大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年01月31日 | 創作

<1244> 信濃永遠

       そこここに思ひ点せし君ゆゑに 花と山との信濃永遠

     早春の信濃の朝の大気感 眩しき雪の嶺の連なり

     人の手の温もりなども思ひしが信濃の旅の早春の朝

       懐かしく思ひ出すなり雪嶺と雪嶺色のやうな昼月

       稜線の起伏を辿る眼あり声をともなふやさしかる声

       一本の白木の道標 嶺を指し歩きしことも信濃なるかな

       花あれば花に歩を止め目に入れて行きし二人の信濃なりけり

       スト-ブの赤々と燃えゐたれるに信濃はありき 連嶺のフォト

       夏蜜柑置かれし窓辺 思ひ出は信濃の旅の夜汽車のあかり

       信濃への旅の夜汽車の薄明かり蜜柑一つを分かちあひたり

     青春の一頁なる信濃路は夜汽車「ちくま」のほどよき速さ

       樹の高さ梢を渡る風の鳴り信濃の夏の季の輝き

       美しき花のあたりに聞きし声 恋しくありし信濃路の旅

       辿りゆくその先々の期待感 思へば信濃の駅の名なども

       しばたたく眼が遥か辿りしは稜線まさに遥かなるもの

       君の背が木々の間を軽やかに行きUFOの形の夏帽

       君と我が行き帰りなる夢の中 山独活の花咲きしなりけり

       眺望は眩しく君の眼差しも 穂高の嶺の連なるあたり

       雲よりも雪渓よりも眩しかる信濃の旅の君が夏帽

       信濃には何が似合ふか 問ひしとき 君の夏帽輝きにけり

       青春歌ありけるところ 夏帽を点睛として君の信濃路

       万緑に輝く羽毛 寸刻を旅す信濃の君が夏帽

               信濃路を君に山の名訊きながら歩きたくゐし思ひの一日

               夏帽を心に点し訪ひ行かむ 二人のための記念樹の丘

                               

  ここに掲げた「信濃永遠」二十四首は、二十歳前後、憧れの信濃に思いを馳せて旅した青春真っただ中の恋歌という設定である。信濃にはそれほど頻繁に訪れているわけではないが、北アルプスをはじめとする連嶺の爽やかな印象が四季を通じて私の心の中に一つの大きな存在的風景としてある。ここに掲げた一連の歌は、この青春の浪漫的風景に触発されて生まれたものと言える。相手は若くして世を去る設定であるが、冒頭に掲げた題詠の「信濃永遠」の歌は忍恋の永遠性を意識に置いて作ったもので、それは生涯のひととなる偲ぶ恋にも繋がる恋の一典型という心持ちによる。 写真は初夏の北アルプス穂高連峰。

 

 


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2015年01月30日 | 創作

<1243> 懐 旧

         遥けくも来しゆゑならむ懐旧記 歳月の内外の面影

 懐旧を辞書で引くと、「昔のことをなつかしく思い出すこと」とある。懐旧とは、言ってみれば、生き長らえて来たものにのみ与えられる特権のようなもので、子供にはないものであろう。長い年月によって浄化醸成され、なつかしさのつのるような状態に至ったところの情とでも言えばよいだろうか、とにかく、懐旧にはほのかな灯火のような心持ちが纏う。

 懐旧に似た言葉に郷愁という言葉があるが、郷愁は他郷(異郷)にあって故郷をなつかしむところが強く、懐旧の情とは少しニュアンスを異にするところがある。英語のnostalgia(ノスタルジア)や仏語のnostalgie(ノスタルジー)は両方の情をその意味合いの中に含む言葉のようであるが、懐旧と郷愁は追憶や望郷といった言葉とも微妙に異なり、日本語の奥深さを感じさせるところがある。

 どちらにしても、これらの言葉に含まれる心持ちは、過ぎ去った年月の長い時が作用して生じるもので、その点においては懐旧も郷愁も望郷も追憶もみな同類の言葉と言え、記憶や思い出に沿いながらも、単なる記憶や思い出に止まるものではなく、ある種のなつかしいような情を纏い、時間によって醸成された到達点にある言葉と言ってよく、そこには、経験のリアリテイを超えたほのぼのとした幻像的な情景が纏う。つまり、これは、過去、現在、未来の連綿としてある人生における時の作用によってもたらされるもので、歳月の賜ものと言ってよいものではないかと思う。

