元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

マニャーナの法則=明日できる仕事は今日やらない<明日の仕事のリスト化>

2022-01-30 09:01:46 | 職場・組織等
 今日しなければならない仕事に集中・明日までに頭の中で整理・明日には必ずやり遂げることに理あり

 明日できることを今日やらない(明日の仕事のリスト化)<マニャーナの法則=マーク・フォスター> ※注※

 これを実践した人は、残業が減ったと聞いた。仕事のやり方として、確かに納得するものはある。

 1点目は、明日できる仕事を区別し、今日しなければならない仕事に精力を傾けられることである。集中的に今日仕事ができる点であろう。

 2点目は、明日できる仕事をリスト化する段階で、頭の中のどこかで考えが出来上がっていくことになる。そして、明日の仕事をする段階では、ある程度の段取り等が整理されるという点である。これは、今日しなければならない仕事に集中するという1番目の点に矛盾するかと思われるかもしれないが、そうではなく、明日できる仕事のリスト化・そして時間の経過とともに「考えるとはなし」に、消化されて考えが整理されていくということである。 

 3点目は、明日できる仕事は、明日に必ずやるということであり、それ以上は伸ばさない。明日は必ずそれをやり遂げることにある。それ以上伸ばしてもいいことはない。機が熟するのを、明日という時点に置くということである。

 上司から命ぜられた仕事がすぐにできるからといって、これからやるのは、はたしてそれでいいのか考えてみよう。優先順位からいっても疑問だし、まずは優先順位を置いておいて、明日できる仕事かどうかを吟味してみようということなのだ。

 ※注※ イギリスのビジネスコンサルタント


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「邪魔」は人間生活の一部・物の見方が変わるメリットも=ブレーンストーミング・ディベートも大切

2022-01-22 18:17:10 | 職場・組織等
 邪魔をパフォーマンスをする際の「障害物」として見るのは間違いなんだと思う!!

 【邪魔が入るのも人間の生活の一部なんだと思う】(シンガー 米のノーベル賞作家)<注1>

 彼は、社会からすべてをリタイヤーした今になってから、これを読んで大いに感じるものがあった。それは同意したのではなく、自分は今までこの反対の生き方をしたという後悔からである。

 彼の場合は、この邪魔なるものを「障害物」とみなした。学生時代は、テストの点数が悪いのは、前の晩に母が用事を言いつけたのでその時間の分が勉強できなかったからだといい、試験日に隣のやつが騒いだので集中できなかったからだといい、全部他人のせいにした。友達だけでなく親もその「障害物」になったのである。

 社会に出てからも、自分の実力が発揮できなかったのは、全て他人のせいにした。自分のプランがうまく実行できなかったのは、A君のせいにしたのである。プランの全体はよかったように思えたのだが、A君がその細部を尋ねてきて、彼がうまく説明できなったからなのだが、それを全部A君が反対したからだと考えた。単にA君が反対したのは普段から仲が良くなく、その為の反対だったのかもしれない。まさに、A君が障害物だったのである。彼にとって、人間関係はわずらわしいものでしかなかった。

 しかし、世の中、そういうものではない。彼が職場で仕事ができるようになったのは、上司や同僚が技術・技能を教えたからである。敵視して、障害物と捉えるのは間違っている。職場の風土・雰囲気をも併せて、その環境の中で教示されて一人前に育ってきたのを忘れてはならない。だから、あのとき、だれだれが話しかけてきたから、十分なパフォーマンスができなかったというのは、言えないのである。そういうのも含めて、会社であり職場というということなので、その中で仕事をしていくということなのだ。職場は自分一人ではない。みんなで協力して仕事をしていくのが、会社なんだという認識が彼にはなかったのだ。
 
 【邪魔が入るのもときにはいいもんだと思っている。だって、書くのを中断したり、休憩したり、ほかのことで忙しくなったりすることで、ものも見え方が変わったり、視野がぐっと広がったりするもんだから】(シンガー 米のノーベル賞作家)<注2>

 まさにしかり。彼のプランが成功しなかったのは、発想はよかったのだが計画がまだ稚拙であったことによる。グレンストーミングやディベートなどの研修方法があるように、人とのやり取りの中でプランを練り上げていくものであって、そのための職場なのだ。少なくても彼が考えていた「障害物」と考えるのは、間違いなのだ。仮にもし職場にもどったら、少なくとも別の対応方法を取ると思うのだが、リタイヤーした今はもうそれもかなわない。


 <注1><注2> 2022年1月17日宮崎日日新聞「ことば巡礼」より引用

   
 
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劣等感認識は親・教師等の教えの中から受継➣社会参加も影響➣覚悟を持って付合うしかないのか!

