ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

bk1投稿書評「生きる歓び」

2004年06月19日 | 読書
 この本には表題作以外に「小実昌さんのこと」という短編が収録されていて(「生きる歓び」よりそっちのほうがずっと長い)、今回は「生きる歓び」そのものについて興味のある方には、保坂の『世界を肯定する哲学』とセットでコメントしたわたしのblog「吟遊旅人のつれづれ」を読んでいただくことにして、今回は「小実昌さんのこと」について書きたい。

 いやあ、まったく田中小実昌には騙された。『自伝』を読んですっかり田中小実昌は自堕落でええかげんでだらけた人間だという像ができあがってしまったのだが、保坂和志によれば、田中小実昌は非常に時間にきっちりした人物で、約束時刻の数分前に現れ、カルチャー講座も時間通りに始めて時間通りに終わり、電話での応対もきちんとしていて年賀状もこまめに書いていたというではないか。

 これは自画像と肖像画の落差が激しい一例だが、よくよく考えて見れば、小実昌の自伝を読んでわたしが作り上げたイメージはわたし自身が捏造した人物像に過ぎなかったかもしれないのだ。確かに小実昌は「ぼくは時間にルーズだった」などとは書いていない。何をやっても不器用で時間がかかったとか、なまけ者だったかのように自分を描いてはいるが、「与えられた課題にはルーズだった」と彼は書いているだけなのだ。大学の講義には出席しないとか軍事教練には真面目に取り組まなかったが、彼は自分の楽しみには一生懸命取り組んだのだ。

 この「小実昌さんのこと」という小説は、田中小実昌の実像の一つに迫り、実に生き生きと彼を描いている。田中小実昌への追悼文のはずなんだけれど、保坂自身は「これは小説だ」と「作者後書き」であくまでも言い張っている。エッセイでもなく、小説なのだそうな。

 わたしには小説だろうがエッセイだろうがどうでもよくて、とにかくこの作品には田中小実昌の魅力が溢れ、どうしても小実昌の小説を読みたくさせるような優れた文芸評論でもあったわけだ。保坂が小実昌を見る目は大変細かく、小実昌とのつきあいの長さに沿うようにそのときどきの保坂自身の心理が小実昌を見る目に反映していて、筆致の変転が興味深い。

 保坂と小実昌の出会いは、1979年の連作小説『ポロポロ』に始まる。これを読んで大きな感銘を受け、大笑いしてしまった保坂は、以後、田中小実昌という作家の名前を記憶にとどめることになる。保坂は『ポロポロ』からかなり長い文章を引用してその魅力を語る。一般には、『ポロポロ』以後、田中小実昌は哲学小説を書くようになったと言われているらしいが、保坂は小実昌の小説は哲学ではないという。

「小実昌さんの書いていたことは「哲学以前」だった。…「哲学」という括りに入らない何かを考えたくて書いていたわけで、それを「哲学」と言ってしまうことで別のものになってしまう」(p61)


 これは保坂自身の小説にも当てはまることだろう。保坂が見た田中小実昌という図は、小実昌から保坂が多くの小説作風上の影響を受けていることをうかがわせ、この小説を文学史の系統図として読んでもおもしろい。

 というわけで、以下、『田中小実昌 コミさんの不思議な旅』へ続く。