幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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阿川佐和子さん 「サワコの朝 加山雄三さん」 ”好きなことを本気でのめり込む”

2016-07-30 08:31:38 | 生き方/考え方
79歳、絵画、陶芸も。多趣味。若大将シリーズ。日本中の若者があこがれた。「君といつまでも」が350万枚の大ヒット。
1曲目。涙を流した曲。小学校5年生に聞いたクラシック。音楽の素晴らしさを知った。音楽の背景にあったすごさに気づいた。「ピアノ協奏曲第5番変ホ長調皇帝」
主旋律が大好き。いがぐりの小学生が泣いた?父上原謙は男前。でも演技は下手。マジに反発を覚えたきっかけがあった。ある晩、父が帰って来た時にお帰り!と言ったら、ぶん殴られた。おまえはセメントを黙ってつかっただろうとた。それで悔しさのあまり家出した。海岸に出た。おふくろが声をかけて、「そこにいるのは分かっている。お父さんが悪い。あんたも悪い。でも謝れば、あんたが勝だよ」。それで帰って「ごめん」と謝った。父は「わかれば良い」と。家に父がボクシングやっていたのでグローブがあった。それでえボクシングを練習した。仕返しのチャンスを狙っていた。ある時、父とジャブをする機会があり、父が本気で力を出して良いと言ったので、それで思い切りパンチを出したら、父が吹っ飛び鼻血を出して顔が腫れた。仕返しができたと思った。

俳優を目指した意外な理由。卒業するにはサラリーマンしようと思っていた。船を操縦したかった。しかしそうするには水産の学校に行って学ばなければならない。大学一年からバンドを組んでいた。その友だちが「大学時代、音楽とスポーツしかしていないない。そんなお前がやるには、暖簾(父親が上原謙)を使うしかない。金儲けして、自分で船を買えばよい」と言った。
それで俳優になろうと思い父に俳優になりたいと言った。父は「反対。反対。これほどプライバシーがない仕事はない」と。3回頼んだ。そしたら自分で蒔いた種は自分で刈り取る覚悟をせよ」と。父の後押しで芸能界デビュー。父が頼んでくれた。それで行ったら記者会見で、加賀百万石の加。富士山の山、英雄の雄、小林一三の三と紹介された。それが翌日の新聞に大きく取り上げられた。この名前はおばあちゃんが名前を付ける人から貰って来た。

若大将シリーズが計画されていた。青大将に出逢ったのが良かった。田中邦衛さんい助けられた。若大将がハマリ役すぎた。その映画の中で歌った曲がヒットした。バンドをやっていたので自分で曲を作った。それを映画の中で使った。その歌を途中から星由里子と一緒に歌うことになったが、そのために作ったのではないと不機嫌に歌った。当時28歳。不自然すぎる過少シーン。小堺さんから「どうして機嫌わるかったのですか?」と尋ねられたことがある。

黒澤監督。心の底を読まれる。「お前は白紙でよい。セリフは思えば出てくる。思えばよい」
本読みから着物着て。本物の刀を置いてやった。その刀で実際に切ったらすごく切れた。小道具さんが飛んで来て、刃がこぼれると注意されたら、黒澤監督が小道具さんの頭を押さえ、「よけいなことをするなそれでよい」と言った。
癌で死んで逝く。何もすることがなかったので見えないところで知恵の輪で遊んでいた。黒澤監督に「加山気が散るからよせ」と言われた。何故わかったのだろうと思った。そういう感覚を持っている人がいて、そういう世界で続けていこうと思った。趣味の域を超えた趣味の世界。料理もやる。好きなことをやること。エッグベネット作るとか。のめり込み型。船を買った。航海中の食事を作るうちに、「美味しい」と言われ、だったらもっと美味しく作ろうと思ってやっている内に上手になった。

これからの夢は船を造ること。全てエコ。図面も書いた。自分で図面がかけるのですか(サワコさん)。縦型ソーラーパネル。東京オリンピックまでには。どんどん素材が開発されているので待っている。好きなことだけやっていれば長生きできるねと黒柳徹子さんと話している。

二曲目。衝撃を受けた最新アイドル曲。ベビーメタル。踊りながら歌う。リズムも良い。「ギミチョコ」。これを聴いた時スゲー。ピッチも正確。

苦手なこと。俳優さんかな。もう19年やっていない。ジャッキー・チェーンの番組に出て欲しいと言われ出た。台本はない。台本はジャッキー・チェーンの頭の中にある。あれほどつまらないことはなかった。それからもうやらないと決めた。

感想
日本橋の高島屋で加山雄三さんの絵画展を見たことがあります。
本気でやればここまでできたのだといま改めて思いました。
どれだけ本気でのめり込んでやっているか。

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