小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

①8年振りの硫黄島 ~議員・行政視察

2024年03月02日 | 硫黄島
■今回8年ぶりに激戦の地、硫黄島にやってきました。
前回は小笠原村民として、訪島事業に参加しての訪島でした。
今回は初めて村議会になって、議員として、行政視察としての訪島になります。

村議会議員全員で硫黄島にやってきました。
遠くに見えるのが有名な摺鉢山です。

前回は2代目おがさわら丸で硫黄島に渡ったのに対し、
今回は自衛隊の厚木基地から輸送機で渡るというものでした。

そして、前回は戦跡がメインだったのに対して、
今回は硫黄島の旧島民の暮らしを見るというのがメインでした。
硫黄島で生まれた1世、その子供世代の2世、孫世代の3世と共に
色んな話を聞きながら硫黄島で過ごすことができて、
本当に全く違う目線で硫黄島を体験、学ぶことができました。

79年前の2月19日。
それは米軍が硫黄島に上陸してきた日です。

これは摺鉢山から見える米軍上陸の二ッ根浜です。
僕たちが今回、硫黄島に訪れたのが2月15~16の1泊。

79年前のこの日は、
連日、地下に壕を掘る作業をしていつつ、
沖合に並ぶ艦隊を睨み、
空襲や機銃掃射が続く頃だと思います。

その時、この同じ硫黄島から見る景色は、
その時の心情はいかなるものだったのでしょうか。

硫黄島にある村の施設「平和祈念館」前での夕陽

1日でも米軍の本土上陸を遅らせるために、
とにかく時間稼ぎをするために、
自分たちの命を顧みず、
徹底抗戦をした硫黄島決戦。

80年経っても、毎年遺骨収集が続いています。
まだ約1万のご遺骨が残り、
島民の帰島が許されていない、
いわば戦後が終わっていない硫黄島。

その視察を分野分けしながら振り返っていきたいと思います。

8年前の訪島事業の3日間ですら、
学ぶことが多く、沢山の記事を書きましたが、
今回はさらに新しい学び、視線が入り、
それ以上のボリュームになりそうな気がします。

現在、以前のようなおがさわら丸での訪島事業が叶わない状況です。
去年から自衛隊の輸送機による訪島事業が再開されましたが、
こうして議員の行政視察として訪島できる立場として、
自分が硫黄島で見て感じたことをしっかりと伝えていかなければと思っています。

戦争で全てが焼け野原になった硫黄島ですが、今は緑に溢れています。

■今回の硫黄島への渡航は厚木基地から自衛隊の輸送機C130で渡る予定でした。
朝7時に相模大塚駅に硫黄島旧島民、村長、村議、北関東防衛局のメンバーが集まり、
厚木基地へ向かいました。

しかし、なんと海上自衛隊のC130機体のトラブルが見つかり、
今日中に飛ぶかどうかも不明とのこと。
一同、暗雲が立ち込めた状況でした。

そんな不確定の中でしたが、村長が機転を利かせてくれて、
硫黄島出身の奥山登喜子さん(90歳)のお話を聞く素晴らしい時間となりました。
詳しくは次の記事で触れたいと思います。

そして今回、硫黄島に渡るのは難しいいのかな?と誰もが不安を持っていた時、
航空自衛隊からC2輸送機に乗る隊員を下ろして、
代わりに乗りませんか?という提案を頂き、すぐに承諾しました。

空自のC2(ジェット機)は予定されていたC130(プロペラ機)よりも速く、
1時間半ほどで厚木から硫黄島に渡れてしまうそうです。
(C130は2時間半ほどだそうです)

予想外の展開に一同、有難い気持ちでいっぱいでした。


■C2であっという間に1200kmを越えて硫黄島に着きました。
船で行くのと違い、あっという間で気持ちが追い付かないほどです(笑)。
2月の内地の寒い乾いた空気は一変し、
湿気を帯びた大好きな島の風が僕たちを迎えてくれました。

今回、去年夏に発刊された、酒井聡平さんの著書「硫黄島上陸-友軍ハ地下ニ在リ」と一緒に硫黄島へ渡る事を決めていました。
ちなみに今、ベストセラーになっています!!

Facebookで著者の酒井さんと繋がっていたので報告すると、
「わー、嬉しいです☺️「硫黄島上陸」が硫黄島上陸。
まるで我が子が渡島するような喜びを感じています!」
とても嬉しい返事を頂きました♪

摺鉢山の上でも撮影。
酒井さんの祖父が戦争当時、父島で無線をしていた方だそうで、
酒井さん自身もその経緯と熱意で、硫黄島の遺骨収集に参加しています。
詳しくはぜひ著書を読んでみてほしいと思います。

今までの硫黄島の本では知らなかった事実が沢山載っています。

硫黄島は現在も火山活動が活発で、至る所が隆起で地形が変わっています。
8年前に来た時には何でもなかった摺鉢山の道がこんなになっていました。

頂上に上がる時は足場の階段が必要になっていたほどで驚きました。

以前、おがさわら丸から通船で上陸した場所もすっかり地形が変わっていて、驚きました。
この火山活動も硫黄島に一般住民の帰島が許されない、大きな理由のひとつと聞いています。


■そして、今回の硫黄島は人生初の島での泊りだったのですが、
小笠原村の施設「平和祈念館」に宿泊させて頂きました。

これはこれまでずっと遺骨収集、墓参と自衛隊の施設にお邪魔していた所、
硫黄島旧島民の会の皆さんが村へ要望し、平成14年に建てられたものです。

「硫黄島への帰島が叶わない旧島民が訪島事業、墓参、遺骨収集などで硫黄島を訪れる際、
短い時間でも故郷の島で宿泊出来る施設として、平成14年に小笠原村が整備しました。」
村のHPに書かれています。

平和祈念館は電気は自衛隊の発電所の電気を使っていますが、
水はすべて雨水を使用し、その雨水を管理するための設備もありました。
ここはまた別の時に詳しく紹介したいと思います。

夜には硫黄島旧島民の奥山登喜子さん(硫黄島出身、11歳で強制疎開)のお話、
2世、3世のお話を聞きながら、北関東防衛局や自衛隊の皆さんと沢山のお話を聞く機会を得られました。
本当に大切な涙溢れる話ばかりで、
登喜子さんが11歳まで生まれ育った硫黄島でお話を聞けたことは生涯、忘れられません。

硫黄島基地の自衛隊有志の皆さんで結成される阿波踊り「千鳥蓮」の皆さんが、
訪島歓迎の披露をしてくれました。

キレッキレの阿波踊りで感動し、硫黄島の夜が更けていきました。


■後日アップ予定ですが、旧島民の集落、現在の遺骨収集の現場、
自衛隊の施設を見学させてもらい、夕方に硫黄島を離れ、夜に厚木基地に帰りました。

帰りは行きに載る予定だったC2がトラブルが直ってやってきました!!

無事に厚木に着陸できて、ホッとしました(#^.^#)

その翌日は明治大学で硫黄島強制疎開80周年シンポジウムが開催され、
そこにも議員全員で出席してきました。


一緒に硫黄島に行ってきた旧島民メンバーも揃い、
90歳という高齢の登喜子さんが、あんなに移動して体力を消耗したと思っていたのですが、
しっかりと登壇して、硫黄島の色んな様子を話していました。

故郷の為なら、亡くなった兄の眠る硫黄島の為なら、と言っていたのが脳裏をかすめます。

この様子はYotubeにアップされていますので、ぜひご覧ください。

第1部(1時間35分)


第2部(59分)


これから細かく、
今回硫黄島で学ばせてもらった事をアップしていきたいと思います!