部防衛軍司令官、東条英機陸軍大臣、氷見俊徳留守第十一団師団長、樋口季一郎第九師団長、佐々木到一第十四団長、二列目氷見と樋口の間に石原完爾第十六師団長、全員陸軍上層部。


札幌神社参詣中の樋口季一郎北部方面軍司令官


樋口季一郎は南あわじ市阿万出身

2006-03-29 12:23:31 | 樋口季一郎

ぼくが樋口季一郎に興味を持ったのは以下の一文である。この一文は樋口の孫に当たる樋口隆一氏(明治学院大学芸術学科教授、のちに文学部長)が、――『樋口季一郎回想録』再刊に寄せて――として、本書の初めに書かれたものである。

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  晩年の祖父の日常は散歩に読書、祖母を相手の将棋、野球や相撲のテレビ観戦といったごく一般の老人のそれだった。多少風変わりなのは『アンナ・カレーニナ』を初めとするトルストイの小説をロシア語で読んでいたことだ。長い外国生活を通じてロシア人の友人も多く、個人としてのロシア人をこよなく愛していたが、国家としてのロシアの複雑さもまた誰よりも熟知していた。戦争の話は一切といってよいほどしなかったが、アッツ島の風景を描いた小さな水彩画を掲げ、日毎に慰霊の祈りを捧げていた後ろ姿は忘れられない。 ユダヤ難民救出についても祖父はほとんど語らなかったが、ただひとつ祖父が明言していたことがある。「当時のヨーロッパではユダヤ人に対してだけではなく、アジア人への偏見も存在した。だからドイツやポーランドに行った若い日本人を下宿させてくれたのははとんどがユダヤ人の家庭だった。つまり日本人はずいぶんユダヤ人の世話になっている。そのユダヤ人の難民が困っていたら、助けてあげるのが当然じゃないか。いろいろ言う人がいるけれど、真相はあんがい単純なことなんだ」というのである。後になって「イスラエル建国の恩人」とか「人類愛の将軍」とか、たいそうな称号を頂いて、祖父は実に面はゆい思いをしていたにちがいない。彼にとっては「小さな隣人愛」の自然な実践に過ぎなかったと思う。親友石原莞爾の影響で日蓮宗の熱心な信者であった祖父だが、仏典と並んで聖書もまた実に良く読んでいた。とはいえ国際政治の錯綜した状況の中で、緊迫した事態を自分の心中では隣人愛の次元まで単純化し、その上で満州国を動かし、満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させたという披の問題整理能力には、一人の人間として敬服せざるをえない。 難民救済に関する祖父の独走は、当然ながらナチス・ドイツを激怒させたのみならず、日本の外務省、陸軍省、関東軍をも憂慮せしめた。しかし披は、「日満両国は非人道的なドイツ国策に協力すべきでない」という理由で自分の行動の正当性を主張した。関東軍参謀長東条英機もそれを良しとして、披の意見をそのまま陸軍省に申し送ったという。祖父はそのことに関して、「あの頃は東条もまだそんなにバカではなかったよ」などと言って笑っていた。 外国生活が良く、また読書家であった祖父は話題豊富な座談の名手でもあった。「ヨーロッパでは旅行するたびに情報収集のために必ずオペラを見た。プッチーニの《トスカ》はすばらしい」などという話を何度聴かされたことだろう。私は長じてドイツに留学し、今も仕事と楽しみを兼ねてヨーロッパ各地でオペラを見ることが多いが、考えてみるとどこかに祖父の影響があるのかもしれない。ショパンのマズルカを母や妹に弾かせて悦に入っていた祖父は、おそらくワルシャワの社交界を回想していたのだろう。若い女性の来客があると、別れ際にうやうやしく宮廷風のハントクス(手への接吻)をして女性達を有頂天にさせる術も心得ていた。

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文学をやってきたぼくとしては、実に魅力的な人物である。そしてこの人物が明治22年八月に阿万上町の奥浜家で生まれる。季一郎は奥浜久八、まつ夫婦の五人(九人?)きょうだいの長男。明治33年父母は協議離婚し、母方阿萬家に引き取られた。明治34年三月に三原高等小学校(官立の高等小学校で1886年6月、三原郡市村の正新小学校の校舎の一部を利用して開校。翌年4月に新校地(のち、三原郡公会堂用地)に移転した(『三原郡史』三原郡町村会、1979)。この場所は現国道28号線市青木

