孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

キプロス  異文化統合に向けて、大統領選挙で見せた民意は?

2008-02-18 16:26:12 | 国際情勢
昨夜から今日にかけては、国際関係のニュースは当然ながらコソボ独立の話題であふれています。
コソボ独立は、一方では少数民族、分断国家の分離を加速させる恐れがあることを危惧するむき、あるいはその方向で圧力を強めようする動き、いろいろあります。

昨日17日、エーゲ海の小さな島国キプロスで大統領選挙が行われました。
“分離・独立”への動き・内紛が世界中あちこちで広まっているなかで、少しそれとは異なる判断をキプロス国民は示したようにも見えます。

***南北統合慎重派の現職敗退 キプロス大統領選決選投票へ****
南北分断が続く地中海キプロス島のギリシャ系キプロス共和国(キプロス)で17日大統領選が行われ、トルコ系の北キプロス・トルコ共和国(北キプロス)との統合に慎重な現職のパパドプロス大統領(74)が激戦の末、3位で敗退した。1位で保守系のカスリデス元外相(59)と2位のフリストフィアス労働人民進歩党党首(61)が24日の決選投票に進む。ともに北キプロスとの対話を訴えており、統合問題に大きな影響を及ぼしそうだ。
大統領選では、04年の国民投票で国連の仲介案が否決されて以来膠着(こうちゃく)状態に陥っている統合問題が最大の争点だった。 【2月18日 朝日】
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昨日ジブチについて“小さい”と書きましたが、キプロスはもっと小さく、私が暮らす鹿児島県と同じぐらい。
住民は正教徒のギリシャ系が78%、イスラム教徒のトルコ系が18%。

もともとはイギリス植民地。
大戦後、ギリシャ系住民がギリシャへの併合を希望、一方のトルコ系住民の間ではキプロスを分割してギリシャとトルコにそれぞれ帰属させるべきとの主張、イギリス・ギリシャ・トルコの3か国の間でキプロスの帰属が協議されました。
その結果、中間案としてキプロスの独立が3国間で合意され、1960年、ギリシャ系独立派の穏健的な指導者であったキプロス正教会のマカリオス大主教を初代大統領としてキプロス共和国は独立しました。【ウィキペディア】

マカリオス大統領が63年、憲法を改正してトルコ系住民の権利を制限しようとしたことから内戦がぼっ発、国連平和維持軍の駐留でとりあえず武力衝突はおさまりました。
しかし、74年、ギリシャ本国に誕生した軍事政権が、キプロス共和国の反大統領派を後押ししてキプロスでクーデターを起こしました。
これに対抗して、トルコ本国はトルコ系住民の保護を名目に軍事進駐、こうして分断が始まります。

この結果、島の北側3分の1がトルコ系住民の領土、残る南側3分の2がギリシャ系住民の領土となりました。
以前は両民族が混住していましたが、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ほぼ完全な住み分けが出来上がりました。
南北間には、南北の衝突を抑止するため国連の引いた緩衝地帯(通称グリーンライン)が設けられています。
(なお、イギリスの直轄する軍事基地も残存しています。)

トルコの支持を得たトルコ系住民は翌75年、キプロス共和国政府から分離して“キプロス連邦トルコ人共和国”を発足させ、ギリシャ系の共和国政府に対して、連邦制による再統合を要求しました。
しかし、南北間の交渉は進展せず、キプロス連邦トルコ人共和国は83年“北キプロス・トルコ共和国”として独立を宣言します。
この“北キプロス”を承認しているのは、当時も今もトルコ1国のみです。

大体どんな問題でも、関係国の対立・利害関係から、双方にいくらかの“応援団”がつくのが普通ですが、どうして“北キプロス”承認がトルコだけなのか・・・その経緯はよくわかりません。
トルコはよほど他のイスラム国に信頼がないのでしょうか?それとも明らかにトルコの横暴と国際的に評価されたのでしょうか?

南北大統領の直接交渉を含む再統合の模索は行われましたが、分割以前の体制への復帰を望むギリシャ系キプロス共和国と、あくまで連邦制を主張するトルコ系北キプロスとの主張の隔たりは大きく、再統合は果たされませんでした。

マイノリティーのトルコ系住民側にしてみれば、マジョリティーのギリシャ系に呑み込まれるのではないかという不安が根底にあります。
しかし、経済的格差は歴然としており、国際社会からも受け入れられない現状では打開は困難です。
従って、連邦制という形で自己のアイデンティティーは確保しつつ南との一体化で経済格差を解消したいという思いがあります。

逆に、ギリシャ系住民側には、経済水準が格段に落ちる北側とは今更一緒になりたくないという事情があります。内戦で家族・肉親を殺された双方の遺恨もあります。
なによりキリスト教とイスラム教という相容れ難い文化の違いが両者間にはあります。

キリスト教文化の点でギリシャ系キプロス共和国に親近感を持ち、これを支持するヨーロッパ諸国。
アメリカは少し微妙。以前は対ソ連、今は中東戦略の要としてトルコとの関係を良好に保ちたいという思惑があります。

事態が動き始めるのが、キプロス共和国のEU加盟問題。
EUとしては分断国家のままでの加盟は不安定化の要因になると考え、トルコもキプロスがトルコ系住民も加わったうえでEU入りすることを望みました。

こうした背景を受けて国連主導による再統一交渉が始まり、当時のアナン国連事務総長が以下の調停案を示しました。【2004年4月26日 IPS】
・北側に帰還するギリシャ系住民数の制限。
・北側でのギリシャ系住民の所有権(土地など)の制限。
・国会(1院制)の議席数は両者(トルコ系、ギリシャ系)同数。
・トルコ軍駐留は向こう7年間認める。

ギリシャも統合を支持し、トルコは悲願のトルコ本国のEU加盟実現のためにも、統合でトルコ系住民を含んだキプロスのEU加盟を切望しました。
しかし、全体としてギリシャ系住民に大きな譲歩を求める内容で、キプロスのギリシャ系住民は強く反発。
大統領選では、当時のクレリデス大統領を「圧力に妥協した」と批判した統合反対派のパパドプロス氏(今回の選挙で敗退)が当選。

04年、統合の是非を問う南北同時住民投票が実施されましたが、ギリシャ系の南側の反対多数(反対が76%)という結果に終わり、EUへの参加による国際社会への復帰を望むトルコ系側の賛成多数(賛成が65%)にもかかわらず否決されました。
この結果、南のキプロス共和国のみがEU加盟することになりました。
その後、南のキプロス共和国で2回行われた総選挙はいずれも統合反対派が勝利し、統合への交渉は進展していません。

依然としキプロス共和国を承認しないトルコにとっては、キプロス問題が自国のEU加盟の大きなハードルになっています。
06年12月にはキプロス共和国の船舶・航空機のトルコ入港拒否問題が原因でトルコEU加盟交渉が一部凍結される事態となりました。

このキプロス問題をEU加盟の踏み絵にするEU側の対応については、イスラム教国のトルコ加盟を本音としては認めたくないEU側が無理難題を敢えてつきつけている・・・という見方もあります。
EUのある委員は「トルコは中東とのバッファ(緩衝地帯)となるためにも外にいてもらいたい」といった発言をしているとか。

上記のような経緯をたどって分断が継続しているキプロスですが、これまで統合に背を向けていた南のキプロス共和国で今回統合推進派の2名が決選投票に残り、統合反対派の現職大統領が得票率31%あまりで落選するというのは、キプロス住民にどういった変化があったのか、なかったのか?
いずれにせよ、これを機に統合への話が進むのであれば、また、キリスト教とイスラム教の融和という壮大なテーマに向けたささやかな一歩となるのであれば、歓迎したいものです。
なお、キプロスはコソボ独立には反対の立場をとっており、キプロス外相は「コソボ独立承認は、世界中の分離独立運動に正当性を与える“パンドラの箱を開ける行為”」と批判しています。

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