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「人間対コンピュータ」 諏訪部 浩一

2014年11月25日 00時42分29秒 | エッセイ(模範)
 「ベスト・エッセイ」 2014  日本文藝家協会編  光村図書

 「人間対コンピュータ」 諏訪部 浩一(アメリカ文学者) 「群像」八月号

 虚しさを感じながら思ったのは、SFみたいだなということだった。本年三月から四月にかけて開催され、「人間対コンピュータ」という宣伝文句で将棋ファン以外からも注目も広く集めた「電王戦」を見ていたときのことである。
 電王戦は五対五の団体戦でおこなわれた。先鋒戦は人間が勝利したが、次峰戦で現役のプロ棋士がはじめて負けて話題となった。中堅戦は逆転負け、副将戦はコンピュータ側の対策が遅れている部分を突いて何とか引き分けたが、大将戦はトッププロの一人が完敗を喫したということで、全体としてはコンピュータの強さばかりが目立ったといっていい。タイトルホルダーは出場しなかったものの、「コンピュータは人間に追いつけるのか」という将棋界における過去二十年ほどの関心事が、「人間はコンピュータに勝てるのか」となる日も遠くないだろう。
 プロ棋士がコンピュータに敗れたことは、ファンにとってはショッキングな事件であったに違いないのだが、私が虚しさを感じたのは、棋士の敗北という表面的な結果が原因ではなかったと思う。現在の私は大学でアメリカ文学を講じているが、高校の頃までは奨励会(プロ棋士の養成機関)に所属していた。つまり私は棋士になれなかった人間なのであり、それゆえにたぶん大抵の人よりは切実に、彼らには圧倒的に強くあってほしいと思っている。だが、そのような私にとって(さえ)勝敗自体よりも印象が強かったのは、この「勝負」をめぐるSF的な雰囲気だった。
 Sf的と感じられたのは、コンピュータが人間を脅かすといった「物語」の設定からして必然だったのかもしれない。小説であれ、あるいは映画や漫画であれ、典型的なSF作品においては、異星人や未来人―――そしてコンピュータ―――が地球人や現代人といった「普通の人間」の物の見方を相対化するわけだが、最終的には「人間」の価値が確認されることになる。結局のところ、我々は異星人や未来人やコンピュータに共感することなどできないからだ。そうした意味において、SFとは原則的に(原則を覆す傑作の存在を認めるとしても)あまりにも人間的なジャンルなのである。
 電王戦を覆っていた空気は、こうしたSF的な予定調和だった。対局を中継していた動画サイトでは、人間側の敗色が濃厚になると悲壮感が漂いはじめ、終局後は対局者の健闘をたたえるコメントが画面を埋めつくした。これは「人間」として当然の反応ではあろうが、こうしていかにも人間的な物語に回収されてしまうのは、おそらく将棋にとって極めて不幸な事態である。将棋の世界が魅力的なのは、敗北の美学などという人間的な感傷を認めない「勝負の世界」だからなのであり、その厳しさが薄められてしまうとき、棋士は存在意義をあらかた失ってしまうだろう。
 だから棋士は勝たねばならない。本気で「勝負」に勝とうとするからこそのプロ棋士であり、目の前の相手を倒すためには手段を選ばないのが棋士の本能なのである。手段を選ばないというと悪く聞こえるが、それは我々が人間的な物語に守られ、勝負の世界に生きていない(と思っている)からにすぎないだろう。手段を選ばない人間が戦う「勝負」だからこそ、予定調和に回収されない美しさが生まれるのだ。
 だが、コンピュータを相手にする棋士が、手段をえらばないことは難しい。なりふり構わず勝ちにいくなら、当然コンピュータの弱点(バグ)を探すことになろうが、個々の棋士がそうした(「デバッグ」的な)「作業」に勤しむメリットは何もない。また、仮にそのようにして勝ったとしても、その将棋はまったくつまらないものになるはずだ(今回の副将戦がそうだった)。実際、コンピュータが強くなればなるほど、その「バグ」を見つける作戦はパズルを解く作業に似るだろう。羽生善治三冠は、コンピュータと対戦するなら一年間その研究のみに専念したいといったという。これは勝利を目指す棋士の姿勢として完全に正しいが、そうしてしまえば棋士は単なる頭脳労働者―――劣化版のコンピュータ―――になりかねない。何ともSF的なアイロニーではないだろうか。
 このようにして、棋士が本気で勝とうとすればするほど「勝負の世界」から離れていくというジレンマが浮かびあがる。人間がコンピュータと「戦う」のは、やはりSFの中だけでの話なのだ。だから棋士はその本能を裏切って「正々堂々」とふだんとおりに将棋を指し、負ける姿を見せてしまうこおtになるわけだが、それはもちろん彼らにとって真の意味での敗北とはなり得ない。電王戦に敗者はいない―――画面を埋めつくす人間的なコメントの向こうでうなだれていたのは、SF的な物語に絡め取られた、棋士のような姿をした虚構の存在だったのだ。
 人は虚構の中に自分の姿を見る。私が電王戦という物語に虚しさを感じたのは、きっとそこに自分の姿を見ていたからなのだろう。棋士の道を断念してから最初の著書を出すまでの二十年、私は将棋界のことをなるべく知らないでいるように努めていた。棋士になれなかったことが悔しかったためではない。「勝負の世界」の住人に相応しい誠実さを持っていなかったくせに、「敗者」のような顔をして夢を諦めたことを恥じていたためだ。第二の人生に文学を選び、フォークナーという天才に出会って、しっかりと打ち負かされることの意味を実感できたのは僥倖だった。私はきっとこれからも、さまざまな作家達と戦うようにして小説を読んでいくのだろう。

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