大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年12月27日 | 植物

<2548> 大和の花 (690) サカキ (榊)                                               ツバキ科 サカキ属

            

 山地の照葉樹林内に生える常緑高木で、高さは10メートルほどになる。樹皮は暗赤褐色で、円形の小さな皮目が見られる。本年枝は緑白色で、毛はない。葉は長さが7センチから10センチの長楕円形で、先は鈍頭、基部はくさび形。縁に鋸歯はなく、革質で、光沢があり、ごく短い柄を有し、2列に互生する。

 花期は6月から7月ごろで、主に側枝の葉腋に柄のある直径1.5センチほどの5弁花を1個から3個下向きに咲かせる。花弁ははじめ白色で、その後、黄色みを帯びて来る。雄しべは多数に及び、葯はオレンジ色。雌しべは1個。実は球形の液果で、初冬のころ黒紫色に熟す。種子は長さが2ミリほどの扁球形。

 サカキ(榊)の名は、常緑の葉がよく茂り栄える木の栄木(さかえき・さかき)、神域を示す境木(さかいき・さかき)、神木を意味する社香木(さかき)などの諸説がある。榊の字は神の依代とする神木の認識によってつくられた和製の国字である。また、サカキはマサカキ(真賢木)とも言われ、『古事記』や『日本書紀』の神話に登場する。

  天照大神が須佐之男命の狼藉によって天の岩屋戸に籠ったとき、このサカキのマサカキを呪術に用い、誘い出すのに功を奏した。この謂れにより、古来より神域に必要な神木として神社の境内地に植えられるようになり、今に至っている。神社では植えられるほか、枝葉を神前に供えたり、神事に用いたりする。また、材は堅く、緻密で、建築材や器具材に使用するほか、櫛や箸などの細工物にも用い、熟した実は赤紫色の染料にするなど利用されて来た。

  本州の関東地方南部以西(日本海側では石川県以西)、四国、九州、沖縄に分布し、国外では朝鮮半島南部、中国、台湾の東アジアの一部。大和(奈良県)ではほぼ全域に分布し、神社でもよく見かけるが、私はまだ自生の花に出会っていない。 写真は左から拝殿の傍で花を咲かせたサカキ、花を連ねた枝、花のアップ(橿原神宮ほか)。 情と知の一個体なる己あり己は己のみにはあらず

<2549> 大和の花 (691) ヒサカキ (柃)                                                ツバキ科 ヒサカキ属

              

 山地に生える常緑低木乃至は小高木で、高さは普通3メートルほど、大きいもので10メートルほどに及ぶ。樹皮は暗褐色で、新年枝は淡緑色。葉は長さが3センチから7センチの楕円形で、先は鈍頭、基部はくさび形。縁には波状の浅い鋸歯が見られる。質は厚い革質で、表面に光沢があり、裏面は淡緑色。葉柄はごく短く、枝に流れるように互生し、側枝では葉が2列に並ぶ特徴がある。

 雌雄異株で、花期は3月から4月ごろ。葉腋に鐘形あるいは壷形の花を1個から数個つき、下向きに咲く。花は4ミリ前後と小さく、5個の花弁は帯黄白色で、雄花と雌花のほか両性花も見られる。また、花には独特の強い匂いがあり、花を見なくても開花がわかるほど。花は地味で、その匂いも決してよいものではないが、その匂いで山に春の訪れを感じさせる。液果の実は直径4、5ミリの球形で、秋に紫黒色に熟す。

 青森県を除く本州、四国、九州、沖縄に分布し、国外では朝鮮半島南部に見られるという。大和(奈良県)では全域に自生し、普通に見られる。ヒサカキの名はヒメサカキ(姫榊)の意で、岡山の私の郷里ではサカキの代用に父が山から採って来て神棚に供えていたのを覚えている。ほかの地方でもサカキの代わりにしているようで、大和高原でもヒサカキを持ち帰る農家の人から聞いたことがある。

