元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

大人になりきらない人は子供の頃の欲求不充足・一方なつは開拓者精神が育つ<なつぞら>

2019-09-14 10:04:25 | 社会保険労務士
  育児休暇制度がないのに仕事の両立ができたのはなつの開拓者精神<みなで支え合う>と夫の理解か

 なつは、開拓者が主題となる新しいアニメの作成のため、プロダクションの仲間と自分を育ててくれた十勝の柴田家に行き、泰樹(草刈正雄)<なつの育ての祖父=おじいちゃん>から開拓者としての話を聞いた。なつも育て親である富士子も全く知らなかったが、泰樹は幼いころに両親をなくして親戚の家の養子になり小さいころから働らなければならなかったことを、そして富山から北海道に渡って土地の開墾、そして牛飼いを始めたことを話す。開拓者精神の神髄とは、苦労、困難があるからこそ、みんなで支え合っていくことという。

 柴田家で育った戦災孤児であったなつ(そして富士子もそこで初めて)は、酪農農家の柴田家の実質経営者であった泰樹がかっての自分に重ね合わせていたことに気付く。それは、幼いなつが柴田家に来たときに、働きますからここにおいてくださいといったとき、泰樹はそうならすかさず「働け」といったこと そしてよく働くなつをみて町に牛乳を納めに行ったときにめずらしかったアイスクリームをおごってほめてくれたこと(認めてくれた) 東京の兄に会いたくて家出をしたが泰樹らに見つかり泰樹がなぜか強く抱きしめてくれたこと 柴田家の跡取りとして期待される状況になったため、東京に出てアニメの仕事に就きたい本当の理由が言い出せないため、話がこじれたが、その本当の理由を言うと初めは猛反対であった泰樹であったが、開拓者精神でもってがんばれと素直に送り出してくれたこと。

 「大人になりきれない人の心理」の著者<*1>である加藤氏はいう。「大人になりきれない人」とは、自分自身が精いっぱいなのに、社会的責任を負わされてつらくて、どうにもならなくなっている人たちである。つまり、「5歳児の大人」である。だから、会社の部長もいれば、母親もいるし、学校の先生もいるという。仕事場で上司の命令に従って仕事をしている場合はよいが、責任のある立場に立たされたとき、自発的に動く姿勢がこの5歳児の大人には欠けている。成長の過程でそのときどきの対応を親がしなかったらこうなるのだろうか、それゆえ「母なるもの」に接することがこの時期は大事だという。ここで著者の「大人になりきれないひとの心理」からまるごと引用するが{「母のように保護し、養い、世話をしてくれる女性を必要とするのだ。この種の愛情を獲得し損ねると、かれらは軽い不安感と抑うつ状態に陥りやすい。(E.フロム)」、「母なるものへの願望」に満たされていない人は、人を奮い立たせたり、勇気を与える人間にはなれない。リーダー自身が部下に愛を求めていたのでは、集団の士気は維持されない。「母なるものへの願望」を満たされていない人間は、所構わず愛を求める。リーダーにはもっとも不向きである。人からチヤホヤされたい人は、人を引っ張っていくことはできない。部下の教育もできない。学生の教育も、子供の教育もできない。}という。思うに、一生懸命親が向き合っていれば、具体的な対応が間違っているとかは問わない、一生懸命向き合っていればいい、一生懸命抱きしめばいい、向き合う時間がなくてもちょっとだけ向け合って欲しい。<*2>

 なつは、亡き父の戦友であった柴田剛男(藤木直人)のもとに引き取られ北海道の自然の中で、育ての親である両親(柴田剛男・柴田富士子)特に富士子(松嶋菜々子)が時にはさびしくなるなつを母として一生懸命抱きしめてくれた、そして、また前述のようにいい意味でのおじいちゃん子として育ったなつであった。

 さて、アニメの世界で独り立ちして作画監督をしようというとき、結婚していた演出家の坂場一久(中川大志)との間に、子供が生まれ、なつはこのままアニメを続けたいと思うが、当時はまだ専業主婦になるのが慣例であったようだ。この会社も子供が生まれたらパートになるというのが会社の方針であった。なつは上司と相談、同僚も立ち上がり、社長のところに皆で押しかけ、以前どうり、正社員で雇ってもらうことで了承してもらう。今でいう育児休暇もない時代であったのに、働く女性の先駆けとなる行動をする。これぞ、開拓者精神そのもの、また、その神髄であるみんなで助け合うという仕事が出来ていなければ、仲間もなつもなかなかこんなプレーはできるものではないと考える。

 私事であるが、わたしはいつも仕事は他人より抜きんでていなければならないと考えていた。少しは皆よりできたと思うが、それもずば抜けていたわけではなく、一生懸命努力してちょっとだけできただけである。しかし、なつの皆でやるという意思はみじんもなかった。今思えば、会社員としてどうだったか。このなつの精神に大いに見習うべきだと後悔する。 

 なつの時代は、当時は、産前産後の休業があっただけだと思う。産前の6週間は、女性が請求した場合において、就業させてはならない。また、産後8週間を経過しない女性については、女性の請求がありなしにかかわらず就業させてはならない。ただし、6週間を経過した女性が請求した場合、医師が支障がないと認めた場合は早めに出社することが許されている。(労基法65条) 多分、なつの時代のこのころは、この産前産後休暇だけだったと思うのである。

 では、育児休業休暇は、いつごろからかというと、初めは公立の教員・看護師・保育士のためにだけ認められていたが(S50)、昭和60年の男女雇用機会均等法の中で、事業主の努力義務として認められた。法的に義務となったのは、女性の能力発揮と少子化の観点から、育児休業法が制定される平成3年の法律からである。育児休業は日雇い・1年未満雇用等には制限はあるが、原則として1歳未満の子をもつ労働者であれば、男女を問わず、取得することができます。そのあと、保育所に入れない場合などがあれば、子が1歳6か月までに、さらには2歳までにこの期間を延長することも可能となりました。

 なつに子供の「優」」が生まれるのは、時期的には、なつが31歳、昭和43年(1968年)の設定になっている。仕事に油ののってくる時期であるが、前述のように育児休暇制度はまだないころであった。しかし、夫の坂場はこのころ演出をしていた映画「神をつかんだ少年クリフ」の不評の責任をとって東洋映画を辞め、家で翻訳の仕事をしていた。そのため、夫が昼間は子供の面倒をみて、1歳までは過ごすことになり、仕事を続けられたなつであった。設定ではうまく描かれている。

 <*1>「大人になりきれない人」の心理 加藤諦三 PHP文庫 引用文の{   }は同著のp148
 <*2> しかし、加藤氏に言わせると、「大人になれきれない人」に育てられた人は、また同様の心理になるという、つまり、次世代までも続く傾向にあるというのだ。彼自身そうであったという。しかし、そのハンディを克服する方法を同書の後半では示している。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする