大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年08月31日 | 創作

<3514> 写俳百句 (78) 二百十日

          稲の花大和国中大丈夫

                       

 今日三十一日は「二百十日」。立春から数えて二百十日目で、ちょうどイネの穂が出て花を咲かせる。言わば、稲作にとって大切な時期。ところが悪いことにこの時期、日本列島にはイネに被害をもたらす台風の襲来がよくある。このため台風への心構え、注意喚起を促す意によってこの言葉が生まれた。「二百二十日」というのも同じ意による言葉である。

 ところで、「二百十日」にしても「二百二十日」にしても、最近あまり使われなくなり、何か懐かしいような感が纏う言葉になって来た。これは二百十日や二百二十日ごろに集中していた台風の被害より、何時どこで起きるかわからない地球温暖化の影響と言われる気象異変による線状降水帯の豪雨、長雨の被害が圧倒的に多くなったからではないだろうか。

 今、大和国中(大和平野)はイネの花盛り。残暑が厳しく、人さまには辟易の日々が続いているが、イネにはひと頑張りの絶好と言える風景。昨年はトビイロウンカの異常発生による被害が広がったが、今年のイネは順調に見える。後一箇月、花が実になり、穂が垂れ下がるころになると、国中の平野は広く黄金色に染まる。 写真は一斉に穂を立て花を咲かせる水田のイネ。


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2021年08月30日 | 創作

<3513> 作歌ノート  曲折の道程(十六)

                見しことを真実として詠みなすが青空の奥の奥の奥行

 私たちは私たちの見聞をもって真実とみなす向きがある。しかし、南方熊楠も言っているように、見聞には等差があり、一の見聞は二の見聞に劣り、二の見聞は三の見聞に及ばないということがある。一は二に一、二は三に一及ばない。つまり、一の見聞は二の見聞に、二の見聞は三の見聞に、一の見聞だけ確率において真実に遠いということである。これは見聞がイコール真実でないことを言っているにほかならない。

 ところで、「百聞は一見に如かず」という。これは聞くことが見ることに及ばないということを言っているもので、これは現場に立つか立たないかの違いであるが、見るということも完璧でないことを暗には言っている。例えば、鈴木牧之の『北越雪譜』は言っている。「凡物を視るに眼力の限りありて其外を視るべからず」と。肉眼をもって雪を見れば、一片の鵞毛のごとくにしか見えないが、これを、虫眼鏡を借りて見れば、鵞毛は多数の雪花を寄せ合わせて出来たものであることがわかる。

   これは、つまり、肉眼の限界を示すものにほかならず、見るということが完璧でないことを物語るものである。この例で言えば、私たちの日々は概ね間違っていないにしても、真実という意味においては随分過誤に塗れているということになるのであろう。

                                       

 加えて、もっとややこしいのは、「鵜を鷺」というように、黒を白と言い張る意志の働くことである。これは、人の目に己の思惑を反映させようとするわけであるが、その底意を見抜くことが出来ないということがある。また、詭弁を弄するというようなとき、その詭弁に惑わされることが往々にしてある。他にも、ご都合主義というようなこともある。都合によるおもわくが見抜けなくて、都合に乗せられるということも往々にしてある。偽装や詐欺の事犯などはこれに当たり、例をあげれば切りがないほどである。

 それで、見聞を真実であると見なし、歌などにも詠むが、「当たらずとも遠からじ」と言いながら、もの足りないところが気にかかったりする。そこで、「青空の奥の奥の奥行」という下の句に思いが込められることになる。青空には奥があり、見れば見るほど奥があり、その奥行において考察し作歌もしなければならないという気持ちが湧いて来る。能力に欠けるものとしては、この奥行への思いがより真実に近づいて歌をなすことに繋がる。そして、思う。真実は眼力の次第。で、この次第は見るこちら側にあるとも覚える。嗚呼、そして、日々の旅はなされている。 写真は雲一つない青空。

  真実の欠片を掬ふ日々の旅「浅き夢」とは誰かの言葉

 


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2021年08月28日 | 写詩・写歌・写俳

<3511>  余聞 余話 「ウイズコロナ」

      マスクして人と隔たる異常の身ウイズコロナのウイズの不安

 新型コロナウイルスはワクチンの接種率が上がって国民の半分は接種している状況にあるようであるが、ウイルスは変異して感染力を増し、若年層にも影響する威力をもって今に至っている。ワクチンの接種が行き届けば、感染も収束するという楽観的雰囲気が為政者に感じられるが、変異株の猛威はその雰囲気を打ち砕くがごとくで、新型コロナウイルスの変異は未来を不透明にし、私たちを不安にさせている。

 この状況下、インフルエンザのイの字も聞かなくなったが、これを新型コロナウイルスの感染状況に重ねてみるに、直接的関係はないにしても、明らかに影響していると思える。つまり、インフルエンザは新型コロナウイルスよりも感染力において弱く、よって新型コロナウイルスに対処することで、インフルエンザの予防が出来、インフルエンザを撲滅状態に止めている。そして、新型コロナウイルスは五波に及ぶ勢いで猛威を振るっている。

