元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

国家公務員も残業したら残業代を出すのが当たり前(河野太郎)<労基署の代わりの「人事院」の機能>

2022-09-24 09:40:03 | 社会保険労務士
 河野大臣は「能力のある国家公務員にはきちんと時間外を払い良い仕事をしてもらう」(「霞が関の崩壊始まる」)というごく普通の感覚での発言!!

  河野太郎大臣はデジタル庁大臣が知られているが国家公務員制度担当大臣というものも併せ持っている。この国家公務員制度については、労働基本権の労働者の権利としての「団結権」「団体交渉権」「団体行動権」につき、この公務員については制限されているが、これをどうするかについての議論が昔から問題になっている。それはさておき、驚いたのは、その基本的な労働条件がなおざりにされているという実態である。河野太郎大臣は、担当大臣として一般的な普通の感覚の持ち主であるからこそ、大臣就任後、初めてその実態を明らかにした。

 次の記述は、朝日新聞デジタル版での大臣の発言録をそのまま伝える。
 ① 霞が関がもう、崩壊の兆しというよりは、崩壊が始まっている。これはちょっといかんなあと。ついこの間も、ある役所の将来のエースと言われていた人が、辞めるというような話をしに来られた。② ちょっと前まで、霞が関は残業代を払わないのが当たり前みたいな風習がありましたけれども、明らかに民間なら手が後ろに回るようなことを霞が関だからいいんだっていうわけにはいかないよと。残業代を払えと言ったら、払うようになりまして。できるんだったらもっと早くやればよかったねっていうことだと思いますが。③ そもそも安い給料を承知の上で国のために働こうと思ってきた人が霞が関に入ったら、どうでも良いようなつまらない業務をやらされているんだったら、それは辞めるよねと。せっかく能力のある人が来てくれているわけだから、いかに来て良かったと思ってもらえるような仕事をやってもらうかがこれから大事なことだと思う。(日本記者クラブ主催の記者会見で)

 河野大臣は、残業代は払わない風習みたいなものがありましたと本当に払わなかった実態を赤裸々に述べている。国家公務員といってもいろんな公務員がいるわけで、大臣だって特別職の公務員ですので、そういう方々は除き、一般的に国会が開かれれば、そのために答弁書を作ったりして残業せざるをえないような「一般職」の公務員を想定して考えていきます。

 一般職の国家公務員は、残業代がもらえなかった場合に、労働基準監督署に訴えることはできないのでしょうか。一般職国家公務員とっては、そもそも労働基準法は全く適用になりませんので、労働基準法が規定するところの労働条件、そしてそれを監督する労働基準監督署の機関そのものが存在しません。(国家公務員法付則16条) ですから、労働基準監督署に訴えることはできないことになります。

 その代わり、「一般職の職員の勤務時間、休暇等に関する法律」及び「一般職の職員の給与に関する法律」と民間で言う就業規則に相当するものとして「人事院規則」が制定されています。そこには、民間と同じく超過勤務手当や休日給、夜間手当が規定されています。そして民間の労働基準監督署に相当するものとして、人事院が設けられているということができます。人事院は、先ほど労働三権の制限がある代わりに、「民間の春闘」で給与を決めるのではなく「民間を調査していくら公務員の給与を上げたらいいのかという勧告をする」という機能を持っているものでもあります。そこで、時間外をしたら時間外をもらえるわけで、それがなかったら、人事院に相談すればいいということになります。しかし、先ほど大臣が認めていたように、ちゃんと時間外手当をもらっていたようには思えません。

