小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

右の頬を打たれれば、左の頬をも差し出せ

2016-08-31 15:38:46 | 考察文
「右の頬を打たれれば、左の頬をも差し出せ」

(マタイ伝5章39節)

これは、イエス・キリストの、教えである。

僕は、両親が、(一応、クリスチャン)、だったため、物心つくころから、聖書の教えは、聞かされて知っていた。

子供の頃は、この教えを、素直に信じることが出来た。

非常に、理想の高い、教えだな、と、思った。

「汝の敵を愛し、汝を憎む者のために祈れ」

と、まで、イエス・キリストは、説いているので、キリストは、非常に理想の高い、人間だと思っていた。

しかし、最近、(というか、大人になってから)、この意味が、正確に、わからなくなった。

「汝の敵を愛し、汝を憎む者のために祈れ」

という教えは、理解できる。(現実に実行するのは、まず無理だと思うが)

しかし。

「右の頬を打たれれば、左の頬をも差し出せ」

というは、どういう意味なのだろう。わからない。

「右の頬を打たれても、暴力で、仕返しせず、我慢しなさい」

というのなら、わかるが。

なぜ、右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出さなくては、ならないのだろう?

これは、意味がわからない。

今の僕の解釈では、旧約の教え、に対する反動、から、高い理想を持ちなさい、と、イエス・キリストは、訴えたかったのではないか、と思う。

イエス・キリストに、マゾヒストの傾向があっかと、いえば、なかった、としか、思えない。

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