孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

リトアニア  ソ連旗禁止、ロシア反発  支配された側と支配した側の歴史認識の差

2008-06-19 14:35:23 | 世相

(リトアニア あまりに数が多いので分かりにくい写真ですが、丘を埋め尽くすのは十字架  1831年に帝政ロシアの圧政に抗して反乱が起きたとき、ニコライ一世によって弾圧された犠牲者を悼んでこの地に十字架がたてられたのが最初であると云われています。以来、帝政ロシア、旧ソ連に対する抵抗運動の犠牲者の十字架が祭られ丘を埋めつくようになったとか “flickr”より By mteson
http://www.flickr.com/photos/mteson/169237213/)

【リトアニア ソ連旗禁止】
リトアニアとかバルト三国というのは、個人的にはあまり馴染みの少ない国です。
見聞きする話題としては、第二次世界大戦中、外務省の命令に反してトランジットビザを発給することでドイツによる迫害から約6,000人のユダヤ人を救った「東洋のシンドラー」こと、杉原 千畝が駐リトアニア日本領事代理だったことぐらいでしょうか。

****リトアニアもソ連旗など禁止 ロシアの反発必至****
【6月18日 朝日】
旧ソ連バルト3国の一つ、リトアニア議会は17日、ナチスのかぎ十字と同様、ソ連のシンボルも公の場で掲げることを禁止する法案を可決した。ソ連の後継国ロシアの激しい反発を呼びそうだ。
 ソ連によるリトアニア併合を「占領行為」と見るためで、禁止の対象には、ソ連国旗のハンマーと鎌や赤い星をあしらった旗やバッジ、記章のほか、旧ソ連国歌の演奏も含まれる。先にバルト国家のエストニアがハンマーと鎌をかぎ十字とともに禁止した時は、ロシアから「ナチスとソ連の同一視は歴史への冒涜(ぼうとく)だ」との批判が出た。
 一方でロシアのメドベージェフ大統領は17日、エストニアとラトビアのバルト2国で市民権を得られずにいるロシア系住民計約47万人に対し、ビザなしでロシアに入国させることを認める大統領令を出した。
両国が現地語の習得などを条件に市民権取得を制限していることで「参政権や公務員になる権利を奪われた同胞への支援」を理由とする。 しかし、「ロシア系住民を影響力行使の道具に使っている」と見る両国との関係を緊張させることは必至だ。
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リトアニアなどバルト三国は、杉原 千畝の件の背景となる歴史、つまり、ドイツとソ連という大国の侵略・支配という歴史によって翻弄されました。
そうした経緯から、独立・ソ連崩壊後もロシアとは険しい関係にあります。

“支配”と書きましたが、あくまでもバルト三国の見解であり、旧ソ連・ロシアの立場からは“ナチス・ドイツからの解放”ということになります。
その旧ソ連国旗がナチス・ドイツと同一視されるというのは、ロシアとして看過できない・・・という話ですが。
なお、“エストニアとラトビアのバルト2国で市民権を得られずにいるロシア系住民”とあるように、ラトビア、エストニアではロシア系住民が国籍を得る時、言葉習得などが条件となっていますが、リトアニアでは居住していたすべてのロシア人希望者に条件なしで国籍が与えられており、比較的“ロシア・アレルギー”は三国の中では少ないとも言われています。

【エストニア ソ連兵銅像撤去】
エストニアでは昨年、ロシア系住民の暴動騒ぎがありました。
BalticNet.jp(http://www.balticnet.jp/archives/2007/3-4/tallinnriot.html)からその顛末を抜粋します。