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=70000&el=134%2F46%2F34.901&pnf=1&size=600%2C550&sfn=all_maps_00&nl=34%2F16%2F54.977&&

の交差点の北東角である。文部省が定めた必修科目のほかに英語を課していた。)第二学年を終了、その後篠山にあった兵庫県中学鳳鳴義塾に入学。

 

鳳鳴義塾は明和3年( 1766)篠山藩主青山忠高が藩校「振徳堂」を創建したのが源である。明治17年青山忠誠が基金を募り、私財をも投じて「私立鳳鳴義塾」と改称し中学教育を維持する。明治32年文部大臣の許可により、「私立尋常中学鳳鳴義塾」と改称。大正9年県立に移管、「兵庫県立鳳鳴中学校」。そして昭和23年、新制高等学校制度発足に伴い、「兵庫県立鳳鳴高等学校」と校名を変更する。

 

樋口は14歳の明治35(1902)年、大阪陸軍地方幼年学校に中途入学した。よほどの秀才でなかったか。このことが彼を陸軍のエリートコースの歩み始めとなった。

 

幼年学校とは明治20年(1887)陸軍士官学校官制、陸軍幼年学校官制が制定され、設立された。その後、軍備増強政策による人材育成を図るために明治30年(1897)陸軍幼年学校官制が廃止され、代わって陸軍中央幼年学校条例及び陸軍地方幼年学校条例が制定された。東京に陸軍中央幼年学校、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に陸軍地方幼年学校が設立された。主な生徒数は各校約50名ずつで、中央学校は14歳から2年間、地方学校は13歳から3年間である。学費は陸海軍の士官子息は半額であり、戦死者遺児は免除とされていた。軍事学及び普通学を学び、出身者による陸軍将校に占める割合も三分の一になった。

 

2006年四月二日、阿万にて樋口季一郎の遠縁のかたにお会いすることが出来た。奥浜家は廻船問屋の仕事をしていたとのこと。しかし樋口が子供の頃に家業は傾きだした。回想録年譜は奥沢と記載されているが、これは出版元の編集ミスであろう。

 

その後18歳で岐阜県大垣市歩行町樋口家の養子になったが、この辺の事情は回想録にも出てこない。樋口家は氏族の家柄でなかったかと想像している。奥浜久八の弟勇次が樋口家に入り、季一郎は勇次夫婦の子になったようである。

ここに出てくる石原完爾については、「平成太郎の館」

http://fss.hp.infoseek.co.jp/meisaku.htm

にある。東条英機と並ぶ大物軍人である。


樋口季一郎とアッツ島玉砕とキスカ撤退

2006-03-01 02:33:40 | 樋口季一郎

虎の尾を踏む男たち 太平洋奇跡の作戦 キスカ


樋口季一郎にとって、痛恨の戦記、アッツ島玉砕、キスカ撤退について概観を書くことにする。



アッツ島玉砕については以下に概要が書かれてある。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-attu.htm


キスカ撤退については以下に概要が書かれてある。
http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm


『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』の前身は1971年10月に芙蓉書房から出版された『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』であるが、不思議なことに本文中にアッツ島玉砕、キスカ撤退についての記載はない。その理由について『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』の編者(おそらく孫の樋口隆一氏と思われる)が述べている。


『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』は第八部 アッツ、キスカ作戦を指導、となっているが、第九師団長に親補、で本文を終わっている。つまり肝心な作戦指導のところが執筆されていない。このことについて編集註として二つの理由を記している。一つは高齢の故の執筆能力の衰え、二つは難戰の指揮を執ったことが筆を鈍らせた。このために樋口はいったん休養を必要としてペンを置いたが、そのまま八十二才の生涯を閉じてしまったということである。


ならば芙蓉書房編集部は『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』としたのか、疑問の残るところである。