  材は灰褐色から淡紅褐色で、堅く緻密なため、器具材や薪炭材に。また、木灰は和紙の製造、あるいは媒染に用いられ、実は染料にされて来た。ときに紅紫色の花を見かけるが、これは園芸種と思われる。 写真はヒサカキ。左から枝木いっぱいの花、枝に連なる雄花、紅紫色の花をつけた枝、紫黒色に熟した実。 生きるとは己を掲げゆくにあるときには理論武装などして

<2550> 大和の花 (692) ナツツバキ (夏椿)                                        ツバキ科 ナツツバキ属

               

 山地の林内に生える落葉高木で、高さは大きいもので15メートルほどになる。樹皮は赤みを帯び、滑らかであるが、樹齢が進むと剥がれ、灰白色や赤褐色の大きな斑紋が出来る。葉は長さが3センチから5センチの楕円形で、先は鈍頭、先端部が短く尖り、基部はくさび形になり、縁には細かい鋸歯がある。質はやや厚く、表面には光沢がなく、裏面には伏毛が生え、短い柄を有し互生する。

 花期は6月から7月ごろで、葉腋に直径5、6センチの白い5弁花をつける。花弁には皺が出来、花弁の縁には細かい鋸歯が見られ、外面には絹毛が密生する。花は終わりになると萼片が中央に寄り集まり花を押し上げて落とし、ツバキと同じように咲いた状態で花が散るので、地面に落花してからも風情がある。実は蒴果で、秋に熟し、裂開して種子を出す。

 シャラノキ(沙羅の木)の別名を持つが、これは釈迦が沙羅双樹の下で無常を説いた後、涅槃に入り、入滅したとき枯れたとされるこの沙羅双樹にこのナツツバキ(夏椿)を当てたことによるという。ナツツバキと沙羅双樹とは全く別種の樹木であるが、ナツツバキは釈迦に所縁の樹木として扱われるようになり、お寺の庭に植えられることが多くなった。

 本州の福島、新潟県以西、四国、九州に分布し、朝鮮半島南部にも見られるという。大和(奈良県)では紀伊山地を中心に標高1000メートル以上の深山に点在して分布しているが、『奈良県樹木分布誌』(森本範正著)は「通常冷温帯域に分布するものだが、笠置山地では400~500mの地に自生する。寒冷期に低所にまで分布していたものの遺存と思われる」と笠置山地の低山帯に分布するものについて分析している。

  なお、植栽のほか、材は床柱や器具材にされ、花は夏の茶花として評価されている。 写真はナツツバキ。左は金剛山のもの。中は大台ヶ原山の大蛇嵓付近のもの。右は曽爾高原のもの。 止まるを知らざる時に統べられて命の燈(ともし)のたとへばこの身

<2551> 大和の花 (693) ヒメシャラ (姫沙羅)                                    ツバキ科 ナツツバキ属

                       

 標高1000メートル以上の深山から標高300メートルほどの低山まで生える落葉高木で、大きいものでは高さが15メートルを越すものも見られる。樹皮は滑らかな淡赤褐色で、薄片になって剥がれ落ち、斑紋状になる。新年枝は褐色から赤褐色で、はじめ毛があるが、後に無くなる。葉は長さが5センチから8センチの楕円形乃至は長楕円形で、先は細く尖り、基部はくさび形。縁には浅い鋸歯があり、細かな毛が生え、葉柄は1センチ前後で、互生する。幹の特徴により登山道などで出会うとすぐにヒメシャラとわかる。

 花期は7月から8月ごろで、標高によって微妙に異なる。新枝の葉腋に直径1.5センチから2センチの白い5弁花を1個ずつつける。花弁の外側には絹毛が密生し、花弁はツバキの花のように基部で合着し、開花した状態で散り落ちる。ナツツバキに似るが、花はかなり小さく、判別出来る。花が小さいのでヒメシャラ(姫沙羅)の名があるが、木自体はむしろヒメシャラの方が大きい。ときに登山道で散り敷く花に出会うことがあるが、高い位置に花が咲くので、撮影し難いところがある。実は蒴果。

