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わたしたちの願いは聞き入れられている

2017-12-03 13:45:07 | メッセージ
宣教 ルカ1章1-25節 アドベントⅠ

本日からクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)に入りました。
12月はルカ福音書の1章、2章を丁寧に読みながら、御言葉に聞いていきます。
本日の箇所は、イエス・キリストの誕生に先駆け、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を施した「バプテスマのヨハネ」の誕生についての記事であります。
その前に、この福音書の序文、一番はじまりのところから読みました。

「序文に映えるメッセージ」
4つの福音書の序文、初めの言葉はそれぞれの福音書の特長や目的がよく表われています。例えば、マタイ福音書の序文には、「イエス・キリストの系図」が記されています。ここには救い主イエスは、信仰の父祖であるアブラハムの子孫であり、イスラエルの民を守り治めたダビデ王の子孫としてお生まれになった。神の子であり王である救い主、メシアとしてイエス・キリストはお生まれになった、ということがこの序文から読み取れます。
又、マルコ福音書の場合は、イエス・キリストの誕生の記事はありませんが、その序文には「神の子イエス・キリストの福音の初め」となっております。それは、神の子イエス・キリストがそのご生涯を通して、「神の国」とその「福音」についてお示しになられたということを、この序文から読み取ることができます。
では、このルカ福音書の序文はどうなっているかといいますと、ルカは「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が私たちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと多くの人々が既に手を着けています」とあります。

この「わたしたちの間で実現した事柄」というのは、イエス・キリストの十字架の贖いの業と復活の希望であり、聖霊の御業です。その実現した業に、それはまさに福音という喜びの知らせに、今日私たちも与っているわけであります。

私が今日ここを読む時、特にこの「わたしたちの間で」という言葉が心に留まりました。
同じルカ福音書の17章でファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」とイエスさまに尋ねた時、イエスさまはこう言われています。
「神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。いうならば、「神の国はあなたがたの間に実現しているのだ」ということですね。
イエスさまは続けて、「神の国は見える形で来ない」とおっしゃっていますが。それはファリサイ派の人たちが多くの民衆が見える形での解放や統治を期待し、それを先導するような指導者、王となるようなヒーロー的な人物を待ち望んでいたからです。そういう救済者メシアが出現することを彼らは神の国の到来と結びつけて考えていたのです。
政治的改革、よい社会革命、それを先導するような人物を求めていくのは人の常ですが。
イエスさまは「神の国はそういう見える形の理想世界とは違う」「あんな社会がいい、こんな生活がいいというようなものではない」とおっしゃるんですね。

①「隠れた神の御計画と御業」
前置きが長くなりましたが、では「神の国」は如何にして、わたしたちの間で実現していくのか、今日のエピソードから聞いていきたいと思います。
5節から登場する、神にお仕えしていた祭司ザカリヤも、又その妻エリサベトも由緒あるアロン家の娘として育ち、二人とも「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と記されています。
ユダヤ人として模範的な生き方を彼らはしていたのでしょう。彼らには子供がいませんでした。又、すでに年をとっていたということです。

今、現代は本当にそれぞれの生き方、ライフスタイルが尊重されるようになり、それにとやかく言う方が世間知らずと言われるほどですが。この当時の時代のことですから、ザカリヤもエリサベトも無神経な言葉に随分と悔しく悲しい思いをしてきたんじゃないでしょうか。
又、神の民としての祝福を継承していくことを大変重んずるユダヤの社会でありましたから、人からならぬ祈りがそこにあったでしょう。「神よ、どうして顧みて下さらないのか?」という思いもあったのではないでしょうか。しかし、彼らも年をとり、もはやその期待すら薄れていたのかも知れません。
そうしたある時、ザカリヤが「主の聖所に入って香をたく」大役のくじを引き当てるのです。これも主の御計画であることが、天使ガブリエルの出現によって明らかになるのであります。
その天使はザカリヤに「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。(ヨハネとは主は恵み深いという意味)」その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
確かにその後ヨハネの誕生は、人々に神に対する畏れと期待を呼び覚ましました。
「この子は将来どんな人になるのだろう」と人々は言ったとありますが。ヨハネは後に救い主イエスが来られるための道を備える人となって人々に歓迎されるのです。

ザカリヤは天使の言葉に対して、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言うのですが。まあ彼はとても常識のある人だったようです。「自分が望んでいた時期、タイミングとあまりに大きなズレがある。今さらあり得ないし、世間も何というだろうか」といろんなことが頭の中をかけ巡ったのかも知れません。
天使はそのザカリヤに対して、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と宣言します。