アッツ島玉砕、キスカ撤退の本文記載がないものをあえて『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』としたか、芙蓉書房の体質を窺(うかが)わせしうるものがある。


したがって『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』に依るかぎり、樋口がどのように指揮を執ったかは本文から読み取ることはできない。ただ「戦史室への書翰」がいくつか掲載されているので、断片的な事柄は知ることは出来る。まず次の写真を紹介する。


北千島巡視中に現地陸海軍首脳部と撮影したもの。前列中央が樋口、その右が久保九次海軍中将。
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/higuti4.gif


アッツ島玉砕について樋口は、「戦史室への書翰」に次のように書いている。
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 二月二十三、四日であったか、参謀次長薬中将来礼。中央部の意思を私に伝達した。それは「軍の計画は至当とは存ずるが、此計画は海軍の協力なくしては絶対に不能である。中央としては海軍と協議、要求したが、目下の海軍には其余力がない。随って北方軍としては寔(まこと)に苦しいこととは信ずるが、此企図は捨てて貰いたい」と云うのである。彼は懐中に大命を携行していた。
 私はそこで一個の条件を出した。それは「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を約束するならば」と云うにあった。
 次長は長距離電話で中央部と協議の末、私の条件を受理した。そこで私は山崎支隊を見殺しにすることを了承せぎるを得なかったのであった。
 此日であったか、或は又数日後であったか、私は電報的通話の方式を以て山崎と交話した。私は海軍及び陸軍中央部の実情延いては私の反攻企図の実行不能を述べ、山崎部隊が独力無援最後迄善戦し、日本武士道の精華を拭現せられたき旨要望したのであったが、山崎は「国家国軍の苦しき実情は了承した。我等は最後迄善戦奮闘、武士道の精華を発揮するであろう」と云う様な返電を送致し来ったのであった。
  二十九日の夕刻であった、山崎大佐より最後の電報が来た。「アッツ全戦線を通じ、戦闘し得る者僅々一五〇名となったから、本夜、夜暗に乗じ全員敵中に突入する考えてある。私共は国家民族の不滅を信じ散華するであろう。閣下(これは私を指す)の武運長久を祈る。各位によろしく伝達ありたし。天皇陛下万歳。これと共に通信機を破壊する」と云うのが彼の最後の通信であり、虎山(?)方面より敵に向い突撃し全員完全なる散華を遂げたのであった。
 一昨年であったか、日本アッツ遺骨受領員の報告が大体其真相を伝えて居た。重傷者六、七名が捕虜となって居たことが戦後知られた。
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樋口が大本営の戦略をどう見ていたかは、次の一文でわかる。
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 前述の如く、昭和十七年八月、私が札幌に到着する迄、大本営も北海支隊も共に極めて楽観的であったと信ぜらる。それは陸軍作戦の必要から該方面に陸軍兵力を派遣したものでなく、海軍的眼を其方面に置くと云う、謂うなれば「一種の海軍的展望」にすぎなかったからである。私が着任した当時、私の考えは部下の「半棄状態」を改めんとするにあった。処が真剣に我が方のアリューシャン防備強化が始まると敵も亦アラスカ方面よりの活動が活溌となり来ったのであった。そして山崎部隊がアッツを占拠する頃には、米勢力圏内に著しく部隊が増力されだし、飛行基地も西漸を見るに至った。キスカ東方の一、二の島々は我が方の飛行基地建設開始に後れること数カ月にして早くも飛行可能となる。それは整地が機械力、滑走路は網による舗装の方式を採用したからである。
 斯くて敵の飛行が開始される頃となりては、ポヤポヤすればアッツの飛行場完成前敵から攻撃されるかも知れないと私も実は戦々兢々、来攻判断と云うが、それは「我」自身の熱意の問題である。自ら責任感強ければ敵近く来攻すべしと考えられ、呑気なれば之に反する。北方軍として迅速にアッツ、キスカの防備完成を希望した。それは敵の反攻近からんと判断したからであった。峯木、山崎も同様であったと信ずる。
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 札幌護国神社に建立された碑。
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碑除幕式に出席した樋口(昭和43年)、亡くなる二年前。
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/higuti6.gif


