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イエス・キリスト誕生の予告

2017-12-10 13:23:34 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ1章26~38節 アドベントⅡ

アドベント第二週の礼拝を共に主にお捧げできる恵みを感謝いたします。
招詞に読まれたヨハネ3章「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。・・・・はっきり言っておく、だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」とございます。
本日、Nさんの信仰告白とバプテスマが主の恵みの下で行なわれました。この地上に生まれた誕生と共に、今日霊による新生、第二の誕生日をお迎えになられたこのうえない記念の日、私どもも喜びを共にでき、たいへん嬉しい限りです。

今日は先ほど読んで戴いたルカ1章26節から38節は「イエス・キリスト誕生の予告」の記事であります。いわゆる受胎告知ですが。本日はここから、マリアの信仰について聞いていきたいと思います。

イエス・キリスト誕生の予告は、このルカ福音書ではお読みになったとおりマリアにスポットライトがあてられています。一方、マタイ福音書ではマリアのいいなづけのヨセフがこの出来事をどのように受けていったか、を読み取ることができます。
私が小学生の時に通っていた教会では、毎年このアドベントの時期にクリスマスページェント(降誕劇)の練習をして、クリスマス礼拝の本番に臨んでいたことが思い起こされます。
この場面で、天使が「恵まれた女よ、おめでとう」とマリアに受胎告知いたしますと、マリアが間髪入れずに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、まあそんなふうに即答するのですけれども。
でもまあマリアがおかれた状況等を考えますと、そんなに「はい、ありがたいことです、どうぞ」などと言えるものではなかったでしょう。
マリアが天使の言葉を受け入れていくには相当な沈黙の時間といいますか、恐れと不安を抱え悩んでいた時間があったのではないではないかと、そう思えるのです。
今日はそんなマリアが、神のご計画を受けとめていく過程に思いを馳せながら、御言葉に聴いていきたいと思います。

マリアは婚約者のヨセフと結婚をし、平凡ですが幸せな家庭を築くはずでした。
ところが、そこに天使が現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との言葉を聞くのです。マリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ、口語訳では「思い巡らした」とあります。
まあいきなり「おめでとう、恵まれた方」と言われたら、そりゃあだれでも何のこと
か、あのこと、このこと頭を駆けめぐるんじゃないでしょうか。
さらに天使はたたみかけるように、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みを戴いた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」とお告げになります。
マリアはこの天使のお告げを一体どのように聞いたことでしょうか。一方的に語られる神のご計画です。
それもまだ結婚もしていない自分が身ごもって男の子を産むというのです。
マリアはヨセフと婚約していました。ヨセフが知らないうちに胎に子を宿すということになると、婚約者のヨセフとの信頼が崩れ去るでしょう。
さらに当時のユダヤ社会では、女性がその責めを負い、姦淫罪で石打ちの刑に処せられるというマリアの身に危険が及ぶことであります。又婚約者のヨセフとの信頼関係が崩れ去る大きな危機になりかねません。どうヨセフに申し開きができるのかという危険さえありました。そういう危機感の中で、マリアはどうヨセフに申し開きができるのかという恐れと不安でいっぱいになったことでしょう。

マリアは天使の言葉に、自分の預り知らぬこの出来事ゆえに、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えます。
彼女は「そんなことはありえない」と、その正しさを精一杯訴えるほかなかったんですね。

しかし、その同じマリアが38節では、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、そのように答えるのです。マリアはどうして一転して、それを受け入れることができたのでしょうか。

さて、ここでもう一人の登場人物(登場人物というのも何ですが・・・)天使にスポットをあててみましょう。
天使は「神に仕え、神のみ旨を伝えたり、人間を守護し導く存在」と言われています。
ルカ福音書によれば、マリアに主のお告げを伝えたのは大天使ガブリエルであったとあります。
先ほどお話ししたクリスマスのぺ―ジェント(降誕劇)の中で、その舞台回しをしていく役割、話を進めていく役割は、よくよく考えますとみな天使たちなのです。
マリアに天使が現れて告げる。羊飼いに天使が現れて告げる。博士たちにやはり天使が現れて告げる。その前後にはザカリアに、またヨセフにも天使が現れます。これはクリスマスの物語の一つの特徴であります。
クリスマスの出来事は天使を抜きに語ることができないのです。
今日の場面では、その天使のお告げに驚き戸惑うマリアでした。神のご計画と我が身に起こることを受け入れられず戸惑う彼女が、これも又、天使の励ましの言葉によって変えられるのであります。
天使はまず、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と言っていますが。これは大いなる励ましであります。「あなた独りで頑張れ」と言うのではなく、「神の聖なる霊。偉大なる神の力に包まれる」というのですから。そうする中で「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。さらに天使は親類のエリサベトの話を持ち出し、先週読みましたように、大変高齢である彼らに不思議に子が与えられたことを伝えて、こう言うのです。「神にできないことは何一つない」。