                                      

    触れてゐるものみなすべて今日以後の思ひとはなる岸打つ波も

 思うに、私たちには一期一会という言葉がある。この言葉は人との出会いによく用いられるが、人だけでなく、万物に言えることではなかろうか。で、私たちの日々刻々はすべてがこの一期一会の機会であり、その刻々がすべて新しい出会いであると考えられる。この一期一会の今日が素晴らしい日であれば、明日はその素晴らしい今日に連なるということになる。この日々の連綿としてあるところが人生であるから、今日という日をよりよいものにすることが何よりであることが思われる。

 前述した歌の「岸打つ波」もこの一期一会の一景であり、出会いの一つにほかならず、人でも花でも、ほかの何ものでも、みな「岸打つ波」と同じく、刻々の出会いと言える。その出会いがその後の長い年月の時を経て、なつかしいような情をともなって心の中に顕れ来たることが、即ち、それが懐旧や郷愁の域に達したということではないか。人生において未来に夢を抱けないものは辛く、懐旧や郷愁の情に浸れないものは淋しい、とは言えるだろう。 写真はイメージで、岸打つ波(東尋坊)と初夏の北アルプス穂高岳。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年01月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1242> 冬の昼月

         図書館を出でて目にせし弦月の冬木とともにありしやさしさ

 半月に一回ほどの間隔で図書館に出向く。図書館は人の知と感と情が書物という形で詰められた空間である。そして、その知と感と情はすべて人さまのものであり、未来に向かっているような心持ちにあるものでも、すべては過去の経験、即ち、産物として収められているものである。その人さまの知と感と情に接したいと思って図書館には通うのであるが、書架の前に立つと、その知と感と情の詰まった書物の量に圧倒されて、目眩がするごとき心持ちになることがしばしば起きる。これは私の実力のなさを言うにほかならないが、これが図書館の特徴であり、魅力でもあるということが出来る。

 この間は、この図書館に出向き、その膨大な書物の中から三冊ほど借りて帰ったのであるが、図書館を出たとき、何気なく見上げた空に上弦の月が冬木の彼方に見られたのであった。冬のただ中ながらこの昼間の半月は薄っすらとやさしく私の目に映った。そして、暫くその月を見上げたのであるが、ふと、月が図書館の膨大な知と感と情よりなる図書の山の基にあって通じている存在のように思われたのであった。

 今、イスラム国に囚われている日本人ジャーナリストのことで、連日、騒々しく報道などがなされているが、なお、解決に至っていない。そこで、図書館のこの図書における膨大な人の知と感と情が思われて来るところで、この図書の山の働きが十分に生かせれば、この問題などは解決出来るのではないかと、こじつけのようではあるが、そう思われて来るところがある。言わば、こういう相手を入れようとしない自分本位の対立の構図が見られる限り、このような戦禍の状況からはなかなか脱し得ない。そこには共有すべき精神が共有出来ない悲しさが見て取れる。精神の共有空間である図書館の図書の山は、この知と感と情の輻輳する空間において、このことを指摘して已まないところがある。

              

 図書の山は訪れるすべての人、即ち、個々人に理解を求めている。知にせよ、感にせよ、情にせよ、理解によってはじめてそこには働きが認められ、図書の山は意義をもったものとして歓迎される。その図書の山に通じているのが、私が図書館を出たときに見上げた弦月の存在ではないかということが思われたのである。

 この月はイスラム国の空にも同じようにやさしくかかっているはずである。この等しくやさしい月を見上げる余裕があれば、そこには銃に頼らない心持ちも生じて来る。このような月を見上げる余裕をすべての地球人が持ち得るならば、戦火など起きないであろう。図書館の図書の山の知も感も情も、その働きの成果はその手段、方法に違いが見られても、或るはこの月の存在、そこを目指しているように思える。

