歴史を正確に把握するにはまず平凡社「世界大百科事典」などを調べましょう。扶桑社文庫『教科書が教えない歴史』などでは、真実の歴史を知ることはできません。以下は小学館「大日本百科全書」より引用。
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■東条英機(1884―1948)
陸軍軍人、政治家。明治17年12月30日、陸軍中将東条英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929年(昭和4)永田鉄山(てつざん)らと一夕(いつせき)会を結成して革新派の中堅将校として頭角を現した。満蒙(まんもう)の支配を主張し、「満州国」創設後の35年、関東憲兵司令官となり、37年には関東軍参謀長となった。蘆溝橋(ろこうきよう)事件が起こると、国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者となった。38年板垣征四郎(せいしろう)陸相のもとで陸軍次官となり、40年7月第2次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣の陸相に就任した。松岡洋右(ようすけ)外相と組んで日独伊三国同盟の締結に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めた。41年10月、第三次近衛内閣の陸相当時、米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、陸軍を背景にこれに強硬に反対し、対英米開戦を主張して内閣を倒壊に導いた。10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼ね、また陸軍大将に昇格した。12月8日、太平洋戦争を開始し、国内の統制を極端に強め、独裁体制を固める一方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、43年11月大東亜会議を主催した。戦局が悪化すると、参謀総長も兼ねて軍・政を一手に掌握して局面の打開を図ったが、反東条機運に抗しえず、44年7月18日辞職した。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、昭和23年12月23日、絞首刑に処せられた。
■東条英機内閣 (1941.10.18~1944.7・22 昭和16~19)
第三次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣が対英米開戦方針をめぐる閣内不統一のため総辞職したあと、木戸幸一内大臣の推挙で東条英機が組織した内閣。木戸は、主戦論者の東条でなければ陸軍を抑えて戦争を回避することができないと判断したと日記に記しているが、東条内閣は逆に欧州大戦の好機に乗じて太平洋地域の制圧を目ざす内閣となった。東条は現役軍人のまま陸相、内相を兼ねて独裁的権力をもち、外相東郷茂徳(とうごうしげのり)、蔵相賀屋興宣(かやおきのり)、海相嶋田繁太郎(しまだしげたろう)、法相岩村通世(みちよ)、農相井野碩哉(ひろや)、商工相岸信介(のぶすけ)らを任命した。41年11月5日の御前会議で対米英蘭(らん)開戦を12月初旬とすることを決定、他方で来栖(くるす)三郎を特派大使として米国との交渉を続けた。しかし米側がハル・ノートを提出して、日本の中国、仏印からの無条件即時撤退、多角的不可侵条約などを要求すると、12月8日ハワイの真珠湾に奇襲をかけて開戦に踏み切った。緒戦の勝利で戦争を太平洋全域に拡大、そのため戦争指導体制と国民統制の強化が必要となった。42年4月翼賛総選挙を実施し、5月には翼賛政治会を結成して政党の御用化を図るとともに、大政翼賛会、大日本翼賛壮年団などによって院内外の政治活動を統制した。41年12月には「言論出版集会結社等臨時取締法」を公布して国民の自由を極端に制限し、42年8月には町内会、部落会、隣組に大政翼賛会の世話役を置き、翌年9月には大政翼賛会町内会部落会指導委員の設置を義務づけ、国民を完全に掌握、動員する体制をつくった。42年11月には大東亜省を設置、東郷外相はこれに反対して辞職した。43年11月、商工省、企画院などを統合し、軍需省を新設して航空機生産の急増を図った。他方、42年12月中国の汪兆銘(おうちようめい)政権を参戦させたのをはじめ、占領地の政権を戦争に協力させるため「独立」を約束し、43年11月、「戦争完遂と大東亜共栄圏確立との牢固(ろうこ)たる決意を闡明(せんめい)」(5月31日御前会議での東条の説明)するため、大東亜会議を開催した。戦局の悪化、とくに44年7月のサイパン陥落とともに重臣層の反東条機運が高まり、海軍部内の嶋田海相排撃の空気を利用して倒閣運動が展開され、7月18日総辞職し、22日小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立した。
■大政翼賛会(たいせいよくさんかい)
日中戦争および太平洋戦争期の官製国民統合団体。近衛文麿(このえふみまろ)を中心とする新体制運動の結果、1940年(昭和15)10月12日に結成された。翼賛会は経済新体制(統制会)、勤労新体制(大日本産業報国会)と並ぶ「高度国防国家体制」の政治的中心組織であり、大政翼賛運動の推進組織として位置づけられた。「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンを掲げ、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ナチスの指導者原理をまねた「衆議統裁」方式を運営原則とし、総裁は首相が兼任(歴代総裁は近衛、東条英機、小磯国昭(こいそくにあき)、鈴木貫太郎)し、事務総長有馬頼寧(ありまよりやす)以下の全役員はすべて総裁の指名によって任命され、中央本部に総務、組織、政策、企画、議会の五局と23部が置かれた。地方行政区域に対応して支部が設置され、各支部長の多くは知事および市町村長が任命され、中央と地方組織のそれぞれに協力会議が付置された。しかし、軍部、内務官僚、財界、既成政党など支配層各グループはそれぞれ異なる思惑をもっており、呉越同舟的組織であった。そのため翼賛会は、結成直後から主導権争いが絶えず、1941年2月には公事結社と認定されて政治活動を禁止され、さらに4月までの間に有馬らの近衛側近グループが退陣させられ、内務官僚と警察が主導権を握る行政補助機関となっていった。