 本州の神奈川県以西の太平洋側、紀伊半島までと四国、九州(屋久島まで)に分布する日本の固有種で、襲速紀要素の植物。大和(奈良県)では南部に分布が片寄る。なお、ナツツバキと同じく、材が堅く緻密で、床柱、器具、彫刻材に用いられる。 写真はヒメシャラ(天川村北角の弥山登山道の標高1300メートル付近ほか)。 日常に寸景ありて見ゆるものうむその景に触れて来しかな

<2552> 大和の花 (694) ヒコサンヒメシャラ (英彦山姫沙羅)                ツバキ科 ナツツバキ属

              

 山地の林内に生える落葉高木で、高さは大きいもので15メートルほどになる。樹皮は赤褐色乃至は黄褐色で、葉は長さが3センチから7センチの楕円形乃至長楕円形で、先は細く尖り、基部はくさび形になる。縁には細かい鋸歯が見られ、表面にはほとんど毛がなく、光沢もない。裏面には脈沿いに毛がある。葉には短い柄があり、互生する。

 花期は6月から8月ごろで、新枝の葉腋に直径3.5センチから4センチほどの白い5弁花をつけ、花はナツツバキとヒメシャラの中間の大きさで、3者はよく似るが、本種は花弁の一部が紅色になる花が多く見られる。また、幹がヒメシャラよりもくすんで見えるので判別点になる。実は蒴果。

  本州の神奈川県丹沢山地以西、四国、九州に分布、国外では韓国の済州島。大和(奈良県)では南部の台高、大峰山脈の上部、冷温帯域に点在して自生するが、個体数が少なく、奈良県版レッドデータブックには希少種としてあげられている。なお、ヒコサンヒメシャラ(英彦山姫沙羅)の名は福岡、大分県境の英彦山(1116メートル)に因む。材は堅く緻密で、床柱や器具材にされる。 写真はヒコサンヒメシャラ(十津川村の釈迦ヶ岳登山道1500メートル付近)。 ゆく年は如何にあれども生きて来し齢の数に等しくぞある

 

 

 

 

 


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2018年12月26日 | 写詩・写歌・写俳

<2548> 余聞、余話 「 おーい 雲 よ 」 

        おーい雲よ旅は道連れ世は情けこの山越えてゆくほどの旅

 奈良の若草山に登って草原に座って山頂方面の空を仰いでいたら白く輝く大きな冬雲が草原の稜線を急ぐように西から東、春日奥山方面へと動いて行くのが見えた。咄嗟に若いときに読んだ山村暮鳥の「雲」の詩を思い出した。

     おうい雲よ

     ゆうゆうと

     馬鹿にのんきさうぢやないか

     どこまでゆくんだ

     ずっと磐城平の方までゆくんか

 ゆく雲はゆく川の流れに等しく、人生の旅路にある私たちの身に重ねて思われる。松尾芭蕉は『奥の細道』の旅のはじめに「片雲の風に誘われて、漂泊の思ひやまず」と思いながら旅に出た。雲はどこまでゆくのか。雲は消え失せるまで果てしなくどこまでもゆく。或るは、憧れと不安な思いの山を越えてなおずっと。やはり流れゆく雲は人生の旅路と同じだとゆく雲を見ながら思った。冒頭の歌の「おーい雲よ」は「おうい雲よ」に等しく、暮鳥の「雲」の詩から拝借したものである。

                    

 暮鳥は「雲」の詩の序の冒頭において次のように言っている。「人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生まれたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのむかしの事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさってしまったのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。そこに永遠を思慕するものの寂しさがある」と。

