元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

タモリ流生き方の極意=目標はエンターテイメント・努力しない努力・めだちがり<NHKカムカムのひなたの元恋人・五十嵐文四郎の再登場>

2022-03-26 15:22:43 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 あのひょうひょうとした自然体で生きるタモリの生き方は理にかなったもの<ストレスを近づけない方法の「計画」>

 「カムカム」ひなたは、ハリウッド映画オーディションのため来るというアクション監督を道場で待っていたが、そこに現れたのは10年前に「侍」俳優の道を諦めたはずの元恋人の五十嵐文四郎だった。
  ➣役者からアクションコーディネーターとして自分の道を見つけた五十嵐!!

 これはNHK朝ドラの中の話だが、現実にあるという話。あのタモリさんである。タモリさんはひょうひょうとした語り口でストレスフリーであるように映る。このしなやかに生きているような風情はどこからくるのかを含めて、一定のタレントに縛られない「タモリ」というものを論じてみたい。タモリさんは、福岡でサラリーマンをしていたが、ジャズピアノの大御所山下洋輔の宴会に飛び入りし宴会芸を披露し、そのときの縁で「おもしろい」ということで、有志が月一回東京に呼び寄せていた。その芸に心底ほれこんだのが、赤塚不二夫で彼の家に居候させてもらうことになり、その後、自分の番組へ出演させたのである。

 実はこの頃の彼の芸は、宴会芸とか即興芸とか呼ぶものであったが、ここからその芸は彼独特の話芸へ変身していく。「笑っていいとも」からのタモリさんは、他のメンバーやゲストからの話を引き出して、興味を引くようなちょっとちがったMCになっていた。この番組は31年半も続く長寿番組となったのである。そして、世にも奇妙な物語やNHKスペシャルの人体のMC、さらにはプラタモリに至っては、MCではない、本人の「主役」そのものだろう。ウクライナ戦争の件で冒頭とエンディングしか話さなかったということで話題になったタモリステーションは、報道番組・教養番組のタモリの冠番組である。タモリは、お笑いタレント、テレビ司会者からの枠を飛び出して独自の世界を造っているのである。

 これは、彼はお笑い芸人とか一定の枠をはめずに演じてきたことから来るのだろうと思う。実は彼はこうなりたいという時期はあったという。早稲田大学のタモリはミュージシャン志望でモダンジャズ研究会に所属していたが、しゃべりがおもろいということで司会担当をさせられたというのだが・・・。
 目標なんてもってはいけません。目標をもつと、達成できないと嫌だし、・・やりたいことを我慢するなんてばかみたいでしょう。・人間、行き当たりばったりが一番ですよ。(タモリ)
 がんばらなくていいんだから。がんばるから苦しんでしょ。がんがらなきゃとか、計画をたてなきゃといかんというのは、ちゃんとしたひとです。(タモリ)

 タモリさんは、いつでもひょうひょうと実に自然体でいるように見える。精神的な病とは無縁のようでもある。計画を立てろとはいわないのだ。「計画」とは一般的にはいつまでに何をやるかによって目標を達成することをいう。成功するためには半年後・1年後とか又は10年後・20年後の目標をみて計画をたてろと言う。しかし、タモリさんの場合は反対のことを言っているようだが、実は裏があるようなのだ。彼の最終目標は、先ほども言ったようにお笑い芸人とかの一定の枠をはめたものではない、大きい意味では「エンターテイナー」という目標はあったのではないか。一定の枠をはめた「芸人」が目標といった、その意味では目標はないが、大きなエンターテイナーの道という意味では目標はあるのだ。ただ、その点では、いつまでに何をやるのかという意味では計画は立てない、立てられないのだ。
 タモリというのは・・昆虫で言うと変態していくわけ。最初は物まねでね、だんだん自分のキャラクターを前に押し出して現在がある。(赤塚不二夫)
 最終目標としてのエンターテイナーは、その場の状況に応じて変わっていく。それだからこそ、何年後のなりたい自分の計画は立てられない。周りの環境に応じて変身していくので、短期目標はあると思うわれるのだけれども長期の目標は立てられないということだろう。

