<1242> 冬の昼月
図書館を出でて目にせし弦月の冬木とともにありしやさしさ
半月に一回ほどの間隔で図書館に出向く。図書館は人の知と感と情が書物という形で詰められた空間である。そして、その知と感と情はすべて人さまのものであり、未来に向かっているような心持ちにあるものでも、すべては過去の経験、即ち、産物として収められているものである。その人さまの知と感と情に接したいと思って図書館には通うのであるが、書架の前に立つと、その知と感と情の詰まった書物の量に圧倒されて、目眩がするごとき心持ちになることがしばしば起きる。これは私の実力のなさを言うにほかならないが、これが図書館の特徴であり、魅力でもあるということが出来る。
この間は、この図書館に出向き、その膨大な書物の中から三冊ほど借りて帰ったのであるが、図書館を出たとき、何気なく見上げた空に上弦の月が冬木の彼方に見られたのであった。冬のただ中ながらこの昼間の半月は薄っすらとやさしく私の目に映った。そして、暫くその月を見上げたのであるが、ふと、月が図書館の膨大な知と感と情よりなる図書の山の基にあって通じている存在のように思われたのであった。
今、イスラム国に囚われている日本人ジャーナリストのことで、連日、騒々しく報道などがなされているが、なお、解決に至っていない。そこで、図書館のこの図書における膨大な人の知と感と情が思われて来るところで、この図書の山の働きが十分に生かせれば、この問題などは解決出来るのではないかと、こじつけのようではあるが、そう思われて来るところがある。言わば、こういう相手を入れようとしない自分本位の対立の構図が見られる限り、このような戦禍の状況からはなかなか脱し得ない。そこには共有すべき精神が共有出来ない悲しさが見て取れる。精神の共有空間である図書館の図書の山は、この知と感と情の輻輳する空間において、このことを指摘して已まないところがある。
図書の山は訪れるすべての人、即ち、個々人に理解を求めている。知にせよ、感にせよ、情にせよ、理解によってはじめてそこには働きが認められ、図書の山は意義をもったものとして歓迎される。その図書の山に通じているのが、私が図書館を出たときに見上げた弦月の存在ではないかということが思われたのである。
この月はイスラム国の空にも同じようにやさしくかかっているはずである。この等しくやさしい月を見上げる余裕があれば、そこには銃に頼らない心持ちも生じて来る。このような月を見上げる余裕をすべての地球人が持ち得るならば、戦火など起きないであろう。図書館の図書の山の知も感も情も、その働きの成果はその手段、方法に違いが見られても、或るはこの月の存在、そこを目指しているように思える。
それはみな一様に有する命の尊さに基づくところのもので、図書館を訪れるすべての人にその図書の山は理解を求め、理解の必要性を説いていると言える。この理解に欠けたところにあるは不審が生じ、この生じるところの不審によって究極のところ、戦争なども起きるのである。そして、戦争は尋常でなく、戦う互いの間に狂気を増幅させて行き、言語道断の事件なども起きることになる。
今のイラク情勢は、まさにその究極の戦争状態にあるということが出来る。そして、その状況は狂気を増幅させる状況にほかならない。このような狂気にあっては、いくら人質が卑怯なやり方で、テロは許せないと言ってみても対戦している側には通じない空念仏である。こういう仕儀に至っては、ともに引くに引かれず、対決する意志ばかりが突出し、いよいよ解決出来ない状況に陥るということになる。
如何にしてイスラム国という過激なテロ集団があのイラクに生じたのか、というようなことから考え直さなくては、この騒動は収まらない。もしかしたら、正当を言い張っている欧米にこそ非があるとも言えなくはない。イラクの秩序を壊したのはイラクに戦いを仕掛けた米国であり、それを支えた西側諸国であるからである。このような考えもあげられるが、そこには、対立のみが激化し、理解をしようとしない状況が根本のところにある。
図書館の図書の山には、こうした打開出来ない問題の解決に役立つ知と感と情における英知が隠されていることが、ここに至って思われるわけである。その隠されたものこそ私が見上げた弦月に通じていることが思えて来る次第である。願わくば、自動小銃の引き鉄から指を離して、その誰にもやさしい月を見上げてもらいたいものである。同じ人間同士、対立からは何も生まれて来ない。 写真は昼の弦月。
例ふれば 知にして図書館 その知には 人の思ひが 絡まりてゐる