この写真を見ると、樋口は気息奄々(えんえん)、やっとの思いで除幕式に臨んだであろうことがわかる。そしてこの姿こそ、敗戦後の日本で表舞台に現れることなく、アッツ島玉砕の部下の慰霊にのみ思いをいたした、清廉潔白な一軍人の晩年であったということができるであろう。


キスカ島完全撤収について、樋口は「戦史室への書翰」に次のように記している。
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 本作戦は海軍の友軍愛及び犠牲的精神により達成された。(それは海軍の意思でアッツが占領されたことにもよる)
 本作戦の成功は、又海洋気象の作用にもよる。又特にアッツ部隊英霊の加護を無視すべきでない。
 終戦後、米軍CICの某中佐が私を調査する序を以て、談(質問)「キスカ撤収」に及び、「キスカ撤収後約一方月、米軍飛行部隊及び潜水艦は毎日の様にキスカ島を爆撃し、監視していたるが、遂に撤収企図及びそれが終了を察知し得なかった。如何にして斯かる巧妙なる作戦が可能であったか、其秘策を問う」と云う。
 私はそれに答えて秘策など何もなし。あるとするならば、濃霧を利用したと云うことに尽きる。それに海軍の友軍愛だ。なお神秘的の言辞を弄し得んとすれば、それはアッツ島の英霊の加護である。何となれば、アッツ部隊が余りに見事なる散華全滅を遂げたから、米軍はキスカ部隊も必ずやアッツの前例を追うならんと考え、撤収など考慮に入れざりしならん。若しキスカ部隊或は撤収すべしと考え、米軍がこの考えで査察したとせば、撤収半ばにして該企図をしたるなるべし。此意味に於て日本軍の企図を秘せしめたるは、アッツ島の英霊とも云い得る」と答えたのであった。私は今でもそれを詭弁と考えていないのである。
 私は自己弁解と考え、曾て他言せぎりしが、今回の質問中に兵器抛棄問題があるから附言するが。
 若しキスカを撤収し、千島防衛に貢献せることを可なりとすれば、キスカ撤収作戦の唯一の「キー・ポイント」は海軍の要求を容れ兵器等を同島に残置し、配備を外見上変更せぎりしことが相当与りて力があったと考えるのである。それは■に陸海兵力の撤退を容易にしたのみでない。さりとて私は、退却作戦(撤収作戦を含む)にはあらゆる軍需品を無条件放棄するのが文明的作戦であると云わぬであろう。勿論これは好ましきことではない。だが孤島作戦の特質として一歩を誤れば人も物も全部を失ったのであるから、時として物の損失は許すべきだと考えるのである。
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アリューシャン列島およびオホーツク海一帯での戦争は、阿川弘之著『私記キスカ撤退』にも詳細があるが、気象、濃霧、海霧を予想しての戦いであった。濃霧、海霧といっても一様ではない。場所、場所での特徴があって、発生を予測することははなはだ難しかった。キスカ撤収の折はこの濃霧が日本軍に味方したとしか言えないのである。


樋口季一郎の誤伝

2006-02-27 12:10:04 | 樋口季一郎

樋口季一郎 - Wikipedia


樋口季一郎のユダヤ人救済の評価は六千人のユダヤ人難民を救済した杉原千畝ほどには確定していない。


昭和十三年三月十日、ドイツのナチスの手を逃れた二万のユダヤ難民がソ連領を横断し、満州国西部国境、満州里駅の対岸オトポールに流れ込んできた。当時ソ連政府はドイツに気兼ねしてユダヤ人難民がソ連領内に留まることを許していなかった。難民が当面逃れる先は満州国よりほかなかった。満州国を経由して上海、そして上海から米国や日本の神戸などへ落ち着く先を求めた。


当時日本は日独伊三国同盟を結んでいたので、満州国でも関東軍への遠慮から容易くは難民を受け入れる状況ではなかった。このときヒューマニズムの精神からユダヤ人難民の満州国受け入れに奔走したのが、関東軍の樋口特務機関長であった。この辺の事情は彼の著書『陸軍中将 樋口季一郎回想録』にも書かれている。