 それはみな一様に有する命の尊さに基づくところのもので、図書館を訪れるすべての人にその図書の山は理解を求め、理解の必要性を説いていると言える。この理解に欠けたところにあるは不審が生じ、この生じるところの不審によって究極のところ、戦争なども起きるのである。そして、戦争は尋常でなく、戦う互いの間に狂気を増幅させて行き、言語道断の事件なども起きることになる。

 今のイラク情勢は、まさにその究極の戦争状態にあるということが出来る。そして、その状況は狂気を増幅させる状況にほかならない。このような狂気にあっては、いくら人質が卑怯なやり方で、テロは許せないと言ってみても対戦している側には通じない空念仏である。こういう仕儀に至っては、ともに引くに引かれず、対決する意志ばかりが突出し、いよいよ解決出来ない状況に陥るということになる。

 如何にしてイスラム国という過激なテロ集団があのイラクに生じたのか、というようなことから考え直さなくては、この騒動は収まらない。もしかしたら、正当を言い張っている欧米にこそ非があるとも言えなくはない。イラクの秩序を壊したのはイラクに戦いを仕掛けた米国であり、それを支えた西側諸国であるからである。このような考えもあげられるが、そこには、対立のみが激化し、理解をしようとしない状況が根本のところにある。

 図書館の図書の山には、こうした打開出来ない問題の解決に役立つ知と感と情における英知が隠されていることが、ここに至って思われるわけである。その隠されたものこそ私が見上げた弦月に通じていることが思えて来る次第である。願わくば、自動小銃の引き鉄から指を離して、その誰にもやさしい月を見上げてもらいたいものである。同じ人間同士、対立からは何も生まれて来ない。 写真は昼の弦月。

  例ふれば 知にして図書館 その知には 人の思ひが 絡まりてゐる

 

 

 

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年01月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1241> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (92)

          [碑文]  草枕 旅の宿(やどり)に 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに              柿本人麻呂

 この碑文の歌は、詞書に「柿本朝臣人麻呂、香具山の屍を見て、悲慟(かなし)びて作る歌一首」とある『万葉集』巻三の「挽歌」の項に見える426番の歌で、原文では「草枕 羇宿尒 誰嬬可 國忘有 家待眞國」と表記されている。所謂、行路病死した人を憐れんで詠んだ歌である。

 「嬬」は結婚した男女の女性の方、つまり、妻を言う言葉であるが、男性の方、即ち、夫にも用いられたのであろうか。語訳では夫と見られ、夫人とするよりはこちらの方が当時の社会的常識からして妥当と言え、歌は夫たる身の男性を詠んでいると見なす向きが圧倒的になっている。「草枕」は旅にかかる枕詞で、歌の意は「旅先のこの天香具山に、故郷を忘れて倒れているのは誰の夫であろうか、家人(家族)が待っているだろうに」ということに収まる。

                           

 巻三にはこの歌の後に、人麻呂の挽歌が三首並んで見える。その中の428番の歌は「土形娘子(ひじかたのをとめ)を泊瀬山に火葬(やきはふ)る時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の詞書があって、「隠口(こもりく)の泊瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ」とあり、この歌に続いて、「溺れ死にし出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬る時、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首」の詞書によって、429番の「山の間ゆ出雲の児らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく」という歌が続き、430番の「八雲(やくも)さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ」という歌が見える。

 この三首は亡くなった二人の娘子が火葬にされたとき、その死を悼んで詠んだものであるが、死人を火葬にするようになったのは文武天皇四年(七〇〇年)のことで、この一群の挽歌はいつごろ詠まれたかは定かでないが、その年以前ではないことになり、この歌を作ったとき、人麻呂は四十歳を過ぎていたと思われる。なお、人麻呂には碑文の426番の歌と同類の歌が巻二にも見える。「讃岐の狭岑島(さみねのしま)に、石の中に死(みまか)れる人を見て、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」という詞書による長歌の反歌二首中の一首221番の歌がそれで、 「妻もあらば採(つ)みてたげまし佐美の山 野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや」とある。「うはぎ」は野菊の一種のキク科シオン属の多年草であるヨメナ(嫁菜)のことで、秋に淡青紫色の頭状花を咲かせる。昔は春にこの若芽を摘んで食用にした摘み草であった。