 しかし、そういった計画を立てない代わりに、目標のエンターテイナーになる原動力となったのは「めだちがりや」と「努力とみえない努力」の積み重ねというのがある。
 目立ちがりや。他人が自分より目立っているというのは癪にさわってしょうがないもんね。だから、なんでもいい、全裸になっても目立っちゃおうって。(タモリ)
 今では、犯罪行為になりかねないが、どうせやるなら命がけでもやれということではないか。・・・そして・・・
 ぼくはもともといつも日常があそびであればと思っている男です。あそび精神がごちごちの常識を破る、それをゲリラ的にやっていく痛快さがこたえられない(タモリ)
 さきほどタモリさんは頑張るから苦しいのだと言った。しかし、見方を変えて、仕事と遊びを融合するとそれは仕事ではないのだ。タモリさんはそういう精神で仕事にやっているのだろう。(心理学用語でラベル効果という。)そういう意味では、仕事らしからぬ「仕事」に対しては、努力をしていることになる、頑張っていることになる。あるとき、彼の部屋をのぞいた友人は、押し入れの中で、ぶつぶつ言っているタモリさんを見つけたというのだ。

 だから、彼の目標は、流れに任せた大きなエンターテイナーたっだといえるし、目立ちがりやと言う点では、芸能界に将に合った能力を持った人だと言えるし、努力をしないように見えても遊びの中で努力できる天才なのだろう。
 人生において、自由でしばられない、肩ひじ張らずに、しなやかに生きる方法はないだろうかという問いに、このタモリさんの生き方は参考になる。彼の場合は目立ちがりやというものであったが、こういった「自分の特性」を生かした職業を目指すこと(=これが一番難しいことではあるが・・・)、それも一つに固守するのではなしに状況に応じてある程度の大きな幅のあるものでよしとする、努力といえない努力という「仕事を遊びに変える」といったことから学べるものはあるのではないか。

 ※タモリさんの言葉さらには赤塚不二夫の言葉は、著書 タモリさんに学ぶ「人生後半」に生きるコツ からの引用
  さらに、参考文献とさせていただいた。  
   タモリさんに学ぶ「人生後半」に生きるコツ 内藤誼人者 廣済堂出版   


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カムカムのジョーの30年のトランペットが吹けない苦悩<生れ変わりに「体験」は重要な要素>

2022-03-19 13:52:16 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 この世で嘘がつける言葉よりも生まれ変わりにとって「体験」「感情」は重要な要素
 
 NHK朝ドラ・カムカムエヴリバディのジョーこと大月錠一郎は、子のひなたと桃太郎の大げんか(けんかの原因は彼らにとっては見過ごすことのできない人生の岐路と思えるものか)の最中、トランペットを手に持って現れ、吹き出したがかすかな音色しか出なかった。そして、ひなたと桃太郎が未だ知らなかった自分の過去について語り始めるのである。錠一郎はトランぺッターだったこと、大阪の大会で優勝したがレコードデビュー寸前に原因不明の病にかかったこと、この病により日常生活には不自由がなかったがトランペットだけが吹くことができなかったこと トランペットを吹くことは戦争孤児であった彼にとって最大の喜びであったので、その命といえる「トランペット」を奪われ自暴自棄になり入水自殺を図ろうとしたこと そのとき自らも水に入った「るい」に錠一郎は助けられ、2人で生きていくことを決心して回転焼き屋を始めたこと さらに、錠一郎は病気になった当時の絶望感を語り、結婚後もしばらく医師や治療法を探し続けたことを明かした。そして「あきらめたというか、なんかふっきれたんかなあ」と呟き「ひなたと桃太郎の良きお父ちゃんとして生きられたらそれでいい。それで僕は幸せや」そして「で・・なにが言いたいかと言うとやな・・それでも人生は続いていく。そういうことや」と、ひなたと桃太郎に、この30年間の苦悩を語ったのである。
 
 ここで初めてひなたと桃太郎(のみならずテレビの視聴者)は、錠一郎の心の苦悩を知ることになる。また錠一郎とるいの間にそんな過去があったなんて非常に驚き、単なる回転焼き屋を経営する夫婦でなかったことが分かるのである。

 錠一郎の30年間の苦悩は本当に図り知れないものがある。その後、るいが錠一郎に諦めたなんて嘘だよねと真意を尋ねる。「この30年、(結婚後も)なんべんも試したけどあかんかった。はじめはしょっちょう、そのうち月に1回、3か月に1回、半年に1回、ここ10年は何年かに1回くらいになった・・」そして「トランペットが僕にさよならを言うてる。そんな気がする」と錠一郎は言って、トランペットをケースにしまったのである。
 