樋口のユダヤ人難民救済が旧軍人間で確定していない最大の理由は、二万人という数字にある。彼の回想録にも二万人という数字が記載されているし、彼を取り扱った書物のほとんどにも二万人となっているのだが、上杉千年著『猶太難民と八紘一宇』の「第三章 樋口季一郎陸軍少将と「オトボール事件」にはこの辺の事情を詳細に調べておられるので、そこを引用しておく。少し長いが真相を知る重要な内容である。
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【前略】
 ところが、大連特務機関長安江仙弘大佐の子息安江弘夫氏より、平成九年一月十八日附で 『産経新聞』の私の記事について長文の書簡がきた。
 それによると、ユダヤ難民の入満について、(外交史料館に現存の史料では、ソ満国境の街満洲里に到着したユダヤ避難民の第一陣は昭和十三年の十月二十七日の六名です.第二陣は十一月二十四日の三十名、第三陣は三十名、第四陣は九名、第五陣五名とぼつぼつ続きます。昭和十四年四月二十三日第七四回帝国議会貴族院予算委員会での有田外相の答弁では、「シベリア経由で満洲に入ったユダヤ人数は八十余名、百人足らずであり、満洲国の官憲が満洲国在留を希望しなかったので上海に向けたと思われる」となっています)。従って、(ともかく「二万人」は幻でした)とあった。
 また、『北海道新聞』に平成六年八月十六日より三十一日まで十五回にわたって山本牧記者が連載した『満洲ユダヤ脱出行 将軍・樋口の決断』 の記事を安江氏より拝受した。
 その結論も、〈上海のユダヤ人口が最大二万人弱だったことから考えても、最初の一団は数百、あるいは数千人というのが妥当のようだ.出身はドイツ、あるいはポーランドという証言が多かったため)(八月二十九日号)としている。山本記者より安江氏への手紙では、「数十人単位であったのではないかと考えております」とある由である。【後略】


 ユダヤ難民救出の「樋口ルート」に新事実発見


 そこで、「オトボール事件」について平成九年より調査を続行する中で、つぎつぎと新事実が発見されてきた。
 外交史料館に対して開い合せたところ、〈いわゆるオトボール事件に関しては、当時所蔵記録中に関係記録見当たらず、したがってドイツ政府からの抗議に関する史料も見当たらない)(平成九年五月二十日附 白石仁章氏)旨の返事があった。
 また、防衛研究所に念のため『アツツ、キスカ、軍司令官の回想録』の原本のコピーを要請したところ、戦史部原剛氏より拝受したコピーには、(そのため彼らの何千人が例の満洲里駅西方のオトボールに詰めかけ、入満を希望したのである)とある。これは、『樋口季一郎中将回想録 吟爾賓特務機関長・参本第二部長及第九師団長時代』(戦史室受附 39・7・20)によるものであって、樋口自身のペン書きである。
 即ち、原氏の私信に、〈刊行本と原稿は同じです。ただ、同封原稿のとおりユダヤ人の人数が二万人でなく何千人となっています)とあるのによれば、樋口中将は、「約二万人」 とは記録していないのである。【中略】
 この 「約二万人」救出説の世間への初出は、樋口中将が昭和四十五年十月十九日に東京で死去されたことを報ずる『朝日新聞』(十月二十日号)で相当大きく報道している。そこに、「ユダヤ人二万に陰の恩人」「ソ満国境に救援列車」の見出しのもと報じている。この記事の中に、(作家の相良俊輔氏は 「これは日本陸軍が行った最大の善行といえるでしょう」 )という談話が見える。即ち『朝日』の記事は相良氏よりの取材であろう。
 なお、河村愛三氏も社団法人日本イスラエル協会機関誌『日本とイスラエル』(昭和四十五年十一月十一日号)に『ナチスに追われたユダヤ人二万の追憶』を載せている。【後略】
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考えてみれば当時のオトポールは人口五千人の辺境の村である。どうしてこの村に二万人が逃げ込めようか。