 これには、あくまでも推測の域を超えませんが、民間の独立した労働基準監督署に比べ、国家公務員の場合は、独立した「人事院」という機関であるとはいえ、同じ行政機関であることから、いってしまえば、そんなところは仕方がないよねとかといった、取り上げない姿勢があったのではないか。もっといえば、同じ行政機関であるところから、内部事情が分かり納得し合えるといった「なあなあ」の姿勢がみられた(身内感覚)からではないでしょうか。残業代は払わないという風習みたいなものが出来ていたとの述べられていたように、国家公務員がそれぞれに残業代申請について、人事院への何らかのアプローチをしたのかも疑問です。早く言えば、この点について、人事院が全く機能していなかったということもできます。そもそも人事院云々と言う前に、それぞれの省庁のトップである大臣、すまわち一番上の上司はどういう対応をしてきたのでしょうか。残業をしてもなんの対応もしなかったのではないかと疑います。それぞれの大臣が対応すれば済むことです。

 地方公務員の場合はどうなっているのでしょうか。地方公務員の場合は、基本的には労働基準法が適用になります。そこで、労働基準監督署の適用を、例えば現業の建設・建築部門とか病院部門とかは受けることになります。一方、事務的な色彩が強い本部などでは、国家公務員では人事院でしたが、これに類する人事委員会が労働基準監督署の役割を担うことになっています。(地方公務員法58条) したがって、いうならば、国家公務員とは違い、全く労働基準法が適用されない国家公務員よりは、部分的には労働基準監督署の監督も受けるということで、先ほど述べたところのより「身内感覚」はなくなっているということができます。

 さて、今まで、こういった国家公務員の実態について全く情報がなかったことが不思議です。河野大臣であればこそ、民間感覚でおかしいところはおかしいといえるような人が大臣に来て、初めて実態がわかったのです。東大等の優秀な人たちが国家公務員をめざす時代は過ぎ去ろうとしています。優秀な人たちを集めてよい仕事をしてもらうのが出来ない状況を河野大臣は率直に認めています。そこで、河野大臣としては、将来のエースとされるような人が辞めていくのに、霞が関は崩壊が始まっているとの表現になったものと思われます。公務員制度自体をちゃんと見直す時期にきているといえるのです。そのことを素直に河野大臣はおしゃったように見られます。

 ※公務員の場合は、予算の原則(総計予算主義の原則ー予定額の全額を歳入歳出予算に計上すること)により、時間外として予算化されていない限りは執行できないことになります。しかし、予算がないから時間外を支出できないとはいえず、元々必要な場合は予算化されていなければならないのです。
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夜ドラ「あなブツ」=悩みながらも生きる亜子・頑張らないのも時には必要・自分の人生を肯定的に

2022-09-18 15:30:28 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 どんな人生であってもその時々の人生を感じながら「生きる切る」ことが必要でそれがあなたの「学び」

 夜ドラ「あなたのブツがここに」の主人公亜子は、コロナ禍でキャバクラが休業してしまったので、客として来ていたマルカ運送(宅配便)の社長からさそわれ、キャバ嬢から宅配ドライバーに転身する。ひとり娘の咲妃の学校でのいじめ問題も解決し、宅配の難しさも分かり同僚ともうまくいくようになったある日、元のキャバクラ「バブル」の店長から久しぶりに電話が来る。かってのナンバーワンのノアが自殺したとのこと。元同僚の仲良しキャバ嬢のしずくに話を聞いたところでは、ノアは男、金、仕事のトラブル中でコロナが重なり悩んでいた状況は分かったが、本当のところは分からないとのことであった。葬式に参列した折、ノアの弟が話しかけ、自殺の理由を聞かれるが、彼女らには答えられなかった。さらに、弟は姉は「幸せだった」と思いますかと問うが、亜子は仕方なく「幸せだったと思う」と答えるが、そばにいた親戚は「幸せだったら自殺なんかするか」と反論された。

 落ち込む亜子。というのも、亜子は事故で父親を亡くし卒業後すぐに働き、結婚したが仕事も育児もしないダメな夫から逃げ出して、キャバクラで働いていたので、自分の「夫」との関係をどうしても重ね合わせてしまう。間違った人生を何度も何度もやりなおしてきた自分がいるのに、一方で、理由はどうあれ、悩み抜いて死んでしまった友達ノアがいた。状況によっては自分が死んでも仕方ないのに、まだ生きている自分がいるのだ。どこか投げやりの人生をなんとはなしに生きてきたのに、まだ生きているのだ。