 人は生まれ変わり、生まれ変わる度に精神はステップアップしていくという。この私たちがこの世で重視しているのは、「言葉」や「思考」であって、特に現代社会にあっては、学問という体系が出来上がっていて、「言葉」「思考」を駆使した論理的説明が求められる。しかし、特に「言葉」には嘘が生まれる。この生まれ変わりの精神向上に必要なのは、偽りのない「体験」やそのときの「感情」なのだという。錠一郎の苦悩・絶望は、他のだれもが経験したことのないような「体験」、そしてそのとき生まれた「感情」なのだ。これからいえば、錠一郎は、この世で稀有な経験をして、あらたな精神のステージに乗ったといえるのではないか。だれもがこのような経験をするものではないが、人生の生まれ変わりをするどこかの時点で、わたしたちにも同じような経験が待っているともいえよう。 

 この朝ドラ・カムカムエヴリバディはすでに終盤に入ったが、安子・るい・ひなたと続いた100年の物語は、再度るいを中心とした錠一郎とその子供たちのルーツをめぐる「旅」にもなりそうである。

 参考:NHKテキスト カムカムエヴリバディ3月号 
    神との対話1 ニール・ドナルド・ウォルシュ著 サンマーク出版
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働きアリ法則・ユダヤ法則・パレート法則(残りの2割管理はどうしてもできない!!)

2022-03-12 13:55:25 | 職場・組織等
 完璧主義者であっても8割の達成を良しとして後の2割の改善を次々に図ることが大切
 
  会社において、管理者がいくら頑張ってマネジメントをしたとしても、「働きアリの法則」というのがあり、勤勉なアリが2割、普通に働くアリは6割 結局仕事が一人前にできるアリは8割で、後の2割は怠け者のアリだという。社員においても全く同様の比率のようだ。じゃあ、この怠け者を除ければいいのだということになるが、この怠け者をのぞいても、普通に働いていた者の中から怠け者が発生し、また同じ比率になるという。この原因ははっきりわかっていないのが実態であるが、「社会的手抜き」が考えられる。だれかが手を抜いても分からないよう状況では、だれもが手を抜きかねないのだ。

 また、ユダヤの法則と言うのをご存じだろうか。これは、世の中にはお金を貸したい人と貸りたい人の割合は、78対22の割合いると考えて、この割合で銀行を管理してユダヤ人は成功を収めたといわれています。この比率「78対22の法則」はもともと宇宙の法則であり、世の中のすべてはこの比率で成り立っていると考えられるという。人体を構成する水分とそれ以外、健康な人の腸に住む善玉菌と悪玉菌の割合、地球の海と陸地の割合、空気中の窒素とそれ以外の空気等の比率などである。空気中の窒素とそれ以外にあっては、確かにちゃんと一致するところであるが、人体は人それぞれで、海・陸の割合にあっても、気候の変動によっても変わるものであって、必ずしもそうでもないといえそう。しかし、これらの数字に近いものであることではある程度はいえるものでもあろう。少なくとも、いえることは約2割については、別種のものであり、これらは完全に管理できないということであろう。

 では、会社の仕事において、うまく管理するためにはどうすればいいのか。パレートの法則と言うのがある。これはもともと国家の富の分布は「不均衡」であって、ごく少数の人々に多くの富が集中しているという統計的分析による。※注※ この分布の「不均衡」は業務においてもいえるところであって 、仕事においても適用することができて、一日の仕事のうちで、2割の重要な作業を完全に行えば、業務の8割は達成できるというのである。業務の2割は完全に達成できなくとも、重要な2割の仕事をやり遂げれば8割の業績は達成できるので、この重要な仕事について十分管理しようというものである。よく考えれば、我々は完璧主義を目指して、細部まで小さなところまで一生懸命やるという、重要なところではないところで頑張っているところがないだろうか。2割の業務はよほどの完全・完璧な管理を行わなければならず、言い換えると本当に事細かな細部のことまで管理しなければできるものではないので、ここは譲って、8割の業績を達成できればいいと考えるのである。