樋口の『アッツ、キスカ、軍司令官の回想録』は一九七一年十月に芙蓉書房から出版された。樋口は前年の十月に老衰で死去していた。享年八十二歳。このことから推察すると彼は校正刷りを丹念に点検する体力、気力がなかったのではないか。二段組体裁、四百頁ほどの大著である。彼がペン書きで書いたことが、「そのため彼ら約二万人が、例の満州里駅西方のオトポールに詰めかけた……」と書き替えられていたことを知ることはなかったのでないか。そう思われる。


この大著を元にして一九九九年刊行『陸軍中将 樋口季一郎回想録』(芙蓉書房出版)が刊行された。誤伝二万人救済がNHKテレビで放映された杉原千畝ブームに乗って、一人歩きするようになった。


一九九九年に刊行された『教科書が教えない歴史』(扶桑文庫)にも樋口季一郎の項目〈関東軍軍人に救われたユダヤ人〉には、「二万人のユダヤ人難民の生命を救いました」と、白々しく記載してある。


それでは二万人説の出所はどこか? 幸いなことにこの回想録に、河村愛三氏が「満・ソ国境のユダヤ難民救出について」というタイトルで解説を書いておられる。そこからの引用である。
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  ナチから追われたユダヤ
     難民二万人の救援


 極東ユダヤ人大会の二カ月後、三月十日にドイツのナチスの手を逃れた二万のユダヤ難民がソ連領を横断し、満州国西部国境、満州里駅の対岸オトポールに流れ込んだのです。多数の難民は、春尚浅い零下数十度の北満の原野にテントを強って露営同然の生活をしておりました。放っておけば人命に関する問題となることは明かでした。
 ソ連政府は当時、ドイツに気兼ねしてこの難民に対し、ソ連領内に留まることを絶対に拒否しました。そうなると、難民の入国先は満州国よりないわけです。ところが満州国の外交部は、関東軍に気兼ねして中々決心がつかない。これは、一応無理もないことであり、再びカウフマン博士の樋口少将に対する懇願となりました。
 樋口少将は、ハルピンに満州国外交部の責任者を呼びよせ、「満州国は、独立国家である。何も関東軍に気兼ねすることはない。ましてドイツの属国でもない。ドイツが排撃したからと言うて、一緒になってユダヤ人を排撃する必要なんか毛頭ない。事は人道問題である。未だ国境の寒さはきびしい。一日延びれば、難民の生命に関する重大な問題ではないか。なるべく早く決心されたらどうか」と力強く説得したのでした。
 満州国は漸くこの意見に従って、ユダヤ難民全部を満州国内に受け入れることとし間もなく、難民は、満鉄の救援列車によりハルピンに救援されてきました。
 樋口少将なくして、この大芝居は打てなかったでしょう。樋口少将の決断は、ハルピンにおけるユダヤ人工作に有終の美を飾ったことになります。
 果せるかなドイツ外務省は、リッペントロップ外相の名をもって日本外務省に、ユダヤ難民を満州南が受入れたことは、日独親善に水を差すものであると言う厳重な抗議をしてきました。
 陸軍省から関東軍司令部(軍司令官植田大将、参謀良東条英機中将)へ問い合せがあり、東条中将と樋口少将と対談した結果、東条中将は、樋口の決断と処置に間違いなしと断定しドイツの抗議は不問にふせられたのでした。【攻略】
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 どうも出所はこの一文にあると思われる。


 しかしまだ不可思議な点がある。次の一文である。鈴木元子さんの執筆されたものからの引用である。


http://sizcol.u-shizuoka-ken.ac.jp/~kiyou/14_1/14_1_02.pdf


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杉原千畝の他にも、ユダヤ人を助けた日本人がまだいる。


河村愛三大佐は、大戦中、2万人とも言われるユダヤ人がシベリア鉄道で満州に渡ろうとする厳寒の中、立ち往生している所を、凍死するか餓死寸前の彼らを見て、特別列車を出し、ユダヤ人をハルピンまで輸送した。1937年8月から1938年7月、ハルピンの特務機関長だった樋口季一郎(1888-1970) は、ユダヤ人難民の満州入国を許可した。【攻略】
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これによると救出に直接手を下したのは解説を書かれた河村愛三本人ということになるのであるが、河村氏の解説をどう読んでもそうは読み取れない。二万人ものユダヤ人を救出したのであれば、多少ともそのことを誇ってもいいはずだが、救出したのは樋口季一郎と読み取れるのである。鈴木元子さんがこの一文の出典を書いておられないので、真偽を確かめることはできないが。