 宅配会社の同僚の峯田(亜子にぞっこん惚れている)から告げられるのは、亜子さんは会社では一生懸命、「お月さん」(亜子の母がやっているお好みの店の名前)に帰ると「頑張らない亜子さん」がいるという。そして、そのどちらの亜子さんも、峯田は好きだといった。亜子は、自殺したノアとの違いを、自分は「仕事の緊張」と母の下でその「緊張を緩める」ことができたのが違っていたのだと気づいたのである。

 人生、悩みながら生きることもある。しかし生き切ることが大事で、時には「緩め(緊張等)」ながらも、とにかく生き切ることが必要なのだ。そして、どんな人生であったとしても、その時々の人生を感じ取ることが大切なのだ。あなたの人生は最後まで生き切ってこそ、そのすべてが「学び」であり意義がある。そして、あなたの生きざまも、他の人の生きざまも、すべて「宇宙のデータ」として、保存されるのだから。人が生きた証としてのデータが残されることこそ、意味があることなのだから。

 しかし、どうせ生きるなら、生きている以上は、人生をもっとビビットに生きることの方がいい。このドラマは、「どこか投げやりだったシングルマザーの主人公・山崎亜子が、キャバ嬢から宅配ドライバーに転身し、さまざまな困難に立ち向かうなかで、成長して自分の人生を肯定できるようになる姿を描くという(NHKの解説)。」 そうなんだ、今生きているからこそ、自分の人生を自分で意識的に生きて欲しい。なんとなくではなく、投げやりではなく、ノアの分まで、もっと自分の人生を生きたよと最後まで生き切って欲しいのだ。
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共感と信頼で読み解くNHK朝ドラ「ちむどんどん」=ちむどん店の繫盛は「矢作」に期待

2022-09-12 06:57:05 | 人間関係
 ただただ賢秀の真人間化に期待するが「ドラマの展開と登場人物の描き方」をもっとリアルに!!

 岸田内閣の基本姿勢は、「信頼」と「共感」である。確かにこの「共感」「信頼」が国民から得られている限り、支持率は上がるであろうが・・・。NHK朝ドラ「ちむどんどん」の分析もこの「共感」「信頼」のキーワードで解くことができそうだ。朝ドラ「ちむどんどん」は最終に近づいてきたが、どうも途中からの評判がよくない、ストーリーが破綻しているといわれる始末。確かに主人公の比嘉暢子にしても、父からは遺言どおりの「好きなように生きよ」のことばどおりに、ただ料理と食べることが好きなだけという生き方。東京に出て料理人を目指すが、フォンターナのオーナーには、従業員の立場で「料理」の喧嘩を売るわということで、少し世間の常識から外れた性格のようだ。物語終盤になって、目標であった「ちむどんどん」という沖縄料理店を開業するが、経営能力からみてどうかとか、経営者としての計画性のなさにはあきれるほど。それこそ、後半になって、時代背景もあろうが、比嘉賢秀が勤める養豚業や暢子の夫信彦の母が言う「牛飼い」がそんなにはずかしい職業なのかとの思いや食品ロスの問題について、もっと丁寧に取り扱えないのか。ことほどさように、いちいち取り上げないところであるが、また、あまり成長もしないような、主人公暢子の描き方についても実に粗雑で見ていられないのである。

 暢子は、フォンターナに多大な迷惑をかけ独立開業はしたがつぶれてしまった、フォンターナの元先輩であった矢作の腕を見込んでシェフとして雇う。最初は暢子に矢作は反発していた。ある日、暢子はやっと工面した開業資金の返済金を店のカウンターに置き忘れた。矢作が一人店にいたので、暢子のおさななじみ砂川智(野菜の仕入れを行っている)から真っ先に取ったと疑われるが、暢子一人が矢作はそんな人間ではないと言い張る。矢作がレジになおしておいたことが分かり皆はほっとするという結末である。そのとき、矢作は砂川智と酒を飲みかわしながら、暢子が「前科のある」自分を信じていたことがうれしくて、共同経営の話があったがこれを断って、暢子が船長である船を共に乗っていこうと誓ったと言った。