2022-01-16 09:07:15 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 朝ドラ3世代のヒロインの100年ファミリーヒストリー中で課せられた「負い目」は最後は消えるの??

 カムカム朝ドラの第2世代の「るい」は、額に大きな傷を負っているため、人生に恋にも前向きにならない。それは、1世代の安子が親から教えてもらった和菓子を販売し生活を支えようとする中で、小型自動車との衝突をさけようとして、リアカーに載せていた「るい」が投げ出されて負った傷であった。安子は戦後の動乱期の中、るいを育てようとして、やむなくそのような生活をしていたのであり、そのことは安子に全く責任はないように思う。しかし、第1世代の安子の思い・生活は、2世代の「るい」の額の傷とともに、「るい」の人生の考え方にも影響を与えた。今の世の中、個人個人で生きていくというのは常識であるが、実際には、どうしても家族と個人とは切り離せないものがある。最近よく言われるその家庭の裕福と子の教育の水準には、正の関係があるというのもそうだ。ともかく、「るい」にとって、額の傷は、生活に前向きにとらえる際に、劣等感となり引け目を感じるものだった。

 ここにいる彼にとっての劣等感は、運動音痴であったが、それは社会と全く疎遠となったリタイアーするまで、常に意識し続けなければならないものだった。 

 それは小学3年生頃の跳び箱事件。今は体育の授業は専門の教師がいるようになったようであるが、そのころは全教科を一人の教師が見ていた。こちらの段を飛べたら次の段というように2種類の跳び箱を同時並行的に行っていた。そして上位ランクに教師は付いていたが、いかんせん彼の場合は下位ランクの跳び箱でもガタンと跳び箱に引っ掛かり跳び箱の下敷きになったのである。それから、教師から彼は跳び箱はもうやらなくていいといわれ、見学となったのである。今思えば、教師が一人、しかもなんでも教えなければならない当時の教育にも問題があるのはわかっているが、うまく技術的にも指導してくだされば、こんな劣等感になることはなかったように思う。また、運動会で、団体競技の際にできなくて団員に迷惑をかけたが、そのこと自体よりも、親子という皆が見ている前でできなかったという劣等感がさらに大きくなったように思う。

 中学時代の東京オリンピックの開催では、テレビで体操競技をやっており家族全員で見ていた際に、母からお前はなぜ見ないんだ、だから運動ができないんだと叱られた記憶がある。ここで一言、母も多分口には出さなかったが、母自身運動嫌いの面はあったのかもしれない。彼は、スポーツを見ることとやることとは違うんだとは思っていたが、それでも、運動音痴の劣等感の認識は、その事案からさらに拡大したように思う。
 
 このように、運動音痴の認識は、教師や家族などの言動から、本人たちは認識はないのかもしれないが、より深まるのではないか。教師や家族は、知識や知恵を教える存在であると同時に、「劣等感」の意識をより植え込む存在になり得るものだと彼は実感した。身近な存在が、劣等感をたたきこむ存在になるというのは、これはもうたまらない。要するに、知識・知恵を教わると同時に、そういったプラス面だけではなくて、マイナスの遺産というべきものをも、時には全人格的に受け継ぐこともあるのではないかと思う。

 社会に出て行けば運動音痴を自覚する機会はないだろう思った彼だったが、さにあらんや。社会に出てからも、その彼の運動音痴はさらなる影響を与えたのである。最初の職場のときに、課長が言ったことば「君、スポーツは自信ある?」だった。聞けば職場対抗でバレーボールをやるのが習わしで、活躍できるかを聞いたのだった。彼の世代は団塊の世代の終わりごろで「24時間戦えますか」の時代で体力勝負の時代だった。そのこともあってか、スポーツができることは、今以上に、スポーツで培ったリーダーシップを持ち仕事ができるという評価をもらえる時代でもあったように思う。
(できない者はどうするかであるが、飲みケーションを図り、そこでの団結を重視する時代であったように思う。彼は初めは飲みケーションにさかんに参加してしていたが、40代ごろになると体力の限界を感じるようになり、不参加となったのである。)