なお河村愛三氏は当時、ハルビン憲兵隊本部の特高課長であった。


さらに次のような不可解な事柄もある。回想録の──『樋口季一郎回想録』再刊に寄せて──を執筆した孫の樋口隆一氏(明治学院大学芸術学教授)の一文の中に〈満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させた〉とあるが、回想録本文には、このような文章は見当たらない。これについても『猶太難民と八紘一宇』の著者上杉千年氏は、次のようなことを書いている。
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 当時、満鉄本社総裁室の文書課にいた庄島辰登氏の体験証言によると、樋口少将よりの情報に接した松岡洋右総裁(後の外相)は運転司令に対して救援列車の出動を電話で命令した。
 そこで、文書課で作成した命令電文を庄島氏が電報局へ行き、奉天鉄道総局へ打電したという。
 救援列車出動の理由を聞くと、一週間に客車と貨物車が各一回の運行であったからという.これ以降は、客車以外に貨物車の乗務員控室などにも便乗させて運んだようだ.かくして、三月と四月末までに約五十人を無料で運んだ。無料は松岡総裁の指示であって松岡以降の総裁も同様であった。ただ、担当者が後日の証拠として記録し、ユダヤ人協会が精算したときいているという。
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ここにも〈満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させた〉はない。樋口隆一氏は誰かからの聞き伝えで書いたとしか想像し得ないのである。そしてその相手はだれか。


確かに〈満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させた〉と書けばリアリティが出るが、このリアリティは当時の貨車の収容人数で二万人を割れば計算で出てくるリアリティである。


ここで読者に留意しておいて貰いたいことは、物議を醸している『新しい歴史教科書』の出版社は扶桑社である。『教科書が教えない歴史』も扶桑社、そして『陸軍中将 樋口季一郎回想録』は芙蓉書房出版、何千人を二万人と書き替えた仕掛け人の正体が見えてこないだろうか。


このことは樋口と同期あるいはその前後の関東軍関係者にはわかっていることであろうが、数千人よりは二万人のほうが世間には聞こえがよいので、仲間うちのことでもあり、誰も黙して語らず、だからいまだに評価が定まらないのである。


芥川賞作家阿川弘之の『私記キスカ撤退』(文藝春秋)も同様な間違いを犯している。
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 幌筵に釆ていた第五方面軍司令官、峯木少将の直属上官である樋口季一郎陸軍中将も、たいへんな喜びようで、橋本通信参謀を呼んで礼を言い、共に祝杯をあげた。
 この樋口中将は、かつてハルピンの特務機関長として在勤中、ナチス・ドイツを追われシベリアを通って満州へのがれて来た約二万人のユダヤ人難民を保護し、その命を救った人である。昨年(昭和四十五年)亡くなった時、日本にいるユダヤ人たちがその遺徳をしのび、上智大学のソロモン博士は個人的な希望として、永く中将を記念するためにイスラエルに「ヒグチ」という町を作りたいと述べたことなど、新開に大きく出たから記憶しておられる読者もあろう。
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実はなによりも樋口自身が、というよりも芙蓉書房が密かに語っているのである。回想録の原本のタイトルが『アッツ、キスカ、軍司令官の回想録』であることが。


樋口が人道上の問題として、〈そのため彼らの何千人かが例の満州里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望したのである〉、このことのために満州国外交部を説得して入国手続きをとったのは事実である。このことについてもマーヴィン・トケーアー著/加瀬英明訳『ユダヤ製国家 日本』は、東条英機が最大の功労者として讃美しているがこれも嘘である。東条は事後承認したにすぎないのである。


こういう間違った歴史本が近頃書店に氾濫しているように思う。これだから若者たちは間違った方向の右傾化となり、中国はなんでいつまでも過去にこだわるのか、という抗議に繋がったりする。


樋口にとって、自筆原稿を書き替えられるということは、不名誉な、気の毒なことである。