 ここでやっと作者の意図がわかってきた。「信頼」である。長男の賢秀も子供のころから、いいかげんな人間で大きなことを言っては騙される。そして、父親は賢秀が明らかに間違っていると思える場面でもお前を信じるといったのである。父亡き後も、何度も何度も騙されて詐欺まがいの商売を行うが、今度は母親からお金を無心するという設定。この家族はどうなっているのだろかと思うくらい何度の何度もだまされても母親はそれでも信じる。どうもここまでくると、一般のテレビをみている視聴者は、この人たちなんだろうと思ってしまうのであるが、それでも母は賢秀がしていることだからとどうにか金の工面をする。詐欺どころでなく悪の道にそまってしまった社長が運営するマルチ商法に引っかかったケースでは、暢子自身が店の開業資金に用意していた資金を長男賢秀が助かればいいと相手に手渡してしまう。物語自体がそこまでするというのかという、まことに納得がいかない物語の展開である。第一、借金ばかりしている返済については、どこで穴埋めしたのか分からないのだ。不思議なことに、長男賢秀は沖縄と東京などを飛び回っているのだけれどもこの金はどこから出たのだろう。このハチャメチャな物語の展開も、比嘉家の家族愛というか、これも、ただただ「信頼」するという一点では、スジが通っているように思う。結局、この物語のテーマは、「信頼」だったのだ。(ただひたすらこの盲目的な「家族愛」にも映るのも納得はしてはないのだが・・・)

 「共感」という見方については、視聴者が「共感できるか」という点に尽きる。この共感なくして、ストーリーは進められないし、ストーリーが破綻していると取られる原因のようだ。東洋新聞の同僚の大野愛と恋人だった青柳和彦、前述のおさななじみの砂川智と暢子の4角関係の結末。智が暢子に告白するシーンでも、幼いころからずっと好きだった智が告白しているにも関わらず、暢子はそれを幼いころからの「友情」だと断言してしまうのである。暢子は智の告白に向き合いもせずに済ましてしまう性格の悪さ(サバサバしているのか)、どうも、朝ドラファンとしては、こんなデリケートなところを納得できる形に出来なかったのかと思う。本当に物語の展開には「共感できない」のである。ストーリーが破綻しているといわれるも、こうふうに進行するだろうと期待するのだけれども見事に裏切られるという、実にこの納得感・「共感」できるところがないというのが、そう思わせるところであろう。

 やっと終盤になってきたが、「ちむどんどん」の店を立て直すのは、暢子が「信頼」した「矢作の存在」が大きいように思う。唯一シェフとして、また失敗したといえ元経営者として、今後、矢作の言動(ちょっとひねくれた物言いと態度)への「信頼」「共感」(経営面では物言いは別として、矢作の言動は的を得ているのではないかと思う。)が、ドラマ進行を立て直して、「ちむどんどん」という店を軌道にのせていくものと信じる。この信頼・共感がこのドラマのキーワードだったのだ。そして賢秀が猪野清恵とともに地道に養豚経営に乗り出し、智と比嘉歌子との仲がうまくいきますように祈ります。脱線部分もありあっち飛びこっち飛びのドラマ展開だが、少なくとも朝のドラマとして、ドラマ展開が視聴者の期待を裏切ることなく、そして暢子もちょっとは人間的に成長したと思わせるような終盤を迎えたいものです。主人公を演じる黒島結菜は、好きな女優さんですので、物語の中で嫌いにならないように、最後まで頑張って、ストーリーの中で少しは成長していただきたいのです。

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労働者が仕事中の事故で相手に損害賠償した後に会社に応分の負担を求めることが可能か!<令和2.2.20最高裁判決/民法715>

2022-09-03 10:30:27 | 社会保険労務士
 民法715条は使用者は労働者の事業執行中第3者に加えた損害の賠償に対してその応分の負担を労働者に求償できるが・・・

