大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月28日 | 創作

<573> 掌 編 「花に纏わる十二の手紙」 (10) 桜 (さくら)

             咲くもよし 散るもまたよし 桜花 神のまにまに ありけるところ

 神さま、俺も七十九歳になる。この歳になると、あと何年かと思う。平均寿命の八十歳からすれば、俺もあと僅かである。平均がそれだから、俺と同じ歳で既にあの世に行ってしまった者も少なくない。俺はまだ元気だし、死ぬ時期がわかっているわけではないからそんなに深刻に考えたりしないが、体力の衰えは確かである。あと十年はわからない。それで、最近よく思う。生きとし生けるものはみな同じだということを。

 男も女も、金持ちも貧乏人も、頭のいい奴も悪い奴も、善人も悪人も、職業はもちろん、地位などに関係なく、みな一様に老いぼれて死んで行く。過去にいかなる栄光があっても、いかなる恥辱があっても、それらすべてを飲み込んで、時は流れ、時は止まるところを知らず、生きとし生けるものを滅びに向かわせる。俺たちにはその道しかない。それを思うと、みな同じだという気がする。

                                                     

 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と『信長公記』で織田信長は言っている。神さま、この世をこんな風に達観した信長の言葉を思い浮かべてみると、俺たちには、この世をやっと夢、幻と言って納得するくらいにしか能力のないことがわかる。いがみあっても、見栄を張りあっても、あくせくしても、どんなに生きても、みんな一様に齢を重ねて死んで行く。多少長生きをしても、この道理を拒むことは出来ない。これこそ人智の及ばない天道を司る創造主たる神さま、あなたの智慧の様相だ。

  旧弊の上につくり上げられた人間の奢りを打ち倒さんとした信長の大胆な行動はこの短い言葉によく見える。叡山焼き討ち。俺はこれを信長の無神論に結び付けるのは間違っていると思う。天下を奪った後に企図実行した楽市楽座のような施策を思うとき、神さま、あなたに対する信長の自信のようなものが見える。もちろん、過信だったのだが、それが見える。神さま、人間があなたの鞭を持つことは許されないが、信長の自信はこの短い言葉の内にある思想をして、あなたの鞭を携え、そして、振るったのだと俺は思う。信長のこの狂気にも見える振る舞いに後世の評価が相半するのはそのためではなかろうか。

 で、神さま、あなたの設えたこの世という世界を考えてみるに、俺たちにはわからないことばかりであるということが出来る。今になって、俺は気づいた。自分が何一つわかっていない存在だということが。そして、今までわからないままに妥協し、或るは有耶無耶に生きて来たような気がする。俺に接し、この身を過ぎて行った美しさとか醜さとか、喜びとか悲しみとか怒りとか、それらは一体何であったのか。わかっているようで、わかっていないことが言える。

  わからなければ、当然のこと、そこには疑念が生じ、疑念には想像が働き、思いを巡らせるということが必要になって来る。俺は母親の乳房より離れてこの方、今に至るまで思いを巡らせることなくやって来たことはない。それはわからないことばかりの中で過して来たからである。年を重ねるに従って思いを巡らせることはますます増えている。だから、この世というのは思いを巡らせるためにあると言ってもよいくらいだ。

  神さま、では、わからないということはどういうことなのだろう。それは自分の能力が及ばないことを意味すると俺は思っている。わからないと言えば、自分がこの世に生れ来たったこと自体すでにわからないことだ。これについては、先人もいろいろと智慧を働かせ考えた。あの世の続きがこの世であるとか、この世の続きがあの世にあるとか。死ねば何かに生まれ変わって、また、この世に現出するとか。地獄、極楽、輪廻転生等々、考えに考え、これらのことも考えついたということである。

  しかし、これを裏返せば、この世が俺たち生きとし生けるものにはわからない世界だということではないか。わからなければ、不安になる。不安と言えば、神さまあなたのことが一番に思われる。すべてを統べるあなたに逆らって生きていないかという不安。それで、俺たちは逆らった報いとしての地獄を思ったりする。今の安心が身後の安心につながることはわかるが、わからないことばかりの中では、俺たちは安心を求める道の険しさを思うほかない。

  神さま、あなたが創り出したすべてのものに対し、それを否定するようなことをあなたが好むはずはなく、あなたの好まないことを俺たちがすれば、あなたは俺たちに罰の鞭を振るうだろう。それをあなたが創り出したすべてのものの平等性において考えれば、俺が俺以外のものに対する対処のあり方、例えば、他人を傷つけたりすることの良し悪し。どんなに過酷なことでも、それがあなたの意に沿うものならばそれを受け入れるべきこと等々、そんなことを、わからない不安の中で俺たちは思い巡らせている。例えば、因果応報のこと。これは、神さま、あなたを意識してある身後の安心に繋げるべくある教訓ではないか。   ~ 次回に続く ~

 


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