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罪に死に、キリストに生きる

2023-05-14 13:18:44 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ6章1~11節 

 主イエスを信じ信仰告白をされてバプテスマを受けられた方は、ご自分の信仰告白やバプテスマの時の事を憶えておられますでしょうか。
私は高校1年生のイースター礼拝の時に、主イエスを信じる信仰告白し、バプテスマを受けました。今、その時に言い表した内容についてはほとんど覚えてはいませんが。その文章はある意味未熟なものであったと思います。とは言え、その時の高校生としてわかっただけのイエスさまの愛と救いを受けとり、主を信じて生きる信仰告白を表してバプテスマを受けたことに後悔していません。なぜなら、その時に主イエスを信じて、バプテスマを受けていなかったら、恐らく教会から離れ、神に背負向けた生活に戻っていたでしょう。ましてやこうしてキリスト者として生きることもなかっただろうと思うからです。その時神様を信じたありのままの状態で、バプテスマを受けてよかったと本心からそう思います。バプテスマを受けた時は、人間でいえば赤ちゃんのような状態で、実はそこからがキリスト者としてのほんとうのスタートです。これからキリスト者として生きて行こうという決意とともに、様々な試みとも言える出来事が起こってまいります。さて、そこでどう生きるか。いわば聖書の言葉との格闘が始まります。人は出会いや体験によって人生が大きく変わっていく事があります。バプテスマを受けたという体験は、深く脳裏に刻まれその後の人生での様々な苦難や困難の出来事の最中にも啓示を与えます。

 さて、本日の6章のはじめでパウロは、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と記していますが。それは、キリスト者になった人の中には、ユダヤの律法主義や割礼をはじめとした儀礼を守ることに縛られ、自分の誤った正しさを基準にして人を裁き非難していた人たちがいたのです。そればかりユダヤ人以外のキリスト者たちに割礼や儀礼を強要していたのです。彼らは神の恵みによる救いを信仰によって受け取る事ができていなかったのです。                                                        
 その一方で、救いの主を信じ受け入れてバプテスマに与った異邦人たちの中には、自分たちはもう自由なんだから何をしてもよいのだと身勝手で放縦な生活をしたり、勧めたりする人たちもいたのです。                                                                パウロはこの両者に対して、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお罪の中に生きることができるでしょう」(1-2)と忠告しているのです。                                             それは人ごとではありません。バプテスマを受けながらも、「このようにあらねばならない」とか。「このようにすべき」いう考えに捕らわれていくとするなら、そこには平安や解放ではなく、怒りや裁きの感情が起こってくるでしょう。                                           
 一方、バプテスマを受けたのだからもう自分は解放された、自由だと、教会も礼拝も主の交わりなど必要ない。わずらわしい。関係がないと、自分好みの説教者のメッセージにチャンネルを合せて視聴する人もおられます。それが悪いとはいいませんが、もったいないです。バプテスマを受けた真の幸いは、キリストの体なる教会につながること、又、同信の友との主にある交わり、祈り支え合い、とりなしをとおして恵みがゆたかに与えられるからです。

以前の祈祷会でのことですが。イエスさまが十字架にかけられた時に、同じように十字架にかけられた犯罪人がいて、イエスさまがその人の言葉を聞かれて「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたという記事を読んでいた時でした。ある方が、「その人は死の直前だったけれど楽園にいると言われてラッキーな人だね。けれども、天国に行ってみると周りは知らない人ばかりだったかも。それだったら、やっぱりバプテスマもできれば早い時期に受け入れるのであればそっちの方がいいでしょう。早ければ早いだけ天国で逢える仲間と地上で出会う機会が増え、その人が天国に行った時、地上の教会でいっぱい信仰を共にした人たちがそこにいるかもしれないから」とおっしゃっていました。なるほどなぁと思いましたが。そのように、バプテスマはキリストと私との一対一の関係ではありますが。そこにはキリストの体なる教会をとおして同信の友ともつながっているゆたかさがあります。人間です。時に様々な感情が働くこともあるでしょう。けれども、礼拝を共に捧げ、賛美を共にするだけであったとしても、そこに主が共におられ、聖霊がお働きくださっています。主にあって共に交流しつながっていく中で、キリストと共に生きる信仰が練られ立てあげられてゆくのです。
 ヨハネ15章に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と記されたそのゆたかさにあずかっていきたい者です。
 バプテスマを受けたから救われるのではありません。神の恵みによって主イエスを救い主と信じ、救に与り続けながら生きる。救いに与った互いの証の中に生きておられるキリストと共に生きる。そのことを繰り返し繰り返し確認しつつ、来るべき日を共に待ち望むのです。
 さて、パウロは先の2節で「罪に対して死んだわたしたち」と述べています。一般的に罪と申しますと、この社会には日々新聞テレビのニュースで悲しい事件が報じられ、法に触れる犯罪があふれています。では、そういった表に出る事だけが罪深いかと言いますと、たとえ法に触れなくても、表に出なくても高慢や妬む思いや、又自分を守ろうと排他的になって人をも傷つけ悲しませてしまうのも私たち人間であります。それも罪ということができます。それらはみな複数形の罪であります。が、この6章で記されている罪は、実は単数形の罪なのです。それは神と人との関係性が損なわれている根本的な罪だということです。実にそのところから様々な罪が生じているのです。                                                      