 人間である以上、人間の英知には限界があり、 どんなに頑張っても細部までマネジメントできないところがあって、また、いざ実行すると予期しないことも発生することもあり、働きアリの法則で8割、ユダヤの法則で78%達成すればよしとせよということになります。後の2割等は不完全な形になりますが、あなたがどんなに完璧主義者であっても100%は出来ないことを心得るべきです。問題はその後です。まずは8割で「良かったね」となっても、次回に改善して、また次の次の回はさらに改善を加え、これを何度も何度も繰り返し、100%を目指していく努力が大切と思われます。

※注※ 分布の不均衡については、統計的には正規分布やカイ2乗分布等があるが、例えば正規分布は、これは富士山の山を考えればいいのだが、真ん中にトップ点がありそれがずっとすそ野まで広がるような形である。この形は、クラスの成績や身長にも当てはまると考えられています。この正規分布においても、真ん中部分に、より多くのデータがあり「 不均衡」な形となっている。山の頂上から標準偏差(データの偏りを示す統計的処理をしたもの)=「σ」の分だけずれると、山梨県側と静岡県側それぞれあるので、これを両方合わせて68.3%、標準偏差×2倍=「2σ」の分だけずれると95.4%、標準偏差×3倍「3σ」の分だけずれると99.7%のデータがこの範囲内に含まれ、頂上分を含む真ん中部分にデータが集まっていることが分かる。
 あくまでもイメージだが、形は富士山だが富士山よりもっと急な高さの山を考えると、富士山の8合目からトップまでの部分(すなわち2合)で山の全体の8割部分を占めるというようなことを考えると、「パレートの法則」はイメージしやすいのではないか。
 
 
 
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ロシアのウクライナへの侵略に合理性はない<「同族意識」なしでは同じ民族ではない>

2022-03-07 02:06:46 | 職場・組織等
 専制国のロシアが西側諸国に取り囲まれた焦り!!

 私は今まで「世界史」の勉強から逃げてきたので、あまりにも勉強不足で認識不足を感じている自分がいる。しかし、ことプーチン大統領になると彼の歴史認識はどうなっているのか疑いたくなる。9世紀後半から13世紀半ばまでウクライナに起源を発するキエフ大公国という大国があり、その中にロシアも含まれていたのであり、ロシアとウクライナは同じスラブ民族であったというのである。むしろ、ウクライナの方がこれら民族の故郷でもあるという。その後、ロシア側は東の方から来たモンゴル帝国の支配下になる。そして、ロシア革命が起こったのちに、ウクライナとロシアは、ソ連邦が崩壊するまで同じ連邦の下にあった。そこで、ロシアとウクライナは、兄弟同士でありソ連邦の下では同じ政治体制で機能していたというのがプーチンのもともとの侵略の主張のようなのだ。

 しかし、民族の定義は様々あり難しいようだが、少なくとも「同族」の意識がないと同じ民族とはいえない。同族であるかどうかは、その集団の中に芽生えた「意識」の問題でありウクライナがロシアを同族でないとするなら、同じ民族ではない。これは、それぞれの歴史的な文化的な過程において作られていくものなので、たとえ元は同じ民族であっても、今はウクライナ民族であるという認識が出来上がっているのであって、とても同じ民族とはいえないのではないか。今ではロシアとウクライナという全く違った主権国家があるのに侵略していくのは、実にばかげている。どう考えても、いまさら元々同じ民族で兄弟同士だから「統合」しようというのは筋が通らないのである。

 結局、専制国家であるロシアが民主自由国家に取り巻かれてしまい、ウクライナまでもNatoに加入すると、直接西側諸国と相対することになり、それでは自分の専制の座が脅かされてしまうということなのだろう。ソ連の崩壊前では、周りを固めていたポーランドやル-マニアなどの国家があったがこれらもNatoに加入してしまったところであり、ウクライナが抜けると丸裸になる。思うにナポレオン侵攻や第2次世界大戦のドイツ侵攻の悪夢が頭から離れないプーチンとしては、何らかの緩衝地帯を設けたいということなのだろう。ウクライナとしてはいい迷惑であろう。

 全くプーチンに正義はない。プーチンがこういった合理的でない主張をするのは、戦争をするための、他に合理的な理由が見つからないからだろう。それとも本当に同じスラブ民族の共通の論理展開が可能だと今でも考えているとすれば、誤った歴史認識もはなはだしい。彼の従来からの主張(論文)を見てみると、そう思い込んでいるような感じでもある。 
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