東条内閣は太平洋戦争の初戦の勝利の圧力を利用し、1942年4月翼賛選挙を実施して翼賛政治体制の確立を図るとともに、6月大日本産業報国会、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会の官製国民運動六団体を翼賛会の傘下に収め、8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定した。しかも町内会などの末端組織は生活必需品などの配給機構を兼ねており、全国民は日常生活まで内務官僚と警察の支配を受けることになった。ここに翼賛会体制=日本ファシズムの国民支配組織が確立し、憲兵支配の強化と相まって、治安対策的にはほとんど完璧(かんぺき)な権力支配が実現した。しかし本土決戦体制への移行に伴い、翼賛会は45年6月13日に解散し、国民義勇隊へ発展的解消を遂げた。
■大東亜会議
太平洋戦争中、占領地域の協力体制を強化するため東条英機内閣が開催した会議。日本の敗色が濃厚となった1943年(昭和18)11月5日から6日にかけて東京で開かれた。参加者は、東条首相のほか、「満州国」の張景恵(ちようけいけい)国務総理、南京(ナンキン)政府の汪兆銘(おうちようめい)行政院長、タイのワン・ワイタヤコン首相名代、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モー首相といった占領地区の政権の代表で、このほかオブザーバーとしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班が加わっていた。会議は、各国代表の演説のあと、共存共栄、独立尊重、互恵提携などの五原則を内容とした「大東亜共同宣言」を採択した。しかし、タイが正式代表を送らなかったことに象徴されるように、各国の対日批判の姿勢は強く、「独立尊重」はスローガンの域を出ず、この「大東亜会議」自体も、内実を伴わぬ日本の宣伝の枠を越えるものではなかった。
■大東亜共栄圏
中国や東南アジア諸国を欧米帝国主義国の支配から解放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという主張。太平洋戦争期に日本の対アジア侵略戦争を合理化するために唱えられたスローガンである。太平洋戦争勃発直前の第二次近衛(このえ)文麿(ふみまろ)内閣時の外務大臣松岡洋右(ようすけ)が最初に使ったことばだといわれるが、日本を盟主に東アジアに共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという発想は古くから主張されていた。満州事変期の「日満一体」は、日中戦争期には「東亜新秩序」とその名を変え、東南アジア諸国を侵略対象とする1940年代初頭には「大東亜共栄圏」が主張されるに至った。しかし、このスローガンも、太平洋戦争が日本の敗色濃厚になり、日本からの物資供給がとだえ、逆に諸国からの日本への物資収奪が強行されるなかで色あせ、「共栄圏」は「共貧圏」へとその姿を変えていったのである。
■大東亜省
太平洋戦争による占領地域の拡大に伴い、「大東亜諸地域」の総力を戦争に動員することを目的に、1942年(昭和17)11月1日東条英機内閣のもとで設置された行政機関。拓務省の対満事務局、興亜院、興亜院連絡部、外務省の東亜局・南洋局などを廃止、統合して創設され、満州・中国、東南アジア占領地における一元的行政を目ざした。部局には大臣官房のほか、総務局、満州事務局、支那(しな)事務局、南方事務局の四局が置かれ、南方事務局の管轄には、タイ、インドシナも含まれた。「大東亜共栄圏」内における大公使館などの現地機関は大東亜省直轄官庁となった。所属官署に興亜錬成所、興亜錬成院があり、関係各官庁間の連絡機関として大東亜省連絡委員会が置かれた。東郷茂徳(とうごうしげのり)外相は、外務省の権限が縮小されることもあり、その新設に反対して辞任したが、軍の圧力で設置が強行された。青木一男が初代大東亜相となる。45年8月25日、東久邇(ひがしくに)稔彦(なるひこ)内閣のときに廃止された。
■大東亜戦争
太平洋戦争に対する当時の日本指導者層による呼称。太平洋戦争開始直後の1941年(昭和16)12月12日、政府が「今次の対米英戦は、支那(しな)事変をも含め大東亜戦争と呼称す」としたことから生まれた。太平洋戦争という呼称がアメリカ側からみた呼称であるのに対し、中国を中心とする東アジアを主戦場とする日本の戦争目的により合致してはいるが、「大東亜」解放の「聖戦」とした日本側の宣伝臭が含まれているため、戦後はあまり使用されていない。
■石原莞爾(かんじ)(1889―1949)
陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(ちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱(こくちゆう)会に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。22年陸大教官中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、28年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。35年参謀本部作戦課長となり、翌年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発して実現は阻まれた。その後東条英機と対立して41年3月第16師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体東亜連盟を指導した。昭和24年8月15日没。