  私たちはずっとどこまでもゆけるような気分なきにしもあらずで、やはり、人生の旅路は雲の行方に似る。おーい雲よ、山の彼方に幸いが住むと言ったのは誰だったか、私たちの人生の旅は幸いを求めてどこまでもゆく思いの旅にほかならない。おーい雲よ、果たして私たちは雲の一団に思いを馳せて手を振る。そして、駆け出し、追う者もいる。 

   命あるものが見上げてゐる雲よはたしてぼくらはあこがれにある


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2018年12月23日 | 植物

<2545> 大和の花 (687) ヤブツバキ (薮椿)                                             ツバキ科 ツバキ属

          

 ツバキ属の仲間は日本を含む東アジアからヒマラヤにかけて約150種が分布し、日本には3種が自生していると言われる。北から言えば、本州の東北から北陸地方の日本海側の多雪地に分布するユキツバキ(雪椿)があり、本州、四国、九州、琉球と国外では台湾など東アジアの一部に見られるヤブツバキ(薮椿)があり、屋久島と沖縄に特産するヤクシマツバキ(屋久島椿)がある。これにユキツバキとヤブツバキの接触地域に見られる両種の雑種が見られるという。

 ヤブツバキ(一名ヤマツバキ)暖地性の常緑高木の照葉樹で、北海道には分布せず、東北地方では暖流の影響を受けている比較的暖かい海岸地方に集中的に見られる程度であるが、南西部の暖かい地域では平地から深山に至るまで自生し、日本のツバキの代表として見られ、世界のツバキの基本種とも見なされている。大和(奈良県)では暖温帯域の全域に分布し、一部冷温帯域でも見られる。

 高さは普通5、6メートルほどであるが、中には10メートルに及ぶものも見られる。滑らかな樹皮は灰褐色から黄褐色で、枝は淡褐色。葉は長さが5センチから10センチの長楕円形乃至は卵状楕円形で、先は鋭く尖り、縁には細かい鋸歯が見られる。質は革質で厚く、両面とも無毛。また、表面は濃緑色で光沢があり、裏面は淡緑色。葉柄は1.2センチ前後で互生する。

  ツバキ(椿)の名は葉が厚いので厚葉木(あつばき)、または、葉に光沢があり、つやつやしている津葉木(つばき)に由来するなど諸説がある。また、「椿」の漢字が当てられているが、これは春に花が咲く木の意によるもので、和製であると言われ、『万葉集』において初めて登場する。所謂、ツバキは万葉植物である。因みに、ツバキの漢名は山茶で、中国の椿(チャンチン)はセンダン科の落葉高木に当てられた名で、ツバキではない。

  また、中国では日本から渡来したツバキに対し海石榴の名をつけた。これはツバキの花がザクロ(石榴)の花に似ていることから海を渡って来たザクロという意で、この名が日本に逆輸入され、ツバキは椿のほか海石榴とも記され、『日本書紀』や『万葉集』などに海石榴の名が見える。これは中国の文化、知識の導入に気色だっていた当時の時代を反映する証左の一つと考えられる。因みに、学名はCamellia japonica Linne.で、Camellia はツバキをいい、この属名は17世紀に東洋で植物を採取したチェコスロバキアの宣教師カメルに由来するという。Linneは名づけ親のスエーデンの植物学者リンネである。

 花期は11月から12月と2月から4月とされるが、椿の字の通り、春が主で、俳句でも春の季語になっている。花は枝先の葉腋に単生し、赤い5個の花弁と茶筅のような形につく多数の雄しべの白い花糸と黄色い葯の彩りが美しい。希に白色や淡紅色の花も見られる。雌しべは1個で、花柱は先が3裂する。花は基部で合着し、普通咲いた状態のままポトリと落ち、木下が散り敷いた落花によって彩られることがよくある。

  また、花は花弁が完開することはなく、筒部の底のところに豊富に蜜を貯めるのでメジロなどの小鳥がよく訪れる。所謂、鳥媒花の一つにあげられる。実は蒴果で、直径2センチほど。ほぼ球形で、熟しても緑色を帯び、裂開して種子を現わす。