ザカリヤは非の打ちどころのない正しい人ではありましたが、もしかしたら彼の心の内に「正しくなければ」「常識的でなければ」といった神の正しさよりも人の考える正しさを優先してしまう思いがあったのかも知れません。しかしだれも彼を笑うことはできません。私たちはなかなか神さまの御心をキャッチする事のできない鈍感な存在です。

聖書は、見えるから、証拠があるから信じ、受け入れるというのは信仰ではないといっています。ここでは天使もそのようにいっています。
信仰とは、ただ神の御言葉をまっすぐに信じ、受けることでしかないのです。
もう何度も礼拝でヘブライ11章1節「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」との御言葉を引用していますが。そのように「まだ目には見えていないが、それを事実として受け取って生きていく」そのところに、「神の御業の確認が日々起こされていくのですね。そのようなワクワクする信仰の歩みを日々続けていきたいですね。

話を戻しますが、天使はザカリヤが「口が利けなくなり・・・話すことができなくなるのは、わたしの言葉を信じなかったからである」と語っています。これは信じなかったがゆえの結果とも言えます。しかしこれも又、後には神の栄光が顕されるための御計画であったとも言えるでしょう。なぜならそこには、「この事の起こる日まで」、つまり「二人に子供が与えられて、その子にヨハネという名がつけられる時まで」という期限がつけられているからです。「この事の起こった日」57節以降、口が利けなかったザカリヤに、エリサベトが「この子に何と名をつけたいか」と手振りで尋ねたら、彼が字を書く板に「この子の名はヨハネ」と書くと、たちまちザカリヤの口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」と記されていますね。
口が利けるようになるまでの期間というのは沈黙の中で先に申しました、彼の中にある自分の思いや常識や価値観と、ただひたすら真っ直ぐ神の言葉に聞いていくこととの葛藤の時であったのでしょう。もし彼の沈黙が守られなかったなら、彼の自我が言葉となって噴出したかも知れません。けれどもその沈黙の時を経てザカリヤは守られたんですね。アーメン。

私たちの疑いや不信は神さまの御計画、御業を止めることなどできません。アーメン。
神さまは信じることができなかったザカリヤに、話すことができない期間を設けることによって、遂にその実現の時まで彼を導かれたのです。「あなたの願いは聞かれた」というお約束がこうして実現するのです。
そしてザカリヤもその主の恵みに与ることにより、自分の正しさではなく、主の正しさに信頼して生きる信仰者として立つことができたのです。それは、「主の御計画とその実現の時まで」主がお導き下さる、という力強いメッセージなのです。

②「私たちの願いは聞き入れられている」
今日はもう一つ、この「あなたの願いは聞き入れられた」という天使が告げた主の御言葉は、ザカリヤ独りの喜びと解放の事柄としてではなく、妻のエリサベトの喜びと解放の事柄につながっていたということであります。
25節にあるとおり、「エリサベトは自分が神から忘れ去られていたわけでは決してなく、主はずっと目を留めていて下さっていたことを知る」のです。又、「主こそ、彼女と人々の間に神の国をもたらして下さるお方であることを知る」のです。さらに58節では、「主がエリサベトを大いに慈しまれたことを聞いた近所の人々や親類は、喜び合った」とあります。解放と和解の福音が脈打っているのです。

主イエスがおっしゃった「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17章21節)との御言葉を彷彿とさせる出来事がここに起こされていくのです。神の恵みと御計画とは「個人」だけに働くのではなく、人と人の関係性の中に神の国は実現されていくんですね。このメッセージを私たちも共に聞いていきたいものです。
きっと今日の宣教題のように「私たちの願いは聞き入れられた」ということを、共に体験し、共に喜びを分かち合う時を主が必ず備え導いて下さると、信じます。
今教会では、病を抱えておられる方が多くおられます。又、しばらく教会の礼拝にお見えになられていない方もおられます。又、それぞれが抱えておられる課題がございます。ご家族や愛する人たちが、そういう状況におられる方もいらっしゃいます。
共に覚え合い、関心を向け、益々主に執り成し、祈っていくことは、主の恵みをさらに豊かに与り、分かち合うことにもなっていくでしょう。
私たちの間にそのような神の国の実現がこれからも益々ゆたかに起こされていきますように。又、忍耐強く愛をもって祈り続けていくことができますように。
今週も主ご自身に信頼しつつ、ここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。
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