  まず条文を確認したいと思います。民法715条は「労働者の事業の執行につき第3者に加えた損害について、使用者がその賠償をする責任がある」と定めています。これを「使用者責任」といっています。例えば、運送業者の従業員が交通事故を起こした場合は、一義的にはその責任は労働者にあり被害者に(=第3者)に賠償しなければならないのはその労働者なんだけれども、「事業の執行について」の事故なら、この民法715条の規定により、使用者もその賠償責任があるといっています。
 
 そして同条3項においては、使用者が現実に相手方(=第3者)に損害を賠償した場合は、その損害を生じさせた労働者へ「応分」の損害賠償の負担を求めることができるという規定(=労働者への求償)があります。しかしながら、この賠償額の全部を労働者に求償できるかについては、労使間の資力の格差、そして使用者は労働者を雇用し経済的利益を得ていることを踏まえ、こういったリスクを使用者は当然負うべくだとする考え方(これを「報償責任の法理」と言います。)に立って、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる範囲でしか労働者には求償できないとされています。具体的には、こういった労働契約の特質を踏まえ「使用者は、その事業の性格、規模、施設の状況、被用者(=労働者)の業務の内容、労働条件、勤務態度、加害行為の態様、加害行為の予防もしくは損失の分散についての使用者の配慮の程度その他の諸般の事情に照らして」その労働者の求償の範囲を考えるべきだとしています。(茨石事件 最高裁昭和51年7月8日判決) 過去の裁判例では、労働者に故意または重過失があった場合のみ、損害額の4分の1や2分の1の限度で認められているようです。

 ここまでは、条文どおりの解釈だと思います。そこで、福山通運事件では、仕事中、労働者が第3者に加えた損害について、先に労働者が自ら全額を第3者に賠償した場合に、その負担を使用者に求めたものです。民法715条では、使用者が損害を賠償してその応分の負担を労働者に求めるものですが、この事件は、反対に労働者の方が賠償全額を支払った例で使用者に応分の負担を求めたものです。こういった「逆求償」(使用者からでなく労働者からの求償と意味で「逆求償」)は、明確な規定も判例もなく、学説上も否定的な見解があったのです。

 具体的な事件内容としては、トラック運転手をしていた労働者が、業務中に死亡交通事故を起こして、遺族にたいして1552万円の損害賠償をしたのちに、同額の支払いを使用者に求めたものです。使用者は事業に使用する車両全部について自動車保険契約を締結していないとの事情あり、労働者の方で賠償したという経緯もあったようです。一審では労使の責任割合を1:3として請求を一部認めたものの、控訴審では本来の賠償責任者は労働者であるとして、その労働者の請求を棄却しています。これでは労働者一人に賠償責任を負わせることになります。これに対し、最高裁は、715条の趣旨からすれば、使用者は第3者に対する損害賠償だけでなく、その労働者との関係でも損害を応分負担する場合があるとして、使用者・労働者のどちらかが先に賠償したかによって、会社の負担が異なるのは(=使用者が先に損害賠償すれば応分の労働者への負担請求、一方労働者が先に損害賠償すれば労働者は使用者へ負担請求できないとの考え)相当ではないとしました。すなわち、先に労働者が被害者遺族に損害賠償したからといっても、使用者は労働者に応分の損害賠償額を負うべきだとしたのです。
 
 したがって、大阪高裁判決を破棄して、損害負担額の算定のために同高裁に差し戻したものです。損害を自ら賠償した労働者は、上記茨石事件・最高裁51年7月8日判決の示した考慮要件(求償の具体的範囲)に照らして「損害の公平な分担という見地から相当と認められる額について、使用者に求償することができる」としたのです。
 なお、この最高裁判決においての補足意見として、労働者と使用者の負担割合について、労働者は自然人・会社はリスク分散のたくさんの選択肢を有することなどから、労働者の損害賠償の負担割合が小さい又はゼロであることもあり得るとしています。
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