 材は堅く、紅褐色で、建築、器具、彫刻などに用いられる。花は花材に、種子からはツバキ油が採れ、生木の灰は媒染剤に用いられ、万葉歌にも詠まれている。また、古来より霊木としてあったこともよく知られ、奈良時代の交易市は海石榴市と呼ばれ、市の象徴として植えられていたのではないかとも言われる。

 現在のツバキはヤブツバキとユキツバキを基に膨大な品種改良によるツバキが現出し、その数は数千とも目され、公園や社寺の庭園などに植えられているほか、ツバキ専門の花の観賞を目的にした椿苑なども見られるという活況にある。 写真はヤブツバキ。左から枝に咲く花、花のアップ、散り敷く花、堅い殻に被われた実。 足らざる身ゆゑに足らぬを埋めるべく励むほかなき人生ならむ

<2546> 大和の花 (688) チャノキ (茶の木)                                          ツバキ科 ツバキ属

        

 中国南西部からベトナム、インド周辺が原産地と言われる常緑低木で、大きいものでは高さが10メートルほどになる。栽培される茶畑などでは畝状に植えられ、1メートルぐらいに刈り揃えられる。日本でも暖かい地方で野生するものが見られるが、自生かどうかはっきりしていない。

 樹皮は灰白色で、滑らか。枝をよく分け、新枝には毛が生える。葉は長さが5センチから9センチほどの長楕円形に近く、先は鈍く尖り、基部はくさび形。縁には波状の細かい鋸歯が見られ、葉の質は薄い革質で、表面にはツバキ属特有の光沢があり、裏面にははじめ長い伏し毛が生えるが、後に脱落する。葉はごく短い柄を有し互生する。

 花期は10月から11月ごろで、葉腋に直径2、3センチの花を下向きにつける。ほぼ円形の白い花弁は5個から7個つき、先が少し凹み、完開時には反る。花糸が白く、葯が黄色の雄しべは多数が総状に集まりつき、わずかに合着する。雌しべは1個で、花柱は上部で3裂する。

 チャ(茶)は中国が本場で、チャノキの学名はThea sinensis Linne.で、Theaは茶の漢音Tchaによる。sinensisは中国の古名である支那の意。Linneは名づけ親であるスエーデンの植物学者リンネ。因みに茶の英名はTeaで、これも漢音の茶(Tcha)から来ているものである。なお、日本の伝統色名の茶色はチャノキの葉を煮出した汁で染めた茶染めの色が基で、飲茶の習慣が広まった室町時代に認識されたという。

 チャノキ(茶の木)は単にチャ(茶)と言われ、中国における茶の歴史は古く、茶が解毒の薬用に用いられたという紀元前3000年の神農の伝説以来見える有用な樹木で、時代が下って唐の玄宗皇帝のとき、陸羽によって『茶経』が世に出て、喫茶が百楽の長として広まったと言われる。日本には遣隋使や遣唐使によって茶が伝えられ、天平時代(8世紀前半)に行基が諸国に49の堂舎を建て、チャノキの種を播かせたことが『東大寺要録』に見えるという。

 日本茶の由来は建久2年(1191年)栄西が宋より種子を持ち帰り、佐賀県の背振山に撒いたことに始まると言われ、同時に『喫茶養生記』を記し、茶の製法から効用までを広く伝えたと言われる。これにさきがけ、大和(奈良県)では、行基の徳行、功績の後、大同元年(806年)に弘法大師(空海)が唐より持ち帰った茶の実を植えて茶の製法を伝えたという伝があり、宇陀市榛原赤埴(はいばらあかばね)に茶の実とともに持ち帰った茶臼が保存されている。大和茶はこれが契機になったとも言われる。