 今、リタイアーした彼は、このことについてどう思っているのだろうか。運動音痴なり「劣等感」は誰しも持っている者であろう。人と付き合う以上、劣等感は常に付きまとう。だから、ウイズ劣等感で一生付き合うしかないのかな、そしてそうである以上、「覚悟」をもって、自分はそんな人間であるというでうまく対応するしかないのだと思う。しかし、リタイアーするまで、その覚悟がなくて、ふらふらしてきたのが、今の人生であったように思う。

 リタイアーした今は、人と付き合う必要もなく、本当に劣等感を感じることもなく、劣等感からは解放された生活が送れている。この意味、本当に今は幸せである。

 朝ドラのヒロイン「るい」の額の「」はいつなくなるのだろうか。また、これらのファミリーに課せられた負い目は、第3世代の「ひなた」まで続いていくのだろうか。また、そのわだかまりみたいなものは、この100年の物語・3世代の中で、解決しているのだろうか。
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リタイヤーした今、完璧主義から脱しよう<退職後仕事の締切はない>ストレスからの解放

2022-01-09 10:10:42 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 「べき」から来る完全主義<完璧主義は仕事にぜひ必要な性格ともいえるものですが・・>あそびの必要性

 彼は、自分の人生を振り返り、完璧主義に支配されていることに、リタイアーした今になって気が付いた。

 仕事に関しては、簡単にいえば、完璧主義とは、締め切りのある限られた時間の中で、完全なパフォーマンスをしようとする考え方のことだろう。(*注意) その考え方の根底には、「こうあらねばならない」といった「べき」の心理状態があるように思う。常に彼には、この「べき」主義が、仕事だけではなく、日常生活のなかでも支配されていた。
 
 その原因は、子供の頃の彼の育ち方に一因があるように思う。彼は、田舎の名士の家に生まれ、親や先生に褒められ優等生として育った。だから親等を悲しませたくないという感情が彼の中にあったのであろう。努力して努力して最高のパフォーマンスをしようとする「べき」精神は、そのころ培われていったのだろう。そのままの精神状態で、大学を卒業して、過酷な社会の競争社会に入っていったのである。所詮、彼は田舎の限られた地域の優等生に過ぎなかった。世の中には自分より能力的に優れ、いわゆる天才的な肌を持った人々がたくさんいる。彼はここでも努力に努力を重ね、なんとか彼らと肩を並べ優位を保ってきた。この時、ストレスは最大の状態になっていたはずであるにもかかわらず、彼の我慢強い性格がなんとかその間の安定した精神状態を保っていたように思う。(実は、彼の場合、精神面に現れるのではなく、肩こりがひどくマッサージに常に通っていたのである。)

 彼の仕事一本やりの人生は、人生そのものが仕事であるかのようになり、人生に余裕(「遊び」=自動車運転のアソビ)もなく、結果的には、仕事上で親友と呼べる人間は出来なかったし、趣味もなかったのである。

 あなたの人生って何なのと、仕事をやめた今日、考えるようになっていたのである。

 いい加減、リタイヤーした今、仕事において離れることがなかったその完璧主義ちょっとだけ横に置きませんか。仕事をリタイヤーしてからも、日常生活の中で自分のできる健康を含めた最上な状態で、最上なパフォーマンスをしようとしていませんか。そのストイックな精神状態は、若いころは、目標に向かい良い仕事内容をもたらしたことは間違いないでしょう。しかし、リタイアーしているあなたには、仕事上の完璧主義に必須であった「締め切り」はないはずです。最上な状態でのパフォーマンスを考えるとしても、いつまでという期限付きではないはずです。パフォーマンスに最大値を求めたとしても、そういった考え方を容認したとしても、もう昔みたいな「いつまで」に仕上げるという期限はないはずです。そういう考えにたったら、ストレスから解放され、安定した生活を送れるのではないでしょうか。

 (*注意) 彼なりの完璧主義である。他人から見たら完璧主義を通していたとはいえないという人がいるかもしれない。しかし、これは完璧主義は、ある意味心の中の問題であって、完全に行ったかどうかは、彼の心の中を覗かなければ分からないものであろう。
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会社は生態系とは「いい得て妙」➣人の組織は「働きアリの法則」「傍観者効果」が妥当