 ということは、新型コロナウイルスがインフルエンザと入れ代わり、その威を振るい、人間社会を悩ませるという今後の予想が成り立つ。で、「ウイズコロナ」というような言葉も発せられるに至った。ウイズはwhitで、「一緒に」という意。つまり、このウイルスは撲滅が難しいので、ウイルスとともに行かなくてはならないという。言わば、これは人間側の一種あきらめに似た対処を意味する。

                               

 しかし、この「ウイズコロナ」の考えも、手をこまねいていては猛威の感染は収まらず、社会の混乱を酷くする。今、猛威を振るっているデルタ株はもっと強力な変異株に置き換わるかも知れない。こういうことも想定されるであろうから、十分なワクチンの供給確保は欠かせないし、治療薬の開発も待たれる。とにかく、「ウイズコロナ」という言葉は聞こえのよいものであるが、ウイズ(whit)における体制が整って行かなければ、いつまでも混乱が続くことになる。

   例えば、ワクチンについて、二回で終わるのではなく、インフルエンザ並に打てる状況が確立されるべきであり、治療薬の開発も必須である。「ウイズコロナ」を言うのであれば、この予防、または治療の在り方の確立、言ってみれば、感染症に対するバックアップ体制が整っていなくてはならないということになる。果たして、ワクチン投与のその後の実施計画などは政府の考えの中にあるのであろうか。いつまでも付け焼刃では不安をつのらせる。

   写真は今後ずっと手放せないかも知れないマスク(左が不織布、右が布。布マスクは効果が薄いというので今は使用していない)。

 


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2021年08月28日 | 植物

<3512> 奈良県のレッドデータブックの花たち(102) クリンソウ(九輪草)            サクラソウ科

                   

[別名]   シチカイソウ(七階草)、ホドゲ(宝塔華)。

[学名] Primula japonica

[奈良県のカテゴリー]  絶滅危惧種

[特徴] 山地の谷筋などやや湿ったところに生える多年草で、長さが15~40センチの倒卵状長楕円形の根生葉を輪生状につける。葉には鋸歯が見られ、表面に縮れた皴が出来る。花期は5~6月で、葉の根元から高さが40~80センチの花茎を直立。上部に直径2センチほどの花冠が5裂する明るい紅紫色の花を2段から数段咲かせ、下から順に開花する。花には淡紅色や白色のものも見られる。クリンソウの(九輪草)の名はこの段になって咲く花の姿を塔の屋根の上に伸びる九輪の相輪に見立てたもの。

[分布] 日本の固有種。北海道、本州、四国。

[県内分布] 奈良市、山添村、桜井市、宇陀市、御所市、天川村。

[記事] 観賞用として昔からよく知られていたようで、江戸時代末に来日し、『幕末日本探訪記』を記した英国の植物学者ロバート・フォーチュンが贈られたクリンソウの花にいたく感動した逸話が残っている。別名のシチカイソウ(七階草)も地方名のホドゲ(宝塔華)もクリンソウ(九輪草)と同じ発想による。小林一茶に「九輪草四五輪草でしまひけり」の句が見える。実際九輪に及ぶものは殆ど見ない。まこと一茶の観察通りである。

   全草にサポニンなどの有毒物質を含み、シカは食べないと見られ、まだ、私は見ていないが、春日山の自生地は保たれているようである。しかし、自生地はごく狭い範囲に限られ、絶滅が危惧されている。なお、全草を日干しにし、煎じて服用すれば、鎮咳、去痰などに効能があるという。 写真は花期のクリンソウ(金剛山)。

   私たちにとって

   花のありがたさは

   まず もって

       その美しさにある


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2021年08月27日 | 植物

<3510> 奈良県のレッドデータブックの花たち(101) クモキリソウ(雲切草)                     ラン科

                         

[学名] Liparis kumokiri

[奈良県のカテゴリー]  希少種(旧無指定)

[特徴]  林内や林縁に生える多年草で、ラン科特有の偽球茎がある。葉は長さが10センチ前後の広卵形で、2個が対生状に茎を抱いてつく。花期は6~8月で、高さが10~20センチの直立する花茎の上部に5~15個の花をつける。花は萼片、側花弁、唇弁、雌雄の蕊などからなり、緑白色から暗褐色で変化が見られる。同属のジガバチソウ(似我蜂草)に似るが、クモキリソウでは唇弁が反り返って外側に巻く特徴がある。

[分布] 北海道、本州、四国、琉球列島。国外では南千島、朝鮮半島。

[県内分布] 奈良市、宇陀市、御杖村、吉野町、川上村、上北山村、天川村、十津川村、野迫川村。

[記事] クモキリソウ(雲切草)の名は一説に「花が蜘蛛の子を散らしたように見え、これを蜘蛛散り草と言い、これが雲散り草となり、訛って雲切草になった」という。大和地方では自生地が点在し、多いものの個体数が少なく、レッドデータブックは、園芸用採取や植生の遷移による環境の変化などで減少し、希少になったとしている。 写真はクモキリソウと花序のアップ(天川村)。

   草木の花々は

         開いてなんぼ

   窄んでなんぼ

   稔ってなんぼ

   ああ天地の間