 また、日本の茶道の祖と言われる村田珠光は奈良の称名寺の僧で、茶と禅の一致を説いて茶道を称揚した。500年ほど前のことで、その後、千利休が登場し、茶道の「茶の湯」を確立したことはよく知られるところである。そして、茶道本家は京都に本拠を置き、産地の宇治茶が生まれるわけであるが、大和茶が日本の茶道の元にあるとする見解を有する御仁は結構見られる。それは仏教をはじめ中国の文化、知識を取り入れることに熱を入れた奈良時代の時代的特徴が茶にも見られるということにほかならない。

 言わば、チャ(茶)のチャノキは地味な常緑低木であるが、日本人には物心両面において随分貢献し、親しまれて今にある貴重な樹木ということが出来る。それは茶道の精神性、或いは様式美のみならず、自動販売機で売られている飲茶のペットボトルを見ても、一般家庭の喫茶状況を思い巡らせても、私たちの社会生活に深く浸透し、飲料としてなくてはならない身近な存在としてあることが思われて来る。

 因みに、飲茶にされる荒茶(主に緑茶)の日本における産地は主に本州の関東地方以西、四国、九州に及び、静岡(静岡茶)を筆頭に、鹿児島(鹿児島茶)が群を抜き、三重(伊勢茶)、宮崎(宮崎茶)、京都(宇治茶)、福岡(八女茶)、奈良(大和茶)と続く。ほかでもほとんどの地域で生産され、その量は年間80000トン超に及ぶ。これは日本人が如何に飲茶を必要とし、茶を愛飲しているかを物語るもので、チャノキの貢献度を示すものと受け取れる。 写真はチャノキ。左から花、実、茶畑。

 欲すれば頂くことの叶ふ身のたとへば熱き茶のありがたさ 

 

<2547> 大和の花 (689) サザンカ (茶梅・山茶花)                                  ツバキ科 ツバキ属

               

 温暖地の山地に生えるツバキの仲間の常緑小高木で、普通高さは5、6メートル。大きいもので15メートルに及ぶものもあるという。樹皮は滑らかな淡褐色で、新枝は毛が多く、褐色。葉は長さが3センチから5センチの楕円形に近く、先はやや尖り、縁には細かい鋸歯が見られる。質はやや薄い革質で、表面には光沢があり、裏面は淡緑色。ごく短い柄を有し、互生する。

 本州の山口県、四国、九州、沖縄に分布する日本の固有種で、自生のものは普通ツバキより小さい純白一重の5弁花で、花弁の先が凹み、枝先に無柄の1花をつける。ツバキと異なり花弁が合着しないので花びらがそれぞれに散る。純白の花がサザンカの本来の姿であるが、品種改良による園芸種が多く、花は多彩に及び、一重のほかに八重咲きなどもあり、花期も秋、冬のみならず、春にも見られるものがあり、概して花つきのよいものが多い。俳句の季語ではツバキが春であるのに対し、サザンカは冬である。実は直径1.5センチほどの球形の蒴果で、熟すと3片に裂開し、扁球形の種子が現われる。

 サザンカの名は中国の山茶花(さんさか)から来たものであるが、中国の山茶、山茶花はツバキのことで、どうも日本にその名が伝わったとき、誤ってツバキではなく、ツバキによく似たサザンカに当てたようで、それが、誤ったまま今に至っているという。サザンカの漢名はチャバイ(茶梅)あるいは、チャバイカ(茶梅花)であるが、間違ったまま和名になっているわけである。例えがよくないかも知れないが、「赤信号みんなで渡らば怖くない」というのに似ている。これは間違っていても多数の支持があれば認められる例と言えようか。

 なお、サザンカの学名はリンネの高弟で来日して植物の調査を行なったスエーデンの植物学者ツンベルクによってつけられたもので、Camellia sasanqua Thunb.と命名された。江戸時代後期のことである。なお、英名はSasanqua Teaで、因みに、ツバキの学名はCamellia japonica Linne.である。Camelliaはツバキを意味する。また、ヒメツバキ、コツバキ、コカタシ、ヒメガタシなどの地方名が多く、ツバキと同等に見られていたことがこの地方名は物語る。カタシはツバキのこと。