  この歌は摘み草としてあった嫁菜を配して詠んだ悲歌で、行路病死した人に対し、「もし妻が傍にいたならば、摘んで食べたことであろう。佐美の島山の野辺の嫁菜は時が過ぎてしまっているよ」と、その死を悔む心持ちが詠まれている。この歌の後には、人麻呂自身の死に際する挽歌が載せられているが、これは人麻呂最晩年の223番の歌で、 「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」と見える。その意は「鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を、そんなこととは知らないで、妻が待っていることだろうか」というもので、碑文の(426)の歌と同種の歌であることが言える。

  この碑文の歌の歌碑は詞書に見える「香具山」に因み、天香久山(天香具山・一五二メートル)の麓に当たる橿原市東池尻町の古池の傍に建てられている。すぐ近くにはこの人麻呂の行き倒れた人への挽歌(426)の歌と関わりがあるのかどうか、微笑みを湛えた一体の石仏が畑を背に見られる。白い前掛けがつけられ、花が手向けられていた。

  因みに、『万葉集』巻三の「挽歌」の冒頭には、人麻呂の碑文の426番の歌に先がけて聖徳太子の行路病死した人に寄せた同種の415番の歌が見える。「上宮聖徳太子、竹原井(たかはらのゐ)に出遊(いでま)しし時、龍田山の死(みまか)れる人を見て悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首」の詞書によって 「家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ」 とある。 写真左は「草枕旅の宿に誰が夫か」の人麻呂の歌碑(後方中央の山は二上山)。  写真右は歌碑の近くに見える石仏(橿原市東池尻町で)。    行くもまた 帰るも野辺は 冬の中 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年01月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1240> 路傍の石仏

       石仏は 因果ゑにしの姿なり やさしく微笑み ゐたりけるかも

  大和路には街角や路傍によく石仏が見受けられる。中には「金屋の石仏」のように古く名高い石仏や山の岩壁に彫られた磨崖仏のような石仏も見られるけれど、普段生活している町村の片隅などにあって、誰とはなし四季の花などを供えているような石仏がそこここに見られる。これは大和が仏教伝来の地として古い歴史を有する土地柄にあるからだろうことが思われるところである。

  こうした路傍や街角の石仏は人の世の因果、縁によって誰かが作り置いたのであろうが、その由来や因果などは、道行く旅行者や訪問者には直接的な関わりはなく、ほとんど不明なものとしてある。だから、その柔和な姿にただただ心を惹かれ、癒されるというのが通例になっている。これが外面の仏である石仏の特徴と言ってよい。

                                            

  だが、こうした石仏の由来に考えを巡らせると、そこには石仏に関わる人々の悲しみが動機としてうかがわれたりして、詳細はわからないながら、その悲しみの所以が想像されて来たりして、石仏への接し方に変化がもたらされるというようなことも生じて来る。例えば、流行り病があって亡くした子供のためとか、事故で失った幼児のためとか、そこには、悲しみの動機というものが背景にあって石仏が作られたことに思いが通い、接する心持ちを改めさせるということがある。

  新しい石仏ほどその心持ちに触れるようなところがあり、風化が進んだ昔の石仏ほど、何となくほのぼのとした親しみの感じられるところがあるのは、石仏自体だけでなく、そこに仏が存在する理由というか、悲しみの因果の様相が長い年月の間に風化され、その年月による浄化作用によって石仏が周囲の風景、即ち、風土に同化し、存在するようになるからに違いない。冒頭の歌は、ここのところに心持ちの裏づけをもって詠んだものということが出来る。

  「知らぬが仏」という言葉があるが、つまり、通りがかりに接して触れる石仏などは、ほとんどがこの言葉のような関係性において私たちは接している。内実を知らないがゆえに心安らかでいられるということがあるが、石仏にも言える。で、古い昔の石仏ほどそれが言えると言ってよい。 写真は石仏。

    道の辺の仏やさしくほほゑめり誰が手向けし花か水仙

      微笑める石仏一躯やさしかり供花の歌もて向かひたるなり