1、美しさへの偏愛
女は美しいものが好きと思われているので、少女・女性の読むマンガが美しくあるのは当然である。「少女マンガ」に対する偏見として出てくる言葉は、「顔の半分が目、目の中に星、日本人なのに金髪、やたら細長い脚、背景の花」など。これらは誇張であるが嘘ではない。いまどきのマンガではかつてほど目が大きくはないが、それでも現実よりは大きい。長い脚も細い体もリアルではない。背景の花は、雰囲気つくりのためであり、または、「この人物は美人」というサインにもなる。少女マンガでは、登場人物が読者の目にきれいに見えることと、作中でそういう設定になっているかが必ずしも一致せず、少女マンガ標準は現実よりも美しい。だから、上記のような記号が必要なのである。
美しさは醜さよりも単調なものなので、顔の描き分けの苦手なことは少女マンガ全般の弱点である。だから、人物の区別のためにも髪の毛が重要な役を果たす。髪の毛を美しく描くことが大切なのは、シャンプーのCM並と言える。髪は感情表現にも使われるが、髪形や色で人物を区別することは欠かせない。日本のマンガはほとんど白黒だが、日本人だからといって全員髪を黒くしなければならないわけではない。金髪のように描かれていても、染めているとすぐに思ってはならないのだ。誤解されるような西洋コンプレックスではなく、まずは、人物の区別が目的である。少女マンガの美意識は、西洋と日本と混ぜ合わせて美化を加えたものである。
美への偏向は、歴史ものにおいて顕著である。少なからぬ少女マンガは歴史的素材を扱っているが、その選び方は、史的意義や業績、モラルではない。重要なのは、人生が(悲)劇的であること、周囲に個性的な人々がいること、そして容姿である。だから、チェーザレ・ボルジアやサン・ジュスト、多くの人々を死に追いやった悪役でもよく登場するし、奇矯な行動でハタ迷惑だったルートヴィヒⅡ世やシシィも人気があるのだ。したがって、ナチ時代が時々取り上げられても、決してヒトラーが主人公にならないことは容易に理解できる。
極端なことに、史実では美しくないはずの人物までもしばしば美化される。好例はロレンツォ・ディ・メディチ。このフィレンツェの豪腕の権力者は、少なくとも少女マンガに3度出ているが、「美しくない」とセリフでのみ言っていたり、設定自体が美男に変えられていたり、本当にブオトコな絵で描かれてはいないのだ。
女は美しいものが好きと思われているので、少女・女性の読むマンガが美しくあるのは当然である。「少女マンガ」に対する偏見として出てくる言葉は、「顔の半分が目、目の中に星、日本人なのに金髪、やたら細長い脚、背景の花」など。これらは誇張であるが嘘ではない。いまどきのマンガではかつてほど目が大きくはないが、それでも現実よりは大きい。長い脚も細い体もリアルではない。背景の花は、雰囲気つくりのためであり、または、「この人物は美人」というサインにもなる。少女マンガでは、登場人物が読者の目にきれいに見えることと、作中でそういう設定になっているかが必ずしも一致せず、少女マンガ標準は現実よりも美しい。だから、上記のような記号が必要なのである。
美しさは醜さよりも単調なものなので、顔の描き分けの苦手なことは少女マンガ全般の弱点である。だから、人物の区別のためにも髪の毛が重要な役を果たす。髪の毛を美しく描くことが大切なのは、シャンプーのCM並と言える。髪は感情表現にも使われるが、髪形や色で人物を区別することは欠かせない。日本のマンガはほとんど白黒だが、日本人だからといって全員髪を黒くしなければならないわけではない。金髪のように描かれていても、染めているとすぐに思ってはならないのだ。誤解されるような西洋コンプレックスではなく、まずは、人物の区別が目的である。少女マンガの美意識は、西洋と日本と混ぜ合わせて美化を加えたものである。
美への偏向は、歴史ものにおいて顕著である。少なからぬ少女マンガは歴史的素材を扱っているが、その選び方は、史的意義や業績、モラルではない。重要なのは、人生が(悲)劇的であること、周囲に個性的な人々がいること、そして容姿である。だから、チェーザレ・ボルジアやサン・ジュスト、多くの人々を死に追いやった悪役でもよく登場するし、奇矯な行動でハタ迷惑だったルートヴィヒⅡ世やシシィも人気があるのだ。したがって、ナチ時代が時々取り上げられても、決してヒトラーが主人公にならないことは容易に理解できる。
極端なことに、史実では美しくないはずの人物までもしばしば美化される。好例はロレンツォ・ディ・メディチ。このフィレンツェの豪腕の権力者は、少なくとも少女マンガに3度出ているが、「美しくない」とセリフでのみ言っていたり、設定自体が美男に変えられていたり、本当にブオトコな絵で描かれてはいないのだ。
>まずは、人物の区別が目的である。少女マンガの美意識は、
>西洋と日本と混ぜ合わせて美化を加えたものである。
セーラームーンに限って言えば、間違いなく西洋コンプレックスでしょう?それ以前の「コードネームはセーラーV」の主人公の美奈子もそうだけど、カラーで描く時は金髪に青い目である事がはっきりとわかるし。大体、ちびうさが大人にさせられた時の名称が、”ブラックレディ”なんて設定を考えるぐらいだから、原作者の武内直子女史も西洋崇拝で育った世代だと思う。
武内さんの世代だと、すでに日本人が西洋に対して「劣等感」までは持っていないけど、見てくれに関しては、かっこいい、ロマンチック、という感覚で受け止めていたろうと思います。それに『セーラームーン」の場合、設定その他にギリシア神話の名称が使ってあることからしても、ヒロインが金髪碧眼もどきになることはさほどとっぴなことではないです。
あの話が「ゴレンジャー女の子版」であることを考えるならば各キャラのカラーの区別があって当然で、主人公格で、かつ、「月」や「金星」であるうさぎと美奈子が黄色の髪に描かれることは自然な発想。では目の色も黒よりも青であるほうが絵としてしっくりきます。ヒロイン=金髪という発想は西洋文化の伝統に違いないですが。
キャラクターの区別を色でするならコスチュームだけで充分でしょう?「月」だから金髪である必要もありませんね。日本には「竹取物語」の前例もありますし。
「セーラームーン」で違和感があったのが、日本人の主体性を放棄したキャラクターデザインの少女マンガで、女性の自立や強さを謳っていたところです。日本人である自らの外観を否定している者が女性の強さ云々をうったえるのは無理ではないかと思いました。
という2004年の映画がありまして…