人類の初めの人、アダムが人として創造された当初は、「それは極めてよかった」と創造主が感嘆の言葉で表現されたように、神と人との関係性は最善であり、人は罪を知らない存在でありました。けれども、「決して食べてはならない。食べると死んでしまう」とおっしゃられた神の忠告と、その関係性をないがしろにし、その実を食べてしまいます。これによってアダムは神と共に住むエデンの園にもはや居られず、様々な罪と、死とにおびえる存在となるのです。
 けれども、神は愛なるお方です。その人の罪の問題、その大本である神と人との破たんした関係性が回復することを願われた神は、遂に御独り子、イエス・キリストをこの世界にお遣わしになられます。このイエス・キリストが十字架におかかりになり、成し遂げられた罪の贖いによって、すべての人は救いに与る道が拓かれているのです。その門をくぐり歩む人生に、神は和解の平安と喜びの日々を与えて下さるのです。
 
今日の個所で肝心なことは、一人の人アダムによって全人類の「罪」が明らかになったように、一人の神の御子、イエス・キリストによって全人類の「救い」が実現した、という事です。それはイエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、大本の罪の問題を解決してくださったということです。言い換えますなら、イエス・キリストをとおしてなされた神との和解の福音に生きる人の人生において、罪がもはや支配することはできない、ということです。キリストの救いを信じてバプテスマを受けた人は、「罪に対して死んだ」と言っているのです。そのわたしたちが罪に対して死んだというのは、イエス・キリストが十字架につけられた、歴史上の唯一度限りの決定的なときであるのです。ここでキリストが、人のもつ根本的な罪(単数の罪)に対して、すべての人間の罪の解決のために死なれたということです。

パウロはまた6節で、「わたしたちの古い自分(アダムの罪性)がキリストと共に十字架につけられた」とも述べています。さっと素通りしてしまいそうですが。これは大変なことを言っているのです。 私にとってはあの高校一年生のイースター礼拝で、主イエスを救い主と信じる告白をし、バプテスマを受けたそのとき、この罪ある私は4節にあるとおり、「キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなった」。しかしそれは単にキリストだけが十字架にかかって「私のために死なれ葬られた」ということではなく、そのとき私が十字架のキリストと共に葬られ、死にあずかるものなった。「罪に対して死んだ」者とされたということであります。                            
 この真実を私が改めてわきまえ知るようになったのは、聖霊の導きとしか言えませんが、バプテスマを受けてから4年後の時でした。その時、本日の5-6節の言葉が私の深いところに響いてきたのです。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」ここに「わたしたちがキリストと一体となって」とあります一体というのは、「結ばれる」とか、「継ぎ合わされる」という意味です。それは、キリストのうちに私がいる。又私のうちにキリストがおられる、ということです。わたしたちは「キリストと共に罪に死に、復活の命にあやかるものとされる」というのです。あやかるを辞書で引くと、「感化されて似る。特に幸せな人に似て自分も幸福を得る」とあります。キリストに結ばれた人は慕ってやまないキリストに似るものとされていく、ということでありましょう。
 世の常識で考えれば、あのゴルゴダの丘で、唯一度限りキリストが十字架につけられた時から2000年の時を経、地理的、文化的に大きな隔たりがあるこの私たちであります。しかし、「キリストが私たちと共に罪に死に、そのキリストと一体とされて生きる」という出来事は、この2000年間ずっと起こり続けている事実なのであります。その証拠に、このキリストについて書かれた聖書は世界のベストセラーとして今日まで世界中の言語に翻訳され、そこに救いの事実があるからです。
8-9節「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。」何という力強い言葉でしょうか。
この手紙を書いているパウロにも、苦難や死が身近なものとして迫っていました。にもかかわらず、パウロにはキリストがいつも共におられるという確信があったのです。そのキリストと共に生きる希望によって、福音の使者として生き、書簡を通して教会と信徒たちを愛し、祈り、励まし続けたのです。
最後に11節のパウロの言葉を原文に近い訳でお読みします。                     「このように、あなたがたも自分は罪に対して歴史上唯一度限りの決定的なときにおいて死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」水と霊によって新たにされて、「罪に死に、キリストと共に生きる」。
 神の御前に取り戻された私たちの日々の歩みが、キリストに倣う者とされていきますよう祈り、求めてまいりましょう。
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