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1940年、エストニアはソ連により侵略を受け不法に併合されたが、以来50年、ソ連兵として前線で戦うことを余儀なくされたり、国民の大半がシベリアに抑留され多くがそのまま帰らぬ人となっていることは世界に広く知られた事実である。
そのエストニアの首都タリン市のトゥニスマギ公園(現在の国立図書館前)に1945年、12人の第二次世界大戦で戦ったソ連兵の棺が埋められた。そして、1947年には同じ場所にソ連兵の銅像 が建てられた。
2007年1月、エストニアが旧ソ連の復活を願う勢力が兵士像の前で集会などをして内政に影響を与えているとしてタリンの中心地にあるソ連軍兵士の銅像を撤去し、静かな軍人墓地に移転させる計画を発表。これに対しロシアのミロノフ上院議長は、「エストニアは、ナチス・ドイツから開放し、第二次世界大戦で犠牲となったソ連の兵士を愚弄し、歴史的な過ちを犯そうとしている」と言明。
4月には、エストニア外務省より撤去移転に関する 声明文が発表されていたが、4月26日夜、ロシア系住民約1000人が銅像の周辺に集まり、周囲の商店のウィンドウを割り、商品を略奪するなどの暴動を起こした。これによりロシア人一人が死亡、多くの負傷者、逮捕者を出した。
当初5月に撤去移動を決めていた政府は、今後の市民の安全を守るために急遽銅像を撤去することにした。
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このエストニア側の対応に対し、モスクワではプーチン政権に極めて近い青年組織「ナッシ」が連日エストニア大使館を取り囲み、国旗を引きずり降ろし一部で投石し、大使館を業務停止に追い込む騒ぎが起こりましたが、当時のプーチン政権自体の反応は比較的“抑制されたもの”だったそうです。
その背景には天然ガスパイプライン“ノース・ストリーム”の問題があるとか。

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バルト海底パイプライン(ノース・ストリーム)は、ロシアがウクライナやベラルーシ、ポーランドなどを経由せずに直接、西欧に天然ガスを供給するための計画だ。エネルギーを外交の武器とするロシアの切り札の一つであり、完成すれば、ロシアは西欧の供給先への影響を気にせずに、反ロシア傾向のあるウクライナなどに向けた天然ガス供給をいつでも停止することができる。しかし、専門家によると、バルト海のフィンランド沿いの海底の状況がパイプライン建設に不適当なことが分かり、エストニア領海の海底を通過せざるを得ない公算が高まっているのだ。
「ナッシ」の激しい抗議行動は、公式にはエストニアを非難できないプーチン政権の、鬱憤(うっぷん)晴らしの手段のようである。 (07年5月12日 世界日報)
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(なお、当のロシア国内でもソ連時代の「戦争の英雄の記念碑」の撤去や移設が行われているそうです。
エストニアの銅像撤去とほぼ同じ時期、モスクワ郊外のヒムキ市が道路拡幅工事のため、ソ連英雄飛行士の記念像の撤去と市営墓地への移設を決定し、退役軍人が反対運動を行いましたが、完全に無視されたそうです。 )

【支配された側と支配した側の差】
なるほど、いろんなことが関係しているものです。
話を本筋に戻すと、バルト三国と旧ソ連・ロシアの“歴史認識”の違いは、日本でも中国・韓国との間で見られるものです。
それぞれのケースごとにいろんなファクターはあるのでしょうが、大きく見ると、支配された側と支配した側の“痛み”に対する認識の差のように思えます。

支配された側はその認識を強調することで、その後の国づくりの基礎にしようとしますが、その主張は支配した側を苛立たせます。
支配した側からは、その支配には少なからぬ“理由”あるいは“正当性”があったこと、必ずしも当時現地で強い反発を受けた訳ではないといったこと、支配によってそれ以前のより悪辣な支配からの脱却が進み、その後の発展に寄与するいくつかの改善・前進も実現されたこと、世間に言われる被害は誇張されていることが多いこと・・・などが主張されます。

ただ、これは支配された側からすると、神経を逆撫でするような、デリカシーを欠いた主張にも思えます。
例えは悪いかも知れませんが、レイプを受けた被害者に対し、レイプ犯が“すんだことをいつまでグダグダ言っているんだ。あのときお前だってその気が少しはあったんじゃないか?お前だって楽しい思いをしたんじゃないか?「言うこときかないと・・・」とは言ったけど、力ずくではやっていない。・・・”と言っているのと似たようなものに思えるのでは。

支配した側には謙虚さとデリカシーが求められます。



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