ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

ラスト、コーション

2008年02月19日 | 映画レビュー
 暗殺のターゲットを愛してしまったらどうする? その愛には命を懸ける重さがあるのか? いや、その「大義」には愛も命も捨てる重さがあるのだろうか?

 ちょっと期待度が高すぎたからか、予想とは少し違う映画だったこともあってわたしの評価はそれほど高くないけど、これを視線の心理劇として見ればたいへん優れた作品といえるだろう。158分の長さもまったく感じさせない緊張感ある演出はさすがの感。アン・リー監督は危険な恋愛の機微や人間の猜疑心を描かせたら実に巧い。

 時は1942年の上海。若く美しいマイ夫人は上流階級のマダムばかりが集まって開く麻雀に今日も勤しむ。主催者イー夫人はマイ夫人よりかなり年上だけれど、すっかり彼女がお気に入り。互いの腹を探り合う麻雀というゲームに没入する女4人の視線が絡まる。その視線はときに火花を散らしときにすれ違い時に疑いの色を濃くする。その場に親日派政府高官のイー(トニー・レオン)が入ってくる。女ばかりの麻雀宅を意味ありげに一瞥すると、ふとマイ夫人に視線を送る。この4人はいったい誰なのだろう? 互いに疑り深い視線を送るのはなぜなのか? と、その後、イー宅を出たマイ夫人の不可解な行動が観客の興味をそそると、場面は5年前にさかのぼる。中国の田舎道を避難する難民の中に、化粧っ気のまったくない「マイ夫人」がいた。その素朴で愛らしい少女は5年後、美しく着飾って麻雀卓を囲んでいる「マイ夫人」になっているのだ。5年の間に彼女にはいったい何があったのだろう……


 巻頭の麻雀シーンは女たちの視線が痛いほど交錯する危機感溢れる場面だ。そして5年前にさかのぼり、マイ夫人、本名ワン・チアチーが抗日運動のためにスパイ活動に立ち上がるまでが回想される。最初は香港の学生たちの児戯にも等しい暗殺計画だった。親日派の大物を殺す。ターゲットはイーという名の冷酷な男。色仕掛けで彼を落とし、隙を狙って暗殺しようという計画だった。そのために差し出される「餌」が愛らしいワン・チアチーというわけだ。自ら覚悟を決めてイーの愛人になるため、処女を捨ててセックスの練習に励むチアチー。だが彼女の犠牲も無駄になってしまった。いよいよというときにイーは出世して急遽上海に移ってしまったのだった。そして2年が過ぎた。チアチーは再び学生に戻り、上海に住んでいた。かつての仲間が接触してきて、今度は国民党の抗日スパイとして本格的な暗殺計画を実施するという。チアチーも仲間になるよう誘われる…。

 これは激動の時代のスパイもの、という歴史的限定劇ではなく、いつの時代も存在するであろう愛についての疑惑を描いているからこそ、観客の心をつかむ。この愛は真実だろうか? ほんとうに愛されているのか? この愛を信じてもいいのか? 私たちは深く愛すれば愛するほど相手を信じられない。愛は常に猜疑心と手を取り合っている。人は愛の始まりに互いの心の奥を覗き込み恋の駆け引きにうつつをぬかす。ある人はそれを楽しみ、ある人はそれに翻弄されて絶望に胸をかきむしる。だが、ひとたび愛の深みにはまれば、もう互いへの欲望と疑いとは絡まりあい昂じあう。

 チアチーの自己犠牲を思うとき、かつての日本共産党のハウスキーパー問題にも通底する、女が革命のために「性」を投げ出して犠牲になったのと同じ構造がここにあることに気づく。チアチーは自己責任で、自分の決断で自分の身体を犠牲にした。しかしそれは仲間からの暗黙の圧力があってのこと。自ら主体的に自分の運命を決めたチアチーの壮絶な選択は、逃げ道のない圧力のもとで最後は自分の意志で皇位継承者との結婚を決めた女性の悲劇にも通じる。人はほんとうに自らの意志で自由な選択を行っているのだろうか? そのように思えるのは幻想ではないのか? どんなに自由で豊かな社会になってもそこには真に自由な選択などありはしない。

 アン・リーには政治は描けない。本作を見終わってつくづく思う、この映画がいかに日中戦争の動乱を背景としようとも、結局のところアン・リーが描いたものは<政治と民衆>でもなければ<大義と犠牲>でもない。生身の男と女の欲望のぶつかりあいであり、肉体への愛着を通して築かれた絆の刹那の深さだ。カンヌ映画祭で物議を醸したという激しいセックスシーンは、必要があって挿入された場面であることがよくわかる。セックスの練習はしてもセックスによって歓びをえることがなかったチアチーにとって標的イーこそが本当の初めての男だった。そして、その男は直感的に彼女に素朴で従順な天性をかぎとった。いかに美しく着飾り濃い化粧をしても、艶かしい視線で男を誘っても、ひとたびその皮をむけばそこには学生時代のままの愛らしいチアチーがいたのだ。姦計と疑惑と謀略と陰謀の中に生きる男は、チアチーの中にある手付かずの美しい玉に気づいた。初めての密会で強姦同然にマイ夫人=チアチーと関係を持ったイーは(この場面は気分のいいものではない)、やがて彼女と激しく密度の濃い関係を結ぶようになる。それは互いに短い愛の運命を知っているかのような燃え方だったのだ。

 こう書くと、いかにもなにやらありきたりの官能物語が展開されていそうだが、アン・リーのゆるぎない演出とトニー・レオンの迫力ある体当たり演技が映画をぐいぐいと引っ張り、見ごたえある二時間半を堪能できた。トニー・レオンは「冷酷な売国奴」というキャラクターにしてはやさしすぎると思うが、それゆえにこそマイ夫人に心を許した「隙」を作ったことが納得できる配役だ。


 本作はポール・ヴァーホーヴェンの「ブラック・ブック」にも似ているが、それよりは遙かに上品で情熱的。アン・リーにはヴァーホーヴェンのような露悪趣味やグロテスクさはない。(R-18)

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LUST, CAUTION 色・戒
中国/アメリカ 、2007年、上映時間 158分
監督: アン・リー、製作: ビル・コンほか、原作: チャン・アイリン、脚本: ワン・フイリン、ジェームズ・シェイマス、音楽: アレクサンドル・デスプラ
出演: トニー・レオン、タン・ウェイ、ワン・リーホン、ジョアン・チェン、トゥオ・ツォンホァ