大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月09日 | 吾輩は猫

<189> 吾輩は猫 (11)     ~<187>よりの続き~
          テロといふ 恐怖 戦火と いふ無惨 言はずもがなや 人間のこと
  ここで犬を引き合いに出すのは気がひけるが、犬と猫を比べてみると、どちらかと言えば、犬よりも猫の方が人畜に無害なやさしい生きものであることが言える。 猫が紐に繋がれていないのが何よりの証である。 とにかく、先生の猫は泥棒が侵入しても鳴くこともせず、何の役にも立たないと蔑まれ、そのような非難の言葉を浴びたのであったが、猫はその任になく、そんな騒動には全く頓着せずにいられる平和な生きものなのである。
 人間の明晰なる頭脳は世の中を甚だ進捗させ、昔に比べて暮らしが長じてあることは確かであるが、精神上のことを考えると、安らかならざることの多いことをまた述べざるを得ない。長寿よし。イコール幸せか。スピードよし。果たして安全か。 長じたことによって他者との関わりはどうなったであろうか。その関わりは平和に穏やかに運び、悩みなどは霧散して、以前に比べて心安らかに暮らして行けるようになったか。しかし、世の中を眺めてみれると、何処かで戦争が繰り広げられ、未だ戦火の尽きた話を聞かないし、軍備は国単位で増え、テロがそこここで横行している。

  身近で言えば、子供を狙った凶悪事件が起き、子供パトロールのステッカーをつけた車が走り、 「人を見たら泥棒と思え」ではないが、 「電話がかかって来たら振り込み詐欺と思え」が世の中の常のようになって、テレビやラジオでも注意喚起の呼びかけがなされるという始末である。 また、いじめが蔓延し、鬱病は現代病の代名詞のようになっている。 果たしてこの状況を進展と呼べるかどうか、実に怪しいと言わざるを得ない。 病というものは個々のことだが、世の中の状況を映しているということに思いが至る。
  自然を思いのままに出来るという科学の信奉者が、その奢りを打ちのめされたのはつい最近のことである。 大震災はさておき、福島第一原発の事故は人間がしでかしたことである。吾輩の頭脳でもそれくらいのことはわかる。 鷗外先生は「苦は進化とともに長ずる」と、 生きものとしてある人間の世界を看破して言ったが、苦は悩みと置き換えてみてもよかろう。今と昔を比較して思い巡らせるに、この言葉は漱石先生の思い巡らせるところと変わりなく、 当を得ているように思われる。 これは吾輩の感じるところであるが、猫の思い巡らせるべきというより、長じてある人間がその影響力にあるゆえの責任において人間自身に問うべきことではないかという気がする。
 猫はもともと夜行性の動物で、 夜中に行動することになっている。 しかし、現代の猫は人間とともに寝起きし、愛玩されて、食うに困らなくなったので、その野性を失くするに至った。であるので、 夜中に出歩くことも少なくなった。しかし、恋の季節になるとその野性が蘇り、夜中に出歩くものが増える。もちろん、人間には人間の、猫には猫の生き方があるわけだが、どちらにしても、 宇宙の一隅に生を享けて生きていることに変わりなく、今ここに時を同じくして生きていることにおいては人間も犬も、また猫も小鳥もみな同じことで、 この恋の条で言えば、「朧うれし」は一同に等しく、 その色は「朧うれし」の花の色と言ってよい。先生の猫の言葉を借りて言えば、恋は「宇宙的活力」の顕われであって、 このダイナミズムを命あるものはみな秘めているわけで、 このような普遍への言葉にも思いが巡るのである。 (以下は次回に続く)