 サザンカはツバキよりも品種群は遥かに少ないが、冬の花木としては人気があり、各地の公園や公共施設に多く植えられ、花の乏しい冬季に華やかな彩を見せ、知らない人がいないほどポピュラーな花木である。大和(奈良県)には自生しないので、野生然として見えるものもすべて植栽されたものと見て差し支えない。 写真はサザンカ。 哲学は考へること人生は哲学を為しゆく旅ならむ

 

 

 


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2018年12月22日 | 写詩・写歌・写俳

<2544> 余聞、余話 「 雨 の 冬 至 」

        冬至雨何だか諾へざる気分

 今日は昼が一番短く夜が一番長い冬至。朝から本降りの雨。それも底冷えをともなうような雨ではなく、この時期にしては暖かいと言ってよい奈良大和。盆地の空も周囲の青垣の山々もすっかり雨雲のベールに被われ、鬱陶しい日になった。冬至に本格的な雨が降ったことはこの何年かなかったように記憶するが、どうだったか。

 冬至と言えば、長い影が出来る晴れの日でないとその気分になれないところがある。明日よりは日脚が延びて春の芽吹きの季節に向かう。その気分はやはり雨の日よりも晴れて日差しのある方が好ましい。という次第で、今日は雨の冬至になった。

  で、この記事に添える写真を考えなくてはならなくなった。柚子湯のユズでもよいが、今年はユズが不作で、よくなかったし、以前、何回か用いているので、新鮮味がない。平成最後の冬至という意味からすると、日差しの写真が一番ぴったり来る。だが、それが不可能になったので、今年の特徴的風物はないかと思いを巡らせた結果、庭のナンテンの実にすることにした。

               

 この間から青虫とかキチョウ(黄蝶)のことに触れ、温暖化の影響ではないかということを話題にして来たが、我が家のナンテンの実にも異変が起きていることに気づいた。今年の実は果序が大きく実も沢山ついてみごとな眺めになっている。この眺めは喜ばしいことであるが、我が目にはこの眺めが青虫やキチョウと同様異変に感じられるのである。

 というのは、例年、ナンテンの実は赤く熟して来ると熟した先から野鳥、主にヒヨドリがやって来て正月を迎えるときには大方果序を裸にしてしまうので、果序に網を掛けるようにしている。だが、今年はナンテンの熟した実を目がけて野鳥の来る様子がなく、果序いっぱいに赤い実がついている。網を被せることもなく、我が家にとってはありがたいことになっているが、これは異変と言ってよく、この異変は野鳥の異変で、その野鳥の異変は、近くの山野の異変から来ていると想像される。そして、その山野の異変は温暖化に影響されていると考えを巡らせてゆくと、青虫やキチョウの異変に繋がり、自然全体のことだと思われて来る。

  今年に限って野鳥が我が家の庭のナンテンの実に来ないのは自然の山野の中に今年は野鳥の食べる木の実などが十分にあるからに違いない。こう考えてみると辻褄が合う。果たして、私たちは、生きものとして自然において繋がっていることが言える。先人が思いついた巡る四季の二十四節気の冬至の日に思うことではある。 写真は雨に濡れるナンテンの実。


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2018年12月21日 | 写詩・写歌・写俳

<2544> 余聞、余話 「 所 感 」

       昨日晴れ今日は冷たき雨 雨は生あるものの上に降るなり

 昨日、山足の日溜まりで見かけた冬蝶のキチョウ(黄蝶)に思いを抱き記事にしたが、書き記すうちに秋に触れた青虫のことが思い出された。庭で育てていたハクサイやブロッコリーが青虫の群れに襲われ、ハクサイは駄目になり、ブロッコリーの苗も葉を食われ、瀕死の状態に陥った。このため、青虫を見つけ次第駆除したのであったが、このキチョウによってそのときの青虫が思い出された。