2022-01-01 16:22:15 | 職場・組織等
 会社も所詮「人の集合」であり、アリの組織にも類するもので、これらの生態系は複雑系 

 「会社って、ひとつの生態系みたいなところがあります」(漫画家「しりあがり寿」氏。矢口誠解説「ことば巡礼」より)<参考1> とあるが、会社の組織というものを十分に言い得ている。大きな池の中の「外来種のブラックバス」を撲滅すると、今度はアメリカザリガニが増えるという。また、有名な例だが、沖縄のハブを退治するために、マングースを持ってきたことがあった。ところが、マングースはハブを捕獲することはできるものの、実はマングースの好物は、ハブではなく他の小動物だったという。そのため、ハブではなく小動物が減ってしまったという。

 ある動植物を人工的に駆除しても、またその天敵を導入しても。もとに戻るかと言うとそうではなく、他の動植物が激増したり、天敵かどうかを確認しないと、減らすべきものは減少しなくて貴重な他のものが減ってしまう。それほど非常に生態系は微妙なものでうまくいかないものなのだという。

 会社の組織というものを生態系に例えた冒頭のことばは、非常に興味深い。組織も人の集合体で、人同士が関連しあって、業務を実行していくにすぎないものであって、個人個人は人そのものなのだ。微妙な人間関係のバランスがその組織に影響を与えるのだ。こいつは組織の雰囲気をみだすとして、異動させたとしても、もとにもどるかというとそうでもない。真面目に働いていた人間がそれを機にさぼりだしたり、おとなしかったものが頭をもたげてきてちがった雰囲気になることもあろう。なんとかしようとして組織の長は、組織からの排除を試みるのだが、予期した結果を生じないことも多い。

 「働きアリの法則」というのがある。ありの集団では、勤勉でよく働くアリ2割、怠けるアリ2割、普通に働くアリ6割であるという。人の組織においてもなぜだか同じ比率になるという。この場合に怠けるアリを排除すればいいと考えるのだが、これを排除してもまた別の2割の怠けるアリがでてくるという。人のグループにおいても同じだという。
 また「皆で頑張る」と「誰かが手を抜く」という原則もある。(「皆が電話を取らない」等特に怠け者でもないのに皆が動かなくなる現象から「傍観者効果」ともいう。) みんなで頑張ろうという社長の掛け声は、頑張らない者を生みかねない。そうではなく、各自埋没しないよう一人ひとりに声をかける必要がある。つまり、誰かが手を抜いても、それが分からないような「埋没」した状況では手を抜きやすいのである。だれもが「誰かがやるだろう」との思い込み、自分ひとり手抜きしても差し支えないと思うのである。(社会心理学のB・ラタネの研究) 戦国時代武将の長曾我部元親が偉かったのは、今から戦いに行く武者一人ひとりに、頑張ってくるよう声をかけたという。<参考2><参考3>

 このように、人間社会においても、一人ひとりが「人」という動物であることをかんがえると、まさに生態系そのものであると言える。確かに、組織論やリーダー論など人を動かす論理・学問は、出てきてはいる。しかし、ひところの物理学のように数式でとけるものではなく、複雑系で確たるものがないのも事実であろう。『複雑な生態系が「ちょうどいい」状態になることは珍しいと心得ていれば、経営者も会社員も少しは気が楽になるのではないか』と解説の矢口誠氏は言うのだが・・・。

 そうはいっても、経営者にとっては、悪質な「ブラックバス」であれば、まずはその生態系から排除しなければ悪影響を与えるのは必至であり、その後の処理は、自分なりの方法で見つけていかなければならないというのも実情であろう。経営者にとっては、経営者なりの覚悟を持って対処するしかないのである。

 <参考1>しりあがり寿氏のこの言葉は、サラリーマン時代にデビュー、10年ほど会社員と漫画家の2足のわらじを履いていたことから出たものだろう。当該記事は宮崎日日新聞21年12月21日掲載
 <参考2>話の本筋ではないが、組織論的には、この場合には役割分担と責任の範囲を明確にする必要があると識者は言うであろう。
 <参考3>「働きアリの法則」「傍観者効果」・・・・できる人は「この法則」を知っている!(水野俊哉著・三笠書房)
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