人間、自分独りではないということは本当に安心しますよね。神さまのご計画を受け入れていくチャレンジを親類で近しい高齢のエリサベトが勇敢にも受け入れていった、というこの事実はどんなにマリアの胸を熱くしたでしょうか。
又、「神にできないことは何一つない」という言葉が、どんなにマリアの心を後押ししたことでしょうか。

これらの天使の言葉を聞くことによって、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言うことができたのです。ちなみに、この「はしため」という言葉はあまりよい訳ではありません。もともとギリシャ語原語のデユーロス「奴隷」「僕」という言葉なのです。マリアは「わたしは神さまにとらえられた者、神さまに無条件に仰せつかったことを成す外ない者です。仰せつかった通りになりますように」と言っているんですね。まあ10代半ばの女性がこのような信仰の言葉を言い得たというのは驚くばかりですが。
そうしてマリアは、「主があなたと共におられる」。その約束にかけて生きようとする決断をしたのです。
誰にも頼れない。親にも、いいなづけのヨセフさえ頼れないその中で、唯一つ確かな支え。それは天使の伝えた「神にできないことは何一つない」という御言葉への信頼です。まさに目に見える保証によらず、神の約束にすべてをかけて生きる決断をするマリア。

高齢のエリサベトが(バプテスマのヨハネ)を宿すというのも、このおとめマリアが救い主イエス・キリストを宿すというのも、神のご計画は人の思いを遥かに超えており、それは人の計画とは大きく異なるものであります。
差し出された神のご計画が、自分の計画や願望と異なった時、マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とは素直に言えないのが私たちではないでしょうか。
私たちは計算して、これくらいなら出来るだろうとか、無理だろうとか判断します。そうして計画して人生のプランを立てるのです。
けれども、そうして立てた計画に何か起こって、自分の思い描いていたものと大きく違っていこうとする時。私たちはきっと、大きく動揺して「どうして」とか「ありえない」
とかいって、すんなり受け入れられることの方がまれだと思うんですよね。
けれどもそういう中で、「主が共におられる」との約束を信じ望む者は、そこで主の言葉にかけて生きていくかどうかを迫られます。そうして「わたしは主にとらえられた者」「お言葉どおり、この身になりますように」と、これは積極的な意味で、人生を受け入れ、神の御計画に与る者に変えられていくんですね。

天使はマリアに言いました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。考えてもみなかったような出来事の中でこそ、私たちはむしろ自分の力ではない「聖霊の力」「いと高き方の力」に包まれ、導かれます。自分には出来なかったような勇気や知恵、愛情や忍耐強さが与えられていきます。主の御心を知り、受け入れることによって私は変わる。そうだからクリスチャンの人生には希望があるのです。 

そのような信仰の人生、信仰の歩み。それは決して孤独な独りぼっちの営みではありません。私の苦闘の中に、その悶々とした只中に、主は天使を送り、御言葉を与え、聖霊の臨在と、信頼への招きを与えてくださいます。教会や同信との繋がりを通して、又共に集う礼拝や祈祷会を通して、それは働かれるでありましょう。
主は何らかのサインを私たちに絶えず送り続けてくださいます。信仰に基づく柔らかな感性でそれをキャッチできる人は幸いです。

マリアは天使の言葉を心に留めて戸惑い、何度も思い巡らし、葛藤をする中で、マリア
自身の計画や思いを神さまに明け渡していくのです。そうすることによって彼女は「主の御計画」をその身に引き受けて生きる者に変えられるのです。
アドベント、待降節とは、まさにこのような神のご計画に期待していくときです。、聖霊の力、主の力に信頼して生きる備えをなす時なのです。
人の計画に遙かにまさる神の御計画に望みをおいて聖霊の力、主の力に満たされるときなのです。

今日のこの箇所を読んで準備していた時に、先日小倉に帰省する飛行機内で読みました「聖なるあきらめ」(物事に執着しない「諦め」と、物事を明らかにする「明らめ」が、
人を成熟させる、というカトリックのシスターでもある鈴木秀子さんの著書の中で「ある兵士の祈り(無名兵士の祈り)」(訳:G・グリフィン神父)が紹介されていて、とっても心に響いてきましたので、それをみなさまにもお分かちしたいと思います。


「ある無名兵士の祈り」

大きなことを成し遂げるために力が欲しいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことが出来るように健康を求めたのに
より良いことが出来るようにと病弱を与えられた
幸せになろうと富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世に人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞き届けられた
神の意に沿わぬものであるにもかかわらず
心の中で言い表せないものは全て叶えられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

原詞は南北戦争時代に身体障害を伴う回復不能な病となった南軍無名兵士が残したものと言われています。この詩から、自分が計画していた人生が大きく変わってしまう経験をなさったのでしょう。又、期待していたいたものとは真逆の事どもが起こっていったのでしょう。けれどもこの方は、そのような中で、単なる諦めとは全く違う、それは希望とも呼べるような信仰の詩を綴っているんですね。

このアドベントの日々が、私たちにとりましても「聖霊の力、神の力に包まれ」、主の御心を知り、行なう者となれますよう祈り期待しつつ、それぞれの場へ遣わされてまいりましょう。
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