  あの青虫は今夏の異常とも思える厳しい猛暑の因果に違いなかろうということは、そのときも思ったことであるが、青虫の異常発生は我が家の庭だけに生じた現象ではなく、山足の草叢にも生じていたのであると、キチョウの姿から思われた。キチョウの日溜まりに集まるその姿はあの青虫に通じる。あのときは育てていた作物が襲われ、外敵に思われ、見つけ次第潰して駆除した。潰しても湧いて来るごとくで、日を追って五十匹ほどは処分したろう。あまり気分のよいものではなかったが致し方ないと納得した。

  あのときも、青虫に生きものであることを意識したが、青虫をそのままにして置くと、作物は全滅してしまう。この危機に対応するには青虫の駆除しかないと思えた。ハクサイは防虫網を被せていたのが裏目に出て、青虫の発見が遅れ、全滅した。ブロッコリーの葉にも凄まじい数の青虫が取りつき、見る度に駆除したわけであるが、冬の日溜まりに集まる冬蝶のキチョウの姿にあの指で潰した青虫が思い出されたという次第である。

                                 

  思うに、チョウというのは、幼虫のとき作物の葉を食べるので、害虫になる、一匹や二匹ではどうということはないけれども、今年は暑い夏の延長のように温暖な秋と冬が続いたからに違いない。青虫の大量発生を見ることになった。で、その大群が押し寄せて来たということになる。幼虫は蛹になって来春孵化するはずであるが、暖かい日が孵化を早めたということなのだろう。チョウは成虫になると花を渡り、雌雄の仲立ちに働く。幼虫のときの罪滅ぼしをするがごとく懸命に花から花へと飛び回り、植物への恩返しをする。

  こうした意識が今回のキチョウには湧いて来たという次第で、昨日の記事になった。それにしても、青虫とキチョウへの思いのあまりにも一貫しない論理矛盾に生の厳しい現実のことが思われたのであった。これは一種、出会いたくないものに出会ったときの気持ちに通じる。

  以前どこかで触れたが、この青虫のことは、柳田國男の『野鳥雑記』の「翡翠の歎き」に登場するカワセミと金魚の話に通じるので、ここに少し長くなるが、あげてみたいと思う。つまり、「物の命を取らねば生きられぬ者と、食われてはたまらぬ者との仲に立っては、仏すらも取捨の裁決に御迷いなされた。終には御自身の股の肉を割愛して、餓え求むる者に与え去らしめたというがごとき、姑息弥縫の解決手段の外に、この悲しむべき利害の大衝突を、永遠に調和せしむる策を見出し得なかったのである。語を換えて言うならば、おれの池のおれの金魚が大切といえばともかく、単に金魚が可愛そうだということは、一般にカワセミを納得せしむる理由としては不十分だと思う」と言っている。

  私が青虫を潰したのは、「おれの池の金魚が大切」という理由と変わりないが、ここには生の厳しい現実が横たわり、単純には理解されない。その例として、「幾ら食うものか棄て置け稲雀」という幸堂得知の句をあげ、カワセミの生におけるこの話を続けるが、この利害の大衝突は単純に解決出来るものではなく、結局、國男は「カワセミの問題は今なお未解決である」と言ってこの話を終えている。それは実に難しい生の問題で、青虫はキチョウに及ぶ存在であるがゆえに悩ましいということになる。割り切れないこの問題は、奈良のシカなどにも見られることは関係者が一番よくわかっているはずで、十分な解決は得られないというのが現状と言えよう。クジラの話も同じである。

  生、つまり、生きるということは矛盾も対立もみんな含め、常に悩みを孕んでいるということなのだろう。青虫もキチョウもこの身も、即ち、生きている身で、それは悩みの存在にしてあるということになる。問題が解決出来なければ、悩みは続く。だが、悩みは良心の現われであれば、そこに救いはある。生きるということは悩みもあるが、救いもあるということである。 写真はキチョウ。